第三話 護る剣

5 迷宮からの脱出

 澱のような空気も、簡易結界を張ったおかげで少しは浄化されたように、スタールは感じた。

 水滴がスタールの首筋に滴り、身体を震わせて天井を見上げる。洞窟の入口はあんなに狭かったのに、内部のなんと広大なことか。天井を見上げたつもりだったが、そこには深い闇しかない。じっと見つめていると、いつかそこに引きずり込まれるのではないか。見上げているはずなのに、深い奈落を覗き込んでいるかのような錯覚に囚われる。首筋を濡らした水滴は、本当にただの水滴だったのか。ここは悪魔の腹の中で、水滴は悪魔の涎か胃液なのではないか。おぞましい空想にもう一度身震いして、スタールは踵を返す。この袋小路の奥には、仲間達が待っている。簡易結界を張り終えたこと、近辺に怨霊の姿、気配がないことを報告しなければならない。

 歩き出す前にスタールはもう一度、袋小路出入口に貼った札を見やった。左右の幅は、大人が優に五人は横に並ぶ。四点結界ならばギリギリだが、二点結界なら問題はない。スタールには理解できない紋様から、仄白い光が漏れている。この輝きが失われた時、内部の人間の存在を怨霊に認識させなくする結界の効果は切れる。持続時間は、きっかり十二時間。夜営には充分な時間である。

 ここが、まともな環境なら、だが。

 念のため、夜営場所から視認できる位置にも二点結界を張っておこうとスタールは思う。異形の怨霊、心を蝕む悪夢、そして、いるはずのない怨霊大将。ここは、何もかもが狂っている。

 ──誰も、生きては出られない

 血のように紅い瞳、唇。無邪気さと残忍さと、あどけなさと妖艶さを併せ持つ美貌の少女、真夜。彼女の恐るべき言葉の意味を、スタール達は噛み締めることになった。ECHOがいなければ、眠っている間に全員殺されていただろう。エミーがいなければ、スタールは悪夢に食われていただろう。霊華がいなければ、怨霊大将に皆殺しにされていただろう。どこかで何か一つ違っていただけで、パーティはいともたやすく全滅していたことは疑いようがない。ECHOがリザ結界に包まれているとは言え、ここまで一人も死なずに来られたのは奇跡かもしれない。だが、まだ何も終わってはいないのだ。この狂ったダンジョンから脱出するまでは。

 この洞窟は一体何なのか。あの真夜という少女は何者なのか。

 頬を撫でる甘い吐息の感触が蘇る。届きそうで届かない、陽炎のような真夜を思い出すと、頭の中に薄い靄がかかるようだった。

 払い除けるように頭を振る。

 そうだ。まだ、何も終わっちゃいないんだ。

 スタールは歩き出す。

 まだ何も終わってはいない。しかし、これからの戦いのためにも、今はしばしの休息が必要だ。霊華はもう、目を覚ましただろうか。スタールの胸に、白金の髪を揺らせて小首を傾げ、照れ臭そうに笑う魔法戦士の顔が浮かんだ。

「ううっ……」

「霊華さん、まだ動いちゃダメだよ」

 スタールが戻ると、身を起こそうとする霊華をエミーが制止している所だった。

「そうだぞ霊華。お前今、ボロボロなんだからな」

 鞄から結界札を取り出し、スタールは洞窟の壁面に貼り付けた。

「あ、お帰り、兄貴。何、そこにも貼るの?」

「念のため、な」

 スタールとエミーの持っている札はこれで最後だったが、ケチって後で使える状況が訪れるとは限らない。それに、何事につけても準備のいいECHOのことだ。きっと結界札も余分に持って来ているだろう。

「外だったら頼もしい結界札だけど、この中だと何枚貼っても不安だよね」

 右手で左手を包むように胸元で組んで、エミーが囁く。スタールは反対側の壁面にも札を貼り終えると、エミー達の傍に歩み寄った。しゃがみこむエミーと、リザ結界に包まれたECHO。その隣では、霊華が身をよじっている。スタールは霊華から目を離さず、エミーの栗色の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「な、なんだよ、もう!」

 髪を整えながら不満を漏らすエミーには答えず、スタールは赤い小瓶を鞄から取り出した。霊華の傍で栓を開け、赤い霧を吹きかける。

「あー兄貴、まだ無理だと思うよ?」

 赤い霧が霊華の身体に吸収されるように消える。

「私もこれでもかってくらいアクアヒール使ったけど、そんなにすぐには治らないよ」

 両手をひらひらするエミーに、スタールは頷いて見せる。

「スタール、君。私、は……?」

 霊華が半身を起こそうとするが、苦悶に顔が歪むだけだった。

「動くな。全身の骨はバラバラ、筋繊維も断裂しまくっているんだ」

 霊華の目が大きく見開かれるのを見て、スタールは確信する。やはり、霊華は憶えていないのだ。自分の剣が、怨霊軍の重鎮三匹を同時に細切れにしたなどということは。

 エルフ族の身体は、五族中最弱と言われる。生まれつき翼を持ち、空を自由に飛行することができるため、その骨は軽く弱い。体重そのものが軽いため、それを支える骨も筋肉も最小限度でしかない。いかに霊華がスタールを超える膂力を身に付けたと言っても、持って生まれた身体の脆弱さだけはどうにもならないのだ。

 にも関わらず、霊華が怨霊大将に見せたあの剣技。エルフの肉体があのような絶技に耐えようはずがない。「霊華でない霊華」が言っていた「長時間戦えない」とはそういうことだったのだと、霊華の身体の損傷を見てスタールも理解した。

「……夢じゃ、なかったんだ」

 霊華が、天の虚空を見つめながら零した。

「何っ!」

「いたたっ!」

 スタールは我を忘れて霊華の肩を掴んでしまい、エミーがそんな兄を容赦なくひっぱたく。

「兄貴!」

「す、すまん……だが、霊華」

 恐る恐る霊華から手を放す。

「憶えているのなら……『あれ』は一体誰なんだ?」

 視線だけをスタールに向け、だがすぐにまた闇の天へと吸い込まれる。

「……わからない。私であって、私じゃないヒト……でももしかして、エトワールさんの言っていたのは。あの夢占いが」

 言葉の続きを耳を大きくして待つスタールとエミーだったが、それきり霊華は黙ってしまう。

「なんだ、その……エトワールとか夢占いってのは」

 エミーが顎にちょこんと人差し指を当てている。

「なーんか、聞いたことある……あっ」

 大仰に指を鳴らした。

「何か知ってるのか?」

「知る人ぞ知るスーパー占い師、夢占いのエトワール!」

「……はあ? 占い師?」

 スタールの呆れ顔は、占いを馬鹿馬鹿しいと思っていることを隠しもしない。

「エミーちゃんも、知ってるんだ?」

 蒼い瞳が細まり、口元が少しだけ笑んだ。応えるように、エミーの満面にも笑みが浮かぶ。スタールは、自分も似たような表情になっているのだろうと、薄ぼんやりと思う。

「へへっ。私、結構占いとか好きなんだよねー」

 得意になってささやかな胸を反らすエミーに、スタールは水を差す。

「……イワシ占いだとか、ろくでもないものに時々ハマってるよな」

「トイレットペーパー占いも面白かったよ?」

「知らねーよ」

 霊華の鈴を転がすような笑い声がスタールの耳をくすぐる。胸に暖かいものが広がり、スタールは自分が心底ホッとしていることに気が付く。そういう意味では、このままエミーを泳がせてやりたかったが、スタールは「霊華でない霊華」のことが気になっていた。

「それで、そのエトワールとかいう占い師が、何だって言うんだ?」

 霊華に「モノポ占い」の話をし始めたエミーを無理矢理遮る。頬を膨らませるでもなく、むしろエミーは好奇心に瞳を爛々と輝かせた。

「ここに来る前に、寄ってみたんだ」

 ぽつりぽつりと、霊華は話し始める。

 夢占いのこと。エトワールのこと。そして、その夢。知らない土地、知らない敵。「アーク」と「自分」が呼んでいた、烏を思わせる美しい黒い髪と瞳で、夜の闇に玲瓏と輝く月ような肌の男。自分のことを戦士だと言っていた「自分」。

「なんか、あまじゅっぱい」

 両手で口を隠すようにしているが、エミーがニヤついていることは明らかだ。

「あ、あくまで夢なんだからね?」

 ぷいとエミーから顔を背けたが、背けた先でスタールと目が合う。頬をほんのり朱に染めて、霊華は再び天の虚空を見上げた。

「しかし、ただの夢ではないんだろう? なんだかよくわからんが、その戦士が、さっき俺達の見た『霊華』だったってことだろうな」

 スタールの考えにエミーもこくこくと頷いていたが、やがて人差し指を顎にちょこんと当てる。

「でもー、何者なんだろうね? その夢も気になるけどさー」

「うん、気になるよね。だから私、またエトワールさんの所へ行ってみるつもり」

 虚空を見つめながら、誰へとでもなく霊華は呟く。彼女が一体何者なのか。確かにそれも気になる話だったが、スタールにはもっと気になることがあった。

「ただの戦士じゃないよな。あの強さ、尋常じゃない」

 くるりと、霊華がスタールを向く。瞳の海は、静かに凪いでいた。

「スタール君が何を考えてるか、なんとなくわかるよ」

 スタールは既視感に襲われる。確か以前にも、こんな目でこんなことを言われたことがあった。

「回天流、でしょ?」

「……当たりだ」

 こうも容易く図星を突かれては、スタールも頷くしかない。

「何ソレ? 回転? お寿司食べたいなあ」

 なぜ「回転」が「寿司」に結びつくのか謎だったが、エミーの自由すぎる発想をいちいち追求していたら身が持たない。スタールは誰よりも良く知っている。

「回天流ってのは、現存する最古の内家剣法流派の一つだ……いや、だった」

 スタールは話しながらうなだれる。頭を上げられないのは、スタールの知る最後の回天流の使い手に思いを馳せたからに他ならない。

「えーと。『だった』ってのも気になるんだけど、そもそも『内家剣法』がわかりません先生」

「教えたこと、なかったか?」

「初耳です」

「内家剣法っていうのはね、エミーちゃん」

 犬どころか鼠だって食べそうもない言い争いになりそうなところを、霊華が割って入る。

 内家剣法。

 呼吸や体内の血流を制御し、経路を巡る「気」を練り上げて戦う剣法である。内功とも呼ばれる。

 これに対し、膂力や瞬発力を鍛え、力と技を駆使するのが外家。外功とも呼ばれる。

 人間の肉体には、物理的に限界がある。それは、そのまま外家の限界とも言える。しかし、内家に物理的限界は存在しない。その深奥を極めれば、羽毛のように軽く空を翔ることも、堅い大岩を素手で粉砕することもできる。だけでなく、更に人智を超えた力を振るうことも可能だ。

 しかし、内功を極めることは至難である。高レベルの冒険者の中でも、内功を修めている者は僅かだ。

「なんかー、すごいんだねー」

 人差し指を顎に当てたまま、エミーはぽかんとだらしなく口を開けている。わかっているのかいないのか。いや、多分わかっていないだろう。スタールが以前同じ話をした時も、同じ反応だったはずだ。

「源流である『回天流』は一つだけで、とっくの昔に滅んでいるんだが、派生した流派がたくさんあってな」

 得意気に喋りだしたスタールだったが、エミーの眉が八の字になり、その間には皺が刻まれた。

「あー、始まっちゃったよ、兄貴の武芸講談」

 エミーは頭を抱える。

「東方回天流だとか、無限回天流だとかな。全盛期には『回天流に非ずは内家にあらず』とまで言われたらしい」

 ミニスカートの裾をいじりながら、エミーが溜息を吐いた。霊華は苦笑している。

 スタールの講釈は続く。

 一時は隆盛を極めた回天流だったが、どう言い繕っても内功を修めるのが至難であることに変わりはない。やがて、真の内家剣法とまではいかないものの、内功を応用し、それに近い力を発揮する外功の技も編み出され、次第に内家自体が衰退していく。現在、多くの戦士が使っている技は、外家剣法家が内功を応用して編み出した技である。これらの技は、内功の厳しい修行を積まずとも扱うことができる。これをいち早く取り入れたのが、祖龍軍である。流派という垣根を取り払い、全て軍式剣法、あるいは格闘術として採用したのだ。冒険者登録した者は、軍属である冒険者ギルドを通して、軍の訓練を受けることができる。そのため、現在の冒険者は特定の流派を持たない者も多い。

「そうやって、回天流は廃れた。内家自体は今でも主要な流派は残っているが、かつて隆盛を極めた回天流はたった一つだけになっちまったんだな。それが──」

「清龍回天流の雨月アキラでしょ? いい加減、耳タコだよ。そのアキラさんも、五年前に謎の死を遂げて、回天流は途絶えましたー。……ああ、回天流って、このことだったんだー」

 エミーの大欠伸に、スタールの顔が苦虫を噛み潰す。霊華が目を閉じている。寝るほど退屈な話だったのかと落ち込みかけたが、どうも寝ているわけではないようだ。霊華の目尻で、きらりと何かが光っていた。

「れ、霊華? ど、どど、どうしたんだ?」

 無論、泣かせるような話をした覚えはない。スタールの両手がもがくようにに宙を掻く。

「兄貴の話があんまりにもつまらないものだから、霊華さん泣いちゃったじゃん! どうすんのよっ!」

 エミーが掴みかかって来るが、スタールはそれどころではない。

「ごめん、そういうんじゃなくて」

 ずず、と鼻を啜る音。鼻の頭も赤くなっている。

「ちょっと、やっぱり、思い出しちゃったから……」

「もしかして、霊華さんって、雨月アキラの知り合い……とか?」

 恐る恐る、エミーが訊く。スタールも気になったことだが、突っ込んで訊くのは躊躇われたのだ。エミーは、思ったことをすぐに口に出すところがある。羨ましいような、恐ろしいような、複雑な気分にスタールは陥る。

「雨月アキラは、私の……お兄ちゃん、なの」

 エミーが固まった。スタールも同様に固まった。

 篝火が、ぱちぱちと爆ぜる音がする。ECHOの表情は柔らかい。きっと、良い夢を見ているのだろう。

「え……」

 エミーとスタールが顔を見合わせ、すぐに霊華を見る。瞳の滄海に漣が立つようだ。二人はもう一度顔を見合わせ、また霊華を向いた。その動きの一つ一つは全て同時で、二人の血の繋がり雄弁に語るようだ。

