第三話 護る剣

8 或るエルフの弔い

 ひんやりとした感触で、コニー・ジェレイントは目を覚ました。

 枕が湿っている。瞼をこすると、手の甲に濡れた感触。

 カーテンの隙間から朝日が零れている。少しひんやりとした空気は、新しい朝の到来を告げていた。

 ベッドから半身を起こし、赤茶色のショートボブをもしゃもしゃとかき混ぜる。寝癖だらけの髪が、輪をかけてぼさぼさになった。

 ずずっ、と鼻を啜り、もう一度両目をこする。胸に、僅かに疼く痛みが残っていた。

 ……なんだろう、これ。

 きっと、とても悲しい夢を見たのだろう。だが、全く思い出すことができない。

 コニーは枕に目を落とす。布地の色が変わるほど、濡れている。こんなにも泣いたのは、いつ以来だろうか。

 コニーの脳裏に、一匹の老犬の顔が甦る。

 祖父母は、犬を飼っていた。

 リキという名前の、大型犬。コニーが物心付いた頃には既に、彼は小さな庭の王者だった。徒に吠えたりせず、物静かに、しかし悠然と佇む姿を、幼心に凛々しく思ったものだった。幼いコニーがどんなにじゃれついても動じず、むしろ優しく頬を舐めるリキは、兄のようでもあった。

 コニーが十二の時に、相次いで祖父母が亡くなり、その一年後にはリキも後を追った。

 主人を失い、それでも毅然と庭を支配していたリキの姿は、逞しくもあり寂しげでもあった。

 最後の夜、リキは食事を摂ろうとはしなかった。父と母も彼を心配し、コニーもまたリキの傍を離れなかった。

 涙が止まらなかった。幼いなりに、コニーも理解していた。リキの命が、尽きようとしていることを。

 どんなに堪えても、どんなに拭っても、滝のように涙が溢れた。嗚咽は大きくなるばかりだった。

 眠るように丸くなるリキが、泣き声に応えるように顔を上げた。コニーの瞳を正面から見据え、ふっと目が細まった。

 そして再び丸くなり、二度と目を覚ますことはなかった。

「リキ、笑ってたね。コニーがあんまり泣くものだから、きっと、『泣かないで。笑って?』って、言ってたんだね」

 父の暖かい手が優しくコニーの頭を撫でても、コニーの涙は止まることがなかった。

 大切なものを失うこと。これほど悲しいことはないと、コニーは思う。

 ベッドから這い出し、背筋を伸ばす。ひとしきり伸びをしたら、机の上の書類が目に入った。昨夜、必死で書き上げた報告書だ。冒険者ルチウス・マーローの失踪と、それに関与したと思われるサナ・ホワイトに関する調査報告書。ルチウスは失踪後、ダンジョン内で死体で発見。彼と最後まで行動を共にしていたサナは、この事件より半年も前に失踪したことになっている。

 不可解なことだらけだが、リキのことを思い出したからなのか、謎よりも気になることがコニーにはあった。

 ルチウスとサナの家族は、今、どんな思いでいるのか。

 家族を失うということは、とても悲しいことだ。怨霊は、そんな大切なものを容赦なく奪っていく。

 今こうしている間にも、どこかで誰かが怨霊と戦っているかもしれない。傷つき、倒れているかもしれない。

 コニーが調査をしている間にも、コニーが報告書と戦っている間にも。

 どこかで誰かが、大事なものを失って泣いていたかもしれない。

 冒険者は、怨霊から人々を護るために戦う。ダンジョン管理局は、冒険者を護り、助ける。

 顔を洗い、髪を整え、服を着替える。身を包むのは、グレイの制服。誇り高い、ダンジョン管理局の制服だ。

 ぴしゃりと、コニーは両手で頬を張った。鏡の前で、もう一度身だしなみと髪形を整え、自分自身に頷きかける。

「うん!」

 眼鏡をかけると、見慣れた自分の顔。丸顔で、日陰のもやしのような色白。大きくて丸い目のせいで、実年齢より幼く見られることも多い。しかし、昨日とはほんの少しだけ違う顔のようにも見えた。

 最後に報告書を鞄に詰め込んで、コニーは玄関の扉を開け放った。

 半月前と比べると、オフィスは随分と慌しさが戻ってきていたようだった。もしかしたら、管轄内のどこかで怨霊が復活したのかもしれない。

 半月もの間、自分がいなくともオフィスは問題なく回り続けていたのかと思うと、コニーは少しだけ寂しい気分になる。無論、着任したばかりのコニーには、担当らしい担当などない。見習い一人いなくなるくらいで回らなくなるような現場なのだとしたら、むしろその方が問題である。そう頭でわかっているつもりでも、すっぱりと割り切れるものではなかった。

 それに、担当らしい担当もなく、自由に動けるコニーだからこそ、調査を任されたのだ。コニーは心の中で自分に言い聞かせる。

「来たか。こっちだ」

 相変わらずの無精ひげと胡麻塩頭。ウェッズが応接室から手招きしていた。

 忙しげに動き回る職員達と挨拶を交わしながら、コニーは応接室へ入る。後ろ手に扉を閉めると、喧騒も遠くなった。

「何を飲む?」

 応接室に隣接した給湯室から、声だけが聞こえる。

 コニーは鞄をテーブルに置き、慌てて給湯室へ駆け出した。

「だーかーらー、そういうのくらい私がやりますってばー」

 勢い込んで入っていった先で、目に飛び込んできたのは洗いざらしの白いシャツ。

「わわっ」

 急ブレーキが功を奏し、ウェッズとの正面衝突は回避された。

 ウェッズは背の高い方ではなかったが、女子としては小柄なコニーからすれば、頭一つ分は高い。目と鼻の先に、ボタンを一つ外した開襟シャツの胸元がある。ふわりと漂った匂いは、女のそれや香水のようなものとはまるで違う、大人の男の匂いだった。

「おいおい、気をつけてくれよ」

 ウェッズが手に持つポットからは、コーヒーの香りが溢れている。嫌いな香りではなかったが、なぜか今は疎ましく思えた。

「え、あ、ははっ、はっ、ご、ごめんなさいっ」

 首元から耳にかけて、瞬間的に熱くなった。愛想笑いをしながら謝罪をしつつ言い訳を考え、しかしなぜ何を言い訳しなければいけないのかはわからない。その結果、反射的に大きく一歩飛び退いた。

 ウェッズの顔に浮かんだ疑問符に焦りを感じ、コニーにしては珍しく早口でまくし立てる。

「うぇ、ウェッズさんこそ、人に何を飲むか聞いておきながらコーヒー飲ませる気満々じゃないですかっ!」

 手元のポットを見下ろしてから、ウェッズはニヤリと笑う。

「ノーマルブレンドとスペシャルブレンドのどちらかから選ばせてやろうと思ったんだよ」

「何が違うんですか?」

「スペシャルにはスペシャルな絞り汁が入るのさ」

「嫌な言い方しないでくださいよー。もう、私が注いで持っていきますから」

 ポットを奪い取り、しっしっと応接室へと手を振る。そんなコニーの仕草がおかしかったのか、ウェッズは笑いながら給湯室を出て行った。

 戸棚からカップを二つ取り出し、コーヒーを注ぐ。芳しい香りが湯気と共に立ち上った。

 大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。脈拍が平常に戻っていく気がした。

 男の人の匂いでドキドキしちゃうなんて……変態みたいじゃないかー!

 もう一度深呼吸をして、コニーはトレイにカップを乗せる。零さないよう気をつけながら、あまり男の人には近付き過ぎないようにしようと密かに心に決めるコニーだった。

 オフィスの喧騒は遠く、応接室内には紙をめくる音だけがあった。

 給湯室とは全く別の緊張感で、コニーの身体が震える。読みやすくまとまっているだろうか。字が汚いとか思われないだろうか。そういうことも気にはなったが、サナ・ホワイトの情報をどうやって冒険者ギルドから引き出したのかを突っ込まれるのがコニーにとっては一番怖い。

 時折、紙をめくる音の中にカップとソーサーがこすれる音が混ざる。その度に、コニーは身震いした。今、何ページ目なのか。早く読み終わって欲しいという気持ちと、読み終わって欲しくないという気持ちがせめぎ合うようだ。

「ご苦労だったな、コニー」

 コニーの報告書と魔導院の鑑定書をテーブルに置き、ウェッズは静かに呟いた。

「明日から、通常勤務に入っていい」

「……えっ?」

 コニーは思わず腰を浮かせた。

「で、でも、まだなんにもわかってないんですよ?」

 ウェッズの意図がわからない。調査はまだ始まったばかりだ。不可解なことだらけだし、もっともっと調べなければならない。それ以上に、コニーはもっともっと調べたかった。

 なのに、ここでやめろとは、どういうことなのか。

「やっぱり、私なんかの調査じゃ。私の力が及ばなかったって、ことですか?」

 ウェッズをまともに見ることができない。視線は知らず、揺れるコーヒーカップに注がれる。胸の奥が熱くなり、それは目の奥にまで上がってくるようだった。

 今にして思えば、不自然でもあった。社会人経験もなく、新卒で配属されたばかりの自分が、難しい調査を任されるなんて。力が足りないのも当然ではないのか。じゃあなぜ、そんな自分にウェッズはこんなことを任せたのか。

