第三話 護る剣

9 ここから

 大樹には、生命が溢れていた。「命の大樹」に住まうのは何もエルフ族ばかりではない。(さえず)りは雛鳥が親鳥を呼ぶ声か。リスは木の実を拾い、昆虫達の羽音は求愛の調べを奏でる。葉の隙間から差し込む木漏れ日の輝きは、生命の輝きそのものに違いない。

 窓外から差し込む生命の光にうっすらと目を細めてから、夏宮弓美は鍋に目を落とした。真っ白い粥が、鍋の中でことことと湯気を立てている。

「こんなもの……かな」

 火を止め、茶碗に粥を盛り付ける。予め刻んでおいた三つ葉をはらりとふりかけ、粥は完成だ。丸盆に粥と一緒に梅干の小皿と蓮華、水の入ったグラスも置く。床に放置されている実験器具に足を取られぬよう注意しつつ、弓美は寝室の前まで移動した。

 いささかくたびれた感のある木製のドア。「弓美&霊華」と書かれたピンクのプレートがぶら下がっている。どうせ自分たちしか住んでいないのに、こんな表示には意味がないだろう。かつて弓美は霊華にそう言ったものだが。

 ──可愛いでしょ? 寝室って感じだし

 目を細め、白い歯を見せる霊華に苦笑で返したことも、もう随分昔のことのようだ。思えば、霊華がここに住むようになって初めての笑顔だったかもしれない。兄を失った霊華を引き取ったのが、五年前。霊華が笑顔を取り戻したのは、それからどれ程の月日が経過していただろうか。

 あの時の笑顔、アキラにも見せてやりたかった。

 弓美の胸に、鉄紺の髪の精悍な顔が浮かぶ。どこか少年の幼さを残す顔でしか思い出せないのは、幼い頃から彼を見てきたからなのか。あるいは。

 ──霊華の傍に、いてやって欲しい

 蒼い月光が淡く照らし出す寝室で、かつてアキラは弓美に言った。掠れそうなほど細い声は、唇が耳に触れるほどの距離でなければ聞こえなかっただろう。そっと鉄紺の髪に触れると、そこには「剣仙一の英雄」とは程遠い、か弱い少年の顔があった。自らの運命を全てを受け入れると言ったはずの彼の顔は、それでもどこか、救いと温もりを求めて、もがき苦しんでいた。自分の胸に顔を埋め咽ぶ彼を、弓美は抱き締めることしかできなかった。

 素肌を通して感じた涙の熱を、弓美は生涯忘れることはないだろう。

 耳鳴りがした。それは、弓美の中の記憶の一つを呼び覚ます。全てが死んだような静寂の中で、響く耳鳴りを。

 しんしんと降るしきる雪。枯れ木に点る紅蓮の炎が夜の闇を焦がす。真っ白の雪原に、いくつもの朱色の花が咲いている。

 その中の一つに、霊華はいた。

 弓美が駆けつけた時、全ては終わっていた。

 赤黒い血が、霊華を染めていた。糸の切れた人形のように、まるで雪の冷気を感じていないかのように、座り込んでいた。硝子玉のような瞳が、夜空を見上げていた。彼女の心は既に、光の届かぬ深海の底に沈んでいた。

 軽く頭を振る。悪夢のような記憶を、頭の片隅に追いやる。目の前には、見慣れたドアプレートが、変わらず佇んでいた。

 ドアをノックする。返事はない。それは弓美にもわかり切っている。既に一週間、同じことを繰り返しているのだ。構わずドアを開ける。

 だが、ドアを開けた弓美を栗色の髪の少年が振り返ったのは、初めてのことだった。弓美を見るでもなく、少年はベッドから半身を起こしたまま、窓外へ向き直る。そうして、日がな一日を過ごすのだ。

「朝食だぞ、スタール君」

 ベッドに腰掛け、スタールの膝の上に丸盆を乗せてやる。スタールの顔に、生きた表情はない。全ての感情を失ったかのようだ。

 スタールが粥を見下ろす。やがて蓮華を取り、静かに食べ始めた。

「……いい子だ」

 自然と弓美の顔も綻ぶ。最初は、自ら食べることすらできなかった。赤子に食事を取らせるように、弓美が手ずから食事を口に運んでいたのだ。弓美が部屋に入ってきたことにも反応したことを考えても、快方へ向かっているのは確かなようだ。