「えええええええっ!」

 叫ぶのも同時だった。声は袋小路の外まで届いたに違いないが、簡易結界のため、怨霊がそれに気付くことはない。

 その驚愕ぶりに、逆に霊華の方が目を白黒させている。

「え、えーと。私の名前、雨月霊華でしょ? あんまり多い苗字じゃないし、とっくに知ってるものかと」

「いやいやいや、初耳だよそれも!」

「すまん、霊華。今始めてお前の姓を知ったぞ」

「そ、そうだっけ? 言ってなかった? ごめんごめん」

 照れ笑いを浮かべる霊華の目からは、もう涙は流れていない。

「雨月、霊華。お前が、あの、雨月アキラの妹……」

 世界は広いと言う。しかし、その反面、時に極めて狭くなるのも世界というものの特徴なのかもしれなかった。

 どこか遠くから、スタールの耳に阿鼻叫喚の音が聞こえてくる。それは、遠い過去からの音。叫び声、断末魔、何かが砕ける音、肉が引き千切れる音。真っ赤に染まる夜空。爛々と輝く怨霊の双眸。痛がるエミーにも構わず、その手を握り締めて走った。剣仙城に助けを求めて走った。星明りは届かず、遥か後方の村の炎が道を照らし出していた。見知った道が、全く違うものに見えた。ここはどこなのか。剣仙城はどっちなのか。助けて、助けて。誰か助けて。二つの人影。背が高く逞しい男と、その手を握る白金の髪と蒼い瞳の美少女。話を聞いてくれた男が、血相を変えて炎上する村へ走っていく。少女は、スタールの手を取り、迷いなく剣仙への道を歩んだ。右手から伝わるエミーの温もりと、左手から伝わる少女の温もりが、どれほど心強かったことか。

「やっぱりそうだったんだー! きゃー!」

 スタールが過去への旅をしている間に、女子二人は既に盛り上がっていた。

「兄貴兄貴、霊華さん、やっぱあん時の女の子だよ! 何これ? 運命の再会?」

「スタール君たちが、まさかあの時の二人だったなんて、びっくりしたよ」

 霊華が目を細めて笑う。エミーは興奮の余り、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。

 色々と聞きたい話はあるが……。

 何よりもまず、二人の笑顔に口元を綻ばせるスタールだった。

「あー、でもでも、霊華さんってエルフ……もがもが」

 何を口走るつもりだったかは明らかだった。スタールはエミーの後ろから抱きすくめるように口を塞ぐ。

「ちょっと気を抜くとこれだ。察しろよ。俺達だって……」

 そこまで言うと、エミーも察したのか腕の中でおとなしくなる。

 この世界では、怨霊に家族を奪われるという話は、珍しい話ではない。

 戦災孤児となった二人は施設に預けられた。スタールとエミーにも、里親の話はあった。だが、それぞれ別々の里親になるために、エミーが泣き喚いて拒否したのだ。それが聞き入れられなかったために、スタールはエミーを連れて施設を脱走した。剣仙は豊かな街だったが、それでも、幼い子供が二人だけで生きていくのに優しい街だったわけではない。

「気にしてないよ。私も、同じなんだから」

 霊華がまた、虚空を見上げた。その目が見ているものは、ここではないどこか遠くなのだろう。

「私が二歳の時、私の家族は怨霊に殺されて、私だけがお兄ちゃんに救われた」

 十八年前。それは、剣仙戦役という大規模な怨霊との戦争があった年である。剣仙城だけでなく、侠心の村から四方陣、伐採場に至る広範囲で、怨霊との戦闘が繰り広げられた。この戦役によって滅びた村や都市、小国はかなりの数に上った。スタール達の村が襲われた十年前の事件も、剣仙戦役に比べれば小さな事件と言わざるを得ない。

 この時、霊華は両親と三人で剣仙に来ていた。父は世界中を飛び回る行商人で、いつも妻と娘を連れていた。剣仙城まであと少し、おぼろ村の付近まで荷馬車が辿り付いた時、怨霊軍の尖兵クナップが襲い掛かった。おぼろ村の自警団が出動するものの、敵の大群に抗し切れない。やがて霊華の両親は、彼女の目の前で惨殺される。その牙がまさに震える霊華を襲わんとした時、彼女を救ったのが剣仙から応援にやって来た雨月アキラだった。雨月アキラは、当時十六歳にして清龍回天流の奥義の数々を体得した、剣仙でも名の知れた天才戦士だった。

「あんまりよく憶えてないんだけど、私、助けられてからずっとお兄ちゃんにしがみついたまま離れなかったんだって」

 ふっと、霊華が微笑む。遠い過去を懐かしんでいるようで、どこか恋する乙女のようでもあった。

 スタールは抱きすくめたエミーを解放しようとしたが、エミーの両手はスタールの右腕をしっかりと掴んでいる。

「霊華さんは、その時からもう、お兄さんのことが大好きだったんだね」

 ゆっくりと、霊華が半身を起こす。痛みはあるようだが、動けないほどではないようだ。

 こちらを向いた時の霊華の笑顔は、花開くという形容が最も相応しい。

「うんっ。大好きだよ。強くて、かっこよくて、とっても優しいんだ」

「ウチのヘタレとは、雲泥の差だね」

「待てこら」

 だがエミーはするりとスタールから離れ、小さく舌を出して見せる。

「……ったく」

 肩を落としながら、スタールは赤い小瓶を鞄から呼び出した。

「スタール君、もう大丈夫。回復魔法を使う程度には動けるようになったから、あとは自分でやるよ。ありがと」

 目を一杯に細めて、小首を傾げる。それを見て、エミーが自分の顔を何度も指差した。

「あ、うん。エミーちゃんも、たくさんアクアヒールくれたんだよね? ありがと」

 蒼い瞳の海には暖かな風が吹いている。エミーは満面の笑みで応えると、親指をびしっと立てた。

 そんなエミーの仕草に、スタールはこめかみを押さえた。

「スタール君」

 霊華がスタールをじっと見つめている。篝火に照らし出される白金の髪と白い肌は、変わらず眩しかった。

「キミは、私が絶対に……護るから」

 蒼く美しい瞳に、スタールはいつものように吸い込まれる。その奥にも、真一文字に引き締められた口にも、意志の強さがある。これも、魔法戦士の強さなのか。

 だが、瞳の海をどんなに深く探しても、その言葉の意図を、スタールは見つけられなかった。

 冷静に考えれば、わからないことだらけだった。

 回天流を使ったあの、「霊華ではない霊華」。「回天流」という呼び名は、今でこそ分派も込みでの総称として使われる。しかし、技の名前などは「回天流」と略すことはまずない。回天流の侠客は、「回天流」と略されることを好まない。たとえ分派であっても、己の流派に高い誇りを持っているからだ。なのに、「彼女」の使った技は「回天流奥義桜花秋霜」である。それはつまり、彼女の使った技が失われた回天流源流の技であることを意味する。失われた技を使う「彼女」は、一体何者なのか。

 そして、霊華の兄、雨月アキラ。スタールを救い、霊華もかつて救っている。剣仙に生まれた者でその高名を知らぬ者はいないとまで言われる英雄。スタール自身も強く憧れる存在で、武勇伝は誰よりも知っているつもりだ。だが、雨月アキラは五年前に謎の死を遂げている。死んだという話だけが広がっていて、なぜ死んだとかどこで死んだとかいう話は、誰も知らない。霊華なら、知っているのだろうか。その兄が霊華の悪夢に出てきたのか。霊華は、どんな夢を見たというのか。

 霊華が自らに回復魔法をかけている。

 怪我が全快するまで、さほど時間はかかるまい。

 ホッとしながら、しかし、スタールの胸を多くの疑問が埋め尽くしていく。

 霊華、お前は……。いや、今はいい。今は。

 今ここに、エミーと霊華の笑顔がある。

 霊華がいれば、ECHOも復活する。

 今はそのことを素直に喜ぶべきなのだ。

 思いながら、スタールは自分の右手に視線を落とす。細かい古傷が無数にある、無骨な手。握り締めると、身体の内側から力が湧いてくるようだった。

「スタール君、これからECHOさんを起こすから、ちょっと手伝ってくれない?」

「兄貴ー! ぼーっとすんなー!」

 握り締めた拳に頷きかけて、スタールは立ち上がった。

 眩い光が、一面を真っ白に染め上げていた。どんな邪悪も、生命を護り魂を繋ぎ止めるこの聖なる光を侵すことはできないだろう。

 白金のポニーテールが逆立つように激しく揺れている。金色に輝くワイバーンワンドを力強く握り締める白く細い指に、一体いくつもの命が背負われていると言うのか。薔薇色の口唇から漏れる言霊の数々を、スタールは理解することができない。だがそこには、護る心と真摯な祈り、そして、温もりが込められているに違いないのだ。

 まるで聖母に抱かれるように、緑色の男の身体は中空に浮遊する。全身で、清らかな光を全て吸い込もうとせんがごとく。白光がECHOの身体に流れ込み、その全てをその身に収めると同時に、ふわりと地面へと戻った。怨霊大将に貫かれた胸の傷は、まだ痛々しく残っている。

「スタール君、回復薬を!」

 額に玉のような汗を光らせ、霊華が叫ぶ。スタールは小瓶の栓を抜き、赤い霧をECHOに噴霧した。続けざまに、エミーも赤い霧を噴きかける。既に霊華は回復魔法の詠唱を始めていた。即効性のあるリカバーから、遅効性のヒールへ繋ぎ、連続詠唱。柔らかな光が降り注ぎ、出血を止め、傷口を徐々に塞いでいく。仕上げは、いつものように、最も回復効果の高い魔法、ラウンドヒールだ。

 傷は完全に塞がり、痕さえ残らない。どんな外科手術も到達できない、魔法治療の真髄がここにある。そんな回復魔法も、破れた服だけは直すことはできない。少し色白のECHOの肌が晒されるのは仕方のないことだろう。

「術式、完了っと」

 大きく息を吐くと、霊華はその場にしゃがみこんだ。鞄から青い小瓶を呼び出し、栓を開ける。青い液体が気化する前に霊華は瓶に口を付け、喉を鳴らし始めた。傷口に散布する赤ポーションと違い、魔力を回復する青ポーションは飲用することもできる。飲んでも撒いても効果は変わらないのだが、飲んだ方が効くと、魔法職の間ではまことしやかに噂されている。

「ぷはー。この一杯のために生きてるわー」

 空の小瓶を鞄に戻して、霊華が笑う。

「え、ちょ、アルコールでも入ってるの?」

「そんなわけないだろう」

 目を丸くするエミーに、スタールがぶっきらぼうに突っ込む。

「あー、でもー、最近はチョコミント味とか鯖ミソ味とか、色々出てるよね」

「お酒が入ってる青ポがあったら、私、買っちゃうな」

 霊華の顔が更に緩む。スタールは溜息を吐いた。

「飲みながら仕事していいと思ってるのか、A級セイバー?」

「やだなあ、冗談だよ、じょーだん!」

 口元を片手で隠し、空いたもう片方でスタールの肩をぺちぺち叩く。数日前、資格取得の前祝だと飲み屋に連れ出されたことを思い出す。試験さえ始まっていないのに前祝もないものだが、要するに飲みたかっただけなのだろう。スタールは下戸だと言って酒は断ったが、お構いなしに霊華が徳利を空け続けるのを半ば呆れながら眺めたものだった。

「私は、緑茶味が好きですねえ」

 凛とした声に振り返ると、居住まいを正したECHOが姿勢良く立っていた。無残に破れたはずの緑色のシャツが、元通りになっている。

「あれ、ECHOさん、その服は? 破れてなかったっけ?」

 ぱたぱたとエミーが駆け寄り、胸元をまじまじと眺めた。

「着替えくらい、持ってきていますよ」

 当然、という言葉を省略しているのは明らかだった。

「ちぇー。こんなことなら、もっと生肌をじっくり鑑賞しておくんだった」

「お前な」

 もう少し恥じらいというものを持てないものかと、スタールはいつも思う。

「私の肌は、安くないですよ?」

「え。いくらなら見せてくれるんですか?」

 あっけらかんと言ってのけるエミーに、スタールは溜息しか出ない。

「ダメですよ。見てもいいのは、妻だけですから」

 柔和な微笑のままで言ってのけるECHOもまた、敵も然るもの引っ掻くものである。

 霊華は、あの鈴を転がすような声で笑っていた。

「冗談はさておき」

 ECHOは霊華に向き直る。

「必ず戻って来ると、信じていました。お帰りなさい」

 照れ臭そうに頬を掻く霊華。スタールは、霊華を思い出す時、いつもこの照れ笑いを思い出す。

 ああ、本当に戻ってきたんだな、霊華。

 自分の口元が僅かに綻ぶのを、スタールは感じた。

「それから、リザ、ありがとうございます」

 恭しく頭を垂れるECHOに、霊華は慌てて立ち上がる。

「な、何言ってるんですか! 私の方こそ、お礼を言っても言い切れないくらいなのに!」

 ECHOに負けじと、何度も何度も霊華は頭を下げる。

 確かに、この男がいなければ、パーティは誰一人目を覚ますことなく全滅していたに違いない。ましてスタールは、この男にかばわれ命を救われているのだ。

 自然と、身体が動いた。

 頭を垂れる霊華の隣に立ち、スタールもそれに倣う。

「あ、兄貴が……」

 エミーが、円らな目を更に大きくしている。

 人に頭を下げるのは、好きではなかった。スタールにとって、それは敗北宣言と同義でもあったからだ。

 目を閉じ、頭を垂れるスタールの脳裏には、怨霊大将の矛が生えたECHOの背中が灼き付いている。その背中の、なんと逞しかったことか。なんと大きかったことか。

 自分の胸の中で泣きじゃくる妹の顔が思い出された。

 ──誰かの命を護ること。それは、もっと多くの人を悲しみから護ることでもあります

 今、自分がしていることは。今の自分の気持ちは、勝ち負けなどという薄っぺらなものではない。今のスタールには、頭を下げることに何の抵抗もなかった。

「ま、まーまーまーまー、みなさん、そろそろ堅苦しいのはこの辺にしといて、さー」

 三人がお互いに頭を垂れるという状況に耐えられなくなったのか、エミーの声は上ずっている。

「そうですね。それでは、そろそろ出発しましょうか……その前に」

 ぴん、と、ECHOは人差し指を立てて見せた。

「みなさん、ポーションの残量を確認しておいてください。それから、スタール君」

 瞳の大森林に、一陣の風が吹き抜けた。

 悪魔の涎が、スタールの首筋を濡らす。鳥肌が立ち、寸での所で声が漏れるのを抑える。天井を見上げる気にはなれなかった。袋小路出入口付近に散乱していたはずの怨霊の死骸も、あらかたなくなっている。異形が異形の死骸を貪る様を想像して、スタールの全身が総毛立った。

