第三話 護る剣

4 心の中の魔物

 俺は一体、何度この光景を見せられたのだろう。

 倒れ伏す蒼き衣。俯くパーティメンバー。白い虎の姿をしたセイバー。

 そして、頭部を失って横たわる、親友の亡骸。

 わかっている。

 やがて、彼は起き上がるのだ。損傷の激しい重鎧と、それ以上に傷だらけの身体で。血の気の失せた肌は土色で、どんなに目を凝らしても、彼の頭部はどこにもない。足元には、彼のものだった毛髪と、血と、灰白色の何か。

 彼は両手を俺に向けて伸ばす。覚束ない足取りで、俺に近付いてくる。

「この戦士は生前、君に特別な思いがあったようだ。せめて君の手で安らかに眠らせてあげなさい」

 白い虎が厳かに言うのもいつも通りだ。

 生前? 生前?

 そうだ。彼は死んだのだ。

 俺の目の前で、蒼き衣に頭を踏み砕かれた瞬間に。

 では、ここにいるものは何なのだ。

 ──もし俺が怨霊に体を乗っ取られたら、殺してくれ。お前に殺されるなら本望だ

 わかっている。

 俺の行動も、何も変わらない。

 呪文を詠唱すると、魔札に魔力の炎が点るのがわかる。

 炎。太古の昔より、全ての不浄を焼き尽くし浄化すると信じられてきたものだ。

 なぜ、俺は親友を焼こうとしているのか。

 わかっている。

 彼の身体は怨霊に乗っ取られたのだ。

 彼は、もう死んだのだ。

 わかっている。

 わかっている。

 だから、俺はその怨霊を燃やすのだ。

 彼を燃やすのではない。彼を殺すのではない。

 わかっている。

 わかっている。

 仕方のないことだ。

 わかっている。

 わかっているんだ。

 だが、どうしてだ。

 魔力を充分に蓄積した魔札が、俺の手を離れようとしない。

 目の前にいるのは、怨霊なのだ。

 俺の親友ではない。

 わかっている。

 わかっている。

 わかっているのに、どうしてなんだ。

 どうして。どうして。どうして。

「エコ、エコ、エコー!」

 聞き慣れた、若い女の声。揺さぶられている。そうまでされたら、目を覚まさざるを得ない。

「……おはよう、るみこ」

 枕が濡れているのを感じる。あの夢を見た時は、いつもそうだ。頬がひんやりと濡れているのもいつものこと。努めて笑顔を作ったつもりだが、上手くいったかどうかに自信は持てない。

「……エコ、またあの夢を見たのね?」

 胡桃色の柳眉の端を少しだけ下げて、るみこは溜息を吐いた。眉と同じ色のセミロングヘアがさらりと揺れている。黒瞳を染める不安の色に、胸が少し痛んだ。

「見ずに済むのなら、それに越したことはないんだけどね」

 身を起こしたら、大きな欠伸が出た。窓から、朝日が差し込んでいる。雀の声には、平穏が象徴されているようだ。

 見慣れた部屋。朝を彩る小鳥の(さえず)り。最愛の妻。全ては日常で、見慣れた風景……のはずだ。

「どうしたの?」

 外耳を撫でるように髪をかき上げる仕草が愛らしい。だが……何だろう、この感覚は。俺は、何か大切なことを忘れているんじゃないだろうか。そんな違和感が、目覚めた時からずっと付きまとっている。

「……いや、何でもない。きっと、気のせいさ」

 目元を寝巻きの袖で拭うと、るみこが黙ってハンカチを差し出した。

「鼻水も出てるわよ?」

 くすりと微笑みながらそんなことを言われれば、俺でなくとも気恥ずかしくなるだろう。ハンカチを受け取ろうと手を伸ばしたが、るみこの手はそれより早く動く。

「拭いてあげる」

「こら、子供じゃないんだから」

 抗議はするが、言った所でやめないだろうこともよく知っている。結局、いつもの通り成すがままになるのだ。

「エコー、今日は一緒にお母さんに会いに行くんだから、身奇麗にしないとね」

「……うん? そうだったっけ?」

 はて? そんな予定だっただろうか。記憶を手繰るが、上手く思い出せない。

 ……待て。今日は、いつだ? 俺は昨日、何時に帰ってきた? 昨日俺は、どこで何をしていた?

 全く思い出せない。おかしい。何かが、おかしい。

「二人で、きちんと報告しないとね……離婚」

 耳を疑った。

「……な。り、離婚?」

 るみこは薬指にはめてある指輪を、ゆっくりと外していく。

「昨夜、きちんと話し合ったでしょ? ……もう、私達、ダメだって」

「ま、待て。知らない。何を言っているんだ、るみこ? 悪い冗談だ」

 凍てついたナイフが、心臓を貫くようだ。血液が全て、床に向かって落ちていく。ベッドから半身を起こしたまま、動けない。まるで、身体が身動き一つで大罪になると恐れているようだ。

「そうね。きっと、貴方にとっては忘れてしまうほど、軽いことなのね」

 俯く瞳から、きらりと光るものが零れた。身体中に心臓が転移したかと思った。なのに、凍えそうに寒い。

「違う! 知らない! 俺は本当に何も知らないんだ!」

「もういい、もういい!」

 俯いたまま、るみこは首を何度も横に振る。その度に、涙が飛散するようだった。

 頭の中が真っ白になる。

 ダメだ。考えろ。なぜこうなった? 何があった? 今、何が起こっている?

 考えろ。いつだって、どんな苦境だって、俺はそうしてきた。

 考えろ。

「るみこ!」

「ごめんなさい……私、やっぱり、貴方とは、もう」

 嗚咽を手で抑え込むようにして、るみこは駆け出した。追わなくてはならない。すぐさまベッドから降りようとしたが、足が動かなかった。両足に思い切り力を込める。布団を蹴飛ばすつもりだったが、全く動かない。

 手は動く。

 布団を掴んで、力一杯に引っ張り上げた。

「う、うああああああ!」

 重鎧を着た傷だらけの男が、布団の中で俺の足をがっちり押さえ付けている。血の気の感じられない土色の肌。そこに、頭部はなかった。

「エコ、エコ、エコー!」

 目を開けると、泣き出しそうなるみこの顔があった。

「……夢、か」

 身を起こしながら、知らず手が胸を撫で下ろす。

 だが、なんという悪夢か。るみこと別れるなんて。

「大丈夫? すごくうなされてるみたいだったから、私、心配で心配で」

 祈るように両手を組んで、瞳には零れんばかりの涙。心配をかけてしまった。そう思う反面、こんなに思ってもらえることに、胸の中が温もりで一杯になる。

「大丈夫だよ。ただの夢、だから」

 そっと胡桃色の髪を撫でると、上目遣いの愛らしさに胸がどきりとした。

「どんな夢だったの?」

「酷い夢さ。口に出すのも躊躇うほど」

「……そう」

 柳眉の作る美しい八の字の形が変わらない。俺は、今この胸に溢れる温もりと、悪夢が悪夢に過ぎなかったことの感謝を口に出すことにした。

「るみこ、愛してる」

 頬を朱に染め、照れ隠しにぷいと顔を背ける仕草も思った通りで。

「私も愛してる、エコー。だから──」

 ……だから?

 だから、とは何だろう。

 るみこの黒瞳がきらりと光った気がした。

「だから、エコ……死んで?」

 いつからそんなものを持っていたのか、るみこの手に握られた匕首(あいくち)が朝日を反射して煌いた。

「る、るみこ?」

 るみこは匕首を顔に近づけ、にやりと笑う。

 背筋がぞっとした。目の焦点も、定まっていないように見える。

「うふ、うふふふふ……好きよ、エコ、だーい好き。うふふ、うふふふ」

 るみこの、るみこの舌が、まるで蛭のように匕首を這いずって。そんなことをしたら、舌が。

 案の定、るみこの舌は鮮血を迸らせているじゃないか。

 寒い。鳥肌が立つ。

「エコ、エコ、エコ、ね、死の? 一緒に、死の? いいでしょ? ね?」

 四つん這いになってベッドを這い近寄る姿は、女豹だ。寝巻きをはだけさせながら、にじり寄ってくる。白い肌が眩しい。血まみれで匕首を握っていなければ、むしろ願ってもない状況……バカを言うな。

 こんな、こんなのはるみこじゃない。少なくとも、俺の知っているるみこでは、断じて、ない。

「しっかりしろ! 一体、どうしたって言うんだ!」

 目を覚まさせようと肩を揺さぶる。

 だがあっさりと払い除けられ、逆に喉笛を掴まれる。

 戦士として修練を積んだその膂力は、俺の及ぶものではない。気道を圧迫され、呼吸がまともにできない。

「うふふふ……つかまえた」

 力任せに押し倒される。そのままるみこは馬乗りになり、匕首を……。

「ああああああああ!」

「エコ、エコ、エコー!」

 目を開けると、泣き出しそうなるみこの顔があった。

「大丈夫? すごくうなされてるみたいだったから、私、心配で心配で」

 さっきと寸分違わない、るみこの顔と言葉。

 夢……? 本当に、夢だったのか?

 おかしい。何かがおかしい。

 俺は、何か大事なことを忘れてはいないか?

