第三話 護る剣

7 すくいきれないもの

「偽公安?」

 口から転がり落ちそうになった里芋の煮っ転がしを素早く弁当箱で受け止め、【旦那】(マスター)は箸を握り直した。

「昨日……一昨日だったかな。冒険者ギルドの人が下まで来て、訊いたんだって」

 【旦那】より一回りも二回りも小さい弁当箱から、里芋の煮っ転がしをつまみ上げると、金髪の少女の顔が綻んだ。

「うーん。今日の煮っ転がしは上手くいったなあ。美味しいでしょ、マスター?」

 返事を待たず、少女は小さな口を開け、芋を放り込む。桃色の口唇がにんまりと釣り上がり、白く細い指が自らの頬を撫でた。

「他に誰もいなければ名前で呼んでもいいって、いつも言ってるだろ……フェアル?」

 ペンでも回すかのように箸を手の上で一回転させ、【旦那】は次の里芋に突き刺す。

「職場ではコードネームで。そう決めたのはマスターでしょ?」

「それはそうだが」

 箸の刺さった里芋をダークブルーの瞳で睨みながら、【旦那】は前髪をかき上げる。紺青の髪がさらりと揺れた。

「だから、ここにいる時は、私も『フェアル』じゃなくて【翡翠】(ジェイド)だから」

 金色のショートヘア、翡翠色の丸く大きな瞳。きめ細かく白い肌は瑞々しく、やや丸みを帯びた顔型にも歳相応の幼さがある。翡翠の瞳が見回すのは、飾り気のない執務室だ。

 釣られるように、ダークブルーの瞳が何を見るでもなく天井を見上げた。

 整頓された書斎机は黒漆。本棚はきちんと整理され、一片の乱れもない。書棚に並ぶは、各種犯罪学の専門書と、捜査記録をまとめた膨大なファイル。昼休みに手作り弁当を仲良く食べているというシチュエーションでなければ、常に身が引き締まるような清涼感に満たされた部屋である。

 祖龍公共安全機構本庁ビルは、祖龍北区にある。

 石造り五階建てのビルは、オフィス街たる北区にあっても威厳と威容を示してやまない。そんな本庁ビル三階に、公安特務第三課はあった。対怨霊組織である軍とは違い、公安の役目はあくまで街の治安を守ることにある。窃盗、強盗、傷害、詐欺、放火、殺人……その他もろもろの犯罪を取り締まるのが、祖龍公共安全機構、即ち「公安」である。そのため、公安が相対するのは人間であり、怨霊ではない。だが、強力な怨霊と渡り合う軍関係者、主に冒険者達が全て法を遵守する善人であるとは限らない。そんな凶悪犯罪者に対抗するためには、法の番人たる公安にも力が必要になる。公安特務課とは、公安の有する武力であると同時に、対人戦闘のスペシャリスト集団でもある。

 空になった弁当箱を丁寧に風呂敷で包み、【旦那】はフェアルに返した。羽織る上衣の瑠璃色は、公安の証。そして茜色の鉢巻こそ、怨霊も裸足で逃げる(イビルメイクライ)公安特務第三課、通称【スマッシュ】の長、コードネーム【旦那】(マスター)のトレードマークに他ならない。

「それで、その偽公安ってのは何なんだ?」

 食事を終えた【旦那】の切れ長の目は、既に仕事に戻りつつある。

「そうそう。私もその場にたまたまいたんだけど、あれは恋する乙女の目だよ。うん、間違いない」

 しかしフェアルの翡翠の瞳は、仕事どころかときめきに目を輝かせていた。人の色恋に喜んで飛びつく、歳相応の無邪気さだ。

「……要領を、得ないんだが」

 紺青の髪をもしゃもしゃといじりながら、【旦那】の眉間に皺が寄る。

「なんか、『シオン』っていう捜査官に会いたいって、言ってたんだけどね」

 きんぴらごぼうを口に入れると、フェアルは舌鼓を打つ。弁当箱の中身は、半分残っていた。

「シオン……確か、厩舎にはいたよな?」

「もうっ、どこの世界に馬に恋する乙女がいるのよっ」

「俺の馬並みに恋する奴はたくさんいるぞ?」

 表情一つ変えずに、【旦那】は視線を落とす。フェアルの白い頬が一気に紅潮するのは同時だった。

「ひ、昼間っから、なんてこと言うのよ!」

 ぷいと顔を背けるフェアルに慌てる様子もなく、【旦那】は話を促す。

「で、いたのかそんな名前の奴は?」

「『シオン』ってだけじゃね。少年課に『シオーヌ』って子がいるみたいだけど、女の子らしいし」

 至極真面目な【旦那】の声に、フェアルの声はどこか渋々といった感だ。

「なんでも、その『シオン』っていうのが、物凄い美形なんだって」

 ぴくりと【旦那】の片眉が動くのを見て、フェアルは慌てて口元を押さえた。

「なんだと……? そいつは、俺よりイケメンなのか?」

 ダークブルーの瞳に剣呑な光が宿る。

「そ、それでね、その偽捜査官さんなんだけど、『サナ・ホワイト』っていう冒険者を探してるとかで」

 このままでは仕事を放り出してシオンを探しに行きかねない【旦那】に対して、フェアルは無理矢理話題を変えて気をそらそうとする。

「……サナ・ホワイト、だと?」

 大きな音を立てて、【旦那】が執務椅子から立ち上がった。瑠璃色の長衣が揺れる。

 予想を遥かに超えたリアクションに、フェアルは梅干を箸から落としそうになった。

「え? マスター、知ってるの?」

 答えず、【旦那】は書棚へ向かう。しばらく無言でファイル群を睨み付けていたが、やがて一冊のファイルを取り出した。

「半年前に、捜索願が出ている」

「……家出とか失踪、神隠しなんかたくさんあるのに、よく覚えてるね」

 梅干の種をゴミ箱に放り込み、フェアルは弁当箱を片付け始めた。

 【旦那】はファイルをパラパラとめくる。

「半年前の捜索願は、家族から。だが……これは極秘なんだが、その直後に魔導院からも捜索の依頼が来ている」

 フェアルの円らな瞳が、更に大きく見開かれた。

「……魔導院? なんか、一気にキナ臭くなったね。だから覚えてたんだ?」

「ああ。しかし、それだけじゃない」

 ファイルを持ったまま机に戻ると、【旦那】は机上の書類を一枚つまんで見せる。

「それ……昨日来たD管からの……」

「そうだ。D管洛陽支部のウェッズからだな。D管絡み、つまり怨霊絡みってことでウチに回ってきたものだ」

 公安は、基本的には怨霊に関わることはない。殺人や失踪など、怨霊によって引き起こされた事件と判断された場合、事件の捜査は軍、ないしは軍の組織に委ねられる。逆に、怨霊の仕業に見せかけた殺人や誘拐などは、軍から公安へ引き継がれる。しかし、問題なのは、どこでその判断をするかである。初動捜査の段階ではどちらともつかないことがほとんどであり、その場合、怨霊と戦う武力を有した特務課が捜査を主導するのである。

「読んでみろ」

 フェアルが書類を受け取る。書類には、洞窟と剣を象った紋章が印刷されていた。

「ルチウス・マーロー失踪……先日死体となって発見……えーと、マーローの詳しい身元を照合したく……」

 フェアルが読んでいる間に、【旦那】はファイルの別のページを開く。

「ルチウス・マーロー。こいつも、失踪直後に魔導院から捜索の依頼が来ている」

 弾かれるように、フェアルが顔を上げた。

「それってもしかして……」

「そうだ。二人とも、魔導院のエージェントだ」

 強い風が吹き込み、机上の書類が数枚、舞った。【旦那】は窓を閉め、舞った書類を拾って机に戻す。

「そもそも、サナ・ホワイトの件は既に軍に引き渡している。手がかりらしい手がかりもなく、犯罪者の影もなかったからな」

「この、ルチウスって人は?」

 風で乱れた金髪を整え、フェアルが書類を指差した。

「ダンジョンで一度全滅しているからな。人間が関わっているとは考えにくい。せっかくの魔導院からの依頼だったが、とっとと軍に回した」

 ひょいとフェアルから書類を摘み取ると、【旦那】は椅子に戻る。

「サナ・ホワイトも、最後の目撃情報が青緑エリアのダンジョン付近だ。確か、最近になって怨霊が巣食うようになった洞窟だったな」

「そっか。それじゃあ、サナさんの失踪は怨霊の仕業っぽいよね」

 フェアルは冒険者鞄から水筒を呼び出し、お茶を注いだ。特務課は、場合によっては怨霊との交戦もあり得るため、全員が冒険者登録を済ませている。通常、公安に所属する者は冒険者登録をすることができない。冒険者登録自体が軍への入隊に等しいからである。しかし特務課は特例として認められていた。特務課は公安所属でありながら冒険者として怨霊を討伐する権限を有し、にもかかわらず軍には所属していない特殊な組織なのである。

「しかし、だ」

 鋭いダークブルーの眼光は、完全に公安特務三課課長のものだった。昼休みは、既に終わっている。

「今になって、半年前に失踪した女を捜している奴がいる。公安の振りをしてまで、だ」

 湯気の立つ水筒のキャップを見つめながら、フェアルが金髪を揺らせて頷いた。

「私達の出番、かな……課長?」

「課長はやめろ」

 こんこん、と、執務室のドアをノックする音がした。

「入れ」

「失礼します」

 線の細い、茶髪のエルフ族の少年だ。

「課長、先日の強盗事件についての報告なんですが」

「俺を『課長』と呼ぶなと言ったはずだ、【挽歌】(ダージ)

 【旦那】のこめかみが動いた。【挽歌】と呼ばれた少年が、びくりと身体を震わせる。

「あ、え、いや、その」

「後でドラゴンバーストだ」

「ご、ごめんなさいいいい!」

 脱兎のごとく執務室から駆け出したその後に、報告書がふわりと舞った。それを捉まえて、フェアルが大きく溜息を吐く。

「フェアル、今、何人動ける?」

 言われてフェアルは天井を見上げながら、指を折った。

「えーと……私と、マスターだけかな」

「え、他に誰もいないのか?」

 ずれてもいない鉢巻を直しながら、【旦那】は小さく口を開いた。

【詩人】(リリクス)【妖花】(デンファレ)は羅天幇を追ってるし、【虚無】(ヴォイド)【六架】(シクス)は、西区の殺人事件。【鬼神】(オーガ)はまだ休職中だし、それから──」