 それにしても。前を歩くECHOの緑色の後姿を見ながらスタールは思う。

 確かに結界札を貼ったのはスタールだが、その確認をするのにわざわざ二人で出向く必要があったのだろうか。札だって、わかりにくい場所に貼ったわけではない。すぐにECHOが札を見つけて立ち止まったのが、その証拠だ。

「これですね」

 壁面に貼られた結界札を検分し始める。

「かなりの時間が経過していたようです」

 指差す紋様を見ると、光がかなり弱くなっているのがスタールから見てもわかった。

「おかしいな。ついさっき貼ったばかりのような気もするんだが」

 そうは思うものの、ダンジョンに時計があるわけではない。ECHOならば、懐中時計の一つも持っていてもおかしくはないだろうが。

 案の定、ECHOは鞄から時計を取り出したところだった。

「……ダメですね」

「どうした?」

 無言でECHOは時計をスタールに向ける。八時十分。だが、その針は止まっていた。

「このダンジョンに入った時刻です。螺子は充分巻いておいたし、一回巻いてしまえば丸一日は止まらないはずなんですが」

 となると、時間の経過は自らの感覚に頼るしかない。スタールは、結界を張ってからまだ間もないと感じていたが、所詮人間の感覚である。思っていた以上に時間が過ぎていたとしても不思議ではない。

 それとも、この狂った洞窟には結界の効果を半減させる力でもあると言うのか。だが、それを確かめる方法はない。

「いずれにしても、あまり長居もできないな。戻ろう、ECHO」

 踵を返そうとしたスタールだが、ECHOは動こうとしない。じっと、スタールを見つめている。

「どうしたんだ?」

「君に、一つ言っておかなければならないことがあります」

 瞳の中で、木々がざわめいている。

 知らず、スタールの身体が緊張で強張る。

「まだまだ、この洞窟では何が起こるかわかりません。脱出するまでは、決して気を抜かないでください」

 もちろん、スタール自身にもそれはわかっていた。しかしスタールは答えず、ECHOの次の言葉を待つ。それを言うためだけにスタールを連れ出したわけではあるまい。

「きっと霊華さんは、自分の身を盾にしてでも私達を護る気概でいるでしょう」

 それは、ECHOがスタールに対して実際にしたことでもある。まして霊華は、ずっと眠っていた。あの優しすぎるセイバーは、そのことで気負うかもしれない。

 スタールは無言で頷いた。

「ですが、スタール君。今のこの状況では、逆なんです」

「逆?」

 ECHOは軽く俯き、小さく息を吐く。申し訳なさそうに眉が垂れたが、やがて意を決したように大きく息を吸い込んだ。

「私達が、霊華さんを護らなければなりません。大変申し訳ありませんが、死守、ということになります」

 ECHOは、「死守」という言葉が嫌いなのだろうか。悪夢から目覚めた時、同じ台詞を聞いたことをスタールは思い出す。

「『死守』とは、文字通り『死んでも守れ』という意味です。そしてこれは、比喩ではありません」

 ECHOの背中から生えた矛が、何度も頭の中に甦る。

 その意味する所は、スタールにも理解できた。

 精霊師である霊華が健在である限り、ECHOやスタールは復活が可能だ。しかし、霊華が倒れれば、誰も復活できなくなる。それは、全滅の可能性が高まるということでもある。

「だが……あいつが黙って護られてくれるようなタマか?」

「ですから、こうして君だけに話しているんです」

「それに……」

 スタールは拳を握り込み、目を落とした。

「俺の力では、護るどころか護られるのが関の山さ」

「残念ながら、その通りです」

 緑色の声は、容赦がない。スタールの拳に力が篭もる。

「それでも、何を優先すべきかを頭に入れておいて欲しかったんです」

 スタールから視線を外し、ECHOは自分の胸に手を当てる。スタールをかばうために怨霊大将の矛を受けた、胸元を。

 ちくりと、スタールの胸に痛みが走った。つまりECHOは、こう言っているのだ。

 これからECHOの身に何が起こっても霊華を優先し、場合によっては見捨てろ。

「あんたは……」

「わかったなら、戻りましょう」

 す、と、ECHOがスタールの脇を通り抜ける。

 その緑色の背中に手を伸ばしたが、届かなかった。あまりにも大きく、遠い背中だった。

 相変わらず天井は高く、奈落のような闇が広がっていた。鏡のように磨かれた御影石の床。壁面は大理石で、大きな壁画が描かれていた。燦然と輝く太陽、そこに無数の手が伸びている。人間の手のようにも見える。獣の腕もある。もはや何の腕かもわからない、腕と言うよりは触手と言った方がいいのではないかと思われるものも。それら全てが、太陽へと手を伸ばしているのだ。

 何らかの神を祀り、崇めるための神殿。

 その空間は、厳かな空気さえ漂っていた。

 御影石の床を踏みしめる度に、こつりこつりと小気味良い音が響く。

「なんなんだ……なんだって言うんだ、この洞窟は!」

 言いながらスタールは、自分の言葉の違和感に笑うしかなかった。入った時には、確かに洞窟だった。だが、今スタールの目の前に広がる光景は、洞窟と呼ぶには人工的過ぎる。

 マッピングは完璧だった。ECHOもマッピングはしていたし、二人のマッピングは一致していた。寸分違わず、来た道を戻ったはずなのだ。だが、辿り着いた場所は。

 さすがのECHOも、ぽかんと口を開けている。ECHOだけではない。霊華もエミーも、常軌を逸した展開にだらしなく口を開いていた。

「ど、どこかで道を間違えたのかもしれません。引き返しましょう」

 異を唱えるものはいない。緑色を先頭に、四人は来たはずの道を引き返す。

 ここが神殿だとするならば、なんと広大な神殿なのだろうか。通路は人が歩くには広すぎる。百人単位のツアーが組めるほどだ。至る所に扉があり、その奥には部屋になっている。扉も巨人仕様かと思うほど大きく、一番背の高いスタールの頭の位置に取っ手がある。ある部屋には、やはり巨大なベッドと家具調度。大陸ではまず見かけないような異質なデザインだが、見るものを落ち着かせる不思議な美しさがある。

「黄昏のアリア……いや、しかし、こんな壁画はなかったはず」

 独り言のようにECHOが呟く。

「……確かに、似てる。けど、違う、と思う」

 きょろきょろしながら、霊華がECHOの言葉を受ける。

「黄昏の神殿だと……?」

「……兄貴、知ってるの?」

 エミーの上目遣いは不安に彩られていたが、声には隠しきれない好奇心があった。

 黄昏の神殿。

 洛陽から北、昇竜の群塔の程近くに、そのダンジョンはある。そこにはかつて「黄昏王国」という王国があった。かつては大陸中にその名を轟かせる強大な国家だったが、ある王の乱心により滅びたとされている。黄昏王朝最後の王、蒼力は魔道研究に熱を上げるあまり闇に落ち、怨霊とさえ手を組んだと伝えられる。国が滅び、蒼力自身も魔道実験によって死亡したが、怨霊として復活し、今でも神殿で研究を続けているという。その研究は数々の新しい怨霊を生み出し、それらは日々神殿から野に放たれていた。祖龍軍や冒険者たちが蒼力の討伐を試みたが、神殿は既に「七人の呪い」の中にあり、討伐は困難を極めた。「七人の呪い」と、新たな怨霊を生み出す特徴から、黄昏の神殿こそが伝説の「始まりの洞窟」だとも言われた。しかし、討伐隊が蒼力を倒しても、彼は何度でも復活した。黄昏の神殿もまた、「始まりの洞窟」の端末に過ぎなかったのである。

 ECHOたちの言う「黄昏のアリア」とは、広大な黄昏の神殿の中でも、特に最深部のことを言う。その黄昏のアリアと呼ばれるエリアに、黄昏王蒼力は潜んでいるのだ。

「……兄貴、その王様の研究って、何だったの?」

 好奇心が恐怖を上回ったのだろう。エミーの瞳はむしろ輝きを取り戻していた。

「さあ。俺もそこまでは知らないな」

 ちらりとECHOを見る。普段と変わらぬ微笑を湛えた緑がいた。

「……不老不死、ですよ」

 子供たちに御伽噺でも聞かせるように、優しくECHOは語る。だがその物語は、子供に聞かせるにしては凄惨過ぎた。

 栄華を極めた黄昏王朝で、蒼力が夢見たのは永遠の命だった。歴史上、不老不死を追い求めた権力者は蒼力だけではない。だがその研究には、常に闇が付きまとう。なぜなら不死の実験は、必ず「本当に死ぬのか?」を確認する過程が不可欠だからである。そして、この世界の歴史上、その実験に成功したという記録は残っていない。

「え……それって……」

 さすがのエミーも絶句した。霊華は俯いている。

「蒼力が実験のために犠牲にした命は、数万とも数十万とも言われています」

 祖龍の人口は今、何人だっだろう。あまりの数字の大きさに頭の一部を麻痺させながら、スタールはぼんやりと思った。それだけの人間がいなくなれば、国も滅ぶというものである。

「ひどい……不老不死なんて、無理に決まってるのに」

 エミーの両手が口を押さえる。

「それが、そうでもないんですよ」

 口元から笑みは消えていた。

「事実、エルフ族は不老不死です。寿命というものがありません」

 やはり霊華は俯いたままだった。

「もっとも、それは寿命や老衰がないというだけで、いわゆる『不死身』ではありません。蒼力が求めたのは『不死身で不滅の肉体』だったわけですが、それでもエルフ族の身体が彼の理想に一番近い所にあったのは確かでしょう」

 スタールは、背中に氷を入れられたような気がした。それはつまり、実験にはエルフ族が最も適しているということではないのか。

 かつて、人族もエルフ族も妖族も、それぞれがお互いに争い合う時代があった。その中でも特に、人族とエルフ族の対立は激しかった。黄昏王朝は、人族の王朝だ。蒼力の「実験」が、人族とエルフ族の対立の原因に一つになったことは、想像に難くない。

 直接関係ないとは言え、霊華がどんな気持ちでいるのか考えると、スタールは息苦しくなった。

「嫌な話をして申し訳ありません。ですが、一つ思い出してしまったんです」

 この部屋にも、壁画があった。太陽に手を伸ばす壁画が。この部屋の天井は比較的低く、見上げれば太陽が描かれている。

「彼が魔道研究に没頭する前、常勝だった黄昏軍が破れたことがあります。これは、黄昏王朝の正史には記載されていない話なんですが……」

 ECHOが祖龍の図書館で見つけた歴史書は、「深緋(こきひ)」という小国の歴史書だった。大陸全土に侵攻していた黄昏王朝は、既にこの小国を属国としていた。隣国である青藍へ侵攻するために前線基地にされ、黄昏軍からの無理な徴発に苦しんでいる国でもあった。そんな折、青藍との国境付近の村に、一人の旅人が現れた。全身に黒衣を纏い、夜の闇に玲瓏と輝く月のような肌の青年だった。彼は、駐留していた黄昏兵士達を皆殺しにした。騒ぎは加速度的に大きくなり、報告を聞いた蒼力も自ら一個師団を引き連れて深緋にやって来るまでに至った。しかし黒衣の青年は、眉一つ動かさず、深緋に駐留していた黄昏軍全軍と、蒼力の一個師団を壊滅させた。

 甚大な被害を受けた黄昏軍は撤退を余儀なくされ、それ以降急速に黄昏軍の侵攻は縮小した。黄昏王朝正史によれば、蒼力が魔道研究に没頭するようになったために侵攻計画が停滞したとされている。

 青年が何者で、どこから来たのか。なぜ黄昏軍と戦ったのか。深緋の歴史書には記されていない。

「ここからは、私の推測になります」

 ECHOが深呼吸をした。

 スタールにも、その推測がわかるような気がした。黒衣、闇に輝く白い肌。それは。

「この黒衣の青年は、夜光ではないでしょうか。そして蒼力は、夜光を見て不老不死に取り憑かれた……」

 この部屋に、篝火はない。テーブルや天井にあるガラス球の中で、炎ではない光が煌々と部屋を照らし出している。

 エミーと霊華が、息と唾液を飲み込む音を聞いたようにスタールは感じた。

 夜光を見て不老不死の研究を始めたと言うのなら、夜光という男は。

「俺が見た夜光と、御伽噺に出てくる夜光、それに、蒼力を狂わせた男が全て同一人物だってことか?」

 とても恐ろしく、しかし馬鹿げたことを言っていると、スタール自身も思う。

「確かに、ちょっと飛躍しすぎているかもしれませんね。でももしこの推測が正しければ、夜光という男は……」

 苦笑いをしているが、スタールにはECHOの不安が感じられるようだった。実際に夜光を目にしたスタールには、ECHOの言いよどんだ言葉を想像するに難くない。そしてあの、異常なブレイドカース。あれを見なければ、夜光の話などECHOにだって信じられなかっただろう。あれを目の当たりにしているからこそ、ECHOも自分の仮説におののいているのだ。

「変な話をしてしまいましたね。とにかく今は、ここから脱出することを最優先しましょう」

 ECHOは先頭に立ち、開きっ放しの扉に向かう。スタールと霊華も頷いて後を追った。が、エミーは一人、扉を凝視したまま動かない。

「エミー、どうし──」

「ECHOさん、離れてっ!」

 真っ先に反応したのはスタールだ。背後からECHOの襟首を掴み、思い切り引っ張る。このエミーの声に、スタールより早く身体を動かせる人間はいない。それは、いかな深緑の重装魔と言えど、例外ではなかった。

 スタールが引かなければECHOの喉があったであろう場所を、白光が弧を描く。

 三人が同時にバックステップで扉から離れる。スタールはエミーの前に、その前を二人のセイバーが固めた。

 いつからそこにいたのか。開いた扉の代わりに行く手を阻む者が立っている。だらりと下ろした両手に白刃。豹柄のキャミソールとショートパンツに、レザーのロングブーツ。肌の露出が多い軽装だが、その肌は土色で生気が感じられない。エミーより少し長めのセミロングヘアは茶に近い赤毛。長い前髪を留める髪留めにあしらわれた六芒星のタリスマンが印象的だ。