 見ずとも、ウェッズの視線は痛いほどに感じていた。震えながら頭を巡らせる。しかし、ウェッズの黒瞳には、落胆も嘲りもなかった。どころか、細める目には優しささえ見て取れる。

「……新人のお前に、一人前の能力や結果を求める方が間違っているのは確かだが」

 コニーを見つめたまま、ウェッズはカップを口に運ぶ。

「少なくとも、お前が思っているような理由じゃないことも確かだ」

 カップを置き、身振りで座れとウェッズは言う。

 言われるままに腰を下ろそうとしたが、身体が強張って上手くいかない。ぎこちないまま、コニーは座った。

「俺はお前に『通常勤務に入れ』と言った。今まで俺がお前に『通常勤務』をさせたことがあったか?」

 コニーは、はっとなる。今までのコニーの仕事は、あくまで他の職員の手伝いだ。事実、ウェッズはコニーに「通常勤務」を言い渡したことはない。つまり。

「今日で、お前も見習い卒業ってワケだな」

 喜ぶべきなのだろう。コニーも頭ではそれはわかった。だが、やはり腑に落ちない。

「納得できません。そのことが、調査とどんな関係があるって言うんですか!」

 声が荒くなるのを抑えきれない。そんなことをしたいわけではないのに、ウェッズを睨まずにはいられない。

 ウェッズがカップに目を落とした。すまなそうな仕草に見えないこともない。

 だがすぐに顔を上げ、真っ直ぐにコニーの目を見据える。

「……ダンジョン管理局ってのは、どうしても内勤が多くなる。コニー、今回の調査で外へ出てみて、何を見た? 何を感じた? どう思った?」

 外へ出て。コニーは思い返す。冒険者ギルドの人だかり。常に怨霊の脅威に晒され、傷つく人々。情報提供を拒む冒険者ギルド。それもまた、冒険者を護るために必要なこと。そして、王子べじ太やメレットのように、怨霊と戦うだけを仕事にしているわけではない冒険者もいる。全ての冒険者が一様に戦いたがっているわけではないこと。アイスドラゴンの乗り心地。そして、行く先々で出会う魔導院の痕跡。魔導院と軍の関係。手続き。情報交換のやりにくさ。見聞した様々が、大小関わらず脳裏に浮かんでは消えていく。その全てには、現実があった。

「何を見てもいい。何を感じてもいい。どう思っても構わない。俺は、新卒のお前に、世界を、現実を、その目で見てきて欲しかった。その手で触れてきて欲しかった」

 ウェッズのカップは既に空だった。コニーのカップからは湯気が消えている。

 コニーは黙って立ち上がり、給湯室から熱いコーヒーポットを持って戻ってきた。

「ありがとう」

 湯気を立てながら注がれるコーヒーを横目に、ウェッズが片手を上げて見せる。

 自分のカップにも注ぎ、コニーは再び腰を下ろした。

「ウェッズさんの教育方針、よく理解できました。私にとっても、すっごく実りの多い『新人研修』だったと思います。……でも」

 少しうなだれると、グレイのパンツスーツが目に入った。最初は、ただの憧れのコスだった。でも実際に袖を通し、見習いとは言え現場で働くことで、この仕事の大切さを肌で感じた。人々の生活と命を脅かす怨霊。そんな怨霊と戦う冒険者。冒険者をサポートし、助け、護るダンジョン管理局。コニーもウェッズも、怨霊と戦うことはない。だが、ダンジョン管理局の戦いもまた、怨霊との戦いであり、人々を護る戦いなのだ。

「私はこの調査、続けたいです。確かに私なんかじゃ力不足かもしれない。でも、やりたいんです」

 この制服は、コスプレじゃないから。

 寸でのところで、コニーはその言葉を飲み込んだ。

 目は逸らさなかった。コニーもウェッズも、お互いに。

「ダメだ」

 小さな吐息と共に出たのは、冷たい拒絶だった。

「そんな! お願いです! やらせてください!」

 つかみ掛からん勢いだった。ウェッズの目が大きく見開かれる。コニー自身も意外だった。自分がこんなに声を荒げること自体が。

「私じゃ務まらないって言うなら、もっともっと頑張りますから! 次はもっと上手くやりますから!」

「……そういう問題じゃないんだ」

 俯き、ウェッズはコーヒーに口を付ける。

「正直言えば、俺は驚いているんだよ。まさか、お前がここまでの調査報告を上げてくるなんてな。サナ・ホワイトが魔導院所属だなんてことまで、よく調べたものだと感心してる」

「じゃあ、どうしてっ!」

 ぐいと、ウェッズは一気にコーヒーをあおった。やや乱暴に、カップをソーサーに叩き付ける。

「……公安が動いた」

「公安?」

 コニーの背筋が冷たくなる。一瞬、公安コスでの調査がばれたのかと肝を冷やした。

「お前に調べさせている間に、俺も色々動いていたんだ。お前がサナを調べるようだったから、俺はルチウスをな。冒険者ギルドはその辺堅いのはわかってたから、事件性をちらつかせて公安に掛け合ってみた。そしたらな、公安特務課から返事が来た」

 コニーは息を呑む。特務課と言えば、別名「公安軍」とまで呼ばれる武闘派集団だ。

「殺人事件として、特務三課が捜査を主導する、ってな」

「え、じゃあ、私達は?」

「情報は提供しろ。余計な真似はするな。そういうことだ」

「そんな」

 眉間に皺を寄せ、ウェッズは首筋に掌を当てる。

「明らかに怨霊の仕業なら俺達の管轄だ。逆に、怨霊が関与してないのが明らかなら、俺達の仕事じゃない。だがこの件は、どちらともつかない。そうなっちまうと、特務課に任せるしかない」

「じゃあ、私達は手を引くしかないんですか?」

「仕方がない」

 理屈は通っている。コニーにも、それは理解できた。だが、理解することと承服することは別である。

「だから、お前はもう通常勤務に戻れ」

 ウェッズは首筋に手を当てたまま、虚空を凝視している。しかしコニーは、ウェッズの言葉に僅かな引っ掛かりを感じた。

「……『お前は』ですか」

「うん?」

 小首を傾げるウェッズだったが、一瞬後に口を押さえた。まるで、失言を隠すかのようだ。

「……お前『も』、通常勤務に戻れ」

「今更言い直しても遅いです。ウェッズさん、何を企んでいるんですか?」

「別に、何も」

 口を押さえたまま、ウェッズは目を逸らす。嘘を吐いているのは明らかだ。

 ウェッズのことだ。コニーを調査から下ろして、一人で続けるつもりなのだ。ダンジョン管理局の仕事抜きで。部下思いなのは、ウェッズの美点であることは間違いない。だが、全てを独りで背負い込もうとするのを見過ごすことはできない。