「ほら、エコーが大きな声を出すから、また泣き出しちゃったじゃない」

 どう見ても、るみこに間違いない。胡桃色の髪も、深く澄んだ黒瞳も、優美な柳眉も。

 だが、この「るみこ」は本当の「るみこ」か?

「おー、よしよし。パパが大きな声出しちゃったからねー。ごめんねー」

「……るみこ、『それ』は?」

 こちらに背を向けるるみこが、大事そうに「何か」を抱えているのはわかる。るみこの態度から、「それ」が何であるか、想像がつかないほど俺も野暮ではない。

「エコったらひどい! 私達の赤ちゃんをそんな風に言うなんて!」

 柳眉を逆立てて、頬を膨らませるその仕草も、俺のよく知るるみこそのものだ。

 だが。

 産着から垣間見える赤黒いモノが何であるかに関わらず、そもそも俺とるみこは子供を授かってなどいない。

 これは……これも、悪夢なのか?

「エコも、この子におはようのチューしてあげてっ」

 満面の笑みでるみこが振り返る。

 その腕に抱えられた「それ」に、頭はなかった。

 「それ」は、どくどくとどす黒い液体を吹き上げる、赤黒い四肢を持った……。

「うっ、あ、ううっ、あうっ」

「エコ、エコ、エコー!」

 目を開けると、泣き出しそうなるみこの顔が……もう、もういい。

 おかしい。これは異常だ。

 目を覚ました俺に、るみこはホッとしたように微笑んでいる。

 だが、「これ」は本当に「るみこ」なのか。

 これは夢なのか、それとも、現実なのか?

 違う。現実などであるはずがない。今まで見てきた「るみこ」は、断じてるみこではない。

 考えろ。今、俺が置かれた状況は何なのか。

 気になってしょうがないのは、ずっと付きまとっているこの違和感だ。何かを思い出しそうで思い出せない、奥歯にモノが挟まったような不快感。

 次におかしいのは、今日がいつなのかも全くわからないということだ。昨日何をしていたのかも、まるで憶えていない。

 いつから俺は「ここ」にいるのか。

 周囲のもの全ては、るみこを含め見慣れた風景だ。しかしどうだ。昨日も今日も認識できず、延々と悪夢からの目覚めを繰り返す俺は、まるで牢獄に閉じ込められた囚人だ。

 牢獄……。もしここが牢獄ならば、この見慣れた風景は何だ? 独房に描かれたトリックアート?

 だとすれば、俺の目に映る全ても偽りである可能性がある。

 るみこが腕を絡めてきた。熱い吐息が耳にかかる。何かを囁いているが、これも全て虚像かもしれない。

 そしてここが牢獄で、俺が閉じ込められたとするならば、そう仕向けた何者かがいるはずだ。それは、俺にとって敵であることは間違いないだろう。

 「ここ」は、俺の自宅を完璧なまでに再現している。そんなことは、その家に住む俺自身かるみこでもない限り、不可能だ。何者が俺を陥れたにせよ、その何者かが俺の家を詳細に知っているとは到底思えない。

 ひんやりとした手が、俺の腹から胸へと這い上がる。しっとりとした肌の感触。るみこの手だ。いや、これはるみこではない。思考を止めるな。惑わされるな。考えろ。考えろ。

 つまり、「ここ」は、他ならぬ俺の心が作り出した空間であると仮定できる。それが敵の攻撃だとするならば、これは。

 熱い吐息が耳を撫でる。背中がぞくりとし、身体がピクリと震えた。ぬるりとした感触が首筋を這うのがわかる。動機が早まり、血液の温度が上がった気がした。

 目を閉じる。偽のるみこの顔は、いらない。そんなことより、考えろ。

 答は、手の届く所にある。

 これは、敵の攻撃なのだ。

 では、敵とは何だ? 俺は誰と……いや、何と戦っている?

 俺は「ここ」へ来る前、どこにいた? 何をしていた?

 この異常すぎる空間に……異常……異常な空間……異常な敵。

 異形の、敵。

 頭の中で、何かが弾けた。

 俺は全身から魔力をかき集め、右手に収束させる。

 俺の想定通りなら、ここにはあるはずだ、必ず。

 魔力が集中するほどに、右手の中に確かな感触が蘇っていく。

 丹田に力を込める。腹の底から全力で叫ぼう。この牢獄を、破るために。

「フロスグラム!」

 目を開けば、そこに確かに愛用の武器の頼もしい光があった。

 絡み付き、俺の首筋に吸い付いていた「るみこ」が、身を硬くするのが感じられる。

 確信した。やはり、「これ」はるみこではない。

 一息で呼吸を整え、再び魔力を集中する。全身が熱を帯び、右手へ集まると、そこから更に法剣へと流れ込んでいく。

「フレイムウィング!」

 翼を広げた紅蓮の鳥が、身体にまとわりつく悪夢を焼き焦がしながら吹き飛ばした。

 瞬間、世界が暗転する。ベッドも窓も朝の光も、全ては暗黒の中に消えていく。ただそこに、るみこそっくりの姿をした悪夢だけを残して。

「全て思い出しました。虚像とは言え、私に妻の姿を攻撃させた罪、償っていただきましょう」

 悪夢……いや、異形の怨霊は炎に包まれ、るみこの姿のままうつ伏せに倒れている。だが、これで終わりではないはずだ。

「エコ、エコ、エコー……」

 呻く声は、もはやるみこのそれではない。女の声ですらなかった。低い、男の声。……だが、この声、どこかで。

「えこー、ええ、えこ、えこおおおお……」

 肉の焦げる臭い。偽りの皮膚も、炎に焼かれれば臭いを放つのだろうか。

 むっくりと、上半身だけが身を起こした。顔は焼け爛れ、皮膚の下から明らかにるみこではない誰かの顔が覗いている。

 炎が顔を焼くほどに、偽の肌が溶け崩れていく。文字通り、化けの皮が剥がれるというわけだ。

「なぜ、なぜだ、えこおお……」

 ずるりと、化けの皮が滑り落ちた。同時に、頭部自体もそれについていくように落下する。目を背けたくなるような光景の中で、ほんの一瞬だが、俺は確かに見た。

「えこお、えこお……」

 胴体が立ち上がり、自らの頭部を鷲掴む。それは高々と掲げられ。

「そんな。そん、な……」

 死神が凍てつく手で俺の胆を握り潰そうとしているのではないか。全身の血が逆流しているようだ。全てを思い出し、闘志に沸騰していたはずの血液が、今は氷のように冷たくなっている。

「また、俺を殺すのか……ECHO」

「う、うあ、あああ」

 足に力が入らない。法剣が重い。両腕が上がらない。俺の腕は、いつからこんな、鉛の塊みたいになったんだ?

「なぜだ……どうしてだ、ECHO? なぜ、俺を殺したんだ……?」

「ち、違う」

 腕だけじゃない。全身が重い。足が根でも張ったようだ。

 近付いてくる。その胴体は「るみこ」のままなのに、その右手に掲げた顔は。

 これは虚像だ。敵が作った幻だ。

 わかっている。そんなことはわかり切っている。

 だが、足の震えが止まらない。

 彼は、「彼」が、亀の歩みのようにゆっくりと、しかし処刑人のように確実に近付いてくる。

「君は、既に死んでいたんだ! 俺は、ああするより他になかった!」

 俺は、何を言っている?

 幻相手に、何を言っているんだ?

 それでも、それでも、ああ、俺は、俺は。

「なぜ、俺は死んだんだ……なぜ、お前は生きている? なぜ」

 彼は、燃え続け、焼かれ続けている。全てが暗黒に包まれているのに、炎は焼け爛れる彼の顔を隠してはくれない。

「お前なら、俺を死なせずに助けることができたんじゃないのか?」

「……それ、は」

 どれほど考えただろう。どうして彼は死んだのか。死ななければならなかったのか。無謀なパーティ編成だったからか? パーティメンバーの一人一人が未熟すぎたからか。それとも。

「パーティ編成に無理があったんだ。それに加えて、あの魔道が」

 パーティが蒼き衣と戦っていた時、一人だけ姿を消していた者がいた。その魔導師は、倒れたメンバーから金品を奪い、逃げた。ヤツは、初めからそれが目的だった。

「全ては……パーティが全滅したのも俺が死んだのも、そいつのせいだと言いたいのか、ECHO?」

 そうだ。だから、俺は悪くない。全て、仕方がないことだった。

 なのに俺は、友を失っただけではなく、その亡骸までも屠らなければならなかった。

 悲劇だ。不運だ。不幸だ。

 ずっと、そう言い聞かせようとしてきた。

「答えろ、ECHO」

「……わからない」

 それで自分を納得させることができていれば、どんなに楽だっただろう。

「もっと早くヤツの狙いに気付いていれば。事前にもっとダンジョンと蒼き衣のことを調べておけば。もっと冷静に判断していれば。もっと的確に行動していれば。そう思わなかったことはない」

 ずるり、という彼の足取りは変わらない。俺の身体は一層硬く重く、冷たくなっていく。

「俺のせいだ。俺のせいだ。一つでも何かが違っていれば、お前を死なせることはなかった。全部、俺のせいなんだ」

 首に見えない何かが巻き付いている。感触も質量もないはずなのに、確かにそれは、俺の首をゆっくりと締め上げている。呼吸が、知らず浅くなる。

「そうだ、ECHO。お前のせいだ。全てお前のせいなんだ。なのに、なぜお前はのうのうと生きている?」

 すまない、すまない。俺の、せいで。お前は、もうすぐ結婚して幸せになるはずだったのに。俺のせいで。俺のせいで。

「ECHO……寒いんだ、ここは。とても、とても寒いんだ。苦しいんだ。寂しいんだ」

 苦しい。呼吸は止まっていないのに、息をしている気がしない。なのに心臓ばかりが破裂しそうだ。身体全体が破裂しそうで、しかし、一方で身体全体が鳥の巣箱にでも入ろうとしているかのように押し潰されている。

 どうして、助けられなかったのか。

 どうしたら助けられたのか。

 いや、どうやったって、無理だった。

 確かに、俺は未熟だった。あの時の俺にはあれが全力だった。

 だが俺は、「どうやっても彼を救うことは不可能だった」という事実を、受け入れられない。

 それを受け入れてしまったら、俺は一体誰を責めたらいいんだ?