「あー、わかった。もういい」

 肩をすくませる【旦那】に、フェアルは何かを思い出したように手をはたいた。

「あ、【螺旋】(ヘリクス)のおじさんなら、動けると思うよ?」

 その言葉に不穏なものを感じたのか、【旦那】はのけぞる。「鋼鉄の暴帝(アイアン・カリギュラ)」とまで呼ばれるこの男にしては珍しい。

「そ、そうか。なら留守は奴に任せよう」

「マスター、おじさんだけは苦手だもんねー?」

「う、うるさいな。フェアル、まずはD管のウェッズに折り返し連絡を入れろ。文面は、詳細希望、だ。それから」

 フェアルは傍にあった紙とペンを引っ掴み、何事かメモを取っている。

「それが済んだら、俺と一緒に塔婆の寺院だ。もう一度、サナ・ホワイトの足取りを追うぞ」

「魔導院へは? 偽公安の件はどうするの?」

 外出の支度を始めた【旦那】の大きな背中に、フェアルが声をかける。

「後回しだ。魔導院と関わり始めると手続きが色々面倒だし、偽公安にしても手がかりが少なすぎる。ルチウスを追うにしても既に故人だ。まずは、サナ・ホワイトの件、これが本当に怨霊の仕業だったのかを確かめたい。サナを追えば、偽公安にも辿り着くはずだ」

 元々裾が長めの公安の上衣だが、それより更に長いコートをはためかせながら羽織る。髪と同じ、紺青のコートの裾が翻った。

「とにかく、この件は臭い。何かある。俺は先に寺院へ向かっている。D管への連絡、頼んだぞ? あと──」

 顔を逸らし、言い淀んだ【旦那】の言葉をフェアルが継ぐ。

「わかってる。おじさんにはちゃんと留守をお願いしておくから」

 あどけない微笑には、ほんの少しの悪戯っぽさが見え隠れする。「鋼鉄の暴帝」が何かを苦手とすることが、彼女にとっては嬉しいことであるようだ。

「行ってくる」

「いってらっしゃーい」

 憮然とした顔にニヤつきながら、フェアルは扉が閉まるまでじっと見守っていた。

 まず目を引いたのは、巨大な肉の塊だった。

 元々は怨霊であったに違いないのだが、それがどんな怨霊だったかまでは判別できない。公安の捜査官として、これまでいくつもの惨殺死体を見てきた【旦那】だったが、それでも滲み出すような薄気味の悪さを禁じえない。一体、どのような技を以ってすれば、このような死骸が出来上がるのか。

 そもそも、この薄気味の悪さは肉塊だけが発しているものなのか。【旦那】は公安ではあったが、ダンジョン討伐任務の経験がないわけではない。日々凶悪化する犯罪者に対抗するために、自己鍛錬の目的で討伐任務に加わることも多々あった。だがこの薄気味の悪さは、どんなダンジョンでも感じたことはない。

 おかしなことに、なったものだ。

 サナ・ホワイトの足取りを追うために青緑エリア、塔婆の寺院に出向いたはずが、こうしてダンジョンに潜っている。

 【旦那】とフェアルが周辺の集落での聞き込みに一区切りつけて、寺院に戻った頃には日は完全に沈んでいた。そこに息せき切って現れた緑色の男は、服も身体もぼろぼろで、おまけに正気を失ったと思しき少年を抱えていたではないか。

 おそらく怨霊討伐に失敗して脱出してきたのだろうが、緊急事態に軍も公安もない。まして、公安の使命は市民の安全を護ること。自分の捜査はひとまず忘れて、フェアルに治療をさせる傍ら事情を聞くことになった。

 よく見れば、この緑色の男は音に聞こえし「深緑の重装魔」だ。この辺りのダンジョンで命からがら逃げ帰ってくるようなタマではない。そのことが、【旦那】の興味を引いたことは事実だった。

「『鋼鉄の暴帝』……まさか貴方がいてくれるとは、幸運です」

 直接面識のない相手だったが、緑の男は【旦那】を一目見るなり言ったものだった。

「ですが、それでもまだ、あの化物に勝てるかどうかはわからない……誰でもいい、他にもまだ強い人が必要です」

 一瞬見くびられたのかと【旦那】は身を硬くしたが、「深緑の重装魔」が噂通りの人物なら、人を嘲るような真似とは無縁のはずである。

 そこで【旦那】は、特務課の権限とコネクションを最大限利用し、更なる増援を手配した。緑の話から、事は一刻を争うと判断できる。最も早く来れる者の中で、最も強い者が必要だ。

 その結果。

「大変じゃな、これは」

 金髪を逆立てた男が、眼前に広がる光景を前に呟いた。一緒について来ていた無愛想な精霊師の女が、傷だらけで倒れる若い女の元へ駆け寄る。

「フェアル、手伝ってやれ」

「言われなくてもっ!」

 フェアルも濃紺のコートの女に駆け寄った。倒れて意識を失っているようだが、リザ結界は発動していない。だがその向こうに、リザ結界の光に包まれた年端も行かぬ少女が倒れている。フェアルとさほど変わらない、あどけなさの残る少女だが、まるで生気が感じられなかった。

「敵がいないのなら、俺達に手伝えることはないが……」

 金髪と目が合う。

「そうじゃな。おいら達は、ここに怨霊を近づけないように警戒するしかないな」

 今現在は周囲に敵がおらず、正体不明の肉塊だけだが、それでもここは怨霊の巣窟。治療に当たる精霊師ほど無防備な者もいない。

 もっとも、ここが規定通りのC級ダンジョンであれば。【旦那】は金髪逆毛商人を見やる。

「鋼鉄の暴帝」と「閃光の商人」が並び立たなければならないような場所ではない。

 深緑の重装魔があそこまで追い込まれたダンジョン。【旦那】の戦士としての高ぶりが肩透かしを食らったことは否めない。まして、今治療を受けているのは「魔法戦士」だ。やはり面識はなかったが、魔法より剣を得意とする精霊師のA級セイバーがいると聞いたことはあった。セイバー試験という事情がなければ、たかがC級ダンジョンごときに両方がいるような場所でないことも確かだろう。

「う……」

 魔法戦士が目を覚ました。

「せ、先生……?」

 先生と呼ばれた無表情の精霊師は、無言で唇に人差し指を当てる。治療の途中だから喋るなという意味だろう。

 閃光の商人が魔法戦士に駆け寄った。

「霊華、もう大丈夫じゃからな」

 大陸にその名を轟かせる大商人、「閃光の商人」こと王子べじ太のことは、【旦那】も聞き及んでいた。冒険者登録をした戦士であるにもかかわらず、戦いを好まず商売に精を出している男。祖龍の店で見かける時は、いつも緊張感のない緩い空気を纏っている。だが、今彼が魔法戦士に向ける笑顔は、【旦那】の知る緩い笑顔とはまるで違うもののようだった。

「せ……ん、せい……私より、エミーちゃんを……」

 その言葉に、他の四人は同時にリザ結界を向いた。

 リザ結界がある以上、そこに包まれる者が死亡していることはあり得ない。だが、【旦那】の目から見て、彼女は既に死体だった。

 フェアルが泣きそうな目で【旦那】を見た。彼女も感じているのだ。横たわる少女の死を。

 先生と呼ばれる全身オレンジ色の服の女が、フェアルを見つめる。視線に気付いたフェアルは、こくりと頷き返した。

「わかったわ……彼女は、私が見るから。貴方……フェアルさん? 霊華さんの治療を続けて?」

「は、はい」

 ゆっくりと、「先生」は少女へと歩を進める。フェアルが翡翠の瞳に溜めた涙は、今にも魔法戦士に零れ落ちそうだった。

 「先生」が魔法戦士から離れるのを追うように、【旦那】はフェアルに近付いた。

「フェアル……」

 【旦那】のダークブルーの瞳に、厳しさが宿る。泣くな、と。言外に語っていた。

「だ、だって……」

 フェアルが鼻を啜る。これでは、フェアルが泣いていることが魔法戦士に気取られる。それは、フェアルの涙の意味を彼女に悟らせるだろう。「エミー」と呼ばれた少女が、もう助からないだろうことを。

「嘘、だよね……?」

 蒼白な魔法戦士の顔は、もはや病的とも言えた。

「まだ、動いちゃダメです!」

 起き上がろうとする魔法戦士をフェアルが抑えようと肩を掴む。瞬間、翡翠の瞳がぎょっとしたように見開かれた。フェアルの抑止も構わず、魔法戦士は立ち上がろうとしている。フェアルと同じ精霊師であるにもかかわらず、重鎧を着て剣を振るう魔法戦士。その膂力は、並みの精霊の比ではない。

「おとなしくしていろ」

 【旦那】が、フェアルの小さな手の上から魔法戦士を押さえつけた。いかに強いと言っても、所詮は精霊師。本職の戦士たる【旦那】に勝るものではない。

「フェアル、スリーピングだ」

「う、うん」

 魔法戦士は尚ももがくが、【旦那】の鋼鉄のような腕は微動だにしない。

 やがてフェアルのスリーピングが効き、魔法戦士は寝息を立てる。小さく息を吐いて手を放した時、「先生」の短い叫びが【旦那】の耳を打った。

「王子!」

「どうしたんじゃ、先生?」

 べじ太が走り、リザ結界の傍で片膝を付いた。

「これを見て」

 【旦那】の目からも、べじ太の顔色が変わったのがわかった。

「フェアル、ここは任せる」

「うん」

 少女の首筋をはだけさせ、「先生」とべじ太が鬼気迫る顔を見合わせている。

「どうしたんだ? 首がどうかしたのか?」

 よく見れば、少女の首筋に小さな丸い二つの傷穴。彼らは、これのことを言っているのだろうか。

「なんてこと……なんてことなの……」

「まさか……あいつが……」

 「先生」の肩が、わなわなと震える。べじ太は表情をなくし、憐れなほど蒼白になっていた。

「おい、大丈夫か? この傷、そんなに大変なものなのか?」

 あまりの取り乱し方に、【旦那】は「先生」の肩に手をかけた。

 振り返る「先生」の瞳に、隠しようのない怯えと恐怖。底冷えするような寒気を感じ、【旦那】は思わず手を放す。

「先生……できるか?」

 べじ太が恐る恐る「先生」の顔を覗き込む。

 しばらく傷穴に目を落としていたが、やがてゆっくりと、しかし力強く「先生」は頷いた。

「わからない……でも、やるしかない。やるしかない、けど」

 すっくと立ち上がり、「先生」が【旦那】を真正面から見据えた。

「貴方、内功は?」

 唐突な質問に、【旦那】は首を傾げる。

「何の話をしているんだ? 俺には全く話が見えない」

「いいから答えて。大事なことなの。一刻を争うの。この子が、助かるかどうかの」

 褐色の肌と、琥珀色の瞳。少し冷たい印象もあるが、間近で見れば充分美女と言える。

 琥珀色の瞳は深く、真摯な光が瞳の奥から確かな煌きを放っていた。

「……降魔虐天流なら免許皆伝だ」

 むしろ胸を張って、【旦那】は答えた。

「じゃあ、血流制御もできるわね?」

「初歩の初歩だな」

 【旦那】にも、「先生」の考えが少しずつ見えてきた。見たところ、少女は血液を大量に失っている。そのことと首筋の傷がどう関わるかはともかく、「先生」は、この場で輸血をしようとしているのだ。だが、何の設備もないこんな場所で、輸血などできるわけがない。普通ならば。