 黙々とお粥を食べるスタールの姿に、かつての霊華の姿が重なる。

 隣のベッドに、霊華はいない。首筋の傷もほぼ完治し、昨夜、出て行った。寝室から出てきた霊華は、目を真っ赤にし、瞼を腫らせていた。

「なあ、スタール君」

 蓮華が止まり、スタールの虚ろな目が弓美に向く。この反応も、二三日前ならなかっただろう。

「昨夜、霊華は何と言っていた?」

 スタールは答えず、食事に戻る。

 霊華が彼に何を言ったかなど、スタールに聞かずとも弓美には察しが付いていた。もしかしたら、今日のスタールの変化は、彼女のおかげかもしれない。

「まだ話をするのは無理かな。でも、話を聞くことはできるだろう?」

 蓮華が一瞬止まり、またすぐに動き出す。

「君も知っているよな。霊華もまた、最愛の家族を失っている」

 スタールは見向きもしない。しかし、食べる速度が速くなったようだった。

「急げとは言わない。だが、君は戻ってこなければならない」

 昨夜の霊華を思い出す。散々泣きはらしただろうはずなのに、それでも霊華は弓美に微笑んだ。「ありがとう、弓美ネエ」とだけ言って。

「霊華は、強い」

 既に茶碗は空になり、スタールの手は梅干に伸びている。その手が止まり、スタールの鳶色の瞳が弓美の黒瞳を覗き込んだ。弓美はその瞳の中に、微かな光を見る。強さを秘めた輝きだったが、どこか危うい光でもあった。似たような目を、弓美は良く知っている。

「君は、そう思っているかもしれない」

 獣の目だ。弓美は思う。血に飢え、血を欲して止まない目。霊華と出会う前のアキラが、同じ目をしていた。

「違うんだ。違うんだよ、スタール君。霊華は、決して強くない。逆なんだ。あの子は、誰よりも……弱い」

 何かを言おうとするかのようにスタールの口が小さく開いた。弓美は期待と共に見つめたが、言葉が出てくることなく、閉ざされた。

 やはり、荒療治が必要なのかもしれない。弓美は嘆息する。

 彼が最愛の妹を失ったことは事実であり、霊華が彼の妹を護りきれなかったこともまた、動かしがたい事実である。だがそれでも、彼自身のためにも、何より、霊華のためにも、スタールは戻って来なければならないのだ。

「一つ、昔話をしようじゃないか」

 弓美は一度言葉を切り、大きく深呼吸をした。

「霊華がなぜ、剣を取ったのか」

 おそらく、この話を聞かせることで、スタールの心は深い絶望に満たされるだろう。それでも、スタールは聞かなければならないと弓美は思う。

 ──なんかー、弟ができたみたいでさ

 はにかむ霊華の顔が、弓美の胸一杯に広がっていた。

 窓を開けると、微風がどこからか花の香を運んできた。鼻から肺一杯に吸い込んで、パンダ=ディスは大きく伸びをした。

「ううーん。今日もいい天気でございますね」

「絶好の、ガールハント日和じゃな」

 ややしわがれた声は、老人相応のものだ。パンダ面の妖族が、パンツ一丁という出で立ちでにやりと笑う。「万獣の奇行師」として、一部では名の知れた変態、パントゥ=ディスだった。