「ハイディング……油断しました」

 ECHOがフロスグラムを呼び出して構える。

「貴方は? どうしてこんな所に? なぜ、ECHOさんを攻撃したの?」

 霊華は、法器を持ちながらも構えてはいない。怨霊が相手なら、既にレーヴァテインを構えている所なのだろう。しかし、相手は人間である。少なくとも、見た限りでは。

 だが、女は答えない。声に反応して霊華を向きはしたが、その目は死んだ魚のように濁っている。感情というものが全て欠落してしまっているかのようだ。

「私達と一緒に、ここから出ましょう?」

 手を差し伸べようとする霊華を、ECHOが一喝する。

「霊華さんッ!」

 ECHOの叫びが早いか、女の右手がさかしまに閃いた。双刃は、間一髪で霊華の前に出たECHOのフロスグラムに弾き返される。

「お気持ちはわかりますが、あれはどう見ても尋常の人間ではありません。優しすぎるのも、考え物ですよ」

「ご、ごめんなさい」

 霊華は今度こそ、法器を構えた。

 女が腰を落とすのを見て、スタールも前に出る。

「霊華、下がれ。エミーを頼む」

「スタール君こそ、エミーちゃんを護るのに専念しなよ」

 ぐいと、スタールの腕を引っ張って自分の後ろに置こうとする霊華。

「いいから、下がってろ」

「い、や、で、す! 今度は、私がみんなを護る番だよ!」

 スタールと霊華が不毛な押し問答をしている間にも、女の白刃が迫る。

「あぶねっ」

「スタール君、邪魔!」

「何をしているんですか! 霊華さん、下がってください!」

 再びECHOが二人をかばうように割って入る。次々繰り出される女の双刃は、やはりプロの暗殺師の技だ。いくら強いとは言え、元々魔法職であるECHOは、近接戦闘においては後れを取らざるを得ない。

「そういうことだ。たまには普通の精霊らしく振舞うのも悪くないと思うぞ?」

 言いながら、タイガーギアで素早く間合いを詰める。それに合わせてECHOは下がり、アクアヒールの詠唱を始める。

「ECHOさん、回復なら私が」

 アクアヒールを解放すると、水の魔力がスタールを包み込む。

「大丈夫。あの程度の暗殺師ならば、スタール君に任せて問題ありません。霊華さんは、どうか力を温存していてください」

「……ECHOさんがそう言うなら、私は、いいけど」

 背後のやり取りを聞いて、スタールの口元に笑みが浮かぶ。A級セイバー雨月霊華も、深緑の重装魔相手では、借りてきた猫である。

 それに。

 中身が怨霊だとしても、「人間」相手では霊華の剣も鈍るだろうしな。

 そういう意味でも、霊華を下がらせたECHOの判断は正しい。

 無論、スタールとて人間を斬った経験があるわけではない。それでも、スタールは霊華と違い、相手を「敵」と認識した場合には容赦はしない。できない。スタールの内に秘められた何かが、そうはさせないのだ。

 白刃が縦横からスタールに襲い掛かる。確かに速い。だが、見切れないほどではなかった。見切ることができれば、完全回避とは行かないまでも、急所を外すことはできる。

 スタールの剣が敵に与えるダメージも、似たようなものではあった。直撃を回避し、最小限のダメージに止め反撃に転じる。力量は互角か。

 だが、絶妙なタイミングでのアクアヒール。決定的な差はここにあった。

 スタールの身体からは傷が消え、反対に女の身体は傷が増えていく。じわじわと血が流れ出し、豹柄のキャミソールもショートパンツも露出した細い脚も、真っ赤に染まっていく。

 赤という色は、人間の本能を刺激する。そんな話をスタールは思い出していた。ならば、今の自分のこの昂ぶりもまた、血の成せる業なのか。

 敵が双刃を引き絞る。相手の両腕から力と素早さを奪う、アームブレイクの構え。

「させるか!」

 だが、スタールのパワーシャウトの方が一瞬早い。強い気当たりが女を直撃して、その身体を一瞬麻痺させる。

 目まぐるしい攻防の中では、その一瞬で充分だった。

「デーモンスラスト!」

 剣の一閃と共に、練りこんだ気を前方に放射。女は部屋を飛び出し通路の壁に叩きつけられ、動かなくなった。

「まだまだだな」

 くるりと敵に背を向けると、微笑を浮かべたECHOと、ガッツポーズを取るエミー、ちょっと悲しそうな霊華がスタールを迎えた。

「スタール君、殺しちゃったの……?」

 眉を目一杯八の字にして、霊華が上目遣いを向けてきた。

 スタールは殺す気でやっている。おそらく、背骨も砕けただろう。生きているとは思えない。それ以前に、最初から生きていたのかどうかが疑問ではあった。

 何と答えたものか悩み、スタールは頭を掻く。助けを求めるように、スタールはECHOに目配せを送った。

「霊華さん、彼女はおそらく、怨霊に身体を乗っ取られていたんです」

 ECHOの声は、あくまでも柔らかく凛としていた。

「うん……多分そうなんだろうけど、でも……それにしてはちょっと動きが良すぎるって言うか」

 頬に人差し指を当てて、霊華は小首を傾げた。

「……言われてみれば、確かに一理ありますね」

 ECHOも自分の耳たぶに触れる。

 人間の死体に怨霊が取り憑くことも、珍しい話ではない。多くの場合、より瘴気の濃いダンジョン内や呪われた沼地のような汚染された土地で発生する現象である。一般に「ゾンビ」や「生ける屍」などと呼ばれる怨霊がそれだ。人間ではなく怨霊の一種として扱われるため、人の姿をしていても討伐の対象になる。しかし、怨霊が取り付いたからと言って死骸としての腐敗が止まるわけではない。生前の運動性はほぼ失われるのが普通である。

 だが、スタールが戦った相手は、ゾンビとは思えない駆動をしていた。肌の色こそ死体同然だったが、まるで生きているかのようだったのは確かだった。

「しかし……あれは生きてる人間の顔じゃ──」

「スタール君、後ろっ!」

 霊華の叫びに剣を鞄に戻すのを止め、スタールは振り返る。

「う、嘘だろ……」

 あろうことか。

 スタールが確かに背骨を粉々に砕いたはずの女が、ゆっくりと立ち上がろうとしている。

 血が流れていたはずの刀傷が、見る見るうちに塞がっていく。回復薬など、誰も使おうはずがない。否、たとえ回復薬を使おうとも、あれほどの傷をこんな短時間で回復できる薬などない。もはや回復ではなく、それは肉体の再生に等しかった。

 ならば、この骨と骨をこすり合わせるようなくぐもった音は何なのか。

 砕けた骨が再生する音だとスタールが気付いた時、女は姿を消した。

「またハイディングかっ!」

 スタールは腰を落とし、両膝を柔らかく曲げる。剣は中段に構え、知覚を極限まで研ぎ澄ませる。

 ハイディングは、光学的な迷彩ではない。自分の姿を消すのではなく、周囲にいる人間や怨霊の認識に作用し、見えないものと思い込ませるスキルである。つまり、視覚で捉えることができても脳がそれを認識できなくなるのである。それは、視覚に限らず、聴覚や嗅覚といった他の五感でも同じだ。つまり、いかに目を凝らしても耳を澄ましても、ハイディングを見抜くことはできない。対怨霊の簡易結界も、このスキルを応用して作られているのだ。

 スタールもそれは理解していた。だが、ハイディングとて万能ではない。ハイディング中に術者が取れる行動は、移動のみである。それ以外の何らかの行動をすることで、認識の麻痺が解かれる。スタールが全神経を以って周囲の気配を探っているのは、現れる瞬間、即ち、攻撃の瞬間に対処するためだった。

 ECHOもまた、スタール同様に攻撃の瞬間を狙っている。霊華はエミーの手を引いて、素早く部屋の角まで移動した。 エミーの背後と左右を壁にし、前を霊華が護る。誰を狙っているかはわからない。そして、攻撃に対処できなければ、確実に急所を抉られ絶命するだろう。暗殺師が暗殺師と呼ばれる所以は、まさにこのハイディングにあるといっても過言ではない。

 静寂が訪れた。あまりの静けさに、耳鳴りがする。この神殿に来てからは、あの澱のような空気は既にない。だが今は、張り詰めた空気に身体ががんじがらめにされているような錯覚に陥る。時の流れもわからない。無限に時間が引き延ばされていく。刹那はどこまで刹那なのか。永遠なんてものは、もしかしたら今ここにあるだけかもしれない。

「兄貴いいいいいい!」

 エミーが吸い込んだ息を全て吐き出すように叫ぶ。

 待ってたぜ、エミー!

 振り返ると、女が両腕を広げて口を大きく開いていた。双刃を持っていない。スタールに掴みかかろうとしているのは明らかだ。真っ赤な口腔に、白い歯が光る。一際鋭く輝くのは、鋭利に尖った二本の乱杭歯。

 何をしたいのか知らんが、俺を狙ったのが運の尽きだ。

 轟音が鳴り響く。女の背中で、橙色の業火が弾けた。全ての不浄を焼き尽くす、スローフラッシュの炎。

 スタールは、女の攻撃が自分の背後になると予想し、背中をECHOに向けていたのだ。

 女の身体に炎が燃え移る。だがまるで意に介した様子もなく、女はあくまでスタールを執拗に狙った。

 もう、かくれんぼは終わってるんだぜ。

 双刃も持たず、ただ掴みかかろうとするだけの攻撃が、プロの戦士たるスタールを捕えることなどできようはずもない。

 既に敵は、人間ではない。あのような肉体再生が、人間の業であるはずがない。

 スタールは全力で、剣を振り下ろした。剣が肩口に深々とめり込む。引き抜いて、返す刀で胴を横薙ぎにする。内臓がはみ出したが、女の動きは止まらない。傷口も、嫌な音を立てながら再生している。

 再び轟音。二発目のスローフラッシュが女の後頭部で爆ぜた。きらりと光る何かが、女の前髪から落ちた。六芒星を象った、銀色の髪留めだった。

 後頭部を爆発で吹き飛ばされ、露になった内部を容赦なく炎が焼く。炎に包まれた部分の再生が遅いことに、スタールは気付く。

 女は尚もにじり寄る。武器もなく、ただスタールに向かって近付いてくるだけ。両手を広げて歩み寄ろうとする様は、まるで。

 お前も……なのか。

 女の顔は、少しも変わらず感情というものが見られない。人形と言われても納得するだろう。だがスタールには、泣いているように見えて仕方がなかった。広げた両手が、救いを求めているようにしか見えなかった。

「スタール君、ECHOさん! お願い……その人を……」

 霊華も同じことを感じていたのか。蒼い瞳には、涙が零れんばかりだった。

 ECHOが頷いた。じっと女を凝視している。その口が何事か呟いているように見えたのは、その瞳が微かに濡れているように見えたのは、スタールの錯覚だったのか。

 ECHOが法剣を構え、詠唱を始めた。

 炎は、全ての不浄を清める……か。

「ナックルは、あまり得意じゃないんだがな……ライバーナックル」

 コープスブレードが光を巻いて鞄に戻り、代わりに拳打用のグローブがスタールの両拳を包んだ。

 身体中の気を集める。一度丹田を経由して練り上げられた気は、両の拳を熱く燃やす炎と化す。

 三発目の魔法が炸裂した。女は、大きくよろめく。体勢を立て直そうとして顔を上げた女のガラス玉のような瞳がスタールを射抜いた時、スタールは既に間合いの中だった。

「フレイム……バスター!」

 炎の宿った拳が、連続で敵を殴打する。その度に、彼女を包む炎は燃え広がっていく。

 その時、スタールは見た。女の首筋に、再生されずに残る痕を。二つの小さな円形の痕からは、ちろちろと血が流れ出していた。

 肉の焼け焦げる臭いが部屋中を満たす。

「もう、眠ってもいいんだ」

 ECHOが次の詠唱を始めたのを見て、スタールは飛び退いた。それを見計らったように、ECHOから巨大な火の鳥が放たれる。

 炎の鳥は、彼女を、その紅蓮の翼で抱きしめるようだった。

 そのまま部屋の壁へと突き進み、爆裂して四散した。壁に、人の形をした焼け焦げだけを残し、女暗殺師はこの世から消滅した。

 スタールは、銀色の髪留めを拾い上げる。主を失った髪留めは、鈍く輝くだけだった。

 御影石の床に、四つの足音が響く。

 空気に淀みはなく、僅かに冷気を含んでいる。さっきまでいた洞窟とは全くかけ離れた場所なのではないかと思ったのは、スタールだけではなかっただろろう。

 さっきまで、ぎゃーぎゃーうるさく喋っていたエミーも、すっかりおとなしくなっている。霊華の顔にも、疲労の色が隠しきれない。

 一体、どれだけの部屋を見て回っただろう。

 一体、どれだけの距離を歩いてきただろう。

 一体、どれだけの時間が経ったのだろうか。

 スタールは既に、マッピングを完全に放棄していた。

 意味がないのだ、この場所では。どんなに進んでも、どんなに引き返そうとも、頭の中のマッピング通りにはならない。出るはずのない所に出て、知っている場所に引き返したつもりが全く見たことのない場所だったりもする。物理的論理的にありえない現象も、もはや異常とは思えないほど四人の感覚は麻痺し、精神的疲労も蓄積していたのだ。

 それに加えて。

「……またか」

 スタールは、何度目かわからない言葉を口にした。

 通路の先に、いくつかの人影。見えるより先に、既に腐敗臭が鼻を突いていた。ずるりと引きずるような足音。生気のない目。中には、骨が露出している者もいる。人の形をした人にあらざる者、怨霊にその身体を奪われ安らかに眠ることすら許されない亡者の群れ。

 四人は無言で、各々の武器を握り締めた。スタールの剣が唸り、先頭のゾンビの首を飛ばす。霊華の剣が閃き、胴を両断する。炎の魔札は、さまよえる亡者に浄化と安息をもたらす。

「スタール君!」

 凛と響くは緑の声。刃と刃が打ち合わされ、甲高い音が神殿に響いた。スタールめがけて振り下ろされた長剣を、霊華のレーヴァテインが受け止めている。

「気を抜くなと言ったはずです!」

 言い終わると同時に魔法詠唱。スタールが体勢を立て直す頃には、炎の魔札が飛んでいた。霊華は敵の剣を弾き返しながら後退し、直後、炎が爆ぜた。

「ちっ、こいつもか」

 スタールの舌打ちは、敵のマジックボディを確認したためである。腐敗臭を放ち、動きも鈍重なゾンビ達の中に混ざって、ゾンビとは思えない動きをする者がいた。一体何人のゾンビを切り倒してきたか、もはやスタールには思い出すこともできなかったが、その中に必ず「腐っていないゾンビ」がいたことは確かだった。彼らに共通していたことは、生前の技と力を維持しているだろうこと。もう一つは。