 友を失った悲しみを、誰にぶつければいい?

 許せなかった。今でも許せない。そしてこれからも許すことはできないだろう。

 友を救うことのできなかった、自分を。

「ECHO……来てくれ。お前に、傍にいて欲しいんだ」

 頭部を掴んだ右腕が引かれ、代わりに匕首を握り込んだ左手が突き出された。

 ぎらりと輝く匕首に、吸い込まれそうになる。動かなかったはずの身体が、匕首に向かって独りでに動き出していた。

 苦しい。少し、疲れもした。

 もう、いいのだろうか。友を殺したというこの重い十字架を、もう下ろしてもいいのだろうか。

 友の匕首にかかれば、俺は俺を許せるだろうか。

 ──もし俺が怨霊に体を乗っ取られたら、殺してくれ。お前に殺されるなら本望だ

 お前は、本当に、それで良かったのか?

 今でも、そう言ってくれるか?

 そうだな。

 わかっている。

 信じるさ。お前のことだ。信じるよ。

 でもお前は、友を殺さなければならなかった俺の気持ちを……わかってくれるだろうか。

 重いんだ。苦しいんだ。

 どんなに「仕方がなかった」と自分に言い聞かせても、どんなに「ECHOは悪くない」って言ってもらっても。

 とても、苦しいんだ。苦しかったんだ。ずっと、ずっと。

 匕首が振り上げられた。

 きっと、すぐに俺の喉笛を掻き切るだろう。

 ようやく、解放される……。

 きらりと、何かが光った。

 匕首を握る左手は、見慣れた愛しい白い肌。

 その薬指には、リング。

 ──ずっと、傍にいてね

 右手に、鋭い痛みが走る。

 ぼんやりとした頭で痛みを見やると、そこに匕首が突き刺さっていた。

「なぜ、抗う、ECHO?」

 抗う? 確かに、右手が匕首を止めるように、急所をかばうような位置にある。

 なんだ、これは? なぜ、止めた? 俺は、なぜ。

 ──私も、エコの傍にいるよ

 ああ、そうか。

 俺は、死ねないんだ。死ぬわけにはいかないんだ。

 そうか。そうだ。そうなんだ。

 なんだ、簡単なことじゃないか。

 彼女が、微笑んでいる。

 何よりも大切な、大切な、あの笑顔。

 首に巻きついていた何かがふっと消えた。

 俺を内側から破裂させようとしていたもの、外側から押し潰そうとしていたものまでも消えた。

 呼吸が戻り、心臓が正常な拍動を取り戻しつつある。全身に血液が巡り始め、温もりを取り戻す。

 身体がふわりと軽くなった。

 温もりを感じた。

 心の中で愛する人が微笑むほどに、温もりに包まれ護られているような、そんな気がした。

「……フロスグラム」

 法剣が手の中に戻り、一際強い光を放つ。その光さえも暖かい。

 「彼」は……いや、やはり彼もまた偽者なのだ。

 違うな……偽者じゃない。

 あれは、俺の心の中に確かに潜む、俺自身の姿だ。

「なぜだ、なぜ抗う? せっかく楽になれたものを」

「楽なんて、いらないんだ」

 どこかへ消え失せていたと思われた魔力を、もう一度全身からかき集める。

「俺は自分を許せないし、やはりこれからも許さないだろう。だが、それでいい。重い十字架を背負ったまま、苦しみながら生きていくさ。それが、俺が俺に課す贖罪だ」

 輝きを増すフロスグラムから目を逸らすように、「彼」は後ずさる。

「なぜだ……そんな苦しみを一生背負い続けると言うのか。なぜだ? なぜそこまでして苦痛の生を全うしようとする?」

「人生、苦痛だけじゃないってことさ」

 左手に魔札。そこに、全ての魔力を注入する。一切の不浄を焼き尽くす浄化の炎、スローフラッシュ。

「ECHO、えこおおおおおお!」

「さよなら、だ」

 特大の魔力の輝きが「彼」を包み込む。瞬間、それは太陽のように辺りを照らし出した。

 暗黒が消える。何もかもが、真っ白な光に包まれていく。

 優しくて柔らかくて、とても暖かい光だった。

 目を開くと、薄闇が広がっていた。

 肌にまとわりつく、ねっとりとした不快な空気。ひんやりとした地面と、ぬらりと湿気に輝く洞窟の壁面。

 戻って、来れたようだ。

 起き上がると、軽く眩暈がした。頭を振りながら、フロスグラムを鞄から呼び出す。

 足元には、三人の若い男女が横たわっている。霊華もスタールもエミーも、とりあえずは無事らしい。

 いや、三人が俺と同じ目にあっているならば、あまり無事とも言えないだろう。

 周囲に敵の気配がないかどうか探りながら、まずは霊華の様子を見る。眉間に皺を寄せ、時々苦しそうに瞼が震えていた。

 やはり、か。

 百足の死骸に変わったところはないようだ。あの黒い煙のようなものも、嘘のように消えている。

 どういう理屈かはわからないが、おそらくあの煙が精神攻撃の引き金になっていたのだろう。あれを一種のデバフと見るならば、治療できるかもしれない。條霊錠を使ってみるか。……もっとも、これで治療できないとなると、他に方法もなくなってしまうが。

「ちょっと失礼しますよ、霊華さん」

 幸い、歯を食いしばってはいない。口を開かせ、條霊錠をそっと口の中へ押し込む。

 さて、上手く飲んでくれるかどうか。飲み込んでくれなくとも、唾液で溶けたものが流れ込んでくれればそれでいいわけだが。

 しかし、ここは何もかもが異質だ。普通の方法で治療できるとは思えない。となると、彼らの心次第か。

 スタールもエミーも、苦しそうだ。何とか乗り越えてくれればいいが。もし、あの牢獄を破れなかったら。

 あの百足の「脚」には、指輪をはめたものや刺青を施したものがある。

 いや、信じよう。きっと帰ってくると。

 ……そんなに、長い時間待っているわけにもいかない、みたいだな。

 少しずつ、ここに近づいて来る者がある。さっきの暗殺師じゃない。怨霊だ。それも、かなりの数。まずいな。

 こんな広い場所で、大群に囲まれでもしたら厄介だ。場所を変えなくては。壁際が望ましい。しかし、霊華とエミーは抱えていくとして、スタールはどうしたものか。

 仕方がない。フレイムウィングで吹き飛ばそう。後でアクアヒールで回復すれば問題ないだろう。もしかしたら、ショックで目が覚めるかもしれない。それなら儲けものだ。

 背後を取られないように、壁際に移動したのはいいが。

 正面を埋め尽くす異形の怨霊達には、さすがにうんざりする。スタールの話では、仮免冒険者が一撃で倒せる程度の怨霊という話だったが、どうもそんな連中だけでもないようだ。どころか、C級ボスレベルの気配をうようよ感じる。こんなのが雑魚と一緒に洞窟内を徘徊しているのなら、あの暗殺師の少女の言っていたことも強ち大袈裟ではないと思えてくる。

 行き止まりになっている短い横穴を見つけて陣取ることができたのは、不幸中の幸いだった。ここならば、入り口さえ護れば背後からの攻撃は気にしなくて済む上に、三人も安全だ。俺が、倒れない限りは。

 C級ボスクラスがウヨウヨ、B級ボスクラスもチラホラ。それを俺独りで、か。

 有体に言って、かなり絶望的な状況だ。

 だが、やるしかない。幸い、地の利はある。地形的に、一度に襲いかかれる数にも限度がある。それを活かせば、勝機も見出せる。後は、回復薬の備蓄か。ダンジョンに入る時は常に余分に持ってくるようにしているとは言え、あんな大群を相手にすることを想定した量ではない。霊華が目覚めないままに薬が底をつけば、それで終わりだ。助かる見込みはない。

 俺も、絶望の意味を了解しているつもりだ。しかし、了承するつもりは毛頭ない。

「調査とか試験だとか、言ってられないな……」

 三人はまだ、悪夢にうなされたまま。やはり、條霊錠は効かなかったと見える。霊華だけでも目を覚ましてくれれば状況はかなり違うものになっていただろうが、贅沢は言えない。あの精神攻撃は、人の心の闇を増幅させる。一人一人が、自分の心の力だけで戦わなければならないだろう。厳しい戦いになる。きっと、とても苦しいに違いない。俺もそうだった。

 帰って来れるだろうか。いや、きっと三人とも無事に戻ってくる。

 それまでは、俺が君達を護ろう。絶対に、護り切って見せる。

 もう誰も、死なせはしない。背負った重い十字架が、俺にのしかかるばかりではなく、むしろ俺を支えてくれている。

「寝ながらでいいんで、そこでゆっくり見ていてください、スタール君。S級セイバーの、戦いをね」

 無事に生きて帰れたら……るみこ。

 君のとびきりの笑顔と、熱い緑茶を頼むよ。

「こらー、起きなさーい!」

 私が叫んだだけで起きないのはわかってる。カーテンを開けて朝日を顔面に食らわせてやっても、多分まだ充分じゃない。

「うー……」

 布団を頭から被ろうったって、そうはいかないんだから。

「遅刻するぞー、スタール!」

 うりゃっ。……ん、布団が剥がせない。腕力だけは、ちっちゃい頃から強かったんだよね。

「あと、五分……」

「その五分が命取りだって、いい加減身に染み付いてるでしょ!」

 どうあっても布団を放さないってんなら、こっちにも考えがあるよ。上がダメなら、下を攻めるッ!