「おじいさまには、天気など関係ないでしょう」

「そんなことはない。やはり、天気が良いとオナゴも開放的になるものじゃて」

 ふぇっふぇっふぇっ、という独特の笑い方には、いやらしさしかない。

「まるでナンパに成功したことがあるみたいなことを言いやがるな、じじい」

 乱暴に入り口ドアを開けて入ってきたのは、紅蓮のチャイナドレスと、ほぼ同じ色の髪の若い女だ。

「心配しなくとも、ワシは戦姫ちゅわん一筋じゃて」

「ありがた迷惑なんだよ」

 にじりよるパンツ翁に、しっしっと手を振り払う。

「つれないのう。でも、そんなトコロが、か・わ・い・いー!」

 人差し指を立てて気味悪く身をくねらせるパンツ翁に、紅蓮の拳が突き刺さる。

「あうちっ」

「気色の悪い喋り方するんじゃねえよ!」

 鼻面を押さえる祖父の姿に、パンダは大きく溜息を吐いた。

「こんにちわ~」

「もきゅ!」

 戦姫とは対照的な、青いチャイナドレスの女と、青いモノポが入ってくる。

「これは妖子さま。本日もご機嫌麗しう」

 パンダが恭しく頭を垂れると、パンツ翁もそれに倣った。

 妖子は笑顔で応じるが、戦姫は憮然としたままだった。

「じじい、妖子にだけは礼儀正しいよな」

「まあ、妖子さまじゃしな……」

「あと、マデさんにも」

 その名前が出た途端、パンツ翁の背筋がピンと伸びる。目を剥いてキョロキョロと首を動かす様は、憐れでさえある。

「お、驚かせんでくれ……」

「よっぽど酷い目にあったんだなあ」

 けらけらと笑いながら、戦姫はパンツ翁の肩を軽く叩いた。パンツ翁のセクハラ被害に遭い易い戦姫としては、溜飲が下がる思いなのだろう。

「ね~ね~、私ね~、買ってきたの~」

 にこにこしながら、妖子が紙製の箱をテーブルに置いた。

「おや。プランタンのケーキでございますね」

「今日は~、霊華ちゃんが退院するでしょ~? お祝いにって思って~」

「もきゅっ!」

 両手を祈るように胸元で合わせる妖子の傍らで、なぜかロデムが誇らしげに胸を張った。

「なんだよ、お前もかよー」

 戦姫が鞄からいそいそと紙袋を取り出す。喫茶ヴィンデのロゴが入っていた。

「あたしのは、シュークリームだぜ」

 プランタンのケーキの横に、ヴィンデの紙袋が並んだ。ロデムが手をばたつかせながら、まじまじと見つめている。

「みなさん、考えることは同じでございますね」

 パンダが置いたのは、饅頭職人ハーマスカの新作饅頭、「まんじゅうアイス」だ。

「おいおい……さすがに霊華一人には量が多すぎるだろ」

 仰々しく腕を組む戦姫だったが、言葉とは裏腹に柔和な微笑を湛えている。

「やっぱり~、みんなで食べた方が美味しいよね~?」

「もきゅもきゅ」

「ま、その方が霊華も喜ぶだろ。パン太郎、お茶はお前に任せっからな」

 くいと顎を向けると、パンダは片手を胸に当てて答える。

「かしこまりましてございます」

 ふい、と、パンダの視線がパンツ翁に向いた。追うように、戦姫もパンツを見る。小首を傾げて、妖子がパンツ翁に微笑み、ロデムも丸い目でパンツ翁を凝視する。

「ふ、ふふ。ワシが何にも用意してないと思ってるんじゃな?」

 全員に視線を一身に受けて、パンツ翁は不敵に笑った。

「んなこと言ってねーだろ。ただ、流れ的に、じじいが何を持ってきたのかなーって」

「ふぇっふぇっふぇっ。見て驚け!」

 腰の冒険者鞄をくいと掴む。

「出でよッ、ミニスカナースコス! 癒し系の霊華ちゃんにはピッタリの──」

 戦姫のこめかみが、ぴくりと脈打った。

 ばたん、と大袈裟なほどの音を立てて、劇団ロンリースター事務所の入り口が閉まった。表には、パンツ一丁の妖族の老人が、鼻血を垂らしながら横たわっている。

「いちちち……何も叩き出さんでも」

 鼻面を押さえ、パンツ翁は立ち上がる。顔を上げると、長い銀色の髪が目に入った。病的なまでに青白い肌、血のように紅い瞳と、口唇。ややゴシック目の臙脂色のブラウスに、スリットの深いロングスカート。グレイのロングブーツがシャープにコーディネイトを引き締める。隠し切れない豊満なボディラインは、成熟した大人の女性のそれだった。