 内功とは、経絡を巡る気と血流を制御することで人智を超えた力を発揮させる技である。内功を修める者にとって、血流制御は基本中の基本である。このため、内家剣法家は、自らの出血を瞬時に止めることもできる。また、その逆も。

 降魔虐天流もまた、現存する内家としては主流の流派の一つだ。その特長は、あくまで攻撃にある。他の流派では類を見ないほどの攻撃的な技の数々。攻撃は最大の防御が信条の流派でもある。この流派を極めた【旦那】のもう一つの異名は「虐天の破壊神」である。

「マスター、こっちはもう大丈夫だよー?」

 ただならぬ空気を感じたのか、ぱたぱたと駆け寄るフェアルの表情にも不安が見て取れる。

 答えず、【旦那】は「先生」に言い放つ。

「この俺の血を使うと言うんだな。良かろう。市民の命を助けるのも公安の務めだ」

 【旦那】はコートを脱ぎ、瑠璃色の上衣の袖をまくる。

 少し日に焼けた健康的な腕と横たわる少女を交互に見やり、フェアルも得心したように頷いた。

「マスターの血なら、ゾンビだって踊りだすよ!」

 「先生」はフェアルに微笑で答えてから、【旦那】を向き直った。

「ありがとう」

 深々と頭を垂れる様は淑やかで、上品ですらあった。この女は、今は一介の冒険者に身をやつしてはいるが、あるいは。考え始めたが、【旦那】は頭を振った。今はそれどころではない。人の命がかかっている。

「俺は公安特務三課【スマッシュ】の【旦那】だ。公安として、当然のことをするだけだ。礼には及ばん」

 強靭な生命力と意志の力が、ダークブルーの瞳から溢れるようだった。

 土砂降りだったはずの雨は、すっかり上がっていた。

 晴れることのない英雄の地の分厚い雲は、相変わらずこの地を闇にくるんでいる。周辺住民への聞き込みを始めた頃は、雨こそ降っていたがまだ明るかった。月明かりでもあればまだしも、こう暗くてはこれ以上の調査は難しいだろう。

 もっとも。

 【旦那】は両手に抱えた少女に目を落とす。耳を澄まさなければ聞こえないほどの寝息。血色はましになっている。それでも病的なまでに青白い。細かな怪我は全て治癒しているが、首筋の二つの傷穴だけは決して塞がることはなかった。

 深夜と言うにはまだ早いものの、それでもまともな勤め人ならとっくに帰宅して夕食を済ませ、風呂にでも入っている時間だ。いずれにしても、これ以上サナ・ホワイトに関する調査はできない。何より、今【旦那】の腕に抱えられる少女は一刻を争う状況だ。

 それにしても、この傷。

 もう一度、首筋の傷を見る。

 大した外傷もなく、血液だけが大量に抜かれていた。あまりにも不自然な失血。そして、どんな回復魔法や薬でも塞がることのない傷。奇妙すぎる。

 最初から、おかしなことだらけだった。

 最近になって怨霊の巣窟と化したあの洞窟は、D管からC級の指定を受けていたはずだ。S級セイバーが命からがら逃げ出してきたり、A級セイバーが重傷を負って倒れるようなダンジョンではない。セイバーは、単独でダンジョン内の怨霊を鏖殺(おうさつ)するだけの力を持っている。上級セイバーがC級ダンジョンでここまでの目に遭うなど、あるはずがない。事実、少女への輸血を行っている最中に襲い掛かってきた怨霊は、C級に相応しい敵だった。

 輸血……。

 【旦那】は、「先生」が強行した「輸血」を思い出して、身震いした。

 「先生」はまず、フェアルにオールリカバーを張らせた。本来は、一定範囲内を聖なる青い光で包み込み、その陣の中の味方の傷を持続的に回復しつつ敵の攻撃を軽減する魔法である。だが「先生」は詠唱を改変して、回復効果をレストアに置きえたのだ。フェアルは能力の高い精霊師だが、いかんせん若い。17歳の彼女が、裏技のような魔法ハッキングを知らなくても無理からぬ話ではある。だが、話を聞いただけでハッキングを成功させるのは、才能の成せる技だろう。レストアには消毒と解毒の効果がある。つまり、「先生」はオールリカバーをハッキングして簡易手術室にしたのだ。

 その後の「先生」の施術は、無茶を通り越して無謀だった。

 べじ太に「一番切れる刃物を」と要求して長剣を受け取り、それをメスの代わりにする。少女の首を切開して頚動脈を露出させる。更に、【旦那】二の腕から動脈を摘出して、あろうことか、少女の頚動脈に繋げたのである。

 これにはさすがの「鋼鉄の暴帝」も絶句した。

 年経たエルフ、特に精霊師は医術にも精通し、魔法治療だけでなく外科手術までこなすという。そうだったとしても、この「手術」に天才的な技量が求められることは素人目にも明らかだ。「先生」とは、医者という意味に違いない。

 無茶苦茶な施術だったが、輸血としてこれ以上ないほどわかりやすいのも確かだった。血管が繋がれば、あとは血流制御で血液を送り込むだけである。【旦那】は、ただ血液を送るだけでなく、ふんだんに気を練りこんだ。

 その間、閃光の商人は、現れた怨霊を蹴散らす。「先生」が手術を行っており、フェアルが「手術室」を維持している状況では回復支援は得られない。しかし、「閃光の商人」の戦いは噂に違わぬものだった。攻撃を食らうことがないのに、回復など必要あるだろうか。「鋼鉄の暴帝」の拳が疼いたのは、言うまでもない。

 輸血は、長時間に渡った。当初、鼻血を吹かせるくらいの気概で輸血に臨んだ【旦那】だったが、少女が失った血液の量は彼の予想を遥かに超えていた。「先生」が止めなければ、【旦那】も失血で昏倒していたかもしれない。

 それでも、少女が目を覚ますことはなかった。

 べじ太が魔法戦士を抱きながら、寺院の扉を蹴破った。

「テレポート! テレポートはどこじゃ!」

 静かな寺院内部に、べじ太の声がこだまする。中年の職員が一人、腰を浮かす。ロビーのソファには、緑色の男と若い戦士が座っていた。

 塔婆の寺院は、大陸一の怨霊研究家であるパリスの研究所であると同時に、青緑エリアのダンジョン管理局を兼ねている。基本的に、ダンジョン管理局は夜間の営業をしていない。夜間のダンジョン攻略は禁じられているからである。しかし、セイバー資格所持者を伴っていれば可能であるため、職員がいないわけではない。

「べじ太さん、それに、【旦那】さんも。霊華さんは? エミーさんは? 無事ですか?」

 緑色が立ち上がったが、若い戦士は虚ろな目で天井を見上げるだけだ。

「ちゃんと連れ帰ったぞー? そんなことより、テレポじゃ」

 べじ太が睨み付けると、職員が通路の奥を指差した。

 連れ帰った……か。

 【旦那】の胸に影が落ちる。緑の「無事か?」に対して、べじ太は「無事」とは答えなかった。確かに少女は呼吸をしている。心臓も動いている。しかし、目を覚まさない。怪我は完全に治っているし、体力も回復しているはずだ。まして、【旦那】特製の、気を練りこんだ血液を大量に注入してある。目を覚まさないはずがないのだ。

「待て、閃光の。病院なら俺が手配する。テレポートはそれからだ」

 言いながら、【旦那】は考える。D管には伝書がある。北区の公安直轄の病院なら、下手な私立病院より設備が整っている。特務三課課長の名前で、受け入れ準備をさせることができるだろう。

「おい、あんた」

 鋭い眼光の男二人に睨まれて、職員は背筋を伸ばす。

「は、はい」

「伝書を借りるぞ」

 自失状態の若い戦士の隣に、少女を横たえる。職員の持ってきた伝書に手を伸ばしかけたところに、「先生」の鋭利な声が割って入る。

「待ちなさい。病院では、ダメ」

「何を言っている? 病院でなくて、どこに連れて行こうというんだ?」

 半ば「先生」を無視して、【旦那】は伝書に宛先を記入し始めた。魔導院謹製の「伝書」は、離れた場所にある伝書に文字を送ることができる。

「そ、そうですよ。一刻を争う状態なんでしょ、その子? 早く病院へ連れて行かないと……」

 フェアルが翡翠の瞳に涙を一杯に溜めて抗議する。黙って見守る緑の重装魔の瞳も、疑問符を呈していた。

 当然と言えば当然の抗議。【旦那】は公安病院への伝言を書き終え、迷わず送信のサインを書き込もうとする。だが、その手を「先生」の褐色の手が静かに押さえた。

「……どういうつもりだ? 事と次第によっては、お前らを公務執行妨害でしょっ引くことになるが?」

 ダークブルーの瞳に、剣呑な光が宿る。「鋼鉄の暴帝」の一睨みは、一軍の将であっても腰を抜かすと言われている。

 だが「先生」の琥珀色の瞳はそれを真正面から受け止め、引くことがなかった。

「ダメ、なの。この傷……いいえ、この『呪い』は、病院では治せない」

 べじ太が歯を食いしばりながら俯く。この男が、病院の手配もしない内からどこかへテレポートしようとしていたのは、そういうことなのか。

 少女の首筋に残る二つの小さな丸い傷痕。それは、べじ太の胸で寝息を立てる魔法戦士にもある。【旦那】の知る限り、この奇怪な傷を治す方法に見当はつかない。だからこそ、急ぎ病院へ搬送する必要がある。だがもし、万全の設備を整えた公安病院でも治すことができないのだとしたら。