「逃がすかよ!」

 マジックボディは、魔法に対する抵抗力をアップさせる反面、物理的な攻撃に弱くなる性質がある。敵の男、紫色の短髪で、生前は戦士だっただろう「腐らないゾンビ」は、マジックボディの直後にドラゴンギアで間合いを取ろうとしていた。

 同じく戦士たるスタールにとって、紫髪の男の行動は想定の範囲だった。即座にタイガーギアで追いすがる。

「スタール君、深追いは……!」

 言葉が間に合わないと判断したのか、霊華の手から剣が消え、代わりに黄金の法器が現れる。精霊師たる霊華に、戦士の高速移動を追えるスキルはない。

 紫髪の逃げた先には、ゾンビの群れ。

 しかし、フェザーアローの詠唱を始めた霊華をECHOが制する。

「私に任せて。霊華さんは、剣で他の雑魚を」

 ECHOのフロスグラムが輝く。突き出すように法剣を振ると、紫髪と周辺の亡者達の頭上に巨大な岩が現れた。合図を送るようにECHOは法剣を横薙ぎに振るう。巨岩は空中で砕け、礫弾となって降り注いだ。魔力だけでなく、真気も動員する魔導師の大型魔法、グラビティロック。岩石によるダメージだけでなく、一時的の対象の行動の自由を奪う効果がある。だが、ゾンビ達にその付加効果は必要ない。スタールと紫髪以外は、全てECHOの一撃で倒れている。

 まるで自分だけをよけるように降り注ぐ岩石と、その威力の凄まじさに、スタールは感嘆の息を漏らす。広範囲を一度に攻撃しているにもかかわらず、味方には被害がない。魔法を使えないスタールにとっては、何度見ても神秘としか言いようがない。

 だが、感心ばかりしているわけにはいかない。グラビティロックが敵の動きを封じている時間は決して長くはない。スタールは剣を振り上げる。狙うは、首。その首筋にはやはり、二つの小さな痕があった。この痕がある者は他の亡者と違い、腐敗もせず生前のままの動きをする。そして、どんなに傷を負わせてもたちどころに再生するのだ。

 何度も何度もやり合ってりゃ、弱点の一つも見つかるってもんだ。

 スタールは敵の首筋めがけて剣を走らせる。そのおぞましい二つの傷穴を砕こうとせんがごとく。

 ぱん、という濡れた手ぬぐいを叩くような音と共に、紫髪の頭部は床に転がった。胴体がそれを追って崩れ落ちる。その表情には何の感情も心もなく、人形のようだった。

「みなさん、お疲れ様です」

 戦闘終了を告げるECHOの声。ECHOは戦いが終わると、必ず同じことを言っている。何度も聞く内に、スタールはその言葉に安堵を覚えるようになっていた。

 振り返ると、他の全てのゾンビは地に伏している。

 だが、スタールは少しも「勝った」気がしない。剣が肉を斬り骨を断つ感覚は、相変わらずスタールの剣を悦ばせて止まない。だが、それは敵を屠る快楽に過ぎず、勝利の充実感や満足感はどこにもない。通常のダンジョンならば、敵を屠れば屠るほど、それは「勝利」に近付くものだ。だがこのダンジョンでは。

 誰もが疲弊していた。

 ただ、スタールの剣だけが、変わらず血に飢えていた。

 四人は再び歩き出す。

 進んでいるのか戻っているのかもわからない。歩いても歩いても、同じような光景が延々と繰り返されている。それだけでも精神を蝕むには充分なのに、次々と襲い来る敵。弱いゾンビばかりではない。「腐らないゾンビ」の中にも、元々高レベルの冒険者だったと思われる者が数多くいた。ゾンビだけでなく、見覚えのあるダンジョンボスにも何度も遭遇した。今のスタールでは到底歯が立たないであろう数々の敵。上級セイバー二人を伴っていることは、幸運以外の何物でもない。

 だが、それでも。

 進んでも進んでも、先は見えない。敵は無限に湧き出てくるようだ。このダンジョンもまた、無限に続く迷宮なのだろうか。

 だとすれば、自分達は一生ここから出られない。

 ──誰も、生きては出られない。

 悪夢のことでも、怨霊大将のことでもなかったのだ。真夜の言葉の真意に、今更ながらにスタールは気付く。そしてそれは、他の三人も同じだろう。

「みなさん、お疲れ様です」

 もう何度目だろうか。ECHOの声もどこか澱んでいるようだった。

「兄貴、お腹減ったよ」

 力のない、エミーの声。

「そうだな」

 答えるスタールの声も、か細かった。

「喉も渇いた」

「青ポがまだあるだろ」

「……ない」

 ぎょっとして、スタールは振り返った。

「さっきの休憩で、ECHOの薬をみんなで分けただろ?」

「さっきって、いつの話してるの? そんなもん、とっくに使い切っちゃったよ」

 口を尖らせ、空になった小瓶を揺らせて見せる。

「喉が渇くからって、飲み過ぎなんだよお前は。ECHO、なんとか言ってやってくれ」

 ECHOも、空の小瓶を逆さにして振って、スタールに見せた。

 反射的に霊華を向く。霊華の鞄から出てきたのは、空の小瓶だった。

「……おいおい」

 スタールも空の小瓶を出そうとしたが、手に力が入らなかった。

「少し、休憩しましょう」

 ECHOが扉を一つ指差し、仲間達を促した。

 どこかで見たような部屋だった。だが、どこで見たのかもわからない。そもそも、ここにはそんな部屋ばかりだ、見たことがあるような気がするだけで、初めて入る場所かもしれない。しかし、それが何だと言うのか。

「……これが、最後の結界札です」

 扉を閉め、その両端にECHOは結界札を貼った。

「最後」という言葉に、スタールの喉がぐびりと音を立てる。

 ひんやりとした床に、四人は車座になって腰を下ろした。俯いたまま、誰も何も言わない。ガラス球の中で、炎ならざる光が煌々と輝いている。窓はない。完全に外界とは隔絶された空間だ。ガラス球の中の光が、まるで作り物のようにスタールには見える。太陽はどこにあるのか。ここは、母なる太陽のいない、地獄の底なのか。普段当たり前に浴びていた太陽の光が、今はこんなにも恋しい。

「プランタンの、ケーキが食べたい」

 ぼそりとエミーが呟く。

「ヴィンデの紅茶が飲みたい」

 誰も答えない。耳鳴りがするような沈黙だけがある。

「もうやだっ! おうちに帰りたい!」

 何かを搾り出すような声だった。

「それができたら、誰も苦労してない」

 スタールは、できるだけ穏やかに言ったつもりだった。

「そんなこと、わかってるよ!」

「だったら、黙ってろ。あれが食べたいだのこれが食べたいだの言ったって、何も変わらないだろ」

 腹が減っているのも喉が渇いているのも、この場にいる全員が同じだ。こんな狂った場所からは一刻も早くおさらばしたいのも、全員に一致した気持ちだろう。スタールには、妹の態度が我侭にしか見えない。

「何それ? なんか腹立つんですけど。そもそも、兄貴ができもしないセイバー資格なんか取ろうとするから」

「何だと? 俺が悪いって言いたいのか? 全部、俺のせいだとでも?」

 思わずエミーを睨み付ける。一瞬エミーの口が小さく開いたが、すぐに白い歯を剥いた。

「わ、私は、反対だったんだからね、セイバーなんて。だって、たった独りでダンジョンに潜るんでしょ? 兄貴には無理だよ」

「馬鹿にするな! やってみなければわからないだろう!」

 穏やかに喋る努力も、すぐに限界が来た。胸に何かすっきりしないもやもやがある。

「わからない、わからないけど、兄貴はセイバーなんかしなくていいの! セイバーになんか、ならないでよ!」

 エミーが鼻を啜る音がする。声もどこか鼻声だった。

「うるさい! なんでお前にそんなこと決められなきゃいけないんだよ!」

「なんでって、そ、それは」

「私は、エミーちゃんの気持ち、わかるな」

 霊華の澄んだ声が、二人の剣幕を静めた。

「セイバーは、誇り高い仕事だよ。だけど、危険な仕事でもあるんだ。エミーちゃんが言うように、一人でダンジョンに入っていかなきゃならないから」

 霊華は天井を見上げる。通路と違い、部屋には低い天井と照明がある。だが霊華は、そのいずれも見てはいないようだった。

「私のお兄ちゃんも、セイバーだった。凄く強くて、たくさんの人を救った。誰からも必要とされる人だった。そんなお兄ちゃんは私の誇りだった。でも」

 言葉を切り、霊華は俯いた。蒼い瞳の海に、暗い雨が降りしきるようだ。

 スタールは霊華の次の言葉を待ったが、言葉が継がれることはなかった。

「ごめん、兄貴」

 エミーの鼻は赤らみ、目には涙を溜めていたが、零れてはいなかった。

「兄貴の言う通りだよ。私なんかがとやかく言えることじゃないよね」

 それだけ言うと、座ったままスタールに背を向けた。後ろからでも、目元をごしごししているのがわかった。

 スタールの胸に、ずきりと痛みが走った。

 エミーに何か言葉をかけなければならない衝動に駆られたが、何を言えばいいのかわからなかった。

「二人とも、この極限状況の中、よく抑えてくれました。あのまま言い争いを続けるようなら、私も貴方達に『お仕置き』をしなければならなくなるところでしたよ」

 いつも変わらぬ微笑だったはずなのに、スタールの全身が粟立った。普段温厚な人間ほど怒らせると怖いと言うが、この男だけは怒らせてはならない。スタールは心底思った。

「こんな状況では、苛立つのも当然です。脱出の見通しさえ立たないのであれば、尚更でしょう」

 やはりスタールには不思議でならない。なぜECHOは、こんな絶望的な状況の中で超然としていられるのか。

「だが実際に、打つ手がない。このままじゃ俺達は」

「そういうことは、思っていても口に出すものじゃありません、スタール君」

「でも、どうにもならないじゃないか。マッピングは無駄。敵は減らない。ポーションは使い果たした。ECHO、あんたの護符も神守も、もうないはずだ」

 言いながらスタールはECHOの手を取り、その手袋を剥いだ。両の手の甲に、今にも消えそうな紋様が刺青のように浮かんでいる。魔術に明るくないスタールにもわかる。右手が、体力や傷の回復を自動で行う護符の紋。左手は魔力を自動回復する神守の紋だ。護符は生命力、神守は魔力を貯蔵しておく別タンクのようなものである。使用者の生命力や魔力が一定以下になると、自動的に発動し回復する。ただしこれらはあくまで別タンクであり、タンクが空になれば当然効果もなくなる。今、ECHOの使っている別タンクは枯渇寸前なのである。

「ふふ。見抜いていましたか。しかも、これが予備で用意しておいた最後の護符だと言うんだから、ますます絶望的です」

 ECHOの微笑は変わらず、スタールから手袋を取り返すと元通りにはめ直した。

 無理もない。スタールは納得せざるを得ない。あの怨霊大将との激闘もさることながら、そのずっと以前、スタール達が悪夢と戦っている時からECHOは戦い続けていたのだ。それでも、仲間に回復薬を分けるだけの余裕があったのだから、ぐうの音も出ない。まともなダンジョンならば、この男が途中で回復薬や護符を切らすなどということは起こり得ないだろう。

 だがこのダンジョンは、そんなECHOの準備の良ささえも嘲笑うかのようだ。

「……やっぱり、私達、帰れないの?」

 一度はこらえたはずの涙が、エミーの鳶色の瞳から零れ落ちそうになる。

 そんなエミーの肩を、霊華は優しく抱いた。瞳の海には漣一つなく、そよぐ風さえもなく静寂に満ちていた。あまりに静謐に過ぎるその瞳に、スタールはむしろ恐ろしくなる。同時に、不思議なほどその目に落ち着くのだ。何も心配はいらない。そう、スタールには思えてくる。

「そう簡単に、絶望を受け入れる気はありません。あらゆる手を尽くした後で、渋々受け入れるならばともかく」

 ECHOの変わらぬ微笑と、力強い言葉。やはりこの男には、まだ策があるのだ。

 二人とも、強いな、本当に。

 反省、自嘲、憧憬、尊敬、そしてほんの少しの畏怖。いつか自分も、こんな風に強くなれるだろうか。今のスタールには、二人の上級セイバーの背中はあまりに遠い。

「ところでスタール君、少しおかしいと思いませんか?」

 ECHOが顎を撫でながらスタールを見やる。

 おかしいと言えば、このダンジョンは全てがおかしく、狂っている。スタールは、ECHOの意図が掴めない。

「時計が動いていないのではっきりとしたことは言えませんが、私達がここへ入って、どれくらい経過したと思いますか?」

 言いながらも、ECHOは顎から頬を撫で回している。これもECHOの癖なのか。

「ふむ……少なくとも十二時間は経過しているように思うぞ」

 時計はなく、時間の感覚も当てにはならない。完全に当て推量だった。もしかしたら、もっと長いかもしれない。

「あー、私もそれくらいだと思ったー。実は、ちょっと眠いんだよねー」

 エミーが欠伸をして目をこする。言われてみれば、スタールも眠気を感じないでもなかった。

「霊華さんは?」

「少なく見積もっても半日、もしかしたら、丸一日以上経ってるかも」

 霊華はこのメンバーの中ではセイバーとしてダンジョンに入ることが最も多い。ダンジョン内での時間経過は、霊華が一番正確に把握しているのではないか。これまでに取った仮眠の回数を思い出しながらスタールは考える。