「私も、調査を続けますからねー?」

「ダメだと言っただろう?」

 ウェッズが顔をしかめる。コニーは意に介さない。

「私の情報収集能力、欲しくないですかー?」

「う……む……」

 首に手を当て、コニーから視線を逸らして天井を凝視する。迷っている。さもなければ、困っている。

 コニーは口元に笑みが浮かぶのを感じた。ウェッズにこんな顔をさせていることが、妙に楽しい。

「ウェッズさんはー、洛陽ダンジョン管理局第二課の、チーフですよねー?」

「そうだな」

「調査だけやってられる身分じゃないと思うんですよー?」

 コニーの唇が益々釣り上がる。気が付けば、ウェッズににじり寄っていた。にじり寄るコニーの動きに合わせるように、ウェッズの上半身がのけぞる。

「う……む……」

「私なら。何の担当も持たない今の私なら、調査に専念できますよー?」

 図らずも、大きな胸を強調する姿勢になった。ウェッズが目を逸らした理由は、コニーの妙なプレッシャーに気圧されたからだけではなかっただろう。

「ねー? 一緒にやりましょうよー?」

「わーかったわかった! わかったからそれ以上迫ってくるんじゃない!」

 ウェッズが叫ぶ頃には、既に壁を背負っていた。

「やったー! えへへ、ありがとうございますー」

 コニーが笑いかけると、ウェッズは鼻を鳴らしながら、またそっぽを向いた。

「それじゃあチーフ、早速作戦会議と行きましょー!」

 胸を揺らしながら右手を高々と振り上げるコニーに、ウェッズは深々と溜息を吐いた。

「今後の指針を決める前に」

 ウェッズは書類をめくる。「洛陽魔導院」と書かれており、六芒星を象った紋章が印刷されている。

 書面を追う黒い瞳は真剣そのものであり、コニーは引き込まれるような錯覚を覚える。

「まずは情報を整理しよう……コニー」

「は、はいっ」

 目が合ったことにドキリとなり、コニーは僅かに視線を逸らした。誤魔化すように眼鏡のフレームをつまむ。

「そもそもの始まりは何だった?」

 ずず、とコーヒーを啜りながらもウェッズは正面からコニーを凝視してくる。まるで何かを試しているかのようだ。

「え、えっと、霊華さんがご遺体を持ち帰ったことですね」

 重々承知していることのはずなのに、どこかコニーの声は上ずる。ウェッズの視線は変わらない。

「そうだな。ダンジョンで死体が発見されること自体は珍しいことじゃない。ただし、俺達の仕事上、発見されてはいけない死体がある。それは何だ?」

 どうにも雲行きが怪しい。本当に試されているらしい。コニーは、学生時代の定期試験を思い出す

「発見されてはいけない死体……?」

 しかしコニーは首を捻る。ウェッズの視線がいつも以上に鋭く感じられるのは、解答を思いつかないための焦り故なのか。

「……これくらいは即答してくれないと困るな」

「えっ、いや、もちろん、わかりますよー」

 咄嗟に嘘を吐いた。頭の中にぼんやりと浮かぶものがあるから、百パーセント嘘というわけでもないと、自分に言い訳をする。

「ほう。じゃあ、言ってみろ」

 逆に回答を促されてしまった。ロクに時間稼ぎにもなっていない。眼鏡の縁をいじりながら、コニーは視線を少しずつ左上にずらしていく。

 ウェッズは「俺達の仕事上」と言った。では、コニー達ダンジョン管理局の仕事とは。

 ぱちんと、コニーは両手を鳴らした。

「冒険者さんの死体ですね!」

「あからさまに今思いついたって顔だな」

「そそ、そんなことないですよー」

 母の苦笑が思い出された。「あんたも嘘の下手な子よね」などと、よく言われていたものだった。そんな母も、今やコニーが祖龍でも指折りのコスプレイヤーであるなどとは夢にも思っていないだろう。

「だが、その答では五十点だな。正確に言えば、ダンジョンに討伐に入った冒険者だ。なぜだか、わかるよな?」

「簡単ですよー。突入前のリザチェックもしてるし、かかってない人がいれば必ずかけるし。セイバーの手配とかスクロールの手配だってウチでやってるんですからー。それなのに死体で帰って来られたら、へこみますよねー」

 夜間の突入禁止。五人以下での突入禁止。セイバー資格保持者を伴わない場合、そういった制約が多々ある。融通がきかないと不満を漏らす冒険者も少なくないが、全ては討伐パーティの命を護るためである。

「よろしい」

 ウェッズの眼差しに大きな変化はないが、少しだけ柔らかくなった声音にコニーの頬が緩む。

「ダンジョンで死体が発見される場合、その多くは戦闘力を持たない民間人だ。これはどういうことだ?」

 だが、試験はまだ終わりではないらしい。緩んだ頬がすぐに引き攣る。とは言え、これはコニーにとっても身近な問題と言えた。

「……神隠し、ですよね?」

 身近な人間が、ある日突然帰ってこなくなる。消える人間に共通項はなく、老若男女、種族を問わずに起こり得る。怨霊対策委員の調査により、ダンジョン近辺で発生しやすく、ダンジョン討伐直後には激減することが判明している。だが、ダンジョン近辺でのみ発生するものでは決してなく、祖龍で生まれ育ったコニーでさえ、身近な人間の失踪を何件か記憶していた。突然学校に来なくなったクラスメイト。散歩に出て、そのまま帰って来なかった近所のおじさん。無論、その全てが怨霊の仕業ではない。家出だったり、あるいは、人間の引き起こした事件であることも少なからずある。それでも、ある日突然失踪することに恐怖を覚えるのはコニーだけではないだろう。

 コニーは身震いする。もし、自分の父母が突然いなくなったら。もし、友達と会えなくなったら。もし、ウェッズが職場からいなくなったら。

 あまつさえ、無残な姿でダンジョンから発見されたりでもしたら。

 だが、発見されることとされないこと、どっちがより悲劇なのか、コニーにはわからなかった。

「そうだ。悲しい話だが、珍しい話じゃない。そこで、今回の事件だ」

 ウェッズが傾けるポットから湯気が立ち上る。ウェッズは自分の鞄から、別の書類を取り出した。

「発見されたのは、冒険者ルチウス・マーロー。討伐パーティに参加した弓使いだな。ダンジョン管理局としては、最も不名誉な被害者が出たってわけだ」

 ウェッズの眉間に皺が寄る。常日頃から「冒険者を護るのが俺達の仕事」と口にしているウェッズにとって、それはどれほど辛く、悔しいことなのか。コニーは、何と言葉をかけるべきか迷う。それ以前に、コニーもまたウェッズと同じ気持ちなのだ。

「事件をおさらいするぞ」

 ウェッズは自分の書類を開く。

 事件発生は二ヶ月前。

 戦士をパーティリーダーとする六人パーティが幽冥境に突入した。突入開始は日没の一時間前。夜間にまたがる攻略になることは事前に明らかだったが、リーダーの戦士がC級セイバー資格を所持していた。

 ところが、セイバー資格所持者を伴っていたにもかかわらず、パーティは全滅。B級セイバーが救出に向かったが、発見できたのは五人。セイバーと、救出された五人でダンジョン内の敵を残らず掃討した上での捜索になったが、発見することはできず。

 心記石は戦士が所持。しかし、戦士を含む四人が倒れた時点で記録は途切れている。この時生き残っていたのが、被害者ルチウス・マーローと、暗殺師サナ・ホワイト。サナは他の四人とは離れた場所、ダンジョン出入り口付近に倒れていた。セイバーがサナに聞いた所によると、サナが怨霊を足止めし、ルチウスを逃がしたとのことだった。ここで、ルチウスの消息は完全に途絶える。

 一ヵ月後、同ダンジョンで全滅したパーティの救出に向かったA級セイバーが偶然、ルチウスの死体を発見した。

「ここまででも、充分わからないことだらけなんだが……新たに判明したことを整理してみようか」

 ウェッズはコニーの報告書を開いた。コニーは、節くれだったウェッズの指が報告書をめくるのを見つめる。自分が夜通し書いた書類が真剣な眼差しで読まれる。最初は緊張しかなかったが、今は軽い興奮があった。

 いやいやいや。変な妄想してる場合じゃないから、私!

 コニーはこっそり、尻をつねった。

「まず、サナ・ホワイト。生きているルチウスを最後に見た人物だな」

「私、この人はかなり怪しいと思ってたんですけどー」

 サナの弁によれば、自分が時間稼ぎをしてルチウスを逃がしたという話だが、証明する手段はない。仮に真実だったとしても、最後まで一緒にいたサナには、もっと詳しい話を聞く必要があった。しかし。

「半年前に既に失踪、か」

 ぱさりと報告書をテーブルに置き、ウェッズは首に手を当てた。

「帰って来てたって、ことでしょうか?」

「お前、サナのアパートにも行ってみたんだろ? 戻って来ているような様子だったのか?」

「いやー、うーん」

 アパートで会ったいやらしい目つきの男を思い出し、コニーは自分を抱くように身をすくめる。

 あの男は、「ここ半年くらい姿を見ていない」と言っていた。先々月に戻っているなら、どこかで見かけていてもおかしくないはず。それとも、同じアパートに住んでいて、二ヶ月間一度も見かけないということがあるだろうか。コニー自身も安アパート暮らしである。自分を振り返って考えるならば、可能性はゼロではない。

「ごめんなさい……もっとよく調べてくれば良かったですねー」

 咎める風もなく、ウェッズはもう一度報告書を手に取った。

「戻ってはいるが、何らかの事情で自宅には帰っていないって可能性もあるわけだな。引き続き、調べてみてくれ」

「はーい」

 もう一度、サナのアパートを訪ねる必要があると、コニーは思う。しかし、あの蛇のようないやらしい男には会いたくない。管理人や、別の隣人を当たる方が無難だろう。後は、実家か。だが、実家の住所までは冒険者ギルドの情報には記載されていない。

 そこまで考えて、コニーは思い出した。

「そう言えば、サナさんは魔導院所属らしいんですよね。暗殺師さんが魔導院って、妙じゃないですか?」

 きょとん、としたウェッズの顔に口元が緩みそうになる。真剣に話していたはずなのだが。

「……そうか、お前は知らないか」

「え。何がですかー?」

「公的研究機関というのは表向き。魔導院には、もう一つの顔がある」

 コニーの喉がぐびりと鳴った。カップとソーサーがこすれる音がした。身を乗り出して、肘が当たったのだ。

「魔導院は、元々はエルフ族の諜報機関だ」

 諜報機関。まるで小説の世界のような響きは、コニーには遠くにしか感じられなかった。

 かつて、人族、エルフ族、妖族、海龍族、神霊族の五族がそれぞれ対立する時代があった。海龍族と神霊族は中立の立場を守っていたが、他の三族は大陸の覇権を争い戦争を続けていた。特に人族とエルフ族の対立は激しく、戦いは熾烈を極めたと言う。