「お前ら……何を知っている? この傷は、何なんだ? あのダンジョンで、何があったって言うんだ?」

 緑と目が合う。何かを言いたげに口が小さく開いたが、言葉はなかった。「千変智慧」とまで呼ばれる男が、説明もできずに言い淀んでいる。それが既に異常事態とも言えた。

「お願い。急がなければならないの。納得が行かないのなら、後で説明するわ。取調室でも、構わないから」

 たとえ逮捕されても、病院ではない別の場所へ連れて行くと、この女は言っている。何が彼女にそこまでの決意をさせるのか。【旦那】は茜色の鉢巻に触れた。「先生」が、べじ太が、じっと【旦那】を見つめている。【旦那】を強引に振り切ってまで、どこかへ行こうというわけではないようだ。

「貴方のおかげで、この子はとりあえず急場を凌いだわ。でも、まだ終わりじゃないの。むしろ、これからなの」

 【旦那】は考える。呪術治療と称していかがわしい治療を施し、人を死に至らしめた事件が思い出された。その事件の再現にならないとは、言い切れないのだ。「先生」の言う「呪い」が何なのか、【旦那】にはわからない。しかし、少女が衰弱しきっており、命の危険にあることはわかる。

「なら、パリスだ。ちょうど、ここはパリスの研究所じゃないか。奴に見せれば何とかなるんじゃないのか?」

 【旦那】は奥の階段を見る。二階に、大陸一の怨霊研究家パリスの研究室があるはずだ。

 【旦那】の視線を追いながら、しかし「先生」は首を横に振った。

「それも、ダメだわ。だってこの『呪い』は、怨霊のものではないから」

「怨霊じゃない? なら、人間か? それなら尚更、俺達公安の管轄だ」

 力を込めて、【旦那】は拳を自らの眼前に突き出した。それでも「先生」は首を縦には振らない。

「人間じゃない。怨霊でも、人間でもない者の仕業」

 さすがに【旦那】も鼻白んだ。そもそも、怨霊でもなく人間でもないとは、一体何者だと言うのか。

「助けてもらった以上、貴方にも、フェアルさんにも全て説明する。でも今は、私の言う通りにして。お願い。お願いします」

 「先生」は、恭しく頭を垂れた。見れば、べじ太も同じ格好だ。気品さえ漂う礼だった。王子べじ太の「王子」は、コードネームでもニックネームでもなく、本当に一国の王子だったという噂は、本当なのかもしれない。【旦那】はフェアルを見る。潤んだ瞳は困惑に満ちている。だが、深い信頼があった。【旦那】という男に対する、信頼。彼女は、【旦那】がどんな判断を下しても信じてついていくだろう。

 ずれてもいない鉢巻を直し、【旦那】は大きく息を吐いて頷いた。

「……いいだろう。だが、少しでも俺が危険と判断したら、すぐに病院に連れて行くからな?」

 「先生」の微笑みを目にしたことが、自慢できるほど貴重なことだと、【旦那】が知るはずもなかった。

「それで、どこへ連れて行くんだ?」

 【旦那】は当然の質問をする。怪しげな呪術治療などではないことを祈りつつ。

「この『呪い』に対処できる人を、私は一人しか知らない」

 琥珀色の瞳は、どこまでも深く澄んでいた。

「……樹下のマッドサイエンティスト、夏宮弓美」

 魔法戦士の瞼と【旦那】のこめかみが、ぴくりと動いた。

 ふざけた表札の並ぶ安普請のドアが開くと、気味の悪い色をしたスーツの妖獣が目を見開いた。何かに恐れるような、しかし努めて平静を装おうとするような表情。公安を目にした時の、一般市民の平均的態度であると言える。

「こ、公安さまが、どういった御用向きでございましょうか?」

 【旦那】にはすぐにわかる。このパンダ面の青年は、根っからの善人だ。善良で小心な、市民である。

「公安特務三課の【旦那】だ」

 瑠璃色の制服だけでも公安とわかるが、【旦那】は敢えて手帳を見せた。聞き込みを円滑にするためには、公安という権威を強調した方が良い場合が多い。

「夏宮弓美に用がある」

「しょ、少々お待ちを……」

 パンダが血相を変えて駆け出す。しかし、扉を閉めることは忘れない。【旦那】の前に、再びふざけた表札が並んだ。

 フェアルが眉を八の字にして、頬を膨らませる。

「マスター、別に逮捕しに来たんじゃないんだから、もうちょっとにこやかに!」

「癖でな」

 ぼそりと答える【旦那】の顔に、悪びれた様子は全くない。この男はきっと、喫茶店のウェイトレスにも同じ顔を向けるだろう。

 扉の奥から、さっきのパンダ青年の喚く声が聞こえる。どたんばたんと、慌しく駆け回る音。やがて静かになり、パンダが再び顔を出した。

「も、申し訳ございません。弓美はただいま外出中でして」

 【旦那】にはすぐにわかる。このパンダ面の青年は、嘘が吐けない。

「本当だろうな?」

 暴帝の眼力は、パンダの腰を砕くには充分すぎた。ぺたんと、パンダは玄関で尻餅をついてしまう。

「あ、あわわ。ほ、本当でございますよ」

 しかし、【旦那】の目を直視できない。

「もし嘘だったら、ドラゴンバーストだぞ?」

「ひ、ひいいいいいっ」

「ま、マスターマスター」

 フェアルが【旦那】の袖を引っ張る。

「何だ?」

「だーから、逮捕しに来たわけじゃないでしょ?」

「すまん。つい癖でな」

 微塵も変わらない表情は、微塵も「すまん」とは思っていないことを雄弁に語る。

「おーい」

 建物の裏手から、べじ太の声が上がった。

「【旦那】ー、こっちじゃ」

 口から泡でも吹きかねないパンダを尻目に、【旦那】とフェアルは声の方へ向かう。

 長く艶やかな黒髪に、痩せぎすなほどのスリムな肢体。頭に生える小さな羽は、エルフ族の証。レザーのパンツは、その脚線美を余すことなく溢れさせている。黒茶でレースの付いたシャツは、この女が着た場合に限り、可愛らしさよりは歌劇の男装の麗人を思わせる。しかし、闇に乗じて窓から靴を持って這い出そうとする姿は、秀麗とは程遠い。

「弓美ー、お前、なんか後ろめたいことでも……ありそうじゃな。はっはっはー」

 靴を履き、居住まいを正して、弓美は背筋を伸ばした。女にしては、背が高い。身長の高さが、モデルのような細身の肢体を更に美しく引き立てているようだ。

「べじ太君か。すると、私を逮捕しに来たわけではないのか」

 切れ長の目が、【旦那】の鋭い目を射抜いてくる。その眼光に、【旦那】は奇妙な共感を覚えた。見たところ、戦闘力は大したことはない。そういう意味では、【旦那】とは似ても似つかないだろう。だが【旦那】にはわかった。この女が、どちらかと言えば「こちら側」の人間であることを。

「ウチのパンダ君を、随分いじめてくれたそうだな。傍で見られなかったのが、残念でならん。くくっ」

 弓美の薄い唇が釣り上がる。

 同じ「こちら側」の人間だからこそ、きっとこの女とは一生相容れないだろうとも、【旦那】は思う。

「樹下のマッドサイエンティスト、貴様にはいくつかの容疑がかかっているが、今日のところは不問にしてやる」

「それはありがたい。もっとも、どこにも証拠はないから、そもそも逮捕状も出ないだろうが」

 弓美の薄ら笑いは消えない。薄暗がりの中で、悪魔の微笑が揺らめく。吹雪のような妖艶さだが、【旦那】の心はぴくりとも動かない。忌々しげな舌打ちも、隠そうとはしなかった。

「マスター、もしかしてこの人……」

 フェアルが小さく囁いてくる。

「捜査課のブラックリストの上位にいる危険人物だ。無免許医、非合法ドラッグの調合、販売、無許可での劇物の取り扱い、その他諸々。容疑を上げればキリがないが、いずれも証拠不十分だ」

「だ、大丈夫なの……?」

 フェアルが両手で【旦那】の上衣の裾を掴む。

「残念ながら、医者として、研究者としては超一流だ」

 暴帝の一睨みが弓美を襲う。弓美はむしろ、楽しそうに視線を受け止めた。

「だが、いずれ必ず尻尾を掴んで、ブタ箱にぶち込んでやる」

「……楽しみにしているよ、『暴帝』。ところで」

 くるりとべじ太を向くと、黒く長いストレートヘアがさらりと舞った。

「べじ太君、公安まで連れて、私に何の用かな?」

 問われてべじ太は、何かを悼むように目を細めた。

「【旦那】たちが来たのはお前の名前を出したからじゃが……そうじゃ、弓美……『あいつ』が現れた」

 弓美の切れ長で細い目が、倍くらいに開かれる。

「なん、だと……?」

 狂科学者の狼狽もはともかく、【旦那】は首を傾げる。この女に会いに来たのは、少女の治療のため。だが、べじ太の言う「あいつ」とは、何のことなのか。

「それで、患者は?」

「二人。一人は、霊華じゃ。既に、お前のラボの傍まで連れて行ってる。すぐ来てくれ」

「霊華っ? 霊華もやられたのかっ?」

 「霊華」という名前が出た時の弓美のうろたえ方は、痛々しい程だった。いくつものテロ、魔導院と軍の権力闘争にも関与が疑われているマッドサイエンティストとは思えない。夏宮弓美に夫や娘はいないはずだが、まるで娘を心配する母のようにも【旦那】には見えた。

「何をグズグズしている! すぐにラボに行くぞ!」

 空気が震える。弓美の闘気が収束し、白光を放つ鳥の姿をとる。エルフ族の戦士だけが使える強化術、ファルコンパワーである。対象の身軽さを飛躍的に向上させる。単純な駆け足さえもスピードアップする術である。

 術が終わるや否や、弓美は走り出した。べじ太もウィンドウォークで後を追う。

 【旦那】は冷静に、騎乗ペットを冒険者鞄から呼び出し、フェアルを抱いて乗り込んだ。弓美もべじ太も、騎乗ペットを持っているはず。よほど慌てているのか。いずれも、【旦那】の持つ彼らのイメージにそぐわない。フェアルも同様なのか、僅かに苦笑を浮かべている。