「必殺、天地活殺撃!」

 シーツごと、ベッドの下に叩きつけてやんよッ!

「おわっ」

 どたんばたん!

 いたたた。足滑っちゃったよ……。

「むにゃ……ううむ……この柔らかくて張りがあって弾力に富んだ感触は……」

「ちょっと! ドコ触ってんのよ!」

「いでっ!」

 こんにゃろ、心臓が口から飛び出るかと思ったじゃん! ドサクサ紛れにもう一発殴っとこ。

「わわ、わかったわかった! もう起きた、起きたから!」

 殴りたい理由はそこじゃないから、聞こえないフリ。

「ぐはっ」

「せっかく起こしに来てあげてるんだから、さっさと学校に行くよ!」

「へーいへい。おー、いてえ」

 もう、スタールのバカ!

 私、エミリール。侠心学園高等部の二年生。ぴっちぴちの十六歳。元気が取り柄の普通の女の子だよ。みんなからは、「エミー」って呼ばれてる。さっきのねぼすけはスタールっていう、幼馴染。同じ学校に通ってるから、いつもこうして私が起こしに行ってるんだ。私みたいな美少女に毎朝起こしてもらえるなんて、ホントに幸せなヤツ。それなのに、感謝の気持ちとか尊敬とか敬愛が足りないのよね、あのバカは。

「何ぶつぶつ言ってるんだ? 早く行かないとまた遅刻だぞ?」

 げ。こいつ、もう制服に着替えてきやがった。さすが、遅刻の常習犯は慣れてる。

「なんか失礼なこと考えてるだろ?」

「うっさいよ。あんたにだけには言われたくない。あー、もう、結局今日もダッシュじゃん!」

「体力が付くぞ?」

「私はあんたみたいな脳みそ筋肉じゃないの」

「お前は脳みそお花畑だよな」

「どーゆー意味?」

「さて、走るか」

「ちょ、待ちなさいよ!」

 ホント、なんでこんなヤツが幼馴染なの? 幼馴染ってさ、もっとこう、甘酸っぱいものがあるものじゃない?

 エミー、今まで言い出せなかったけど、実は俺、お前のことがずっと……なーんちゃって。

 わかるわかる。言ってしまったら、幼馴染という関係さえも壊れてしまいそうで。そういことに恐れながら、でも日々募っていく思い! 恋心。苦悩。これだよ。これが幼馴染の王道じゃない?

「走りながらニヤつくな。気色の悪い」

「う、うるさいな」

 どうせなら、エコー先生みたいな素敵なお兄さんがお隣に住んでてくれれば良かったのに。

 わかりましたか、エミー?

 えー、先生、難しいよう。わかんないよう。

 仕方がないですね。では、手取り足取りじっくりと……。

 うへ、うへへへ。

「エミー」

「なな、なにっ? 私は別に変なことは考えてないよ?」

「そうじゃない。どうやら遅刻は確定だ」

「は?」

 うわ、なにこいつら? モヒカンとかトゲトゲのプロテクターとか。雁首並べて、何をするつもり?

「ようよう兄ちゃんよう。いい女連れてるじゃねえか。カノジョ、俺たちと遊ばない?」

 お約束通りのやられキャラですね。わかります。

「ふん、雑魚が。エミーには指一本触れさせん」

「ヒャッハー! 汚物は消毒だあ!」

「ほざけ。サウザンソード!」

「ぎゃああああ!」

 あーらら。ホントに弱いんだ。まあ、あの格好であの台詞じゃ、登場しただけで死亡フラグだよ。

「お、おのれ……こうなったら、我らの真の力、見せてくれよう」

「な、なんだと?」

 あ、まだ生きてたんだ。

「ふゅー、じょん! はっ!」

 なんだろね、このどっかで見たようなポーズは。

 って、ちょ、眩しい。なんで光るの?

「ふはははは! 合体魔道王、Ωシタッパーズ三世参上!」

 でかっ。そんで、そのうねうねした触手みたいなの、きもいんだけど。

「でかけりゃ強いってもんでもないぜ。ラピッドウェイヴ!」

「ふはははは。蚊に食われたほどにも感じないなあ」

「なにいっ」

 ホントだ。全然効いてないっぽい。なにこれ、ちょっとやばい?

「さっきの仕返しをさせてもらおうか。それ」

「うおおっ」

「スタール!」

 あんなに触手でぐるぐる巻きにされたら、いくらスタールが脳みそ筋肉でも、逃げられないよ!

「くっくっく。いいざまだな」

「おのれ……ぐああ」

「おっと、強く締めすぎたかな。それはそうとお嬢ちゃん」

「な、なに?」

「この触手は、色々とエッチなことにも使えるんだぜ?」

「え、うそ、やだ」

 うえ。何これ、ぬめぬめしてて気持ち悪い。

「エミーに何をする!」

「黙ってろ」

「うがあっ」

「ヒャッハー! それじゃあそろそろお楽しみの時間だ。読者の皆さんもお色気シーンを心待ちにしているぜ」

 うむ。これはやばい。エミーちゃん大ピンチ。

 どうなる、エミー?

 次回、「どっきんエミーちゃん! ればればパパはイカしてるぅ! ねばねばママは、いいきむんちぃ?」に乞うご期待!

「……ってワケにも行かないんだよね」

 スタール、ごめん。今までずっと黙ってたけど、私……魔法少女なんだ!

「リリカル・トカレフ・キルゼムオール!」

「うおお……我がエロ触手がああああ」

 でも、正体がばれちゃったからには、もう。

「てえええええい! 天罰てきめーん! ティ○・フィナーレ!」

「そういう版権キワキワな技名はやめ……ぎゃあああああ!」

「ふ。またつまらぬものを斬ってしまった……」

「いやそれ、そういう技ぢゃねえから!」

「あ、スタール。怪我はない?」

「面目ない。助けるはずが助けられるとは」

「がっかりしないで。私が強すぎるんだよ」

「俺は、もっともっと強くなる。そして、今度は俺がお前を護る!」

「スタール……」

「エミー」

 ……何、この展開? な、なになに? スタールの癖に肩なんか抱いちゃって。

 ちょ、ちょちょちょ、顔、近い近い!

「エミー」

「や……やだ。ダメだよ」

「ああ、エミー」

 お、押し倒された! 何? 何なの、コレ?

「す、スタール、ダメ。ダメだよ、こういうの、良くないって」

「どうして?」

「だって、私達は……」

「私達は……何?」

 ……あれ? 何だろう?

 私、何か大切なことを忘れてる。

「な……いいだろ?」

 うっ……今、鳥肌立った。耳に息を吹きかけるのはやめて。

 だから、どこ触ってるんだって! あ、いやいやいや、それ、マジでシャレにならないから!

「エミー、エミー」

「ダメダメダメ! やだやだ!」

「嫌よ嫌よも好きの内って言うよなあ……くく、くくくく」

 これ、違う。何かが違う。こんなのおかしいよ。

「さあ、エミー、力を抜いて。優しくしてやるから」

「いやっ! やめて! 助けて……兄貴!」

「……兄貴、だあ?」

 兄貴? 兄貴って誰?

 何? わかんない。何か忘れてる。私は、とても大切なことを忘れてる。

「俺がお前の兄貴だよ。お前の大好きな兄貴だよ。だから、お前は黙って股を開けばいいんだよ」

 違う。違う違う違う!

 兄貴じゃない。でも、兄貴って誰?

 違う。絶対に違う。

 それでも、私にはわかる。

 兄貴はこんなこと言わない。

 兄貴はこんなことしない。

 こいつは、兄貴なんかじゃない!

 本当の兄貴は、どこ? 兄貴、兄貴、助けて……兄貴。

「俺の妹に触るな」

「なんだ、てめえは?」

「うるさい。デーモンスラスト!」

「ぐああああっ」

 あ、兄貴……来てくれたんだ、兄貴!