 そんな中、暗躍していたのが魔導院という名のスパイ組織だった。

 怨霊の勢力が増すに連れて、五族内での戦争にも停戦、休戦が相次ぐようになり、妖族の仲介も功を奏し和平条約が締結されるに至る。

 その後、和平条約は五族連合へと発展。連合執政府を祖龍に置き、各族の軍やその他機関が統合と再編成される。魔導院は他族の研究機関と統合された。しかし、スパイ組織が解体されたわけではなかった。海龍族の優秀な暗殺師を取り込みながら、より大きな対怨霊諜報機関として再編されたのである。

「対怨霊諜報機関……」

 スパイ小説のような現実が、本当にあるのか。やはりコニーには現実感が感じられない。

「もっとも、魔導院の再編に関しては元老院が主導したからな。軍の上層部に人族が多いこともある。本当に『対怨霊』かどうかは怪しいものだ」

 ぼやくように言いながら、ウェッズは腕を組む。日々、怨霊と戦う冒険者やダンジョン内で憐れな姿を晒す民間人を見ているウェッズにとって、面白い話であるはずがない。それは、コニーにとっても同じだった。みんなが生き残るために必死に怨霊と戦っているのに、身内で何をやっているのか。

「そもそも、元老院って何なんですかー?」

 不満が声に出ているのに気付いたが、抑えようという気にはなれなかった。

「頭の堅い、老人の集団さ」

 コニーの頭の中で、仙人のように白い髭を伸ばした老人が会議机を取り囲んで難しい顔をしている絵が浮かぶ。が、その絵に違和感がないでもなかった。

「元老院って……もしかしてエルフさんばっかりとかですかー?」

「コニーにしては鋭かったな。その通りだ。何でわかった?」

「バカにしないでくださいよー。さっきウェッズさん、魔導院が元老院主導で再編されたって言ってたじゃないですかー」

 魔導院が元々エルフの組織なら、その再編を主導したがるのはやはりエルフ族であろう。であるならば、老いないエルフはコニーの想像のような姿になることはない。

「……そっかー。だから軍と元老院は仲が悪いんですねー?」

 ウェッズが目を見開く。口に運ぼうとしていたコーヒーカップが立ち止まった。

「……コニー、熱でもあるのか? お前がそんなに鋭いこと言うなんて」

「ウェッズさんはー、私の事をどういう目で見てたんですかー?」

 思い切り頬を膨らませて見せたが、よほどおかしかったのだろう。ウェッズが声を上げて笑う。

「もー! ウェッズさんー!」

「はははっ。悪い悪い。ま、そんなわけで、暗殺師が魔導院所属っていうのは、むしろ自然なのさ。もちろん──」

 笑みで下がっていたウェッズの目尻が、急にどこかへ消えた。

「それが弓使いであっても、同じだ」

 至極真剣な目に、コニーは明確な意図を感じた。話の流れから想像できる、ウェッズの言わんとしていることは。

「まさか、ルチウスさん?」

 コニーの手が、口元を覆うように動く。声は微かに震えていた。

 無言でウェッズは頷く。

「ルチウス・マーローも、サナ・ホワイトと同じく、魔導院のエージェントだ」

 眩暈がした。この調査を始めてから、何かと絡んでいた魔導院。サナのアパートを訪れた時、コニーは嫌な予感を感じた。まだまだ魔導院と関わることになるんじゃないかと。これは、偶然なのか。それとも、何者かの意思が働いているとでも、言うのだろうか。

「俺も驚いた」

 ウェッズは、鞄から新たな書類を引っ張り出す。三本足の烏の紋章。祖龍公共安全機構の紋章だ。

「お前が調査に出ている間、ルチウスの件で公安に問い合わせたとは、もう話したな。公安から送られてきたルチウスの資料の中に、魔導院所属とあった」

「魔導院のエージェントって、そんなにたくさんいるものなんですか?」

「そんなわけない。戦闘力はともかく、魔導院のエージェントは諜報活動にかけてはエリート中のエリートだ。誰でもホイホイなれるもんじゃない」

 ウェッズは、公安からの資料を投げてよこした。その中に、確かに記載がある。祖龍中央魔導院所属。

「こんな偶然って……あり得るんでしょうか?」

「なんとも言えないな。あるかもしれないし、ないかもしれない」

「もしかしたら、二人は討伐じゃなくて、別の目的で幽冥境に入ったんじゃないですかね」

「可能性はある。だが、憶測の域を出ない。だから、これから調べるんだ」

 ぱしんと、ウェッズは手に持つ書類を叩いて見せる。光沢のある印刷は、六芒星の紋章を煌かせた。

「一体、何が起こったのか。ルチウスはなぜ死ななければならなかったのか。サナは今どこにいるのか」

「その鑑定書、ウェッズさんはどう思いますか?」

 ウェッズが目を落とす鑑定書には、ルチウスの死体に関するより詳しい情報が記載されている。しかし、残っていた死体が、死後一ヶ月を経過した頭部のみ。その上、焼け焦げているとあっては、得られる情報も少なくなるのは仕方のないことと言えた。

 死因は、失血死。首は、鋭利な刃物で切断されたと思われる。切断されたのは、死後。つまり、ルチウスは失血死に至らしめる怪我を負い、その上で首を切断された。切り口の鮮やかさから、かなりの手練の犯行、ないしは、恐ろしく鋭利な刃物を使用したと推測される。腕の立つ者であればナマクラでもこれだけの傷を作ることはできるし、腕がなくても名刀であれば可能だと。死体の損傷が激しいため、首の切断に関してはそのどちらとは断定できない。しかし、少なくともどちらか一方の要素があったことは間違いない。

「怨霊と戦っていれば、出血多量に見舞われることは珍しくない。そういう意味じゃ、死因に不審な点はないように思う」

 首に当てた手を、こするように動かす。話が生首なだけに、コニーも首筋がむずがゆくなってきたように感じた。ウェッズの真似をするように、コニーは細い首を撫でる。

「切断面の話を考えるに、怨霊じゃなくて人間の犯行なんじゃないかと思うんですよー。私はやっぱり、サナ・ホワイトが怪しいんじゃないかって」

 剣士や戦士が使うような大剣は、切り裂くよりも叩き付けることを目的に作られている場合が多い。それに対して暗殺師の用いる双刃は、より純粋に切れ味を追求して作られている。そんな話を、コニーも聞いたことがあった。

「そいつはどうかな。怨霊の中にも剣技に秀でた奴はいるし、鋭利な武器を使う奴もいる。切断面だけで人間の仕業と決め付けるには早計だろう」

「うーん」

 コニーにとっては、かなり有力な説だという自信があった。失踪直前の状況を考えても、サナ・ホワイトはやはり怪しい。彼女がルチウスを殺害したと考えるのが、一番自然なんじゃないかとコニーは思う。

「お前の言いたいことはわかるけどな。だが、動機がない」

「金品が目的とか」

「首しか残らなかったルチウスはわからんが、それが目的なら他のメンバーだって何かしら盗まれてるはずだな」

「痴情のもつれ?」

「ありえない話じゃないが、二人とも魔導院のエージェントだ。プロだ。たとえ痴情のもつれがあったとしても、仲間を殺すような真似はしないと思う。ついでに言うと、わざわざ首を切る理由も不明だ」

「ウェッズさんは、女の情念を甘く見てる!」

「そんなこと言われてもな」

 思い切り人差し指を立てたコニーだったが、コニー自身、女の情念を語れるほどの恋愛をしたことがあるわけではない。

 ……だって、サスペンス小説とかだと、そんな感じだもん。

 言おうと思ったが、バカにされるのが目に見えていた。

「確かに、俺もサナは怪しいと思う。だが、真相解明のためには先入観や思い込みは禁物だ。あらゆる可能性を検討する必要がある」

 正論ではある。だが、違和感はあった。ウェッズは、この手の調査に慣れているのだろうか。

「ウェッズさん、探偵になれるんじゃないですかー?」

「推理小説は好きだな」

 誤魔化すような小さな咳払い。コニーはさっき飲み込んだ言葉を吐き出そうかと思った。

「ま、こんな仕事を続けているとな、事務仕事だけじゃなくて調査の仕事も意外と来るもんなんだよ」

 ダンジョンに関わる全てを取り仕切るのも、ダンジョン管理局の勤めである。

「とにかく、鍵はサナ・ホワイトが握っているのは間違いない。お前は引き続き、サナを追ってくれ。俺はルチウスを調べながら、魔導院にも探りを入れてみる」

「わかりましたー」

 立ち上がり、コニーは軍隊式の敬礼をして見せた。かっこよく決めたつもりだったのに、ウェッズはむしろ吹き出した。そんなにおかしかったのだろうか。

「くっくっ……。まあ、頼りにしてるぞ」

「むー」

 頬を膨らませながら、コニーはカップとポットを片付け始める。給湯室に向かおうとした時、ウェッズの少し低くなった声がコニー呼び止めた。

「コニー、公安が動いてる。嗅ぎまわっていることがばれると、後で何を言われるかわからん。気をつけろ」

「わかってますってー」

 振り返りながら笑顔を作ったつもりだったが、引き攣った笑いになっているだろうことが自分でもわかった。

 公安コスでの捜査……本家本元にはバレてないよね……?