 それほど、霊華──あの魔法戦士のことが大事なのか。「魔法戦士」と呼ばれる特異な精霊師がおり、A級セイバーである、ということくらいしか【旦那】は知らない。実際に目にしても、「深緑の重装魔」や「閃光の商人」ほどの戦闘力も感じなかった。【旦那】の胸に、フェアルを押しのけようとする魔法戦士の白金の髪が甦る。

 ……今、考えることではないな。

 騎乗ペットが駆け出すと、膝に乗せたフェアルがしっかりと抱きつくのが感じられた。

 樹下のマッドサイエンティストのラボは、樹下の都にある。

 樹下の都。

 大陸に住む主要五種族の中で、人族に次ぐ勢力を誇るエルフ族の最重要拠点であり、同時に彼らの故郷でもある。今や大陸中に散らばるエルフ族だが、彼らは子を産む時、必ず樹下に戻って来る。それは、先祖の霊の加護を受けるためである。エルフ族には、寿命がない。事実上の不老不死である。しかしそれは、決して滅びない肉体を持っているという意味ではない。病気もすれば怪我もするし、それが元で死亡するのはごく普通だ。他の種族と違うのは、老衰がないこと。病気や怪我がなければ、彼らは百年でも千年でも一万年でも生き続けるだろう。そんな彼らが「先祖の霊」を重んじることには理由がある。そもそも死なないのであれば「先祖の霊」という存在自体がナンセンスだ。そして、怪我や病気などの外的要因で死亡したエルフは、「先祖の霊」にはなれないと言われる。

 年経たエルフは、自らの意志で自然に帰ることを選択する。森へ帰り、肉体を捨てて自然と一体となる。こうして自然と一体になったエルフ達を「先祖の霊」あるいは「精霊」と呼ぶ。エルフ族の魔法使いである「精霊師」とは、先祖の霊の力を借りて魔法を行使する者という意味である。

 樹下の都を支え、そして樹下の都そのものとも言える大木がある。「命の大樹」とも呼ばれるこの木の頂上は、高山トレーニングなどでも知られる洛陽と標高が変わらない。根元は街を一つ包み込むほどであり、即ち、この大樹そのものが「樹下の都」なのである。広がる根が地上に出てきたように街を取り囲み、街の中で空を見上げればそこには必ず大木が天井を成している。エルフ族は生まれつき空を飛ぶことのできる翼を持っているため、高い木の枝や洞にも居住区がある。

 弓美のラボも、そんな太い枝の一つの上にあった。エルフ族は命の大樹を傷つけることを忌避するため、幹に穴を掘って部屋にしたりはしない。あくまで、増築である。

 ラボ内は【旦那】の想像通り、胡散臭いことこの上なかった。机の上は雑然としており、物の置き場もない。怪しげな本や、気分が悪くなるような色の液体を満たしたビーカー、フラスコに試験管。書棚には、やはり胡散臭い呪術書や魔道書。そうかと思えば、至極真っ当な野草の図鑑や薬学の専門書が入っていたりもする。しかし、学術書にしてもまるで一貫性がない。物理学から化学、数学に天文学。哲学や心理学もあれば、最新の魔道工学も網羅されている。知らなければ、ここの主の専門が医学と薬学だとはわかるまい。

 おまけに、妙な臭いがする。病院のそれに似ているが、どこか得体が知れない。長時間いたら病気になるのではないかと不安にさせるには充分だ。

 瀕死の少女が妙な呪術治療の犠牲になるんじゃないかとという危惧がなければ、早々に立ち去りたい場所だと【旦那】は思う。気が付けば、フェアルは既に白いマスクを着用していた。目で訴えかけたが、フェアルは無言で首を横に振る。どうやら、一つしか持っていないらしい。

「では、患者を預かろう。べじ太君、エミー君だったか。彼女を連れてついてきてくれ。霊華は私が運ぶ」

 弓美はべじ太から奪うように霊華を引き取る。軽々と抱き上げるのは、さすがのエルフ族戦士、弓使いである。

「え、おいら?」

 べじ太はちらりと若い戦士を見やる。栗色の髪の戦士の魂は、まだ抜けたままだった。道中、彼を担いでいた緑が話していたことを思い出す。彼の名前はスタール・B・ジュウイクト。瀕死の少女、エミリール・D・ジュウイクトの兄であり、唯一の肉親だという。

 本来ならば、エミーを抱きかかえるのは唯一の肉親であるスタールの役目であるはずだ。だが彼の心は、どこか遠くへ行ったまま帰ってこない。

 【旦那】は苛立ちを覚える。唯一の肉親の窮地だというのに、この少年はいつまで腑抜けているつもりなのか。

 重装魔は、こうも言っていた。

「貴方の苛立ちはわかります。ですが、あんな光景を見せられては……。私には、彼を責めることはできません」

 大切な者を傷つけられたのならば、烈火のごとく怒るべきだと【旦那】は思う。【旦那】にとっての大切な者、フェアルを初めとする【スマッシュ】のメンバー達。彼らが無残に理不尽に殺されるようなことがあったら、この「虐天の破壊神」は、敵を粉々に粉砕するまで戦うだろう。少なくとも、【旦那】には自分があのように腑抜けることは想像できない。

「じゃあ、私が連れて行くわ」

 「先生」が立ち上がり、【旦那】の傍のストレッチャーに横たわるエミーに歩み寄る。

「あ、いや、おいらが行くよ。ただちょっと、あっちの部屋に入るのはイヤだなって思っただけじゃから」

 べじ太の視線が、弓美の背後の扉に注がれる。研究室自体は安普請の木造なのに、この扉だけはなぜか鉄製だ。ドアノブや取っ手のようなものも見当たらない。まるで、何か恐ろしいものでも封じ込んでいるかのようではないか。

 あわよくば、非合法の劇薬などを押収しようと考えていた【旦那】だったが、あの向こうに行きたくない気持ちは理解できた。

「べじ太君、連れて来てくれるだけでいい。治療は私一人でできるから、終わるまでここで待っていてくれ」

 いかなるからくりか。両手に霊華を抱えた状態で、取っ手もない扉がひとりでに開く。重く不気味な軋みは、地獄の叫びか。その奥は、暗闇。何が潜んでいるかわからない。いや、何が潜んでいてもおかしくはないだろう。

 べじ太がエミーを抱えて後に続く。その姿が闇に消えると、鉄扉はまたしてもひとりでに閉じた。

 魔法戦士に対する弓美の態度を考えれば、危険な「治療」を施すようにも思えない。呪術治療で人死にが出た事件の二の舞にはならないだろうと、【旦那】はひとまず判断する。

「さて、と」

 【旦那】が長い脚を組むと、安普請の椅子が悲鳴を上げた。

「ダンジョンでのこと、あのエミリールという少女の傷のこと。説明してもらおうか」

 【旦那】の眼光が、オレンジ色の「先生」と、緑色の重装魔を交互に射抜いた。

 机のビーカーと試験管が、かたかたと音を立てた。人が生活できる程度には作られているとは言え、場所が場所である。もっと強い風が吹いたら、地震さながらに揺れるだろう。

 俯いていた重装魔が顔を上げた。

 が、あの不気味な軋みが邪魔をする。べじ太が戻ったのだ。スタールを除く全員の視線が、べじ太に集中する。どうも、顔色が悪い。

「……王子?」

 「先生」が心配そうに首を傾げる。

「う……気持ち悪い……もう二度と、おいらは行かないぞ……」

 べじ太の肩をぽんと叩き、「先生」はべじ太を自分の隣の椅子に座らせた。

 微かに苦笑してから、緑の重装魔が口を開く。

「心記石が、あったんですけどね……」

 全ては、心記石に記録されているはずだった。【旦那】達が救援に向かった後、ECHOは心記石の存在を思い出した。夜勤の職員に渡して再生させたが、結果はなし。何も記録されていなかったのである。

 更に、ECHOは職員に問いただした。あのダンジョンは、本当にC級ダンジョンなのか。調査隊が入った時に、何か異常があったという記録が残っていないか。

 しかし、職員は目を白黒させるばかり。ECHOが体験してきた異常事態など、あのダンジョンで起こるはずがないという態度だった。心記石もなく、したがって証拠は何もない。

 職員は、冗談めかして言った。

「もしかして、伝説の『始まりの洞窟』にでも迷い込んじゃったんじゃないですか? なーんて……あれ?」

 ECHOには、それが冗談には聞こえなかった。

「……夢物語だな」

 【旦那】は一笑に付した。異形の怪物。心を蝕む悪夢。時空間が歪み、出口もなく、常に構造が変化し続ける迷宮。信じろと言う方が無理である。

 気を悪くした風もなく、ECHOは話を続ける。

「ええ。その通りですよ、まったく。私自身にも信じられないことばかりです。しかし『暴帝』、私も少しは名の知れた冒険者であり、セイバーであるという自負があります。この私が、ただのC級ダンジョンごときで貴方に助けを求めるとお思いですか?」

 緑の瞳がきらりと光る。【旦那】の聞き及ぶ「深緑の重装魔」の評判を考えれば、この男は伊達や酔狂でこんな話をするような男ではない。だからと言って、「はいそうですか」と鵜呑みにできる話でもない。

「だが、新種の怨霊というのは、あり得る話だろう。その新種が、集団催眠のような攻撃を行っていたとしたら、どうだ?」

「全ては夢だったと? 全員が同じ時に同じ夢を見たと?」

「証拠がない以上、そういう可能性ないわけではない。が……」

 俯きかけた緑の瞳を、【旦那】のダークブルーの瞳が釘付けた。

「黒神真夜と言ったか。その話には信憑性があるように思えるな。冒険者鞄を持っていたようだし、調べれば見つけることができるかもしれん」

 フェアルも、自分の鞄を見つめている。

 冒険者鞄を持っているということは、必ず冒険者登録をしているということだ。

「もっとも、その女の父親が『夜光』というのは、夢を通り越して完全に御伽噺の世界だが」

 緑はうなだれた。彼自身も、やはり信じられないのだ。

 しかし。【旦那】は考える。もし、重装魔の言うことが、全て事実だとしたら。いや、そんなことがあるはずがない。あってはならない。夢であった方が、救いなのだ。

「御伽噺なんかじゃ……ないわ」

 それまで黙って緑の話を聞いていた「先生」が、顔を上げた。べじ太は両手を組んで、足元を凝視している。

「どういうことだ? 夜光が、実在するとでも?」

 【旦那】の口元に笑みが浮かぶ。嘲笑しているつもりはない。だが、夜光とは、それほど現実離れした存在なのだ。

「八年前になるわ。私と王子は……夜光と戦ったことがある」

 ビーカーとフラスコが大きな音を立てた。窓がびりびりと震えている。

 緑の重装魔が、弾かれたように顔を上げる。大きく見開かれた瞳の中で、大森林が嵐にざわめくようだった。

「……おいおい」

 【旦那】は笑い飛ばそうとしたが、上手くいかなかった。眉間に皺を寄せ、真っ直ぐに【旦那】を見つめている。職業柄、【旦那】は人の嘘を見抜くことに長けている。「先生」は、嘘を言っていない。公安として培ってきた【旦那】の勘が、断言していた。