「う、うぇっ……うわあああああん!」

「もう大丈夫だ。お前は、俺が護る」

「兄貴、兄貴ぃ……」

「誰にも、触れさせはしない。渡さない、誰にも」

「……兄貴?」

「お前は、俺のもの。俺だけのもの。だから、俺のものになれ」

 え。何、言ってるの、兄貴?

 なんで、私の服を破くの?

 やだよ、やめてよ。

 こんなの、いやだよ、おかしいよ。

「エミー……」

「やだ! やめて、やめてよ!」

「なぜだ? 俺はお前の兄貴だぞ? お前の大好きな兄貴だよ。だから、お前は黙って股を開けばいいんだよ」

「嘘……こんなの、嘘」

「何を恐れる? お前は、俺がいなれければ生きてはいけない。ずっと俺が護ってやってきた。だから、今のお前がある。ならば、その身体の一つ、俺に捧げるくらい当然だろう?」

 気持ち悪い。頭が痛い。なんなの? 兄貴は、何を言っているの?

「俺は、お前を護るために、強さを捨てた。お前を置いて行けなかったから、剣仙周辺の簡単な仕事しかできなかった。他の奴らがどんどん強くなって、どんどん強い敵と戦っていくのに、俺はお前のために剣仙を離れることができなかった。来る日も来る日も雑魚相手の安い仕事ばかりだった。俺は、強くなりたかった。霊華のように。ECHOのように。俺が強くなれなかったのは、エミー、お前のせいだ。お前がいなければ、俺は今頃もっともっと強かった。お前のせいだ。お前のせいだ!」

「知らない! 知らない! 私のせいじゃない!」

「そうかな。お前は、気付いていたんだろう?」

「知らない! 知らないったら!」

「俺の気持ちも、何もかも。だがお前は」

「違う! 兄貴は、不器用で口下手で人付き合いも少なくて、だから、私がいないとロクにパーティに入れてもらうこともできなくて。だから、私がいないとダメなの。兄貴には私が必要なの! だから兄貴は私を置いて行ったりしないの!」

「俺がそれを頼んだことがあったか? 俺がいつ、お前を必要だなどと言った?」

「それ、は」

「お前は俺に、ただ護られているだけ」

 ううん、わかってた。

 本当は遠くの街に修行に出て行きたかっただろうことも。兄貴が誰よりも強さに憧れて強さを求めていることも。

 でも、気付きたくなかった。

 いつも兄貴は私を護ってくれる。私の傍にいてくれる。

 でも、それは本当に兄貴の望んでいることなの?

 私は兄貴に、何もしてあげられない。何の役にも立ててない。足を引っ張ってばかりで、それじゃあただのお荷物じゃん。

「この兄のことを思うなら、俺から離れればいい。俺を一人で旅立たせてくれれば良かったんだ。しかし、お前にはそんな気はないよな」

 そんなの、わかってるよ。わかってるよ!

 でも、できない。できなかった。

「なぜだ? お前は俺のことを大切に思ってくれているんじゃなかったのか? どうして、お前は俺の邪魔をする?」

「やめて。……もう、やめてよ」

「お前は、自分のことしか考えてない。お前は、身勝手だ」

「もう、いい……やめて。ごめんなさい、ごめんなさい。もう、許して」

「なあ、エミー。不公平だとは思わないか? そろそろ、お前が俺の役に立つ番なんじゃないのか?」

 役に、立つ? 私が? 私なんかが、兄貴の?

 役に立ちたい。兄貴を助けてあげたい。ずっと護ってもらってきた。傍にいてもらった。お父さんもお母さんも死んじゃってから、ずっと二人で生きてきた。兄貴がいなかったら、私なんか。

「俺の、性欲処理くらいして見せろ。いくら役立たずのお前でも、それくらいはできるよなあ?」

 私にも、できる……? でも、でも。

「恐れることはない。血の繋がった者同士が交わるなんざ、寂れた農村じゃ普通のことだ」

「でも、やっぱり、そんなの……」

「嫌がる振りはもうしなくていい」

 嫌がる、振り?

 違う、違う違う違う! 違う!

 違う違う違う違う違う!

 そんなはずない!

 望んでない望んでない望んでない!

 やめて。これ以上私を引きずり出さないで。

 こんなの、私じゃない。

 私は、こんなの望んでない。

 「私」じゃない。

「苦しいだろう? 辛いだろう? 自分を偽るからだ。でももう、そんなことはしなくていいんだ。怖がらなくていい。考えなくていい。偽りの仮面など、捨ててしまってもいいんだ。お前は、心の奥底で、こうなることを望んでいる」

「いやあああああああああ!」

 いや。

 いや。

 いや。

 はち切れそう。

 兄貴は兄貴で。私は実の妹で。

 兄貴はずっと私を護ってくれて、傍にいてくれて。

 離れたくない。傍にいて欲しい。

 独りはイヤ。

 どこにも行かないで。

 強くなくたっていい。

 強い敵なんか探しに行かないで。

 私を置いて行かないで。

 お父さんもお母さんもいない。

 もう、私には兄貴しかいないの。

 私を独りにしないで。

 世界中に、たった独り、兄貴だけ。

 私には、兄貴だけ、なの。

「ずっとお前の傍にいて、お前を護ってきた。だから、これからもずっと傍にいてやるよ。ずっとずっと、な」

 これからも……ずっと。

 ああ、嬉しい。嬉しいよ、兄貴。

「さあ、力を抜くんだ。俺に身を任せろ。優しく、してやる」

 今までの、ずっと。

 これからの、ずっと。

 兄貴が、ずっと、私の傍に?

 甘えても、いいの?

 これからも兄貴に、ずっとずっと甘えててもいいの?

 凄く、それは幸せなことに違いない。

 でも……兄貴は本当にそれでいいの?

 それは、兄貴を幸せにしてくれるの?

 ずっとずっと兄貴によりかかって、甘え続けて。

 私は、本当にそれでいいの?

 ──スタールは、戦士になりたいのか。ははっ、スタールらしいな。

「じゃあ、エミーもおにいちゃんと一緒がいいー」

 ──あらやだ。エミーは本当にお兄ちゃん子ね

「うん。おにいちゃんすきー」

 ──でもな、エミー

「なーにー?」

 ──何でもかんでもスタールと同じにする必要はないんだぞ?

「えー。おにいちゃんとおなじがいいー」

 ──好きなことをしていい。だけど、エミーはエミーなんだ

「エミーはエミーだよ?」

 ──エミーにはまだ難しかったかしらね

「うーん?」

 ──もうお休み、エミー

「わかったー。おやすみなさい、おとうさん、おかあさん」

 ──おやすみ、エミー

 お父さん、お母さん、どうして死んじゃったの?

 苦しいの。寂しいの。

 私、どうしていいか、わからないの。

 今、私は私なのかな。

 エミーは、エミーのままかな?

 兄貴には、自分だけの道がある。

 私は、わからない。

 ただ、兄貴について行ってるだけ。

 寂しいから。独りはイヤだから。

 でも、ダメなのかな。

 傍にいちゃ、いけないのかな。

 妹だから? 血が繋がってるから?

 血の繋がりなんか、どうやったって切れないじゃん。

 どんなに離れても、どんなに近くても、血の繋がりは。

 ……どんなに離れても?

 どんなに離れても、血の繋がりは消えない?