 ウェッズが眉をひそめ、コニーは慌てて背を向けた。

 不安は消えない。消えないのならいっそ、男装コスには邪魔にしかならないこの大きな胸を少しでも押し潰してくれないものか。

 コニーは深く、溜息を吐いた。

 今にも落ちてきそうな程重く、手を伸ばせば届くのではないかと思われる程、雲が低い。どんよりとした空模様に、コニーの気分も晴れることはなかった。

 祖龍の南に位置する逃げ水村は、人の足なら丸一日はかかる。大陸でも有数のリゾート地に数えられる椰子の群生地を抱える街であるため、大型飛行獣による定期便の本数も多い。年間を通して快晴の方が圧倒的に多いこの地だが、今日は生憎の曇天である。普段ならば、大型飛行獣の上から、微風に揺れる椰子の木を陽光に煌くなごり河の水面に臨むことができたはずだ。ところが今日ときたら、暖かい微風は冷たい強風に取って代わられ、ざわめく水面は何かの凶兆にしか見えない。

 せっかく自腹で定期便に乗ったのになあ……。

 目的地までの道程も、旅の醍醐味の一つだと言う。観光で逃げ水村を訪れる者にとって、定期便から見下ろす景観は名物になっている。こんなことなら、乗り心地は最悪だが安くて早いアイスドラゴンでも捕まえた方が良かった。そう思いかけたコニーだったが、東区で吐き気を覚えたことが甦り、ぶんぶんと首を横に振る。アレに慣れてしまう程、利用するのもいかがなものなのか。

 村の入り口付近で着陸した飛行獣からは、既に人が降り始めている。天候のためなのか、人の数もまばらだ。

「ツイてなかったね、お客さん。雨期でもないのにこんなに曇るなんて、一年に一度あるかないか……なんだけどねー」

 幼さを残す顔立ちの妖族の女が、白い兎耳を申し訳なさそうに垂れさせている。妖族の女性は、全て半人半獣である。そのため、頭部には動物の耳を生やし、尻尾もある。総じて、幼い顔立ちが多いのもこの種族の特徴だった。今コニーの前にいる飛行獣の運転手も、幼く見えるがコニーより年上かもしれない。

 どう見ても、天然コスプレだよね……みんなロリっぽくて可愛いし。

 書店に並ぶ男性向けゴシップ誌の表紙でよく見かける文言をコニーは思い出す。妹にしたい種族ナンバーワンと言えば、妖族の少女と相場が決まっている。ロリ系のコスにおいて、コニーは彼女達に勝てる気がしない。

 嫌いじゃないし、やったこともあるけど……やっぱり私は男装の方が好きかなー。

 まじまじと運転手の円らな瞳を覗き込みながら、コニーは苦笑を返した。

「はははー。本音を言えばこの曇り空は不満ですよ、やっぱー。けど、観光で来たわけじゃないんで、まあいいかなあー、なんて」

 運転手は、眉を八の字にしたままで微笑み返す。景観も運賃の内だから、とでも言いたげだ。しかし、悪天候は運転手のせいではない。

 そんな運転手に対する心苦しさが顔に出ないように、コニーも精一杯の笑顔で答える。

「また、来ますからー」

 両目を一杯に細め、白い歯を見せる運転手に、やはりコニーは思う。

 可愛いよなあ。敵わないなあ。

 だが現実には、片手の指で収まる回数ほどしか見せたことのない紫苑のロリ系コスは、男性ファンの間では「レア中のレア」「伝説のロリ紫苑」と密かに囁かれていることを、肝心のコニーは知らない。

 濃藍の眼鏡の縁にそっと触れてから、コニーは運転手に手を振る。

「またのご利用をー」

 からっとした声に頷きながら、グレイのブーツがリゾート地の土を踏みしめた。

 宿と土産屋が軒を連ねるのは、観光地の常だ。この街に限った話ではない。しかし、年に一度あるかないかと言われる乾期の曇天に、街全体が暗く沈んでいるように見える。土産屋を覗き込めば、店主と思しき腰の曲がった老婆が大欠伸をしている。反対側の宿の二階の窓からは、三角巾とマスク姿の仲居がつまらなそうに掃除をしているのが見えた。

 コニーは大きく膨らんだ肩がけ鞄から一枚の紙切れを取り出す。ごく簡単な地図が書かれている。今朝、ウェッズから預かったものだ。注意深く周囲を見渡しながら、繰り返し地図に目を落とす。ここから三軒目の土産屋を右に。次は、二軒目の宿の角を左に。

 観光地として歴史の古いこの街は、区画整理が不充分だった。景観を損なわないために、意図的に区画整理をしていないのである。曲がりくねる道。細い道。立ち並ぶのは、古いが重みを感じさせる木造建築。観光で来ているのであれば、気ままに歩いて迷子になってみるのも一興かもしれない。

 何度か道を間違えながらも、どうにかコニーは目的地に辿り着くことができた。観光客相手の街区から、ほんの少しだけ離れた小さな宿。触れただけで不気味な軋みを上げるのではないかと思われる木の扉に、「旅籠」と彫られた看板がぶら下がっていた。この看板がなければ、両隣の民家と区別など付くまい。

 だが今日、この宿が営業していないことは一目でわかった。

 一輪の花が、古びた看板に添えられている。橙色の花弁が八重に広がり、それは丁度コニーの拳ほどの大きさになる。菊の一種、金盞花(きんせんか)だ。祖龍周辺では、この花は弔いの花として知られている。身内に不幸があった時、軒先に金盞花を飾る。金盞花が飾られた家では、その日、葬儀が執り行われるのが普通だ。

 コニーは、顰蹙(ひんしゅく)を買わない程度の声量で一声かけてから、扉を開いた。

 こじんまりとした玄関は、やはり民家のそれだった。小さなテーブルと椅子が設えられ、喪服の若い女が沈痛な面持ちで座っている。普段は宿泊客を最初に迎えているであろう簡易のカウンターに座るその女は、葬儀屋の手配した受付嬢といったところか。

 参列者名簿に記名すると、受付嬢は葬儀の行われる部屋の場所をコニーに教えた。併せて、女は浴場の場所もこっそり耳打ちする。コニーがダンジョン管理局の制服を着ていたためだろう。そこで喪服に着替えろという意味だ。

 コニーがウェッズに指示されたことは、ルチウスの家族に会って話を聞くこと、だ。ウェッズはこうも言っていた。今日は魔導院が鑑定の済んだ遺体を家族に返す日である。遺体が帰宅し次第葬儀が行われる。葬儀が終わってから顔を出すか、明日以降にしてもいい。遺体の帰宅が一週間遅くなったのはダンジョン管理局が魔導院に鑑定を依頼したためであり、その件についてはウェッズが既に家族の了承を取っているから、それに関しては気にしなくてもいい、と。

 参列すべきかどうか、コニーは迷った。しかし、葬儀まであまり時間がなかったこともあり、喪服だけ鞄に突っ込んで定期便に乗り込むことになった。

 やっぱり、お悔やみくらいは言いたいよ……。

 着慣れない喪服の袖に腕を通しながら、コニーは祖父母が亡くなった時のことを思い出す。どんな理由であれ、家族が亡くなることは悲しむべきことだ。祖父母と、その飼い犬であるリキの死。いずれも、幼いコニーを悲しみの淵に叩き落した出来事だった。

 花柄総レースのブラウスのボタンを、下から順に留めていく。数々の衣装に身を包むコスプレイヤー紫苑=コニーだったが、喪服を着るのは初めてだった。祖父母の葬儀の時は、学校の制服をそのまま着用した。学校を卒業した後は、幸いなことに葬儀に参列する機会は訪れていなかった。この礼服は、独り暮らしを始めるコニーに母が持たせたものだ。母が昔使っていた礼服である。母の身長をそのまま受け継いだコニーにはサイズがぴったり、のはずだった。

 お母さん。胸のボタンが……止まりません……。

 浴場の更衣室で、コニーは泣きべそをかいた。

 やむなくコニーは、鞄からさらしを取り出した。男装コスを持ち歩いていなくても、コニーはさらしを常に鞄に潜ませている。胸に若干のコンプレックスを持つコニーにとっては、お守りのようなものだった。同時に、コニーが紫苑になる最初のスイッチでもあった。

 さらしを両手で握り締め、コニーはぐびりと喉を鳴らす。これから行く先は、イベント会場ではない。「紫苑」は、これから行く場に相応しい人物なのだろうか。まして、着るのは母の喪服だ。男装コスではない。

 コニーにとって、紫苑になることはこの上ない快感だ。別人のようになりはするが、決して別人ではない。コニーには、その自覚がはっきりとある。重い。肩がこる。走ると千切れんばかりに痛い。男の視線が嫌だ。サイズの合うブラジャーがなかなか見つからない。こんなコンプレックスから解放してくれるのが、紫苑である。紫苑にはコンプレックスなどない。自己愛と自信に満ち溢れた人間だ。時にそれが行き過ぎ、人から白い目で見られることがあることを誰よりコニー自身が一番良く知っている。

 胸を見下ろす。白いブラジャーに包まれた、醜悪なる贅肉の塊。自分の腹さえ満足に見ることができない。胸の小さな女子は、脇の下の肉をかき集めてブラに詰め込むと言う。無論コニーは、そんなことをしたことはない。だが、その逆は可能か。自問自答するまでもなく、それを過去に試して徒労に終わったことを思い出す。

 やはり、なんとかボタンを留めるしかない。まず、首元のボタンをかける。かなりきつかったが、どうにか留まってくれた。問題は、トップバスト付近のボタンである。猫背になりながら、思い切りブラウスを中央へと引き絞る。が、ダメ。頑張れば留まらないこともないのだろうが、葬儀の最中にボタンが弾け飛ぶ可能性があった。

 ウェッズも、参列しなくていいと言っていた。危険を冒してまで、見ず知らずの冒険者の葬儀に出る必要があるのだろうか。肩で息をしながら、コニーは逡巡した。

 ふと顔を上げると、脱衣所の鏡があった。赤茶色のショートボブに、濃藍の縁の眼鏡。ウェッズが見たら、大笑いするのではないかと思われる情けない泣きべそ顔。それを覆うように、あの「男」の自信たっぷりの顔が浮かんだ。

 ──僕に任せておけ

 ダメ。イベントじゃない、お葬式なんだよ?