「あの日、私と王子は弓美の依頼で、夜光に狙われているという一人の女性の護衛をしたの」

 ぽつりぽつりと、「先生」は語る。べじ太は、じっと足元だけを見つめていた。

 八年前。剣仙城下。

 弓美は、剣仙一の英雄、雨月アキラにある仕事を依頼した。凶悪な怨霊が、さる富豪の娘を狙っている。護衛を頼みたい。それが依頼の内容だった。だが雨月アキラはそれを断る。彼が代わりにと紹介したのが、旧知の仲でもある王子べじ太だ。

 弓美によれば、夜光の狙いは娘の血液。その娘は類稀な魔力を潜在的に持っていたらしい。夜光は、彼女の血液と魔力が目的なのだという。

 吸血鬼。弓美は夜光をそう呼んだ。そして、吸血鬼に血を吸われ命を落とした者もまた、生き血を啜る悪鬼となって甦るのだと。

 べじ太が前衛を張り、「先生」は後方支援。作戦指揮と罠、薬物による攻撃は弓美が担当した。夜光の力は圧倒的であり、まともにぶつかれば勝ち目はない。それをどうにか退けることができたのは、弓美の策略によるところが大きかった。

「……おいおい」

 笑い飛ばそうとしたが、やはり【旦那】は失敗した。

 「先生」の話す夜光の力は、あまりにも世界が違いすぎる。そんな妖魔が実在したら、この世界の支配構造が根本から覆されてもおかしくはないだろう。

「……もっとも、私が考えた策略ではないんだがね」

 鉄扉の軋む音。白衣に身を包み、眼鏡をかけた弓美が闇の中から現れた。

「信じられないのは無理もない。人でも怨霊でもない妖魔、吸血鬼、なんてな」

 こつりこつりと、弓美のピンヒールが木の床を踏みしめる。

「だから、あまり人には話さない方がいいと釘を刺しておいたのに……ルミ?」

 ぞっとするような美貌に咎める色はない。切れ長の目の先には、オレンジ色の服と褐色肌のエルフ、「先生」。

「この人がいなければ、彼女はとっくの昔に『黄泉の眠り』に入って、今頃新たな吸血鬼として彷徨っていたわ……ユミ」

 受け止める美貌もまた、どこか冷たい無表情だった。

「恩人、というわけか。公安に借りを作ることになるとは、私も堕ちたものだ」

 斜に構えた流し目に、むしろ【旦那】は苛立ちを覚える。

「何なら今ここに魔導捜査課を呼んで、違法ドラッグを押収させてやろうか? ついでに、お前もぶち込んでやる」

 脚を組み両手を組んで、座っているにもかかわらず立っている弓美を見下ろすような目は、まさしく「鋼鉄の暴帝」のそれだった。

「ふ。失礼した。これでも感謝しているんだよ。この通りだ」

 口元の笑みは消えず、しかし恭しく頭を下げる。だが、「先生」やべじ太のそれと比べ、どこか人を食ったような慇懃無礼さがある。やはりこの女とは、一生相容れることはないだろうと【旦那】は思う。

 ともすれば一触即発になる空気を、緑色の声が和らげた。

「それで、弓美さん。治療は……?」

「霊華は安静にしていれば問題ない。傷も消えるだろう」

 それだけ言うと、弓美は口を閉ざした。

 誰もが、弓美の次の言葉を待っていた。だが、弓美は口を開こうとはしない。

「あ、あの……」

 重い空気に耐えられなくなったフェアルが、おずおずと手を挙げる。

「エミリールさん、は……?」

 弓美の黒瞳が微かに揺らめいた。フェアルに一瞥をくれると、白衣の裾を翻し、弓美は鉄扉を開ける。

 翡翠の瞳に、涙が溜まっていく。見つめてくるフェアルに何と答えるべきか悩み、【旦那】は無言でフェアルの頭を撫でた。

 怨霊の泣き声のような鉄扉の軋み。弓美が、エミーを両手に抱え、姿を現す。青ざめた肌。閉じられたままの目。それでも【旦那】の目は、呼吸で微かに動く胸を見出した。

「手は尽くした」

 フェアルの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。フェアルにとっては、見ず知らずの他人。なのに、その死に涙を流している。自分と同年代の少女であることが、親近感を持たせたのだろうか。こんな出会い方でなければ、意気投合する未来があったかもしれない。【旦那】の胸に、ちくりと痛みが走った。

 彼女の兄は天井を見つめたまま、口を半開きにしている。瞳は、硝子玉のようだ。

 一体、いつまで腑抜けているというのか。スタールに対する【旦那】の苛立ちは、頂点に達しようとしていた。エミリールは、まだ死んでいない。だが、弓美の言葉から、これ以上どうすることもできないことがわかる。おそらくエミリールは、二度と目を覚まさない。呼吸が止まるかどうかに関わらず。

「彼女の兄君がいると聞いているが」

 弓美の切れ長の瞳が、その場の全員を一人一人品定めをするように見つめていく。

 その視線は、呆けるスタールで止まった。

「……話ができる状態では、ないようだな」

 弓美が踵を返すと、鉄扉が悲痛な叫びを上げた。

「待て」

 弓美を呼び止めながら、【旦那】は立ち上がる。そのまま大股でスタールに近付くと、胸倉を掴み上げた。

 間近で見るスタールの鳶色の瞳は、まるで死んだ魚の目だ。半開きの口からは、うわ言のように妹の名前が零れ落ちている。

 左手で胸倉を押さえたまま、【旦那】は拳を振り上げる。鈍い音が、ラボ内にこだました。

 外では強い風が吹いているのだろう。窓枠が震えている。強風が命の大樹の隙間を駆け抜ける音だろうか。甲高い音が、嘆き悲しむようにいつまでも響いていた。

 地震のようにラボ全体が揺れたのは、強風のためだけではなかっただろう。

 言語学、文学、史学、精神分析学に考古学。いくつもの分厚い学術書が本棚から零れ、尻餅をつくスタールに降り注ぐ。【旦那】以外の全員が、目を剥いた。

「立て、腑抜け野郎」

 眉一つ動かぬ【旦那】の無表情。その瞳には、永久凍土のような厳しさがあった。

 スタールは動かない。力なく両腕を垂らし、足を放る様は糸の切れた人形のようだ。

 ぴんと空気が張り詰める。

「立てと言ったんだ、腰抜け」

 動く気配のないスタールに一歩踏み出した時、苦虫を噛み潰したような緑が割って入った。

「落ち着いてください、『暴帝』」

 だが深緑の瞳は、ダークブルーの瞳を直視してはいない。

「どけ」

 一層低くなったその声は、犯罪者でなくとも震え上がるだろう。緑が息を呑み、しかし彼はスタールを庇うように両手を広げた。

「……何の真似だ?」

「殴るなら、私を殴ってください」

 思いつめた緑の顔に、いつもの柔らかさはない。

「彼がこんな風になったのも、エミーさんがこんなことになってしまったのも、全てはこの私の責任です」

 何かに挑むようで、反面、何かに追い込まれているような深い瞳は、今度こそダークブルーの瞳を正面から捉えていた。

 この男もまた、上級セイバーだ。【旦那】は思い返す。「セイバー」とは、「救う者」の意。セイバーたる自分が付いていながら。重装魔はそう言いたいのだろう。

 しかし。

「……どけ、深緑の」

「どきません」

 深緑とダークブルーとの間に、火花が散るようだ。【旦那】の背後ではフェアルが立ち上がり、マスクを外していた。何かを言わんと口を開きかけたが、言葉はなかった。べじ太が無言で立ち上がる。「先生」の手に法器が現れた。弓美はただ、じっと成り行きを見守っている。そして、その手に抱かれる栗色の髪の少女は。

 【旦那】は小さく息を吐き、視線を緑から外した。内功の修行により常人を遥かに超える可聴域を持った【旦那】の耳は、微かな少女の息遣いを捉える。彼女の気の流れは細く、今にも消え入りそうだ。その肌に触れれば、まだ温もりがあるに違いない。

 やはり、今しかないのだ。【旦那】はもう一度、正面から緑の瞳を見据える。

「自責の念で血迷ったか、『千変智慧』? そんなに殴られたいなら、後で気の済むまでやってやろう。だがな……」

 こうしている間にも、エミリールの呼吸も心音も気も、弱くなっているのだ。

 【旦那】は大きく息を吸い込んだ。

「この娘の最期を、実の兄が看取らずに誰が看取ると言うんだ!」

 びりびりと、部屋全体が痺れるようだった。

 緑の顔が大きく歪む。フェアルがしゃくり上げるのと、べじ太が壁を殴打するのは同時。弓美は静かに瞳を閉じ、「先生」は半眼を床に落とした。

 誰もが避けていた言葉だった。ほんの一時とは言え、ダンジョンで苦楽を共に乗り越えたECHO。以前からスタールを知っているべじ太。無茶を押してエミリールを救うために応急手当に力を尽くした「先生」。最後に治療を施した弓美。誰もが彼女の生還を望み、手を尽くした。だがそれ故に、現実から目を逸らそうとしていたことも否定はできない。【旦那】の言葉は、この場の誰よりも厳しく、そして真摯だった。公安の捜査官として見てきたいくつもの事件が【旦那】の脳裏を駆け抜けていく。惨い強盗殺人もあった。理不尽な放火もあった。陰惨な人間関係の果ての悲劇もあった。何度、悲しみに沈む遺族に捜査という名で鞭を打ってきただろう。別れを告げる暇さえ与えられずに大切な者を奪われた人間の悲しみは、何度見ても慣れることなどできはしない。別れを告げることもできずに命を奪われる者の気持ちはどうだっただろう。突然の死を受け入れられる人間などいない。だがもし、自らの死を眼前に押し付けられたのなら、何を言いたいだろうか。残される者達に、何を伝えるだろうか。その暇を与えられる人間は幸福に違いない。