 繋がり。私と兄貴を繋いでる。

 何があっても、決して消えることのない繋がり。

 家族。

 家族だから。

 兄貴は、家族なんだ。

 私の大切な大切な、家族なんだ。

 いつだって、どんな時だって、私と兄貴は繋がってるじゃんか。

 だって、兄妹なんだから。

 血の繋がった、家族なんだから。

 たとえ遠くに行ったって、兄貴は私の兄貴だ。

 私は、独りなんかじゃない。

 兄貴がいてくれる。

 私の傍にいなかったとしても、生きてさえいてくれれば。

 そっか。

 そうなんだ。

「……違うよ、兄貴」

「何が違うんだ?」

「私は、兄貴のことが好きだし、愛してる」

「ならば、何も問題はないだろう。俺もお前を愛している」

「でも、違うんだ。それは、こういうことじゃない」

 思えば、ずっと違和感があったんだ。兄貴が私の肌に触れた時から。

「愛し合う男女がまぐわう。自然の摂理だ」

「そうじゃない! 何て言えばいいのかわからないけど、違うの。こんなのは違うの!」

 紙一重な感じはしたんだ。

 正直、どんな形であっても兄貴の役に立ちたいと思ったのは確かで。兄貴に抱かれることを受け入れかけたし、私自身、お腹の奥の方に疼くものも感じた。

「私を抱いても、兄貴は幸せになれない」

「なんだと?」

「兄貴に抱かれても、私は幸せになれない。違うんだ、兄貴。最初から、違うの」

「エミー、お前は俺を愛してないって言うのか?」

「愛してる。愛してるよ。でも、『あんた』は違う。何がどう違うのかなんてわかんないけど、やっぱり『あんた』は兄貴じゃない」

「なぜだ。なぜ拒む? 確かにお前は望んだはずだ」

「直感。『あんた』は、頭のてっぺんから爪先まで私の良く知ってる兄貴だよ。だけど、私の勘が言ってる。『あんた』は兄貴じゃない」

「そんな、そんなことで俺を、この兄を否定するのか。俺は、お前をこんなにも愛しているのに。こんなにも抱きたいと思っているのに!」

「それ。やっぱり、それが違うんだよね。兄貴は私のことを愛してくれてる。だけど、兄貴はそんなこと言わないし、しない。絶対に」

「なぜだ……エミー。エミー、エミー、えみいいいいいいい!」

 うは。なんか、『兄貴』が溶けてきたんだけど。きもい。

 なぜ? なぜかな。

 こいつは、兄貴だけど兄貴じゃないんだ。私の中だけにいる、兄貴。

 こいつが言ったように、私自身がどこかで望んでいる兄貴。

 この醜い兄貴は、私自身の姿なんだと思う……多分。

 それが、わかったから。

「だから、『兄貴』、おかげで私にもわかったことがあるんだ」

「うううぅうおおおおおお……えみいいい、えみいいいいい」

 人の話を聞ける状態じゃないってことかな。でも、ハッキリ言わせてもらうからね。

「色んな『愛してる』があるんだと思うよ」

 もう、人の形してないや。ちゃんと聞いててくれたのかな、このゲル兄貴は。

 ふふ、兄貴。

 それでも私は兄貴のことが大好きだよ。愛してるよ。

 でも、兄貴だっていつか誰かと恋に落ちて、結婚しちゃったりとかするんだろうな。それは、ちょっぴりやきもちを焼いちゃうかもしれない話だけど、私はきっと喜ぶと思う。それに、私だって兄貴とばっかりいないで、素敵な人と恋をしてみたい。

 今、私が兄貴に抱いている気持ちは、もしかしたらそんな恋愛に近いものなのかもしれない。でも、きっと違う。ゲル兄貴が、それを教えてくれた。

 いつかきっと、兄貴なんかよりずっとずっと素敵な人に、たくさんたくさん甘えてやるんだから。いつまでも兄貴によりかかったりは、してやらない。兄貴に頼らないで生きていけるくらい、強くなるよ。

 ……ね、兄貴?

 なんか、うるさい。

 ぎゃーぎゃー言ってたり、どかんどかん爆発してたり。

「もー、兄貴、朝っぱらからうるさいよー。何やってんのー?」

「お目覚めですか。お兄さんじゃなくて申し訳ありません」

 え? あれ? ここ、どこ?

 なんか、気持ち悪い洞窟。なんか空気がねばねばしてるし。

 ん? ECHOさん?

 あ、そっか。兄貴のセイバー試験だったんだっけ。

「起きたばかりのところで申し訳ないんですが、ほんの少しお手伝いいただけると助かります」

 なんであんなにうるさいのかと思ったら……ECHOさん、めっちゃ戦ってる! しかも、物凄い数を相手にしてらっしゃるんですけど。ああ、緑の服があんなにボロボロになって。ファッションバッグ使ってるからわからないけど、この分だと鎧もボロボロなんじゃないかなあ。

「二つだけお願いします。アクアヒールと、フレイムウィング」

 ああ、危ない! お、おおっ! すご。なんかよくわからないけど、敵が倒れた! でも、今の、結構ダメージ大きかったんじゃ。

 そっか。アクアヒール! えいっ!

「ありがとうございます」

 正直、私なんかのアクアヒールじゃ気休めにしかならないんじゃないかとも思うんだけど。……ないよりはずっとマシだよね。

 あとなんだっけ? フレイムウィング?

「フレイムウィングは、使えますか?」

 えーと、そういや最近覚えた気がする。どうやるんだっけ?

「あはは、多分」

「失礼ですが、エミーさんのクラスは?」

 ああ、うう、めっちゃ戦っている最中なのに、こんなに喋らせちゃってごめんなさい……。

「こないだ、シニアになったばかりでっす!」

「なら大丈夫ですね。状況は、ご覧の通りです。霊華さんとスタール君が目覚めるまで、怨霊どもを通すわけには行きません」

 ……てことは、今までずっと私達を護って戦ってくれて。

 うう、ぐすっ……ありがとう、ECHOさん!

「エミーさんには、私の回復補助と、討ち漏らした敵の吹き飛ばしをお願いしたいのです……おっと」

 げ。一匹小さくてキモいのがかいくぐってきたよ! よーし!

「任せて! フレイムウィング……ってこうだっけ?」

 あ、ちっこい火の鳥ー♪ なんだ私、できるじゃん? 頑張れ火の鳥! そのままそいつを遠くに連れてっちゃってー! 頑張れ、超頑張れ!

「ぴーぴー」  頑張った! 頑張ったよチビ火の鳥! そしてありがとうチビ火の鳥! ボクは君の勇姿を決して忘れはしないだろう!

「……可愛いフレイムウィングですね」

 あり? もしかして見られてた?

「あはは、何しろ初めて使ったもので」

「上出来ですよ。これからもお願いします」

「は、はいー!」

 もう、なんでこの人、こんなに笑顔が可愛いの? 頑張っちゃうぜ!

「二人が目覚めてくれれば、状況を打開する算段も付きます。大変申し訳ありませんが、それまでは死守ということになります」

 どうしてこんな状況になったのか全然わからないけど……兄貴も霊華さんも眠ってるみたいだし。二人とも戦えないのは見ればわかる。もしかして、あのヘンな夢を、二人も見ているの? ECHOさんも、そこから目覚めたの?

 死守……か。

 兄貴には、ずっと護ってもらってきた。

 たまには、私が兄貴を護ってあげるよ。

 あははっ。なんか、痛快じゃん?

 護られてばっかだった私が、兄貴を護る側になるなんて。

 うん。護るよ。絶対に。

 だから、早く帰って来い、兄貴。

 そしたら兄貴、ちょっとは私のことも認めてよね。

 私はもう、兄貴に護られるだけのお荷物なんかじゃないんだから。

 巨大な敵が、霊華に襲いかかろうとしていた。

「……くっ、強い!」

「下がれ、霊華」

「スタール君?」

 俺は剣を構え、敵の前に立ち塞がる。

「霊華、援護を頼む」

「うん!」

 敵は巨大だ。そして、霊華の手に負えないほど強い。だが。

「今度は俺が相手だ。かかって来い」

 黒く巨大な塊が、触手のような手を伸ばす。

 遅いな。蝿が止まるぜ。

 紙一重でかわし、タイガーギアで一気に肉薄する。

「終わりだ」

 黒い腹に剣を深々と突き立てると、敵はおぞましい叫び声を上げた。

 構わず、刺した剣をそのまま捩り、渾身の力で横へ薙ぐ。切り裂き、抉り、やがて剣は血風を巻き上げながら敵の身体から這い出した。

「でかい口ができて、良かったな」

 俺は背を向ける。この剣が確かに、敵の命の灯火を打ち砕いた。もはや、断末魔を確認するまでもない。

 地鳴りがした。敵の倒れ伏す音だったのだろうが、終わった敵に興味などない。

「ありがと、スタール君。助かった」

 霊華は左肩を押さえ、右足を引きずっている。鎧も身体もボロボロだ。

「無茶しやがって……ほら」

 肩を貸そうとすると、霊華の鎧がバッグの中に戻って行った。見慣れたトラッドシャツにマイアスカート姿だ。戦いは終わった。俺も鎧をしまい、普段着に戻る。

 白く細い腕。抱きすくめたら、折れてしまうのではないかとさえ思える華奢な身体。それでなくとも、エルフの身体は脆弱なんだ。それなのに霊華ときたら。

「ん……ありがと」

 ふわりと、甘い香りがした。華奢なのに、柔らかい肢体。豊満ではないが、その柔らかさは嫌が応にも女を感じさせる。エルフで、精霊師で、その上、女。それなのに、重鎧で剣を振るうなんて、本当にどこまで無茶を重ねれば気が済むのか。

 深く蒼い瞳の海は、どこまでも静かに凪いでいて。

 少し頬が赤くなったと思ったら、ぷいとそっぽを向いてしまった。その仕草に、胸の奥が熱を帯びる。

「強くなったね、スタール君」

 あさってを向きながらしかし、その声は露に濡れそぼった朝顔のようだ。

「ふん。当然だ」

 気恥ずかしくなって、霊華から視線を外してしまう。触れ合った身体が柔らかくて、暖かい。心地良い。でも、妙に落ち着かなかった。顔が熱くなってくる。

「ね、スタール君?」

「なん……んんっ?」

 振り向きざまに見たのは、近すぎる霊華の顔。唇に感じた、羽毛が軽く触れるような。でも、確かにあった、柔らかく、弾けるように瑞々しい霊華の。

「えへへ。お礼だよっ」

 雪のような肌に薔薇が咲いている。蕩けるような甘い香りは消えることがない。

 心臓が暴れ始めている。頭の中が痺れている。顔の熱が、全身に広がっていく。熱に浮かされているようで、足元がふわふわする。

 なんだろう。とても、気持ちがいい。

「れ、霊華……」

 搾り出した言葉に、一瞬で口内の水分が枯れ果てた。喉が渇く。渇いている。

 おもむろに霊華は、シャツのボタンを外し始めた。しなやかなで白く、細い指が、焦らすようにゆっくりとボタンを外す。

「何を……している?」

 二つ目のボタンが外れ、白磁の胸元が見えた時、頭の奥で何かが灼けるのを感じた。

「まだお礼は、終わってないよ……?」

 霊華の顔が更に紅潮する。その火照りは胸元まで染めようとしていた。

 三つ目のボタンが外れ、とうとう霊華は俺を直視できずに俯いた。耳まで赤い。

 抱きすくめたい衝動に駆られた。今すぐ強く抱き寄せて、もう一度、その唇に触れたい。

 頭の奥で、何かが灼き切れそうだ。心臓が胸を突き破り飛び出すんじゃないか。地面を感じない。熱い。俺という容器に、何かがこれでもかと注ぎ込まれていく。満たされていくほどに何かに充足し、しかし益々飢え、渇いていく。途方もない満足感と永遠の飢えに、頭の中が朦朧としてくる。