 ──大丈夫。何も心配いらない

 その、根拠のない自信が心配なの!

 ──酷いな。僕はずっと、君を助けて、護ってきたっていうのに

 それは……そうかもしれないけど。

 ──お悔やみを、言いたいんだろう?

 うん、言いたいよ。全然知らない人だけど、やっぱり凄く悲しいから。

 ご家族の方の痛みが、わかるから。

 ──今、君の望みを叶えてやれるのは、僕しかいない。そうだろう?

 ……うん。

 ──さあ、さらしを巻くんだ、コニー。

 でも、でもね。

 ──何かな?

 今回だけは、貴方に全てを預けたりしないよ。

 ──ふ。もちろん構わないさ。僕は君で、君は僕なんだから……

 鏡の中で、円らな小豆色の瞳が煌いた。

 唇を真一文字に引き締めて、ブラジャーを外す。量販店ではブラを見つけることすら困難なほどの大きさであるにもかかわらず、つんと上向くお椀型の乳房は男でなくとも美しいと形容するに違いない。だが、鏡の中の乳房を見るコニーの目は険しい。まるで忌まわしいものでも見るかのようだ。

 右手に強くさらしを握り締めながら、鏡に向かってコニーは大きく一つ頷いた。

 板張りの廊下は、踏みしめる度にぎいぎいと軋んだ。黒のストッキング越しに感じられる木の感触は、心地良い冷たさを伴っている。石や金属とは違う温かみが、木材にはある。靴は玄関の靴箱に入れさせてもらった。祖龍周辺では、家屋に上がり込む際には靴を脱ぐのが一般的である。大陸の西方、特に万獣地方や樹下の都周辺では、むしろ靴を脱がない方が普通である。そのため、祖龍へ上京してきたエルフや妖族は、家屋に上がり込む時、まずそこに戸惑うという。

 だが、この家はルチウス・マーローの実家。即ち、エルフの住居である。郷に入っては郷に従えとは言うものの、エルフ族が玄関で靴を脱ぐ姿には違和感がないこともない。

 受付嬢に言われた部屋の前で立ち止まる。襖の向こうから、すすり泣く声が聞こえた。

 襖に手をかける前に、コニーはもう一度身だしなみを整える。ショートボブを手櫛で軽く流す。カーディガンを調える。問題だったブラウスのボタンも、きっちり留まっている。ややタイト目のスカートは、膝を隠す程度の丈。腰に手を入れ、スカートの位置を整える。いつもの紫苑なら厚めにする化粧も、今日はささやかなものだ。眼鏡もいつもの丸眼鏡で、一見、いつものコニーに見える。だがその眼鏡の奥の瞳は幾分細まり、目つきは鋭さを増していた。

 ふ。まさか、こんな所でこの僕……いや、この「私」が、「女装」をすることになるとはね。

 口元が苦笑に歪みそうになるのを、「コニー」は厳しく抑える。笑顔は人生に潤いと温もりを与えるが、時と場所は弁えなければならない。

 堂々と力強く開けようとする自分を叱責しながら、コニーは静かに襖を開けた。

 普段は客室として使われているであろうこの小さな寝室に、喪服の男女が十数人。真っ当な葬儀としては、いささか人数が少ない。家族と親戚だけの密葬なのか。あるいは、元々友人が少ないのか。それを判断する材料を、コニーは持っていない。

 エルフの神官が祈りの言葉を唱えている。少し、遅刻してしまったようだ。弔いは既に始まっている。

 部屋の中央には、質素な棺。喪服の男女が、それを取り囲むように正座していた。蓋がほんの少しだけずらされていて、覗き込めば遺体の顔が確認できる。コニーは霊華が持ち帰った死体を直接見ていないが、話に聞いているのとは随分違っていた。ロクに顔も判別できぬほどの損傷と焼け焦げなど、どこにもない。白木のような白い肌で、美しい顔だった。これも、魔導院の技術の一つだろう。ルチウスは比較的発見が早かったため呪術鑑定で身元が判明したが、あまりに時間の経ち過ぎた死体は呪術鑑定でさえ追えなくなることがある。そんな時、骨格から肉体の形を再生する技術があるとコニーは何かの本で読んだことがあった。だがこのルチウスに施された処理は、身元を明らかにするためではない。コニーは目頭が熱くなる。数ある魔導院の技術の中で、これほど優しく悲しい技術が他にあるだろうか。軍と仲が悪い魔導院。きな臭い噂もある魔導院。そして、こんなにも優しい魔導院。コニーの胸に、何かがこみ上げるようだった。

 だが、そんな魔導院の技術を以ってしても、首から下を再生することは不可能だろう。首から下がないことを、当然コニーは知っている。蓋で隠れた棺の中に、ルチウスはいないのだ。なのに、五体満足な遺体が収まる棺を使っているのだ。

 襖を開けた格好のまま、コニーは立ち尽くす。知らず呼吸が浅くなる。どうにもならないくらい瞳が熱を持ち、やがて視界はぼやけ、歪んでいく。

 おいおい……この僕が涙を流すなんて。いや、忘れてないよ。私が泣き虫だって事は。

 立ち尽くすコニーに、参列者の視線が集まる。ただ一人、コニーとさほど年齢が変わらないように見えるエルフの女だけが、涙でくしゃくしゃの顔をルチウスから逸らさずにいた。エルフゆえに若く見えるが、彼女がきっと母親なのだろう。

 突然の闖入者に、神官までもが祈りの言葉を中断していた。怪訝な視線がコニーに集中する。

 まずいな……葬儀を止めてしまったぞ。

 居心地の悪さに、紫苑の手がいつもの決めポーズを作ろうとする。が、コニーは歯を食いしばってそれを堪えた。

 だが、どうしていいかわからない状況に変わりはない。緊張と混乱でコニーの頭の中に靄でもかかるようだった。

「クウガ、アギト。エスコートしてあげてん?」

 低音だがどこか艶かしい声が沈黙を破った。棺を囲んで座る参列者の中に、エメラルドグリーンのロングストレートヘアを輝かせる男がいる。その両隣に折り目正しく正座していた黒スーツの男が二人、すっくと立ち上がる。

 二人はまるで同じ顔をしていた。赤銅色の短髪に、同じ色の瞳。切れ長の目は鋭利な刃物のようで、眼光もまた剣呑なほど鋭い。やや面長だが、端正な顔立ちは美しいと評して差し支えない。浅黒い肌は、日焼けなのか元々の色なのか判断が付かないが、健康的で生命力が漲るようだ。

「我らの隣が空いております」

「こちらへお座りください」

 緑髪の男のような艶はなかったが、逞しさを感じさせる低音の声は、ほんの少しコニーを安心させた。

 参列者がひしめく狭い室内で、しかし二人は淀みなく、ぴったりの息で貴婦人を扱うがごとくコニーを座らせる。

「あ……ありが、とう」

 紫苑に近い声でコニーは軽く頭を垂れる。すかさず差し出された白いハンカチに、コニーの頬が熱くなる。

 二人はにっこりと笑顔で答えると、素早く緑色の男の両隣に座り直した。

 まいったな。僕ともあろう者が、少しだけときめいてしまったよ。ふふっ。

 ファンデーションをできるだけこすらないように、ハンカチで涙を拭う。盗み見るように視線を向けると、あの妙に艶かしい男と目が合った。はっとするような美貌。その形容が真っ先にコニーの頭に浮かぶ。髪の毛と同じエメラルドグリーンの瞳には、謎めいた妖しさ。紫苑よりも厚い化粧だが、そんなものがなくともこの男の肌は絹のように美しいに違いない。薄く引いたルージュに、艶のあるグロス。暖色系のシャドウとチーク。どちらかと言えば、女子の化粧と言える。紫苑には不思議でならない。そんなメイクなどしない方がむしろ、この男は美しいはずだ。

 だが、身を包んでいるのはきちんとした男物の礼服。服装とメイクにギャップがありすぎる。そのためなのか、これだけの美貌を前にしているのに、コニーは妖美さと同時に微かな気色の悪さを感じずにはいられない。

 その気色悪さが、コニーの記憶のどこかをくすぐった。

 綺麗な緑色の髪、微妙なキモさ。男なのに女子メイク……オカマ?