「そうですね。私もそれくらいだと思います」

「それが、どうかしたのか?」

「髭、ですよ」

 ECHOは顎を撫で続けている。はっとして、スタールも自らの顎に手を当てた。

「私も朝、髭を剃りました。それが、今朝の七時くらいですね。このダンジョンに入ったのが、午後八時過ぎ。軽く二十時間以上経過しているのに、少しも髭が伸びていません」

 確かにスタールも朝に髭を剃った。なのに、今顎を触っても伸びてはいない。

「え。そんなに髭って伸びるものなの?」

 エミーも自分の顎を触りながらスタールに訊く。

「毎朝俺が剃ってるの、見てるだろ?」

「ああ、そうだよね。伸びないんだったら、毎朝は剃らないよねー。今度、触ってみてもいい?」

「断る」

 エミーが普段の調子を取り戻したようで、スタールは少しだけ胸を撫で下ろす。

「おそらくこのダンジョンは、時空間に歪みがあるのでしょう。私達が体感している時間の経過と、ここで実際に流れている時間の経過が、ずれているのです」

 エミーがきょとんとする。おそらく、わかっていない。スタール自身にも、にわかには信じがたい話だ。

 ECHOの話は続く。

「空間にも歪みがあります。そうでなければ、マッピングを完全に無視するこの迷宮には、説明がつきません。しかし、時空間の歪みが原因ならば、打つ手はあります」

 三人の視線が、緑に集中した。

「アースダッシュをご存知ですか?」

「あ、私できるよ?」

 エミーが法器を手に持ち、すっくと立ち上がった。ごく短い呪文を詠唱すると、その姿は瞬時に掻き消えた。

「へへっ、兄貴ー。こっちこっちー」

 鬼の首を取ったような声は、スタールの背後から。部屋の壁際に、エミーが悪戯っぽく笑いながら立っている。

「実演ありがとうございます」

 エミーがぱたぱたと戻ってくる。

「要するに、俺達戦士の使うタイガーギアみたいなもんだろ?」

 エミーに得意な顔をされたのが、スタールには少し面白くない。

 だがECHOは首を横に振った。

「違います。戦士のスキルは、あくまで軽功の応用技であり、高速移動に過ぎません。ですがアースダッシュは、高速移動ではなく、『瞬間移動』なのです」

「瞬間移動?」

 スタールの顔に疑問符が浮かぶ。実際に自分でアースダッシュを実演して見せたエミーまでもが同じ顔をしていた。

「難しい話は省きます。簡単に言うと、アースダッシュは移動する魔法ではなく、時空間に干渉する魔法なんです」

 スタールとエミーの顔に、疑問符が増える。

「物凄く乱暴な言い方をすると、自分が向こうに飛ぶのではなく、空間がこっちに来てくれるわけです」

「……無茶苦茶な魔法だったんだな、アースダッシュって」

 スタールはおぼろげに理解したが、エミーの顔には更に疑問符が増えていた。

「まあ、わかり易くするために物凄く乱暴な説明をしたので、語弊はあったと思います。実際には、そこまで無茶な魔法ではないんですよ」

 エミーの顔が疑問符で埋め尽くされ、もはや表情も見えない。針で突いたら、破裂して疑問符が外に溢れ出すのではないか。

「しかし、数ある魔法の中で、時空間に干渉する魔法はアースダッシュだけです。この特殊な魔法は、古の魔導師、レイン・タークスが考案したと言われ……」

「えっ」

 それまで黙って聞いていた霊華が声を漏らした。

「……霊華さん?」

「レイン……聞いたことがあるような」

 頬に人差し指を刺し、霊華は小首を傾げる。

「魔法黎明期の父とも呼ばれる有名な魔導師ですから、どこかで耳にしていてもおかしくないと思いますよ?」

 ECHOが覗き込むが、霊華は腑に落ちない様子だ。

「うーん、そうなのかな。そう言われてみれば、どっかで読んだような気もするし」

「そーなんだ? 私、初めて聞いた名前だよ」

 エミーが、からっと笑う。

「お前はもっと勉強しろ。戦士の俺だって聞いたことのある名前だ」

「兄貴は意外とインドア派のオタクだからなあ」

「インテリと言え」

「インドア派じゃなくて、インテリ派のオタクですねわかります」

 頭を小突く振りをしたら、エミーは大袈裟によけて、舌を出した。

「ま、レインはほとんど伝説上の人物なんですけどね。一応実在したことになっていますが、怨霊軍全軍を七日で壊滅させたとか、不老不死の秘法を完成させたとか、眉唾物の伝説ばかり語られている人物でもあります」

 ECHOは笑いながら肩をすくめる。だが、霊華の顔は真面目そのものだ。

「実在……したと、思う、多分」

 俯き加減で、誰にともなく呟く。少し、様子がおかしい。スタールは霊華の肩を揺すった。

「おい、霊華、大丈夫か? 疲れているのか?」

「え、あ、うん。大丈夫」

 びくりと身体を震わせてスタールを向いた霊華の顔は、いつもの霊華だった。

 ──キミ、見かけによらず、優しいんだね

 どうしてあの「霊華であって霊華でない彼女」を思い出したのか、スタール自身にもわからなかった。

「要するにー」

 エミーが人差し指をぴんと立てる。

「アースダッシュを使えば、脱出できるかもしれないってこと?」

 笑顔で理解した振りをしているが、明らかに勘で物を言っている。ということがスタールからは見え見えだったが、口には出さないことにした。

「正確に言うと、ちょっと違います。アースダッシュが時空間に干渉する部分を理論的に応用して、脱出を試みようという話です」

 エミーの笑顔が凍りつく。やはり、何もわかっていないようだった。

「わ、私には無理っぽいなー。あは、あははは」

「ご心配なく。そういう面倒なことは、私がやりますから。ですが、いくつか問題があります」

 ECHOの柔和な微笑が、微かに翳る。

「まず第一に、どれほどの魔力が必要になるかわかりません。ただアースダッシュを使うだけなら僅かな消耗で済みますが、閉鎖空間からの脱出です。多大な魔力が必要になることが予想されます」

 スタールと霊華の視線が下向く。エミーはそんな二人をきょろきょろと見やった。

 ECHOの言ったことは、つまり、閉鎖空間からの脱出が成功するまで、ECHOは魔法を使えないということだ。回復薬が底をついている以上、脱出のための魔力を温存しなければならない。

「次に……こちらの方がむしろ重要なんですが」

 ECHOが魔法を使えないということは、戦力の低下が著しいということでもある。となると、これ以上の戦闘は避けて、すぐにでも脱出を試みるべきだろう。

 だが、ECHOの言葉は、そんなスタールの希望を打ち砕いた。

「結節点を見つけなければなりません。最初、この洞窟は確かに外界と繋がっていました。ですが私達は、どこかでこの空間に紛れ込んでしまったんです。その外界との結節点を見つければ、脱出できます」

 話しているECHO自身も、ここでうなだれた。霊華は頭を抱えている。

「ECHOさん……その結節点は、どうやって見つけたら。首尾よく見つけたとして、そこが本当に外界との結節点かどうか、確かめる方法は」

「仰っていることはよくわかります。蜘蛛の糸のように細い希望でしょう。ですが、地道に探すしかありません」

 事ここに至り、ECHOの声からも力強さが消えた。常に構造が変化し歪み続けるこのダンジョンで、それは大海の水を小さなグラスで全て掻き出そうとする行いに等しい。まして、回復薬は既になく、ECHOは魔法を使えない。結界札も今使っているもので最後だとECHOは言った。つまり、休息して体力や魔力を回復させることも難しくなる。

 だが、二人の上級セイバーは顔を上げた。悲壮なまでの決意が、その瞳を彩っていた。

「……要するに、その結節点が見つかればいいんだろ?」

 スタールのこともなげな声は、そんな二人とは対照的だった。

「スタール君、エミーちゃんもECHOさんも、必ず私が護るから」

 霊華の真摯な眼差しを見て、スタールは自分とセイバー達との温度差を感じた。おそらく、霊華もECHOも、スタールが事の重大さを理解していないと思っている。

 俺達は、実際に幸運だろう。

 ECHOがいたから、ここまで来れたし、脱出の可能性も見えた。霊華がいたから、ECHOも助かった。この二人でなければ、既にパーティは十回以上全滅してまだお釣りが来ている。

 そして。

 スタールはエミーを見た。スタール同様、危機感の欠片もない。悲嘆に暮れる二人のセイバーを、鳶色の瞳はきょとんと見つめている。

 そして今ここに、エミーがいる。

「エミー……探せるな?」

 兄の目配せに、妹は満面の笑みでささやかな胸を反らせた。

「かくれんぼの鬼をやらせたら、私の右に出る者はいないのだ!」

 エミーのVサインが、翳る二人の顔を照らした。

 今度はセイバー達が、きょとんと首を傾げる番だった。

 回廊は、どこまでもどこまでも続いていくようだった。道は別れ、うねり、大木が大地の下で複雑に根を張る様を思わせる。大木との違いは、その根が、常に変化し歪み続けている点にある。一度足を踏み入れれば、決して出ることの叶わぬ大迷宮。それは、足を踏み入れた者を例外なく常世へと誘う渡し舟なのか。

 静寂の中を、四つの足音がこだまする。先頭を往くは、揺れる白金のポニーテール。その後ろに、鳶色の髪の鎧姿が一人と、ボーダーシャツに上着姿の少女が横に並ぶ。殿は、槍を構えた緑色。

 スタールは、前を行く白金のポニーテールと濃紺のロングコートを見つめる。この服を見るのは、二回目だった。「魔法戦士」の異名を持つA級セイバー雨月霊華が、その仕事を全うする時にいつも着ているという服だ。休憩を切り上げる時に、ECHOが戦闘指揮を霊華に一任した。霊華の瞳に漣が立ち、一瞬の後に見慣れたトラッドシャツとマイアスカートがロングコートに変わった光景が印象深い。

 かつてスタールは、この濃紺のロングコートに戦いを挑み、敗れている。その強さは、誰よりも知っているつもりだった。今その背中が、目の前にある。彼女の後ろ姿は、こんなにも心強いのか。スタールよりも頭一つ分は小さいのに、霊華の背中はなんと大きく、遠いのだろう。

「右……かな」

 顎に人差し指を当てて、エミーが呟く。霊華は頷き、慎重に曲がり角に近付く。死角に敵がいないとも限らない。常に敵の気配を探りながらではあるが、油断はできない。敵がいないことを確認すると、霊華は手招きをした。後続の三人が霊華を追う。

 エミーが行き先を指示し、霊華が哨戒する。その繰り返しである。

「それにしても」

 息を吐きながらの緑の声だった。

「やはり、俄かには信じられませんねえ」

 後ろを振り返らなくても、ECHOの視線が妹に注がれているだろうことをスタールは感じた。

「もしこれで、本当に結節点を見つけられたら」

 微かに凛とした声が震える。

「それはもう、『勘が良い』というレベルではないですよ」

「……そうなのか」

 長年エミーと一緒にいたスタールには、むしろECHO達の驚きが意外だった。

「敵のハイディングを見破ったり、攻撃を事前に察知したり……並々ならぬ感知能力です」

 手放しの感嘆が、そこにはあった。

「エスパーエミー! びしっ!」

「妙なポーズ取るな。集中しろ」

 両手を交差させ、身体を傾けるエミーをスタールは小突く。豚もおだてれば木に登ると言うが、エミーの場合は飛行器なしで空まで飛びかねない。

「『エスパー』というのも、強ち大袈裟に聞こえませんね」

 からからという笑い声が続くと、どこまで本気で言っているのかわからなくなる。

「私、公安にでも勤めようかな。超能力捜査官、エミー! びしっ!」

「もういいよ、そのポーズは」

 どんどん高い所へ登っていくエミーを引き摺り下ろす気力もない。

「んー……次、真っ直ぐ」

 十字路は、左右からの襲撃が危険だ。霊華が剣を構える。スタールの鼻にも、左右から漂う腐敗臭が入り込む。

「早速お出ましか」

 拳に力を込めると、刀身から血の渇きが腕を伝ってスタールの心臓へと流れ込むようだった。

 剣の求めに応じて飛び出そうとする。しかし、霊華の細い腕がそれを制した。

「私より前に出ない。スタール君は、私の後ろをお願い」

「俺なら大丈夫だ」

「ダメ」

 静かだが、有無を言わさぬ力強い声。紛れもなく、A級セイバーの声だった。

「ポーションはもうないんだよ? 今までみたいな戦い方じゃ、もたない」

「しかし霊華」

「闘気技も控えて。極力ダメージを食らわないように、身を守ることを優先すること。以上!」

 言い終わるなり、霊華が飛び出す。霊華の背後、即ち死角をフォローしろと、霊華は言ったのだ。

 ちらりと後ろを見ると、ECHOが槍を構えてエミーをかばうように立っている。

 少しだけ安心して、スタールは翻る濃紺のロングコートを追った。

 左右からゾンビの群れが重い足取りで押し寄せる。それらを相手に剣を振るう霊華の戦いは、静かなる剣舞だ。広範囲を一度に攻撃する技もなく、闘気を使った高火力の一撃もない。魔導師や普通の精霊師が使うような、派手な攻撃魔法もない。霊華は、ただ静かに、剣のみを振るう。時折その頭上に柔らかなヒールの光が降り注いでいるが、スタールには霊華が法器に持ち替えた瞬間さえ捉えることができない。その姿は、見えない精霊師を連れている戦士のごとく。

 これが、本気の「見えざる癒し手(インヴィジブル・ワン)」か。ふっ。

 霊華の背後を狙うゾンビの頭を割りながら、スタールは口元が笑むのを抑えられなかった。決して派手ではなく、一度に大量になぎ倒すでもなく、静かに一匹ずつ倒し、魔力の消耗は最小限のヒールのみ。このセイバーならではの戦いだろう。

 スタールもそれに倣い、闘気技を控え、一匹ずつ攻撃している。しかし、やはり性に合わないのだろう。闘気技で一度に殲滅したい衝動に駆られる。

 攻撃は最大の防御だ。と、スタールも信じて疑わない。霊華の戦い方は、時間がかかり過ぎる。時間がかかればかかるほど、被るダメージも増えるのは道理だ。だが、攻撃重視の戦い方が大きな消耗を伴うのも確かなのだ。回復薬が完全に底をついた今となっては、霊華の戦いこそがベストだとスタールも認めざるを得ない。

 一方で、スタールは彼我の差を痛切なまでに感じる。技術の巧拙だけではない。一撃必殺は狙わず、地味だが確実にダメージを積み重ねる霊華の剣。常により大きなダメージを与えることを重視し、敵を完膚なきまでに破壊しようとするスタールの剣。霊華の剣を、凪いだ水面の上で微風に踊る木の葉とするなら、スタールの剣は、水面を激しく波立たせる投石だろう。

 霊華の剣が、泣いている……。

 スタールの剣は敵を虐殺する悦びに打ち震える。斬れば斬るほど、血に乾き、飢えていくようだ。剣から全身に流れ込む悦楽をスタールは貪欲に啜り、飢えは更なる血を求めて力を漲らせる。だからこそなのか。対極にあるからなのか。スタールには霊華の剣が泣いているようにしか見えない。