 いよいよ全てのボタンが外された。白い下着の向こう側には、決して豊かではないが確かな実りがある。顔をほんの少し横に向けながら服をはだけさせると、眩しい肩が露になった。

「霊華っ!」

 何かが切れた。両手で霊華の肩を乱暴に掴む。

 びくりと身体を震わせ、霊華が真っ直ぐに俺を見つめた。涙で輝く瞳と、精一杯の微笑みに意識さえも吹き飛びそうだ。

「いい……のか?」

「キミのことが、好き……なの」

 身体全体が心臓になったかのように、大きく脈打った。

 俺は、はだけた服を掴み。

「……スタール、君?」

 露になっていた肩に、もう一度かけてやった。眩し過ぎる陽光に手をかざすような気分だ。

「どうして?」

 俺にも、よくわからない。

 ただ、何か違和感があった。何か大切なことを忘れているような気がした。それが、ほとんど決壊寸前だった理性を維持させた。

「案外、意気地がないんだねー」

「何っ?」

 ちくりと痛い言葉だったのは確かだが、問題なのはそこじゃない。

「お前は……なぜ、ここに?」

 霊華じゃなかった。

 革のジャケット、濃紺のミニスカートに光るシルバーアクセサリの数々。ギザギザに尖った大きな耳は、海龍族の証。血よりも尚紅い瞳と唇に、吸い込まれそうになる。

「真夜、と言ったか」

「やだー、覚えててくれたんだ? うれしー」

 あっけらかんと笑う。反射的に俺は真夜の胸倉を掴んだ。

「貴様、霊華をどこへやった?」

「霊華? そんなのあたしが知るわけないじゃん」

「とぼけるな!」

 強く締め上げようとした腕が、急に軽くなる。

「きゃはははははっ!」

 嘲るような笑いは背後からだった。振り返りざま、剣を呼び出し一閃する。だが、そこにも既に真夜の姿はない。

「ちょこまかと……」

「ムダムダー」

 声のする方へと剣を振るが、空を斬るばかりだ。これでは、本当に空気と戦っているみたいじゃないか。

「きゃはははっ! あんたみたいな意気地なしの臆病者には、百年経ったって当てらんないよー」

「黙れっ! 俺は、臆病なんかじゃない!」

「本当に?」

 紅の瞳が、目と鼻の先にあった。真夜の吐息が頬を撫でる。甘い香りがした。

 一瞬で懐に潜られるとは。くそ、畜生、畜生畜生!

 俺は強くなったんだ。強くなったはずだ。あの時、俺は誓ったんだ。必ず強くなって、父さんと母さんを殺した怨霊共を、根絶やしにすると!

「本当は、怖いんでしょ、スタール?」

 現れては消え、消えては現れる真夜は、掴み所のない陽炎だ。

 その、人を見下すような目、嘲笑う口元が、我慢ならないんだよ!

「怖いんだよね? 本当は、いつも怖くてしょうがないんだ」

「違う! そんなはずあるか!」

 当たらない。とんなに剣を振っても。どんなにフェイントを入れようと、全て読まれてしまっているのか。それとも、スピードが段違いなのか。

 もし、この女が攻撃に転じたら?

 死神に背後を取られた気がした。

「う、うわああああ!」

 真夜は前にいる。相変わらずの自然体で立っているだけだ。後ろには何もいない。死神なんか、いるものか!

「ほら、やっぱり臆病だ」

「違う!」

「何が違うの? 今あんた、ビビったでしょ? 怖いと思ったでしょ?」

「違う! 違う違う!」

 ──逃げろ、スタール!

 やめろ! やめろ!

 やめろ、やめてくれ。父さんを殺さないでくれ。母さんを、助けてくれ。

 ──逃げろ、スタール!

 嫌だ! 父さんが死んでしまう! 母さん、母さん!

 ──逃げろ、スタール

 逃げるな! 逃げちゃダメだ! 助けなければ、助けなきゃ。

 ──逃げろ

 やめろ。

 なんでだ? どうしてだ?

 どうして逃げるんだ?

 ──逃げろ、逃げろ

 助けて、くれ。誰か。たす、けて。

 逃げないと。逃げるな。ダメだ。

 助けるんだ。

 ──逃げろ。逃げないと、殺されてしまうじゃないか……俺までも

「う、うあ、ああああああああああ!」

「きゃはっ、きゃははははっ! 怖いよね? 怖かったんだよね?」

 父さんが、俺に逃げろと言ったんだ。違う、怖かったんじゃない!

「違う、違う違う違う! やめろ、嘘だ、こんなの」

「きゃはははははははははははははははっ!」

 逃げたかったわけじゃない。逃げなければ、俺も殺されていたんだ。エミーも殺されてしまう。だから、逃げたんだ。違う。見捨てたんじゃない。見殺しにしたんじゃない。仕方がなかった。仕方がなかったんだ。だって俺は小さなガキで、戦う力なんかなかったんだ。仕方ないじゃないか。どうしようもないじゃないか。

「そうだね。仕方ない。仕方ないよ。怖かったんだもんね? だって、死にたくはないよね?」

 怖かった。怖くてしょうがなかった。だから、俺は逃げた。父さんも母さんも、まだ生きていたのに。

「そうだよね。見殺しにしてもしょうがないよ。だって、スタールは怖かったんだもん。臆病者なんだもん」

「やめ、ろ。やめろ! 俺は臆病じゃない!」

 だから、強くなりたい。何者も恐れない強さが欲しい。強くなれば、誰よりも強くなれば、何も恐れなくて済む。

「そうだ……俺は、もっともっと強くなるんだ」

「そうそう。それでいいんだよ、スタール。力があれば、何も怖くないよ? あんたを怖がらせるヤツなんか、みーんな、殺しちゃえっ! きゃはははっ!」

 力。力だ。力さえあれば。力が強さなんだ。力こそ全てだ。

 ──精霊師の力は、護る力。精霊師の戦いは、護る戦い

 ──色んな強さがあるんだよ?

 護る、力?

 何だそれは?

 それで敵が倒せるのか?

 ──君の剣は、殺す剣なんです

 そうだ。

 それが力というものだ。

 力がなければ、何も護れはしない。

 自分や仲間を傷つける者を全て殺してしまえば、それで自分も仲間も護れるじゃないか。

 何が違うんだ?

 護る力も殺す力も、力であることに変わりはない。

 怖いものなんかない。力があれば、何も怖いことなんかない。

 何でもできる。

 殺すことも。

 護ることも。

 救うことも。

 護る?

 何を?

 ──兄貴っ!

 護る。

 そう、護りたい。

 世界にたった一人の、俺の妹。

 何のための力だ?

 殺すための力だ。

 怖いから。

 俺は、臆病だから。

 怨霊が怖い。

 強い敵が怖い。

 死ぬのが怖い。

 だから、殺す。

 全ての恐怖を殺すために。

 恐怖を克服するのなら、自らが恐怖になればいいんだ。

 そのための力。

 父さん母さんを殺した怨霊どもを殺す。

 エミーを傷つけようとする怨霊を殺す。

 俺を殺そうとする怨霊を殺す。

 怨霊?

 怨霊だけじゃない。

 誰であろうと、全て殺す。

 俺を脅かす者は、全て殺す。

 力だ。

 力だ。

 力だ。

 これが護る力じゃないのか。

 そうだろう?

 なのにどうして。

 なのにどうして、そんなに悲しそうな顔をするんだ……霊華?

「それが……キミの答なの、スタール君?」

 霊華、なぜ俺に剣を向ける?

「もしそうなら、私はキミを止めなきゃならない」

 止める? 俺は強くなりたい。それの何が悪い? お前は俺を邪魔すると言うのか?

「スタール。その女、邪魔だね。殺しちゃいなよ」

 殺す。殺す。それが俺の力。俺の剣。

「霊華。今の俺には他に答がわからない。だから」

 霊華が剣を振りかぶる。蒼い瞳に、静寂の海と月が輝くようだ。

 俺は剣を横にして受けた。流石に重い。だが、敵わないほどじゃない。

 握る力を強めると、剣が応じて淫猥な声を張り上げた。

 これだ。やっぱり俺は力を求めている。

 理屈じゃない。

 俺の剣は、血を求めている。

 力が欲しい。

 力が。

 より強い力が。

 剣を打ち合わせる度に、霊華の顔が苦悶と悲痛に彩られる。

 対する俺の身体には、力が漲ってくる。

 力を望むほど、剣が応える。

 霊華の身体を抉る度に、剣が快感に打ち震える。それは俺の身体にもとめどなく流れ込み、どんどん熱さが増していく。

 熱い。

 熱い。

 内側から何かが膨れ上がってくる。

 剣が止まらない。少しずつ霊華を切り刻み、甘い快感に脳髄が蕩けていく。

 俺は今、霊華を犯している。

 初めて出会った時から、憧れていた。

 その強さに。

 その美しさに。

 その優しすぎる心に。

 俺は今、その霊華を犯しているのだ。

 その強さを挫いている。

 その美しさを穢している。

 その心を、へし折っている。

 その全てを、俺のものに、俺だけのものにしている。

 快感だ。

 この上ない快感だ。

 ああ、霊華、霊華。

 ますます身体が火照っていく。

 もっと。

 もっとだ。

 もっと俺を悦ばせてくれ。

 霊華、霊華、霊華霊華霊華!