 頭の中で何かが繋がり、コニーは叫び出しそうになった。

 目と口を大きく開き、コニーは思わず彼を指差しかける。が、そんなみっともない真似を紫苑が許すはずがない。

 あ、ああ。劇団ロンリースター、マデリーン先生っ?

 祖龍にその名を轟かす、同人漫画家マデリーンその人に、相違なかった。

 神官の祈りと遺族のすすり泣き、厳粛な香が室内に漂っている。優しく柔らかく、それでいて身が引き締まるような香りに、コニーは憶えがない。エルフ族独特の香なのかもしれない。

 不謹慎とは思いながらも、コニーの目は緑色の髪の男を何度も追ってしまう。正座をし、粛々と頭を垂れる様には気品さえあった。彼の両脇に陣取る双子も、まるで物真似でもしているかのように同じ姿勢だ。

 劇団ロンリースター、マデリーン。

 個人サークル「劇団ロンリースター」という名義で、同人誌を発行している人気同人作家である。イベントになれば、彼のブースには必ず長蛇の列ができ、他のどのサークルよりも早く本が売切れてしまう。モノによってはプレミアが付き、目が飛び出るような価格で取引されることもある。そんな圧倒的な人気にもかかわらず、イベント参加や発行回数、発行部数は決して多くはなく、委託販売も通信販売もない。それが取引価格の高騰に拍車をかけていた。マデリーン本人がイベントに現れることは更に少なく、ほとんどの場合は雇われの売り子が販売を代行しているため、存在自体が幻とも伝説とも言われている。

 コニーはかつて、一度だけイベントでマデリーンに会ったことがある。祖龍一の同人作家と祖龍一のレイヤーのコラボレーションという企画で、イベント主催者から紫苑にオファーがあったのだ。コニーはレイヤーを始める前から既に「劇団ロンリースター」のファンだったため、二つ返事で引き受けた。企画内容は、マデリーンの漫画のキャラクターの扮装で、マデリーンと共に売り子に立つだけというシンプルなもの。だが、集まったファンの規模は主催者側の想像を遥かに超えていた。流言飛語が飛び交い、暴動さえ起きかねない状況に公安まで出動したこのイベントは、ファンの間では語り草である。

 コニーは、スケブをねだりに行きたい衝動に駆られた。もしここが祖龍の街角であれば、コニーは恥も外聞もなく突進していただろう。だが、今コニーがいるのは弔いの席である。すすり泣く声はさっきよりずっと大きくなっている。繰り返し息子の名を呼ぶ母の声は、もはや号泣と言えた。胸が締め付けられ、ミーハーなファン心理も急激に冷めていく。だからこそ、むしろコニーは冷静にマデリーンを見ることができた。

 どうして、こんな所に?

 少人数のこの弔いは、おそらくごく身近な親族のみで執り行われているのだろう。遅まきながらコニーは、この場にいるのが自分以外は全てエルフ族であることに気がついていた。泣きじゃくる母親と思しき女、彼女の肩を抱く父親と思しき男、マデリーンも双子も、全員が頭に二枚の白い羽を生やしている。

 ならば、マデリーンも双子も、ルチウスの親族ということになるのだろうか。

 黒服の中にあって、ただ一人純白のローブを纏う神官の両腕が、幾何学模様でも描くように動く。エルフ族は、死者に白い服を着せるのが習わしだと、コニーも何かの本で読んだ記憶があった。神官が死者と同じ白い服を着るのは、常世の入り口まで死者を送り届けるためだとか。そして、エルフの死者は、必ず樹下の都へ戻らなければならない。その際、直接血の繋がった家族だけが神官と同じ白いローブに着替えて、樹下へ付いていく。樹下で生まれ、樹下へ帰る。森で生まれ、森へ還る。それが、エルフ族のあり方なのだと。

 コニーの知る通りなら、この葬儀も最終的には樹下へと移動することになるだろう。無論、コニーは同行を許されない。

 やがて、神官の祈りの言葉は終わる。ルチウスの父親が、妻を支えながら部屋を出て行った。

「死とは、一体何なんでしょうか。私はいつも、考えます」

 神官が重々しく口を開く。

「私達エルフにとっての死とは、他種族のそれとは少々意味合いが違います。私達は、老いを知りません。したがって、死ぬこともありません。ただそれは、決して不死などというものではなく、ほんの少し長生きであるというだけに過ぎません。生きていること。今、生きていること。それは、種族が何であろうとも、動物だろうと虫だろうと、同じです。生きる中には、喜びがあり、悲しみがあります。愛があり、憎しみがあります。月と太陽、闇と光。この世には、互いに相容れぬによって、しかしそれ故に互いを必要とするものがあります。生きること、死ぬこと。これは、そういうことなのかもしれません……」

 神官の説教は続く。しかしコニーは、途中から話が理解できなくなっていた。死とは何なのか。全く考えたことがないわけじゃない。ダンジョン管理局に勤めることで、死はより身近なものになった。

 ──ダンジョンには、死が満ち溢れている

 霊華の受け売りだと言って、ウェッズが呟いていたことがある。それがどういう意味なのか、コニーにはわからない。死が何なのか、その答えもわからない。まして、病気や怪我がなければ死ぬことがないエルフの死生観など、理解できるはずがない。

 コニーにとって一つだけ確かなことは、誰かが死ぬことが、とてもとても悲しいことであるということ。それだけだったし、それで充分だとも思った。

 そして、死が痛いから、死を悼むから、コニーはここにいる。

「……死は人生の終わりではなく、人生の形の一つだと、そういうことだと私は思っています」

 言い終わると、神官は大きく息を吐いて一礼した。説教も終わりのようだ。

 すると、タイミングを見計らったように部屋の襖が開かれる。白装束を纏った、ルチウスの両親だ。母の厚化粧に、コニーの鼻の奥がつんとなる。化粧は、彼女の涙の跡を、隠しきっていない。

「この度は、ルチウスのためにお運びいただき、誠にありがとうございました」

 父が口上を述べ、二人で深々と頭を下げる。

「息子が冒険者になると言い出した時に、覚悟を決めたつもりではありました。だから、こうなってしまった今も、息子は戦って死んだ、私達を怨霊から護って死んだ……そう自分に言い聞かせています。小さい頃からおとなしい子でしたが、とても正義感の強い子でもありました。私達や、あるいは、子供達が、怨霊に怯えなくて済む世界が、少しでも早く来てくれるように。そう言った、ルチウスの瞳を、今でも忘れられません」

 歯を食いしばりながら、父は俯く。母の膝が力なく折れ、再び嗚咽が室内を満たした。せっかく直した化粧が、形無しだった。

「私達はこれから、ルチウスを連れて樹下へ帰ります。参列してくださった皆さん、本当に本当にありがとうございました」

 深々と下げられる頭と、零れ落ちた雫。一度流れ出た涙が再び瞳に戻ることは、決してないのだ。

 これから二人は、どうするのだろう。白装束を着るのは、直接血の繋がった血族と神官だけ。今白装束を着ているのは、神官と両親の三人だけ。一人息子だったのだろう。たった一人の息子を亡くして、二人は、これから。

 事件の真相は、必ず解き明かさなければならない。

 握り締めた白いハンカチは、既にびしょ濡れだった。

 甲高い音が響き渡ったのは、その時だ。

 カーンカーンと繰り返される音は、鐘楼に違いない。コニーの肩がびくりと震え、身体は強張る。突発的に街全体に鳴り響く鐘楼の音の意味は、子供でも知っている。

 即ち、怨霊の襲撃を告げる音。

 にわかに部屋はどよめいた。誰もが強張った顔を互いに見合わせている。

「みなさん、落ち着いて! 落ち着いて避難すれば大丈夫です!」

 神官が声を張り上げる。

 おもむろに、コニーの隣に座る双子の片割れが、懐から巻物を取り出した。巻物に施された金の蒔絵は格調高く、高級品であることを窺わせる。慣れた手つきで巻物は開かれたが、そこには何も書かれていない。が、徐々に文字が浮かび上がるのがコニーからでも良くわかった。更に、巻物の材質にコニーはすぐに気付く。