「真都理ちゃん……? どうしたんじゃ? 中に入らんのか?」

 声をかけられても、真都理は青い空を見上げるばかりだった。燦々と降り注ぐ黄金色の光に、目を細めている。

「……今日は、霊華ちゃんが退院する日なんじゃろ? みんな、中におるぞ?」

「ええ……そうね」

 だらりと下がった手には、霊華の快気祝いなのだろう、紙袋がある。だが真都理は、パンツ翁を見ようとはしない。

「真都理ちゃんは……アルビノじゃよな? あんまり日差しを浴びては身体に毒じゃろう?」

 びくりと、真都理の肩が震えた。ゆっくりとパンツ爺へと頭を巡らせる。血のような瞳の中には、昏い燠火のような光があった。

「太陽の光って……なんだか身を清めてくれるような……そんな気がしない?」

 艶のある紅の口唇には、グロスが引かれている。ルージュなどなくとも、真都理の唇は妖艶なまでに紅い。その唇が微かに釣り上がると、パンツ翁は目を逸らせた。

「ど、どうしちゃったの……?」

 目を白黒させるパンツ翁に、軽く手を一振りする。

「先に行っていて頂戴。私も、すぐに行くから」

 それだけ言うと、真都理はまた空を見上げた。肩をすくめ、パンツ翁は事務所へと戻る。ばたんとドアが閉まると、喚く声が漏れ出した。

 真都理は目を細めて、太陽に手を伸ばす。助けを求めるようでもあり、愛しい男に触れようとするかのようでもあった。

「まさか霊華が……あいつに会ってしまうなんて」

 真っ白な太陽に、細くしなやかな指の形の蝕が作られた。

「夜光……貴方は……必ず……」

 手の作る影が真都理の顔を翳に彩る。紅の瞳の中で、煌々と燠火が燃えていた。

「……私が殺すから」

 剣仙城から北へ三日ほどの距離に、灼熱の洞窟はある。

 ダンジョン管理局の定める危険度ランクは、最低のD。最も危険度の低いダンジョンの一つで、仮免冒険者の本免試験「一の試練」に使用されるダンジョンでもある。

 一年中雪に閉ざされたこの地に、住む者は少ない。ここから更に東へ五日ほど進めば、木材の伐採場がある。それを生業としている者が周辺に住む程度だろう。だが、怨霊には気候など関係ないらしく、ダンジョン内外を問わず徘徊している。むしろ、人が少ないからこそ怨霊が増えやすい。人のいない場所に巣食う怨霊をわざわざ討伐しようという酔狂は少数派なのだ。

 今、濃紺のロングコートをはためかせ、白金の髪を揺らせて、一人の若い女が降り立った。灼熱の洞窟付近に、怨霊の姿はない。少なくとも、動く怨霊の姿は。ストーンゴーレムの残骸が、あちこちに瓦礫の山を作っていた。

 ブーツが雪を踏みしめる度に、ぎゅ、ぎゅという音が鳴る。足跡が、灼熱の洞窟入り口へと、伸びて行く。

 入り口の岩壁に、男が寄りかかるように立っていた。金色の長い髪は、天を突くように逆立っている。ズボンも防寒着も、目の覚めるようなオレンジ一色。それは、白い雪の中に突如生まれた太陽のようでもあった。

 濃紺の女が、足を止めた。声を出せば、届くだろうという距離。男は寄りかかるのを止め、身体全体で女に向いた。

「そろそろ来る頃だと思ったぞ……霊華」

「王子……どうして……」

 だがすぐに、霊華は首を横に振る。

「ううん。わかってたよ、なんとなく。王子が、私を待っているんじゃないかって」

「なら、話が早いな」

 持ち主の呼び声に応じて、王子べじ太の冒険者鞄から光を巻いて双剣が現れる。銀色の刀身は、霊華も良く知る双剣。他ならぬ、霊華自身が愛用している双剣「ラフレシア」と同型の双剣「龍封じの双剣・絶」。

「……レーヴァテイン」

 魔法戦士の手にも、長剣が現れた。腰を軽く沈め、剣を構える。対するべじ太の構えは、無形の構え。一見隙だらけに見えるこの構えに対して、まともに攻撃を当てられる冒険者は極めて稀だ。

「念のため聞いておくけど……霊華、引く気はないんじゃな?」

 べじ太の表情は硬い。どこか、寂しげでもある。

「今のままじゃ、ダメなんだよ……」

 歯を食いしばり、出てきた言葉はまるで血を吐くかのごとく。

「おいらは」

 一歩、べじ太は足を踏み出した。

「今こうして霊華の前に立ちはだかっていることが、正しいことかどうかわからない。アキラの奴は、どう思うかなあ」

「王子……」

「何も否定する気はない。誰も否定したくなんかない。霊華、お前はお前で、ありのままでいていいと思う。やりたいようにすればいいと思う。それでもおいらはやっぱり……」

 もう一歩踏み出すと、まるで入り口を塞ぐ門番のような位置になった。

「こうせずには、いられないんじゃな。なんでじゃろうなあ……」

 剣を持たない左手で、霊華は目元をこすった。極寒の地の中で、瞳から流れたそれは、焼けるように熱かった。

「何て言えばいいかわからないけど……きっと王子は優しいんだよ。優しすぎるくらいに。初めて会った時から、私はそう思ってたよ」

 真っ直ぐに、霊華はべじ太を見た。構えは解かない。

「初めて会った時……か。今にして思えば、あの時既に、おいらはこうなるような気がしてた」

 べじ太の顔に、一瞬苦笑が過ぎる。霊華に浮かんだのもやはり、苦笑だった。

「それでも、私は行かなきゃならない……から」

 べじ太は無言で頷いた。全てわかっている。そう物語るようだった。

 霊華は地を蹴る。濃紺のロングコートが冷たい空気を切り裂く。

 持てる力の全てを剣に込めて、霊華は金色の戦士に飛び込んでいった。

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