 答を求めて霊華の顔を何度も追うが、蒼い瞳は何も教えてはくれなかった。

 エミーの小さな悲鳴が耳を突く。ECHOがゾンビを槍で貫いていた。目が合うと、にっこりと微笑んで頷いて見せた。

 今にして思えば。頷き返しながら、スタールは近付くゾンビの腕を切り飛ばし、返す刀で胴を薙ぐ。

 ECHOが戦闘指揮を霊華に任せたのは、この状況を想定したからなのだとわかる。そして、ECHOがここまで霊華をかばい温存させた真の狙いは、回復薬が底を突くことを織り込んだ戦略だったのだ。この極限状況下で、既にECHOはそこまでの策を巡らせていた。深緑の重装魔の智謀こそ、恐るべし。

 とことんまで俺達は、あんたの掌の上ってわけか。くくっ。

 更に別のゾンビの頭を切り飛ばした。血とも体液とも腐敗した皮膚ともつかないものが飛び散る。剣が歓喜に打ち震え、全力を振るいたい衝動は尚も強くスタールを揺さぶる。

 ECHOの智謀は、紛うことなき「強さ」だ。だが、それを真似することは自分にはできそうもないとスタールは思う。それでもその「強さ」は、スタールを心地良く酔わせて止まない。スタールの口元から笑みが消えないのは、敵を屠る快楽のためだけではなかった。

「霊華さんっ!」

 エミーの叫び。考えるよりも早くスタールの身体は動く。「霊華を護れ」と言ったECHOの顔が頭に浮かぶのはその後だ。

「……っく」

 胸に灼けるような激痛。むせると、口から鮮血が迸った。

 スタールの重鎧を貫くは、一本の矢。スタールが動かなければ、霊華を貫いていたに違いない。

「スタール君、すぐに抜いて!」

 叫びながら、最後のゾンビの胴を両断する。すぐさま法器に持ち替えてヒールを詠唱。スタールが矢を抜くのを見計らったように、柔らかな光が降り注いだ。

 飛来した方向に、金髪の女。既に二の矢を番えている。

「腐ってない奴だね!」

 二の矢がスタールと霊華、どちらを狙っているかは判別できない。霊華は素早くスタールの前に立ち塞がり、詠唱を始めた。

 敵が遠い……ウィンドアローか? ダメだ霊華、間に合わない!

 だが霊華の解放した魔法はヒールだった。発動直後から剣に持ち替え、走り出す。攻撃が来るとわかっていて、敢えてその方向へと走る。スタールからは考えられない戦い方だった。スタールならば、まずは攻撃をかわすか防御するかを考える。間合いを詰めるのは、その後だ。だが、霊華はそのいずれもしない。最初から、攻撃を受ける気でいる。それ故の、ヒールなのだ。

 幽冥境で霊華に戦いを挑んだ時の記憶が甦った。あの時も霊華は、スタールの放ったピアッシングを避けも防御もしないで真っ直ぐ突っ込んできた。スタールの予想を超えるその行動に胆を潰したことも、今はとても懐かしい。

 果たして矢は容赦なく飛来する。霊華は頭部を護るように両腕を交差させた。右腕に深々と突き刺さるが、無論霊華は止まらない。駆けながら矢を抜くと、傷口はすぐに塞がった。充分に、ヒールの効果時間内である。

 金髪の女が、三矢を番える。その動きに淀みはなく、感情もない。間合いはまだ、霊華の武器の射程圏外。スタールは、女の弓が少しだけ下に向いたのに気付いた。瞬動スキルを持たない弓使いが最も嫌うことは、間合いを詰められること。霊華の進攻が止まらないと判断した敵は、脚を狙うつもりだ。それに気付いているのかいないのか、霊華の速度は緩まない。

「霊華、脚だ!」

 叫ぶ暇もあらばこそ。第三矢に対して、霊華の身体は爆発するような白光に包まれた。真元爆発。一時的にではあるが、使用者の能力を爆発的に高めるこの光は、発動の瞬間いかなる攻撃も弾き返す無敵の盾となる。だが、これもスタールには理解できない。戦士の使う爆発と違い、精霊師の爆発は魔法攻撃力をアップさせる。剣による攻撃には何の影響も及ぼさないのが精霊師の真元爆発であるはず。ましてそれを、ただ一発の矢を防ぐために使うことが、腑に落ちないのだ。さっきのように、ヒールで凌ぐこともできたはず。

 女は第四矢を番える。間合いはかなり近付いているが、少なくともスタールの知る霊華の武器ではまだ届かない。敵としても、ここで霊華を止められなければ完全に不利な間合いになる。ならば狙いは、一撃で絶命せしめる急所。頭か、心臓か。

「ブレイズ!」

 澄んだ霊華の声が響く。金色の法器は消え、光と共に霊華の両手に現れたものは。

「は、八方のブレイズスピアだとっ?」

 魔法戦士の五行武器の一つ、メタリカことドラグーンランスさえ遥かに超える巨大な長刀。その華奢な腕のどこに、禍々しくさえある黒鉄の塊を羽毛でも扱うごとく振るう膂力があると言うのか。

 第四矢は放たれることなく、弓は両腕ごと地に落ちる。そのまま遠心力で回転し、勢いは殺されることなく女弓使いの、うじゃけた二つの傷穴めがけて急襲する。濃紺のコートが、魔鳥のごとく翻った。

「はっ!」

 気合の声は、ぱんという濡れた手ぬぐいを叩くような音を隠すことはなく。

「ごめんね……」

 霊華の血払いと、首がぼとりと落ちる音は、同時だった。

「みなさん、お疲れ様です」

 緑の声が、戦闘終了を告げる。ECHOのこの言葉は、周囲に敵がいないことを確認する声でもある。

 エミーがスタールに駆け寄り、アクアヒールをかけた。

「サンキュ、エミー」

 スタールの謝意は、回復へのもの、戦闘中の危機察知へのものの両方を含んでいた。

 エミーは眉を八の字にして頬を膨らます。

「もー! 兄貴はホント、見てて危なっかしいんだから」

「あの状況じゃ、しょうがないだろ」

「それはそうかも、しれないけど……」

 それでも納得はできないらしく、ぷいとスタールから顔を背けた。その先に、霊華の笑顔。

「でも、おかげで助かったよ。あれ、結構やばかったと思うし。ありがと、エミーちゃん、スタール君」

 小首をかしげて目を細める、そんな笑顔もスタールには少し眩しい。

「ふふ。エスパーエミーにお任せっ! びしっ!」

「なんかもう、めんどくさいな、お前」

 いちいちポージングをするエミーに、スタールは付き合いきれない。

「びしっ! こうかな?」

「れ、霊華?」

「違う違う。こう。びしっ!」

「……びしっ!」

 実は案外、いいコンビなのかもしれない。スタールはこめかみを押さえた。

「お疲れ様です、スタール君」

 ECHOがにこやかに近付いて来た。

「ん、ああ」

「スタール君、いい仕事をしましたね」

 気のせいか、いつもよりECHOの笑顔が優しいように思える。その言葉の意味をすぐには察することができないスタールだったが。

「あ、ああ。エミーの声で身体が勝手に動いただけ。いつものことさ」

 そんなことよりも、深緑の重装魔に褒められているという事実が面映い。

「やむを得ず、霊華さんを中心に戦っていただいていますが、それでも、今霊華さんを失えば我々が全滅することに変わりはありません」

 ECHOの瞳が、ポージングの練習をする二人を暖かく見守る。

「そして、今このパーティにA級セイバー雨月霊華がいることは、幸運以外の何物でもないのです」

 こんな状況だというのに、霊華はエミーに付き合って遊んでいる。束の間の休息。それもいいだろう。スタールの目も、知らず細まる。

「さっき一緒に戦ってみて、それは俺も痛感した」

 先程貫かれた胸に手を当てる。ポーションがないこの状況、霊華の回復は何にも増して貴重だ。スタール自身も戦士の回復スキル「ハイパーチャージ」を使う選択肢があるが、闘気の消耗が激しく真気も必要になるスキルでもある。おいそれとは使えない。

 何より、霊華のあの静かな戦い。攻撃は武器のみで、魔法は一切使わない。魔力の消耗は最小限のヒールのみ。それでも使い続ければいずれ魔力は減っていくが。

 そこまで考えて、スタールは霊華の真元爆発の意図を悟った。

 精霊師の爆発は、魔力を回復する効果がある。

 つまり、最小限のヒールによる消耗さえ、霊華は自力で回復することができる。事実上、回復薬を一切使わずに長時間戦い続けることができるということだ。

「A級セイバー雨月霊華の最大の武器は、実は、その作戦行動可能時間の長さにあります。私達重装備魔法職は、魔力においても武芸においても本職に劣ります。ですが霊華さんの場合、その一点において他の追随を許しません。このような極限状況で、彼女以上に頼もしいセイバーはいませんよ」

「あんた、そこまでわかってて霊華を……」

「さて、ね」

 涼しい顔でECHOは答える。さらりと、柔らかな緑の髪が揺れた。

 信じられない光景が続くことにも、スタール達は既に慣れてしまっていた。否、それは慣れと呼べるものなのか。麻痺と言う方が正しいのではないか。エミーの示す方へと歩を進めながら、スタールは思う。

 神殿かと思えば洞窟。洞窟かと思えば廃墟。廃墟かと思えば宮殿。まるでここはダンジョンの博物館だ。

 敵は、絶えることなく襲い掛かってくる。極力闘気技を控えていたスタールだが、それでも全く使わないというわけにもいかない。気がつけば、闘気も消耗し尽くし、剣を振ることしかできなくなっていた。エミーもアクアヒールの使い過ぎで、既に魔力は枯渇している。魔力も闘気も自然回復するものだが、休息が取れないのであれば回復量など高が知れていた。それでも霊華は戦い続ける。魔法はヒール以外を一切使っていない。

 霊華のこの強さは、一体何なのか。背中を追いながら、スタールは考えずにはいられない。

 ダメージは回復できるとは言え、それは攻撃が痛くないということではない。いくら消耗を抑えるためとは言え、敵を倒すのに時間がかかっているのは確かだし、その分ダメージも余計に食らう。理屈では、理解できる。魔力の消耗を最小限に抑えているから、霊華は戦い続けることができる。だがやはり、それは理屈に過ぎない。なぜ、耐えられるのか。こんな、気の遠くなるような戦い方を、痛みにひたすら耐え抜くような戦いを、どうしてここまで続けることができるのか。

 ──精霊師の戦いは護る戦い

 いつか聞いた言葉が甦る。攻撃魔法を使えば、もっと楽に敵を倒すことができるはず。それをやらないのは、消耗を抑えるため。消耗を抑えるのは、ヒールを使うため。つまり、護るため。

 霊華の背中には、頼もしさと安心感がある。今このパーティは、紛れもなく、この魔法戦士に護られているのだ。

 これが、霊華の戦い。これが、セイバーの戦いなのか。だとしたら、俺は。

 剣を握り締めるほどに、血に飢えたどす黒い何かがスタールの内部を満たしていく。霊華の力、霊華の戦いとは真逆のものが、スタールの力だった。

 護る剣、殺す剣……か。

「見つけたっ!」

 廃墟の奥、何の変哲もない袋小路でエミーは立ち止まった。

 スタールは頭を振り、自分を現実に引き戻す。

「エミー、ここなのか?」

「多分」

 エミーは瓦礫の向こうの壁を指し示す。

「間違いないのか?」

「多分」

「……多分、ですか」

 ECHOが渋い顔をする。何事も論理立てて考えるECHOのことだ。「多分」という言葉では、納得できないのだろう。無理もない。スタールは小さく息を吐く。スタールだからこそエミーの勘が「多分」であろうと信じて疑わないが、そうでなければ信じろと言う方が無理だ。

「ECHOさん、どの道私達には他にどうしようもないんだから、やってみるしか」

 霊華は剣を構え、突然の襲撃に備えている。目的地に辿り着いて、ホッとした時こそ危険だということを理解しているのだ。

 ECHOは大きな溜息を吐いたが、やがて口を真一文字に閉じて顔を上げた。

「信じましょう。仲間を信じられなくなったら、パーティは終わりです。それに」

 槍をしまい、久々にフロスグラムが姿を現す。

「いつまでもここに結節点が居残ってくれているとは限りません」

 空気が震えた。ECHOが全身で魔力を集中している。フロスグラムが小刻みに震える。ECHOの手が震えているのではない。まるで何かに共振しているように、法器自体がいなないているのだ。

「これから私の全魔力を集中して、時空間の歪みに干渉します」

 いななく法器は、いよいよ眩く輝きだした。

「少々時間がかかるかもしれません。みなさん、私が合図したら、どこでもいいので私の身体に触れてください」

「え。どこでも?」

 エミーの口元が邪に歪んだ。

「変なところはダメですよ?」

「ちぇー」

 身内の恥に、スタールはこめかみを押さえるしかなかった。

「ここまで、温存させていただきました。必ず、成功させて見せましょう!」

 法器の輝きは更に強まり、眩しいほどだ。その光に照らし出されるようにして、法器の向く方向が、まるで飴細工のようにぐにゃりと歪む。ECHOの萌葱色の髪が激しく逆立った。

「これは……」

 スタールは目をこする。目の前の光景が信じられない。

「おそらくこれが、結節点です。今みなさんが目にしている歪みこそ、私達をここに閉じ込めた張本人なのですよ!」

 法器の向く先だけが、ぐにゃぐにゃに曲がっていく。そこにあったはずの廃墟の壁さえ、もはや歪みで認識することも叶わない。

 まさにその時。

 スタールは強い殺気を感じて振り返った。ECHOも首だけを巡らせる。

「……こんな、時に!」

 吐き捨てるような語気は、普段の温厚なECHOからは想像もつかない。

 咆哮。それは廃墟全体を震撼させてやまない。禍々しくおぞましいその声の主は。

「ど、ドラゴンゴッズ!」

 龍に似た頭。巨大な体躯。鱗に覆われた太く短い四足。B級ダンジョン「朽ち行く迷宮」に潜む最凶最悪の魔獣である。スタールの脳裏に絶望の二文字がかすめる。ECHOは既に閉鎖空間を破りにかかっている。とても戦える状態じゃない。残りに三人だけで戦おうにも、既に回復薬はない。