 よ、羊皮紙の伝書? こんな高級品、ウチだって使ってないよ。

 まだ文字がはっきりと浮かび上がらない内から、彼は巻物を閉じ、素早く懐に仕舞い込んでしまう。だがその直前、コニーは確かに見た。蒔絵に施された、六芒星の紋様を。

「マデ様。逃げ水村防衛ラインが怨霊の大隊に突破されたようです」

 マデリーンへの耳打ちも、すぐ隣にいるコニーには微かに聞き取れた。

「一個大隊? ランクは?」

「Bランク一個大隊かと」

 赤い唇に付くか付かないかの位置に小指の先を当て、マデリーンの視線が軽く上向く。

「んー。ちょっとここの駐屯部隊じゃきついかもねん」

「いかがなさいますか?」

「夏風坊やに貸しを増やしておくのも悪くないわねん」

 艶やかな口唇が、妖しく釣り上がる。コニーの頭は、更に混乱した。あの人気同人作家とこんな所で出くわすだけでもあり得ないのに、こんな所で聞くはずのない名前を聞いたからだ。

 夏風。祖龍近辺に、そんな名前は二人といない。祖龍軍最高司令官、夏風将軍。まして、その夏風将軍を「坊や」呼ばわりとは。

「それに……」

 緩いとさえ言える表情に微塵の変化もないのに、コニーはそのエメラルドグリーンの瞳の奥に、背筋が凍るような凄惨な光を見た気がした。

「神聖な弔いの儀式を邪魔した罪は、重いわん。……クウガ、アギト」

「はっ」

 流し目のような一瞥に、双子の短い応答がハモった。

「懲らしめてあげてん?」

「ははっ」

 すっくと二人は立ち上がる。しかし、外へ飛び出したのは一人だけだった。

「あらん? 今回はアギトだけなのねん?」

「Bランク一個大隊程度なら、奴一人で充分でしょう。元より、我らの役目は怨霊討伐ではなく、貴方様をお護りすることにあります」

 飛び出したのがアギトなら、残ったのはクウガか。マデリーンには区別が付くようだが、コニーには全くわからない。

 クウガの手に、大きな弓が現れた。冒険者の使う武器に関して明るいわけではなかったが、コニーにもひしひしと感じられた。その弓が、とてつもない力を秘めているであろうことを。

「こんな所でそんなモノ出すなんて、はしたないわよん?」

 言葉とは裏腹に、マデリーンは楽しそうですらある。

「アギトもまだまだ未熟者。討ち漏らした敵がここを襲わないとは限りません」

 からかうようなマデリーンにも、クウガの表情は微塵も変わらない。

 さっき飛び出して行ったアギトも、たった一人でBランクの怨霊大隊と戦おうとしている。軍用語で「Bランクの怨霊」と言えば、それはおおよそダンジョンの危険度ランクに相当する。もっとも、それはダンジョン管理局を含む軍内部での話だ。さきほどちらりと見えた巻物の紋様。コニーの見間違いでなければ、彼らは軍の人間ではない。彼らの言う「Bランク」がコニーの知る「Bランク」と同じかどうかは定かではないものの、それでも怨霊軍一個大隊を一人で相手取ろうと言うのだ。クウガにしてもアギトにしても、並外れた冒険者であることは間違いないだろう。

「その言葉は嬉しいんだけどねん、クウガ。それなら、アナタは樹下までルチウスとご両親を護衛して差し上げてくれるかしらん?」

「マデ様がそう仰るのならば、従うことはやぶさかではありません」

 クウガが神官に目配せする。神官は頷き、ルチウスの両親を促した。

 母の肩を抱きながら、父は部屋から出て行く。神官がそれを追い、クウガはひょいと棺を担ぎ上げた。

「それでは、行ってまいります」

 重い棺を担いでいるというのに、全くそうは見えないほど恭しい一礼だった。

「いってらっしゃーい。気をつけてねん」

 怨霊の大軍が押し寄せているというのに、全く緊張感のない男だった。

 葬儀屋の手引きで、他の参列者達は全員避難所へ移動した。葬儀屋に指示を出したのはマデリーンである。どうやら、葬儀屋を手配したのも、そもそも葬儀自体を手配したのもマデリーンだったようだ。

 部屋には、香の香りとコニー、そしてマデリーンだけが残っていた。

「アナタは避難しないのん?」

 マデリーンの身長も、ウェッズと同じくらいだろうか。決して高い方ではないが、それでもコニーより頭一つ分は高い。そんなマデリーンより更に頭一つ分高い双子がいなくなったおかげで、圧迫感と緊張感は薄らいだようにコニーは思う。

「一応、僕……おほんおほん……私も軍の一員だから。市民より先に逃げるなんてことはしない……しません」

 さらしは巻いているが婦人服を着ていることもあって、コニーと紫苑の言葉遣いが混ざり気味になる。だがマデリーンは、特に訝しむでもなく、にこやかに応対した。

「あらん、そうだったのねん。でも、可愛い軍人さんねえ。食べちゃいたいわん」

 不気味に身をくねらせる様は、まさにオカマ以外の何者でもない。

「軍人と言っても、ダンジョン管理局だけど……ですけどね」

 眉間に中指を当てるいつもの紫苑ポーズを、眼鏡を触る動作に置き換えて誤魔化す。

「ダンジョン管理局……あらん、そういうことだったのねん」

 何かに得心したようだが、口元の薄笑いには少しも変化がない。そう言えば、以前イベントで紫苑として会った時も、やはりこんな男だった。否、オカマだった。終始口元に妖しげな薄笑いを浮かべ、気味の悪いくねり方をするオカマだ。もしかしたら今日、口元が笑んでいないマデリーンを見たことは、貴重な体験だったのかもしれない。

 憧れの人気同人作家を前に、ファン心理が再び湧き上がってくる。しかし、コニーはそれを抑えた。コニーの直感が告げていた。この人は、何かとてつもない秘密を握っている。それが、コニーの追っている事件と関係があるのかはわからない。少なくとも、彼はルチウスの葬儀に参列していた。何かを聞き出さなければならない。だが、何を聞けばいいと言うのか。

「あらん。難しい顔しちゃって。可愛いお顔が台無しよん?」

「……貴方は」

「……なあに?」

 目の前に、美貌がある。おそらく、奇妙な動きと言葉遣い、女子メイクをやめれば、絶世が付いてもおかしくないほどの美形。エメラルドグリーンの深い瞳を覗き込んでも、まるで迷路に迷い込むような気分になってくる。

 貴方は、ルチウスとどういう関係なのか。

 あの双子は何者なのか。

 どうして葬儀の手配までしてあげたのか。

 あの高級伝書は。

 伝書に描かれた、「あの」紋章は。

 貴方は……一体何者なのか。

 疑問が数限りなく湧いて来るばかりで、結局何一つ言葉にならない。

「んふふ。D管さんがアタシに何を聞きたいか、察しは付くけどねん」

 そう言って、右小指を唇に軽く当てる仕草の妖美さよ。

 妙な言葉遣いもメイクも、全ては本来持っている美貌を隠すための蓑なのではないか。いや、隠そうとしているのは美貌だけなのか。見つめれば見つめるほど、コニーは出口のない迷宮で翻弄されていくようだった。

「一つだけ、忠告してあげる」

 立てた人差し指が、ゆっくりとコニーの顔へと近づけられる。細く白い、まるで女のような華奢な指から目が離せない。

「アナタみたいな可愛い子が、首を突っ込むべきじゃないわん」

「それはどういう……っむ」

 反論しようとしたコニーの小さな口を、伸びてきたマデリーンの人差し指が羽毛のごとく塞いだ。暖かい、指だった。

 マデリーンの相好は崩れない。口元の笑みも相変わらずだ。しかし、エメラルドの瞳の奥に、険しいまでの厳しさが宿っている。なのに、コニーは優しく包み抱かれるような安心感を覚えた。

「マデ様……若い女の子をたらしこむのも程々にしてくださいよって、いつも言ってるでしょう」

 双子の声だということはわかったが、クウガなのかアギトなのかまでは判別できない。

「あらん、アギト。早かったのねん」

「兄貴ならむしろ、『遅いぞ』って怒鳴ってるところでしょうけどね……そう言えば、兄貴は?」

 アギトはキョロキョロト室内を見回す。当然、兄の姿はない。

「うふん……男の子があんまり『早い』のも、考えものなんだけどねん」

 すっとマデリーンの指が離れる。温もりが離れたことに、一抹の寂しさを覚える。もっと、触れていて欲しかったような。そんな自分の感覚に気付き、コニーは頬が熱くなった。

「何の話をしているんですか。まったく」

 アギトは肩をすくめて見せるが、気を悪くした様子もない。慣れているようだ。

「……帰るわよん、アギト」

「はい」

 くるりと背を向け、一足先にアギトは部屋を出て行く。

「じゃあね、可愛い軍人さん」

 片目を瞑ってみせるその仕草も、どことなく気味が悪かった。

 二人の足音は遠ざかり、やがて部屋は静寂に包まれる。

 へなへなと、コニーは座り込んだ。頭の中はぐちぐちゃで、何がなんだかわからない。

 ──首を突っ込むべきじゃないわん

 その言葉だけが、ぐるぐると頭の中を回り続けている。喉はカラカラになっていた。胸が苦しいのは、悲しみにくれるルチウスの両親を目の当たりにしたからなのか、さらしがきつすぎるためなのか、それとも。

 からからと笑う、上司の顔が浮かんだ。

 どうしようもなく、彼の淹れたコーヒーが恋しかった。

inserted by FC2 system