 緑の両膝がかくんと地に付き、両掌が続いた。

「この腑抜けを思いやる気持ちはわからんでもない。では、エミリールの気持ちはどうなるんだ?」

 【旦那】の厳しさが、一人一人を順番に射抜いていく。そんな【旦那】を正視できる者はいなかった。

 うなだれるスタールから、輝くものがぽつりぽつりと落ちる。

「立て、腰抜け野郎。お前にとってエミリールが真に大切な者なら、立て。今すぐに、だ」

 スタールの右手が動き、顔を拭った。

「う……ううっ……エミー、エミー……」

「声が小さいぞ、腰抜け」

 少しの甘えも許さぬ低い声は、岩をも砕く白波だ。

「エミー……エミー」

 スタールの肩が動く。掌が床に張り付く。ゆっくりと尻が床から離れ、代わりに足が床を踏みしめる。

「声が小さい。もう一度だ、臆病者」

「俺は……」

 掌が床から離れ、ふらつきながらスタールは立ち上がった。

「臆病なんかじゃ、ない……」

「目を背けて、逃げてばかりのチキン野郎をチキン野郎と言って何が悪い?」

「違う……違う!」

 顔を上げた鳶色の瞳に、小さな光が宿る。間髪を入れずに【旦那】の鉄拳が唸った。

「つうっ!」

 のけぞるスタールの口の端から、血の筋が流れる。振り抜いた拍子に【旦那】は足をもつれさせたが、転倒する前にテーブルに手を付き踏ん張った。

「マスター!」

 フェアルが駆け寄り、【旦那】の身体を支える。そこへ「先生」も加わり、二人がかりで【旦那】を椅子に座らせた。

「マスターだって、たくさん血をなくしてるんだよ? あんまり、無理しないで」

 べじ太が目を丸くした。

「そ、そうなの先生? とてもそんな風には見えなかったけど」

「私も驚いたわ。常人ならとっくに昏倒しててもおかしくないはずなのに、全くそんな素振りも見せないから……」

 眉を八の字にするフェアルと「先生」とは裏腹に、【旦那】の表情は少しも変わらない。

「俺を誰だと思っている? 放せ。俺は大丈夫だ」

 椅子に押さえつけようとする二人を軽く押しのける様は、とても大量の血液を失った人間のものとは思えない。

「そんなことより……目が覚めたようだな、腰抜け。現実から目を逸らすな。逃げるな。前を見ろ。そうすれば、お前は──」

 【旦那】は一度言葉を切り、深呼吸をした。

「……もっと強くなれる」

 極寒の厳しさに、僅かな笑みがこぼれたことを、気付いた人間はいただろうか。スタールの瞳に、急速に生が戻ろうとしている。大きく見開いた鳶色の瞳一杯に、椅子でふんぞり返る【旦那】が映し出された。

「あんたは……」

「ふん」

 【旦那】がそっぽを向くついでに顎で指し示した先に、微かな寝息を立てる少女がいた。

 まるで、全てを見計らったかのように、少女の口が僅かに開いたのはその時だった。

「おにい……ちゃん……?」

 少女の瞳が薄く開き、兄と同じ鳶色をした瞳が覗く。

「エミー、エミー!」

 足がもつれるのも、机や椅子の角に腰をぶつけてビーカーが落ちるのも構わずスタールは駆け寄った。奪うように弓美からエミーを剥ぎ取った。触れただけで傷つく硝子細工を扱うように、優しくエミーを抱き、腰を落とした。

「エミー、エミー、エミー!」

 無限の水を湛えた泉のごとく、スタールの目から涙ばかりが溢れ零れる。ぽたりぽたりと雫となって、それはエミーの頬を濡らした。

「おにいちゃん……泣いてるの?」

「うう……エミー」

 すっかり青白くなったエミーの細い指が、スタールの涙を拭う。

「おにいちゃん、たいこうはんてんのひとが、ね」

 少女は何を言っているのか。【旦那】には知る由もなかったが、スタールは何度も何度も頷き返している。

「んーん、ほかのひともみんな、ね、おにいちゃんは笑わないって、しんぱいしてるの」

 少女の瞳は半眼のまま。そして、その瞳は一体何を見ているのか。ここではないどこかを見ているように、【旦那】には感じられた。

「でもね、おにいちゃん。エミーは、ね、知ってるの」

 少女の指が何度もスタールの涙を拭うが、逆に濡れていく一方だった。その指の動きはなぜか拙く、幼い子供のようでもあった。

「おにいちゃんはね、エミーが笑うと、笑ってくれるの」

 少女が白い歯を見せる。半眼の瞳を目一杯細める。これが、瀕死の重病人の笑顔だと言うのか。どんなに深い悲しみに沈んでいようとも、彼女の笑顔の前では微笑まずにはいられなくなるのではないか。フェアルが、【旦那】の袖を強く握り締め、翡翠の瞳を潤ませながらそれでも微笑んでいる。【旦那】自身もまた、自らの口元が緩むのを感じた。

 スタールの顔は、頬から鼻から、真っ赤になっていた。涙と鼻水が、口の中にまで流れ込んでいる。それでもスタールは、くしゃくしゃになりながら微笑んでいた。

「ね……? エミーのいったとおりでしょ? だから、ね……おにいちゃん」

 弓美は白衣のポケットに両手を突っ込んだまま背を向けている。べじ太の眉は憐れなほど下がり、歯を食いしばりながら今にも泣き出しそうな、それでいて笑い出しそうな顔だった。「先生」は、そんなべじ太の肩に、そっと手を回している。重装魔は、直立不動で拳を握り締め、静かに瞳を閉じて俯いていた。

「エミー、ね。もっとたくさんたくさん、笑うから。ずっとずっと、笑ってるから。だから、ね……おにいちゃん」

 少女の手が、両手でスタールの頬を包み込んだ。

「うう……うううっ……ああ……う……」

 スタールが口を開き、何かを言おうとしているが言葉になっていない。右手が、少女の白い手を力一杯握り締めた。

「おにいちゃんも、たくさん、たくさん……笑ってね?」

 言葉にならない呻き声ばかりがスタールの口から漏れ、大袈裟なほど首を縦に振った。何度も、何度も、何度も。

「おにいちゃん、だいすき……だいすき」

 少女に頬ずりをするように、スタールは抱きしめた。少女は同じ言葉を繰り返している。か細い囁きと、スタールの嗚咽だけがラボ内に漂う。

 だが少女の声だけが、少しずつ小さくなっていた。何度も何度も、同じ言葉を繰り返しながら。

 彼女は、最期まで、兄を愛し続けた。

「ただいま……」

 寝ているかもしれない妻を起こさないようにと、ECHOは静かに玄関の扉を開けた。

 居間に行くと、テーブルの上には食事が用意されており、妻が寝巻きのまま椅子で舟を漕いでいた。

 起こさぬようにそっと妻を両手に抱きかかえる。寝室へ行き、ベッドに横たえ布団をかけた時に、妻の黒瞳が自分を見つめていたことにようやく気付く。

「おかえりなさい、エコ」

 全てを包み込むような微笑を見た瞬間、ECHOの中で堪えていたものが一気に噴き出した。

「るみこ……俺は、俺は……」

 柳眉の端が微かに下がったが、るみこは身を起こし、ECHOを優しく抱きしめた。

 肩を上下させしゃくりあげるECHOの萌葱色の髪を、るみこはいつまでも撫で続けた。

 祖龍西区は眠らない街だったが、王子べじ太の店は既に閉まっていた。

 緊急事態と聞いて、仕事を放り出して店のツートップが出払ってしまったわけだが、問題なく閉店作業は行われているだろう。

 勝手口に回ると、明りが漏れている。べじ太とルミは顔を見合わせる。ほとんど仕事は終わってしまったに違いないが、何かしら手伝うことがあるかもしれない。べじ太は両手で頬をぴしゃりと張る。ルミは、少し悲しそうに微笑んだ。

「はっはっはー。今帰ったぞー?」

「あー、店長ー! 遅かったじゃないですか。心配したんですからね!」

 従業員の美佳だ。元々学生のアルバイトだったが、しっかりした性格と真面目な接客を買って、卒業と同時にそのまま就職させた。黒髪をやや派手目な金髪に染めているが、見た目ほど軽い娘ではない。

「先生っ! あたい、先生がいなくてもきちんとできたヨ!」

 褐色の肌はルミに良く似ているが、似ているのはそこだけ。紫がかった長い髪をポニーテールに結った、筋肉質の娘は風華。ルミがどこからか連れて来た妖精の少女だ。ルミにとてもよく懐いているが、あまりべじ太の言うことを聞かないのが玉に瑕ではある。