「バカな。ECHOが既に倒したはずだ……」

 口にした後で、自分の間抜けさに反吐が出そうになる。この狂ったダンジョンで、一度倒したことが何の保証になると言うのか。

「スタール君、エミーちゃん。ECHOさんのこと、お願いね」

 スタール達に背を向けたまま、霊華が信じられないことを言う。

「ま、待て! ポーションが一つもない状態で、あれと戦うってのか!」

 脚に力が入らない。膝が小刻みに震えている。勝てるはずがない。いくらA級セイバーとて、回復薬が全くない状態で、勝てるはずがない。スタールの震えは止まらない。

「私があいつを引き離す。範囲攻撃をみんなに食らわすわけには、いかないもんね」

 濃紺のコートがはためく。魔法戦士の背中が遠ざかっていく。スタールの足は動かない。手を伸ばしたが、届くはずはなかった。

「ECHO!」

 震える声も構わず、スタールは叫んだ。

「しっかりしてください、スタール君。言ったはずです。仲間を信じられなくなったらパーティは終わりだ、と」

「霊華を、見殺しにするのか! 霊華が死んでしまう! 逃げよう! 一回立て直すんだ!」

 ECHOは歯を食いしばりながら、歪みを睨み付けている。萌葱の前髪が、激しく揺れた。

「残念ながら、もう私にも中断することはできません。よしんば中断できたとして、もう一度チャンスが回ってくる保証はないんです!」

「しかし!」

「兄貴!」

 湿った音が響いた。スタールの頬に鋭い痛みが走る。目の前で、鳶色の瞳に涙を一杯に溜めたエミーが振り切った手を胸元に戻した。

「霊華さんは、強いんでしょう? 兄貴は、私なんかより霊華さんの強さをよく知っているんでしょう?」

「え、エミー……」

 堰を切ったように、瞳から大粒の涙が零れ落ちる。

「しっかりしてよ、兄貴。兄貴がそんなんじゃ、私だって……」

 張られた頬が、熱を帯びていく。それは痛みであると同時に、温もりだった。

「うえっ……うぇっ……」

 両手で目をこすりながら、エミーが泣きじゃくる。このダンジョンで、何回妹が泣くところを見たのだろうか。何回、スタールは最愛の妹を泣かせたのか。

 スタールはエミーの頭を、そっと撫でた。

「すまない。お前の言うとおりだ。……信じよう、魔法戦士を」

 霊華の姿を追う。既にドラゴンゴッズをおびき出し、三人が範囲攻撃に入らない場所まで移動している。

 今まさに、魔法戦士が武器の一つ、五行武器最強のグローブが現れんとしていた。

「久々に使ってあげるよ……ヒュドラ!」

 魂石と呼ばれる魔力を秘めた宝石によって、霊華のグローブには水の魔力が宿っている。対するドラゴンゴッズは火の属性。ヒュドラはドラゴンゴッズに、より大きなダメージを与えることができる。

「しゅっ!」

 一呼吸の後、高速で拳打を繰り出す。精霊師としては、完全に規格外の拳打である。ドラゴンゴッズは殴打を意に介さず、鋭利な爪を振り上げた。一瞬早く、グローブが金色の法器に成り代わり、素早くヒールを連続詠唱。霊華に回避する意思は、ない。

 鉤爪が霊華の胸を抉る。重鎧の防御力は生きているとは言え、白い柔肌は裂け、鮮血が噴き出す。一見して致命的に見える傷も、先に発動しておいたヒールが即座に塞いだ。

「いっっったいじゃないのよ!」

 ヒュドラに交換し、醜い龍頭に殴打のラッシュを叩き込む。顔が歪むかと思われる猛打の中で、ドラゴンゴッズの口が開いた。

 魔法詠唱。火炎攻撃か、傷口を開く呪いか。

 いずれであっても、霊華には関係がない。法器を呼び出し、ヒールとは別の魔法を詠唱する。

 裂けんばかりに開かれた大口から飛び出すは、禍々しい紫色の光。小さな傷でも大怪我へと変える呪いの光だ。ECHOならば、ドラゴンゴッズにこの魔法を発動させたら負けだと言うだろう。しかし。

「私には、効かない」

 紫の光を上書きするように、蒼い光が霊華を包む。あらゆる呪いを除去する聖なる光、レストアだ。そのままヒュドラに交換する前に真元を爆発させる。霊華の目的は、敵の攻撃を防ぐことではない。ヒールの連続使用とレストアで消耗した魔力の回復だ。そして、爆発の魔法攻撃力アップの効果が残っている内に更にヒールを重ねる。ヒールの回復量が倍増し、それは霊華を護る盾ともなる。そこから外気に漂う真気を集め体内に取り込む「仙気」を発動。冒険者ギルドの定める、冒険者の戦闘能力の指標「クラス」において、「ロウクラス」に到達した者だけが扱える、一種の外気功だ。魔力体力の消耗なしに、真気のみを補給することができる。

 鉤爪が再び唸った。だが目を背けたくなるような傷口も、瞬時に回復する。

「効かないって、言ってるでしょ!」

 ヒュドラの繰り出す高速拳が、ドラゴンゴッズの顔面を容赦なくひしゃげさせていく。たまらずのけぞり、龍は大きく咆哮した。

「す……すげえ」

 この洞窟に入ってから、スタールは何度も信じがたい光景を目にしてきた。しかし今スタールが見ているものは、その中のどれにも劣らない。少なくとも、スタールにはそう感じられる。

「霊華の奴、本当に回復薬なしで。しかも、あのドラゴンゴッズが押されている」

 だらしなく口を開いている自覚はあったが、そんなことも気にならなかった。

「ドラゴンゴッズをポーションなしであそこまで圧倒できる人も、そういませんよねえ」

 純粋に感嘆しているのはわかるが、ECHOならそれくらいはやってのけるのではないかとスタールには思えた。

「まさに、魔法戦士の真骨頂と言えるでしょう。よく見ておいた方が良いですよ、スタール君」

 閉鎖空間を破っている最中だというのに、この軽口。やはりこの男も尋常ではない。

「霊華さーん! 頑張れー!」

 泣いた烏がもう笑ったのか、霊華優勢と見るや大喜びでエミーが応援を始めている。

「ですが……少し急いでもらった方が良いかもしれませんね。こちらはもうすぐ、ですよ」

 ECHOの髪が激しく波打ち、額にはいくつもの玉のような汗が流れていた。耳鳴りのような甲高い音は、フロスグラムから発せられているのか。

 その先に、歪んだ空間。だが、歪みの中で、僅かにこの廃墟とは別の景色が見え隠れしている。

「これは」

 見覚えのある景色だった。スタールは記憶を手繰る。確か、洞窟に入って間もない場所。スタールは歪みに更に目を凝らす。何か黒いものが三つ、地面に並んでいる。

 透明な飴細工のような歪みが、少しずつ解けていく。そこに並ぶ三つの黒い物。鱗に覆われた馬の頭。蝙蝠の羽が生えた頭蓋骨。桃色に血管を浮き出させた、四本指の人間の腕。

「俺が、最初に斬った怨霊……」

「そうです」

 ECHOもまた、歪みの向こう側を凝視していた。

「あの瞬間から、私達はこの迷宮に囚われていたんです」

 最初に異形に出会った場所。思えば、全ての怪異はそこから始まっていた。ほんの半日前のことのはずなのに、もう何ヶ月も経っているように、スタールには思えた。

「俺達は、帰れる、のか……?」

「ええ。帰れますよ。必ず」

 歯を食いしばるECHOの口にも笑みが浮かぶ。

「スタール君、霊華さんは?」

「そうだ、霊華!」

 戦いは佳境に入っていた。遠目に見ても、ドラゴンゴッズが弱っているのは明らかだ。対する霊華には、傷一つない。もはや戦いの趨勢は決していた。

 スタールは思い切り息を吸い込み、腹の底から声を振り絞った。

「霊華あああああ! 急げええええええ!」

 霊華は振り向かず、左手の親指だけを立てて見せる。

「スタール君、そろそろ魔力の限界が近いです。これ以上、ゲートを維持できない。早く、私の身体に! エミーさんも!」

 ECHOの声から余裕が消える。スタールはまず、エミーを呼び寄せた。

「エミー!」

「うんっ」

 エミーがここぞとばかりにECHOに抱きついた。スタールは頭を引っぱたきたい衝動に駆られたが、今はそれどころではない。

 霊華、頼む。急いでくれ……。

 祈るような気持ちで、スタールはECHOの肩に手を置いた。

 ドラゴンゴッズの息遣いは荒い。体力が残っている内は、ボスクラスの怨霊にも傷の再生が起こる。だが、原形を止めないほどに変形した龍の頭部に、再生の兆しはない。

 対する霊華に、呼吸の乱れはない。魔力も充分残っている。一切の支援アイテムの力を借りず、ここまでの戦いを繰り広げるこのA級セイバーはまさに、魔法戦士を冠するに相応しい。

「もう、時間がないってさ。さよならだね」

 ヒュドラをしまい、金色の法器が現れる。呪文の詠唱は、最後のヒールとなるだろう。

「最後だから、サービスしちゃおうかな……ナサローク!」

 ヒールの光が降り注ぐと同時に、魔法戦士の両手に巨大な斧が現れた。五行武器の一つ、土の力を宿した大斧ナサロークである。スタールが二人いても持ち上げることすら叶わぬであろう巨大な斧を、霊華は軽々と振りかぶる。

「まだかっ、霊華っ!」

 スタールの叫びは切羽詰っている。いよいよ、時間がないようだ。霊華は走り、ドラゴンゴッズの目の前で跳躍した。

 龍の口が、コートをはためかせて空中を舞う霊華を追う。開いた口の中に、魔力の炎が点る。次の瞬間、それは超高熱の火柱となって霊華の全身を包んだ。

 だが、見よ。紅蓮の業火をその身にまといながら巨大な斧を振り上げる、魔法戦士の勇姿よ。邪悪なる炎は、その白金の髪一本、焦がすことはできない。その姿は、真紅の炎を供に従えた、強く美しい戦女神に他ならない。龍の虚ろな目が、見開かれる。怨霊さえも魅了するのか、魔法戦士よ。

「斬っ!」

 片膝を付き、着地する。魅了されたままの龍の瞳は、既に自らが死んだことをも理解できまい。

 立ち上がり、霊華は血払いのために大斧を一振りする。コートの裾が、魔鳥のごとく翻る。

「邪妖、滅殺」

 龍の頭部が、左右に割れた。黒血が噴水のごとく噴き上がる。断末魔さえ忘れ、轟音と共に巨体が地に転がった。

「霊華ーっ! かっこつけてないで、早く来いいいいい!」

 悲痛なまでに切迫したスタールの叫びだ。霊華はナサロークを鞄に戻し、全速力で駆け出した。

 霊華が走る姿も、今のスタールにはもどかしくてならない。どうして精霊師にはウィンドウォークがないのか。無茶なのはスタール自身もわかってはいたが、そう思わずにはいられないのだ。

「霊華さんは、まだですか!」

「もう少し、もう少しだから頑張ってくれ、ECHO!」

 ECHOのシャツが、汗でびしょ濡れになっている。元々深い緑色のシャツだったが、濡れたことで更に深い色になっていた。

 さっきまでクリアに見えていた三匹の異形が、再び歪み始めている。ECHOの言った「ゲートを維持できない」とは、そういうことなのだ。

「まだですか!」

「霊華さーん! 早く早く!」

「霊華!」

 霊華は確実に近付いているが、それでも間に合うのかどうかスタールには判断できない。ゲートの歪みは増していく一方だ。

「……くっ! 間に合うと、信じますよっ! 行きます!」

 ECHOの口が、何かの呪文を唱え始める。それが改変されたアースダッシュの呪文であることをスタールは理解できない。しかし、この呪文が終わった時、ECHOとその身体に触れている者は「向こう側」へ連れ出されるのだろう。

 霊華がスタールに向かって跳躍した。両手を一杯に伸ばす姿は、まるで愛しい男の胸に飛び込むようだった。

 このダンジョンでは、時間の流れもまた狂っている。ならば、今スタールが感じているこの時の流れもまた、ダンジョンの呪いなのか。

 霊華が飛んだ瞬間から、全てがゆっくりと動いている。スタールは左手を伸ばした。背中ではない、霊華の白い手へと伸ばした。その手を掴むことが、今のスタールの全てだった。手を伸ばせば、必ず届く。そして、決して放したりはしない。スタールの腕に、紅蓮の意志が宿る。

 全てがスローモーションで動く世界の中で、少しずつ少しずつ霊華の手が近付いてくる。もどかしさで、スタールは気が狂いそうになる。自分の腕が、ほんの少しでも伸びることを願った。

 もう少し。もう少し。もう少し。

 指先に全神経が集中する。今なら、微細な空気の流れさえ読めるに違いない。だが、スタールが欲しいのは、白くしなやかな霊華の指だけだった。

 今にも届く。もう、触れる。

 スタールの手に全身の力が集中する。霊華の華奢な手首をしっかりと掴み、全力で引っ張る。そして、自分の右手が置かれているECHOの肩へと。

 瞬間、白光が爆発した。真元爆発より尚白く、強く眩しい光。全身が引き伸ばされ、押し潰される。何も見えず何も聞こえず、立っているのか横たわっているのかもわからない。上も下もなく、右も左も前も後ろもない世界。自分は一体どこにいるのか。ここはどこなのか。全てが白く染まった世界で、何も見えず何にも触れることはない。肉体を失うということは、こういうことなのではないか。あるいは、これが死ぬということなのではないか。恐怖も感慨もなく、霞がかかったような頭でスタールはぼんやりと思う。

 時間はどこにあるのか。永遠はここにある。刹那は永遠へと連なり、永遠は刹那へと収束していく。

 目を覚ますと、見覚えのある洞窟の中だった。

 身を起こすと、仲間達が倒れている。すぐ近くには、最初にスタールが屠った三つの異形の屍があった。

「戻って、来れた……のか」

 立ち上がろうとすると、眩暈がした。頭を振りながら、しかし立つのは中断した。戻って来れたのだ。もう何も、心配はいらないのだ。急いで立ち上がる必要がどこにあると言うのか。スタールは地に尻を付き、大きく息を吐いた。

「……まさか、出て来れるとはねー」

 心臓が口から飛び出すのではないかとスタールは思った。聞き覚えのある、女の声。無邪気で悪戯で、どこか妖艶なこの声は。

「真夜……」

 革のジャケットと、ジャラジャラ音を立てるほどミニスカートを飾るシルバーアクセ。血のように紅い瞳と、同じ色のしっとりとした口唇。長い黒髪を一つに結っているが、ポニーテールと言うには位置が高すぎる。

 無邪気で残酷な暗殺師の少女が、艶然と笑っていた。

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