「すまんな、二人とも。突然飛び出したりして」

「しょうがないですよ。人の命がかかってたんでしょ?」

「大丈夫だヨ。店長いなくても、ルミ先生がいてくれれば問題ないヨ」

「風華はいつも一言多いんじゃよな」

 誰からともなく笑い合う。ひとしきり笑ってから、べじ太は切り出した。

「二人とも、今日はもう上がってもいいぞー?」

「言われなくても、あたい、先生と一緒に帰るヨ」

 風華がルミの腕を取る。ルミの口元に、困ったような苦笑が浮かぶ。

 二人を尻目に、美佳がべじ太に向き直った。

「閉店作業は全部済んでますから。それじゃあ、私は帰りますね。お疲れ様です」

 ぺこりと一礼して、美佳が出て行く。ルミの手を引いて風華が追おうとしたが、ルミが一言二言囁くと、頬を膨らませて風華も出て行った。

 やかましい女子店員が去ると、事務所は静まり返った。

「先生……」

 べじ太が俯く。

「おいら、何もできんかった」

 椅子に腰掛け、床に目を落とす。

「もしもおいらが内功を修めていれば、もっと輸血できたし、エミーも助かったんじゃ……?」

 こつこつと靴音が響き、続いて、ばしんという叩く音。

「痛いんじゃけど……」

 べじ太が頭を押さえる。

 自分を抱くように手を組んで、「先生」はべじ太を見下ろす。

「らしくないわね、べじ太君」

「じゃけど」

 口答えしようとした「生徒」を、「先生」はもう一度ひっぱたく。

「全てを得ることはできないわ。誰にも、よ。確かに貴方は輸血には協力できなかったけど、貴方は貴方のできることを全力でやったわ」

「先生」は微笑みかけたが、べじ太はそれでも何か割り切れない様子だった。

「前を向きなさい。貴方はいつだって、そうやって乗り越えてきた」

「……そうじゃな。でも、少しだけ……悼む時間が欲しいんじゃ」

 ルミは黙って頷く。琥珀色の瞳には、暖炉のような暖かさがあった。

 公安特務三課は、既に明りが落ちていた。

「すっかり遅くなっちゃったね、マスター。みんなもう帰っちゃったよ」

 魔力灯のスイッチを入れると、誰もいない室内が照らし出された。

「ま、仕方あるまい。下手に残業などさせると、経理の連中もうるさいしな」

 課長執務室の扉を開ける。座り慣れた椅子に腰掛けると、失血やそれに伴う疲労がどっと押し寄せた。大きく息を吐く。昼にこの部屋を飛び出してから今までのことがぐるぐると【旦那】の頭の中で駆け巡った。

 不可解なダンジョン。夜光。吸血鬼。信じられない話ばかりだった。信じろと言う方が無理なのだ。だがもし、全てが真実だとしたら。

 何を振り払うように頭を振る。終わったことだ。だが、黒神真夜という女には殺人の容疑がある。サナ・ホワイトの件は、怨霊との関連がはっきりしない。捜査課に回して、黒神真夜を追うのが特務課としてあるべき仕事になるだろう。

「マスター……」

 フェアルにも、疲労の色が濃い。涙の跡も痛々しい。フェアルもまだ若いとは言え、この特務三課のメンバーだ。人の死に直面することは多々ある。それでも、自分と同年代の少女が息を引き取る瞬間は、17歳のフェアルには重かったのかもしれない。

 放っておくと、また思い出して泣き出すのではないか。【旦那】は少しだけ心配になる。

「うん、ごめんね。大丈夫。私だって【スマッシュ】の一員なんだから」

 表情に出ていたのかもしれない。【旦那】は内心臍を噛む。

「でも、マスター……かっこ良かったよ。やっぱりマスターは、優しいね。きっとエミリールさんも、マスターに感謝してると思う……」

 少しだけ照れ臭そうにフェアルが囁く。

 【旦那】は首を傾げた。優しい言葉をかけた覚えはない。

「あ、そ、そうだ。昼に問い合わせてたD管の件なんだけど……」

 一綴りの書類を、フェアルが手渡す。出払っている間に、洛陽のウェッズから返事が来ていたらしい。

「ん? そうか。思ったより早かったな。どれ……」

 綴りの一枚目に、メモが挟まっていた。

 ──D管洛陽からの返事だ、マスター。 【螺旋】

 顔をしかめて、メモ書きを剥がし、丸めてゴミ箱に放り込む。やはり、【螺旋】だけは苦手らしい。

 無表情に書類をめくっていた【旦那】だったが、ぴたりと手が止まる。目が大きく見開かれた。

「フェアル、お前も読んでみろ」

 フェアルに書類を渡すなり、【旦那】は書棚を漁り始めた。

「えーと……ルチウスさんが失踪した時の詳しい状況だね……なになに」

 【旦那】と同じペースで書類をめくる。だが、やはり【旦那】と同じ箇所でその手は止まった。

「え。嘘。サナ・ホワイト? どうして?」

「フェアル……」

 過去の捜査資料を漁りながら、【旦那】は呟く。

「偶然だと思うか?」

 フェアルは両手を組んで首を傾げた。

「うーん。二度までなら偶然。三回以上続いたら必然って言うよね」

「俺もそう思う」

 D管ウェッズからのルチウスに関する問い合わせ。同時期に現れた偽公安と、その偽公安が探しているサナ・ホワイト。いずれも魔導院のエージェントである事実。そして、この二人が同じダンジョンにいたこと。サナ・ホワイトがルチウス失踪に関与している可能性。更に、サナ・ホワイトがルチウス失踪の半年前に失踪していること。

 これらが全て偶然であると考える方が、不自然である。

「どうする、マスター?」

 【旦那】は捜査ファイルをいくつか抱え、執務机に戻る。

「……サナ・ホワイトを追うぞ。黒神真夜に関しては、【螺旋】に調べさせろ」

「うん……」

 フェアルは右手で左手を包み、ささやかな胸に押し当てた。

「どうした?」

「……まさか、サナ・ホワイトの件と今日の件……黒神真夜まで繋がってるってこと、ないよね?」

 ここまで偶然が続くと、そう思いたくなるのも仕方がないかもしれない。だが、【旦那】は現実主義だった。

「憶測でモノを言うもんじゃない。それこそ、まさか、だ」

「そう、だよね」

 揺るぎないダークブルーの瞳は、フェアルを安心させたのか。口元だけを微笑ませ、フェアルは頷いた。

 明日からまた忙しくなる。

 机に乗せたファイルの山を見ながら、【旦那】は仰々しく腕を組んだ。

 小さなライヴハウスに、どよめきが起こる。

 ステージには、三人の海龍族と一人の人族。人族は、セッションミュージシャンのようだ。

「俺、かっけぇ」

 どよめきは歓声に。ギタリストのピックが弦を滑ると、歓声に地鳴りのような音が加わった。聴衆が足を踏み鳴らし、ライヴが始まる。

 今、出入口の扉が開き、一人の少女が足を踏み入れる。足元は覚束ない。まるで酔っているかのようだ。少女は入り口脇のカウンターでチケットを渡し、ワンドリンクを受け取る。

「間に合わなかったなあ……」

 艶やかな黒髪を一つに結っているが、ポニーテールと言うには位置が高すぎた。革のジャケットは所々破け、焼け焦げまである。濃紺のミニスカートも編み上げのブーツも同様で、スカートのシルバーアクセは煤だらけだった。

 ステージに立つギタリストを見つめる紅の瞳は少しだけ悲しげで。しかし、血のような口唇には微かに笑みが浮かぶ。

 それでも、熱いビートに少女の身体は自然と動くのだった。

 決して大きなラボではなかったが、寝室にベッドは二つあった。

 一つはこのラボの主のもので、もう一つは、かつて住み込みで弓美の世話を焼いていたメイドのベッドだった。

 本来弓美が使うべきベッドには、栗色の髪の少年。そして、もう一つのベッドは、何年か振りに本来の主を眠らせていた。

 治療の済んだ霊華をベッドに運び、疲労のピークに達していた上に情緒不安定だったスタールに一服盛って眠らせ、そして現在に至る。

 霊華の寝顔は、まるで昔のままだった。かつて二人で暮らしていた頃を思い出し、弓美の口元に笑みが浮かぶ。公安にもマークされている危険人物とは思えない。

 治療は済んでいたが、霊華の首筋には痛々しく傷が残っている。この傷が完全に癒えるまでには、まだしばらくの時を要するだろう。その傷を見ていれば、嫌でも弓美はもう一人を思い出す。

 彼女は今、鉄扉の向こうだ。

 弓美は名残惜しそうに霊華の白金の髪を撫で、雪の頬に軽く口付けをする。

「エミー、ちゃん……」

 安らかなはずの寝顔に、皺が寄った。聞けば、霊華はエミーを助けるためにたった独りで戦い続けたというではないか。霊華は目を覚ましたら、何と言うだろう。エミーを救うことのできなかった弓美を責めるだろうか。

 弓美は苦笑しながら、首を横に振る。

 霊華は弓美を責めないだろう。責めるとすれば、エミーを護り切ることのできなかった自分自身だ。弓美は大きな溜息を吐くと、寝室を後にした。

 鉄扉の中には、闇が広がっていた。

 他の部屋は炎を灯りとして使っているが、この部屋だけは魔力灯を整備している。もっとも、エルフ族は生まれつき暗闇を見通す視力を持っているため、滅多なことでは使われない。

 弓美はティーポットを傾け、ビーカーに液体を注いだ。湯気の立つそれを口元に運び傾ける。

 手術台の上には、一人の少女が横たわっている。人間として目覚めることは二度とないであろう少女だ。

 弓美はもう一度、大きな溜息を吐く。

 彼女を人として死なせてやるためには、一つの「処置」が必要になる。彼女を護るために命を賭けた霊華のことを思うと、気は重くなるばかりだった。

 ふ。この「樹下のマッドサイエンティスト」ともあろう者が。

 弓美の薄い口唇が、自嘲に歪んだ。

 暗躍する吸血鬼たちとの戦いの中で、何度となく繰り返してきた「処置」に、今更躊躇いなどあるはずがない。

 だが、それでも。

 鉄扉の外で、物音がした。

「……来たか」

 鉄扉が開き、すぐに閉じる。灯り一つない真の闇の中でも、弓美の目は来訪者を明確に捉えていた。

 来訪者の口が開き、弓美に何事かを問うた。

 弓美は微かに視線を逸らす。

「処置、か。もちろん、最終的にはする。だが、霊華のことを思うとな。ああ、わかっている。私も霊華には甘い。自覚はあるよ。それに、気になることもある。処置はしばらく先送りにして、様子を見たいんだ。ふ。本当だよ。信用ないな。……何? いや、それは本人に聞いてみないとわからん。エミー君と霊華の血を吸ったのは夜光ではないようだが。どうした? 夜光と霊華を会わせたくないみたいだな。ふ、構わんさ。余計な詮索はしないよ。それにしても……八年か。ようやく見つけたな。今度こそ、決着を付ける気なんだろう? ……ああ、そっちは任せる。しかし、真都理はどうする? 霊華がこうなった以上、隠してはおけまい。ああ、やむをえんだろう。無茶をしなければいいんだがな。もちろん、見張るさ。それも私の役目だからな。……もう帰るのか? 特製の茶くらい出すぞ? ……ふ、そうか。味には自信があったんだがな」

 鉄扉が開き、来訪者は出て行った。

 アルコールランプに火を点すと、冷たい美貌がぼんやりと浮かぶ。ビーカーを火にかけ、弓美は揺らめく琥珀色の液体をじっと見つけ続けた。

 そして、長い長い夜が明ける。

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