「あうっ……」

 剣を落とし、霊華が膝を付いた。

 これまでだ。

 今、イかせてやるよ、霊華。

 俺と一緒に、イこう。

「スタール……君」

 トドメの剣を振り上げた瞬間、視線が正面からぶつかり合った。

 蒼い瞳が、醜く口元を歪めた男を映していた。

 吊り上がった目には、狂気と淫欲以外の何物も宿ってはいない。興奮に鼻の穴を膨らませ、歪んだ口元からは舌なめずりさえ覗いている。白い歯が獲物を待ち焦がれ、凶悪な光を放っていた。

 これ、は?

 なんだこれは?

 なんだこの醜い顔は。

 コレが……俺?

 俺の姿だと言うのか?

 狂ってる。

 おぞましい。恐ろしい。

 これでは、この顔は、まるで。

「ううっ……うおお……ぐほっ」

 吐き気しかなかった。

 剣を握っていられない。

 口元を押さえたが、間に合わなかった。

「ばっちいなあ、もう」

 真夜の声は、嘲笑だけでなく呆れていた。

「やっぱスタール、あんたは意気地なしだよ」

 嘔吐が止まらない。一体どれだけのものを吐き出そうとしているのか。涙が溢れて、視界が歪む。鼻水が垂れる。さぞかしみっともない顔になっているだろう。

 だがそれでも、さっきの俺は。俺の顔は。

 怖い。怖い怖い。

 指先から徐々に冷えていくのがわかる。血まで凍りそうだ。

 なんという恐ろしい顔だったのか。

 なんというおぞましい顔だったのか。

 何が怖い?

 もしあんな顔を誰かに見られたら。

 もし、エミーがあんな俺を見たら?

 心臓が、急激に萎縮するようだ。身体の末端から凍てついていく血液は、今に心臓に到達するに違いない。

 嫌だ。

 そんなのは嫌だ。

 怖い。怖い。

 傷つけたくない。

 失いたくない。

 失うのが怖い。何よりも怖い。

 だから、エミーに害をなす存在は、誰であれ許さない。

 あんな邪悪な顔をする輩を、エミーの傍に置いておけるはずがない。

「真夜、お前の言いなりにはならない。確かに俺は臆病で小心かもしれん。そのために強さと力が欲しいのも確かだし、それも変わらない。変えられない。それでも!」

 妹の、悪戯な笑顔が浮かんだ。

「あいつだけは、失いたくない。力より強さより、大事なものが俺にはある」

「……ホントかなあ?」

 目を疑った。

 ほんの瞬きする間に、真夜はエミーをその手に抱いていた。

「エミー!」

「え? あれ? なになに? これ、どういう状況?」

 目を白黒させて、真夜と俺とを交互に見ている。

「真夜、エミーをどうするつもりだ?」

 妖艶な笑みに、背筋がぞっとなる。冷たいのに、身体の芯を淫らに撫でられているようだ。

「スタール。あたしのこと、欲しくない?」

「……何を言っているんだ?」

 紅の瞳が恍惚と細まる。鳥肌が立った。真夜の目には、男を刺激して止まない何かがある。

「こういうこと」

 真夜の右手が閃いた。いつから持っていたのか、その手に匕首が鋭く輝いている。

「あ、ああ、う……」

 何が起こったのか、わからなかった。

 ただ、気が付いたらエミーの首筋から真っ赤な噴水が吹き上がっていた。

「あ、あに……き」

 頭が吹き飛ばされたようだった。今度こそ心臓が凍りつき、身体全体が鉛と化す。

 声すら出ない。なぜだ。なんだこれは。動けよ。動けよ! エミーが、エミーが。

「おまけっ」

 匕首が、エミーの胸に突き立てられた。首と心臓、それぞれが真っ赤に染まっていく。

 糸が切れたように崩れ落ちるエミーを、真夜が抱きとめる。

 青ざめた顔に生気はなく、見慣れたはずの鳶色の瞳は濁っていて、虚空を映すだけだった。

 膝が硬い地面を感じた。腰が落ちる。頭の中が、どんどん暗くなっていく。

「な……ぜ……真夜……」

「この子、邪魔なの」

 なぜ、だ。なぜこんなことをする?

 わからない。

 邪魔だと?

 何が? なぜ? どうして?

「あんたが望むから、あたしがここにいる。偽りも誤魔化しも、いらない」

 笑っている。

 真夜が、高らかに笑い続けている。

 俺が、何を、望んでいると言うんだ?

 エミーが、死んでしまった。

 エミーが、いなくなってしまった。

 これが、望みだと言うのか?

 俺の望みだと言うのか?

 真夜の表情は少しも変わらない。

 なのに、それが嘲笑ではなく天使の微笑みに見える俺は……既に狂ってしまっているのか。

「何度でも言ってあげる。私はあんたが望んだからここにいる」

 知らない。知らない。

 もう、やめてくれ。

 もう、何もわからない。

 考えたくない。

 怖い、怖いよ。

「スタール、何も怖がらなくていいの。何も恐れることはないの」

 どうして。

 真夜は、俺の大切なものを奪った。

 なのに、どうして、俺は。

「スタール、あんたはあたしのもの。あたしは、あんたのもの」

 どうしてこんなに落ち着くのか。

 どうしてこんなに心地良いのか。

 鮮血に染まった真夜の手が、俺の頬を優しく撫でてくれる。

 真夜を通じて、俺の身体も血に染まる。

 真っ赤な血が、俺と真夜の身体を繋いでいる。

 少しひんやりとした真夜の肌は、闇の(しとね)のようで。

 冷血が全身に染み渡り、甘い香りが睡魔を連れて来る。

 もう、何も考えたくない。

 もう、何もいらない。

 真夜、真夜。

 真夜……。

「兄貴! 兄貴!」

 誰?

「兄貴、兄貴! 兄貴!」

 もう、放っておいてくれ。

 何もしたくない。何も考えたくないんだ。

「兄貴兄貴兄貴兄貴ーっ!」

 誰……なん、だ。

 うるさくてしょうがない。

 誰?

 誰かだって?

 俺は、この声を知っている。

 誰よりもよく知っている。

 誰の声よりも聞いている声。

 エミー?

 エミーなのか?

 すまない、エミー。

 俺は、お前をみすみす死なせてしまった。

 すまない、すまない。

「兄貴、あーにーきっ!」

 きっとここはあの世なんだな。

 俺は死んだのか。

 それならエミー、父さんと母さんもいるんだろ?

 久し振りに、会いたいな。

「兄貴、起きて、お願い!」

 起きろって、何だ?

 死んでいるんだから、起きられるわけないだろう?

「ダメだよ、兄貴。目を覚まして! 私のこと、護ってくれるんじゃなかったの?」

 すまない。

 そうしてやりたかったが、護ってやれなかった。

 助けたかった。

 なのに、俺は。

「やだよ……そっち行っちゃダメ。帰ってきて、お願いだから……」

 泣いているのか?

 どうしてだ?

 お前は死んだんじゃなかったのか?

「死んじゃ、やだよう……兄貴、兄貴ぃ」

 俺が?

 俺は死んだんじゃなかったのか?

 生きているのか?

 俺は。

 エミー、生きているのか?

 もし、お前が生きていて、俺がまだ死んでいないのなら。

 いつまでも、お前を泣かせたままには……しておけない。

 動け。

 今度こそ動け。

 呼んでいる。

 エミーが、俺を呼んでいる。

 目を開け。

 前を見ろ。

 あれは、光か。

 光だ。

 きっとあそこに、エミーはいる。

 待ってろ、エミー。

 お前が生きているのなら、俺は絶対に死なない。

 死ぬものか。

 どこからか、真夜の哄笑が聞こえた。

 ──スタール。あんた、あたしが欲しいでしょ?

 離れろ。

 エミーが、呼んでいるんだ。

 ──あんたが弱いから、みんな見殺しにしちゃう

 うるさい黙れ。

 今は、そんなことはどうでもいい。

 ──何をどんなに言い繕っても、あんたは力を求める

 黙れ黙れ黙れ!

 なんなんだお前は。どうして俺の心を惑わせる?

 ──誰よりも弱いから。誰よりも臆病だから

 真夜、お前は一体何なんだ?

 ──あんたが、望んでいる。それだけ

 もういい。お前の話は聞くに値しない。

 今行くぞ、エミー。

 真夜の哄笑が、耳から離れなかった。

 この世のものとは思えない絶叫。

 肉を斬り、骨を断つ音。

 饐えた臭い。

 まとわりつく不快な空気。

 ここは……。

「兄貴、兄貴!」

「エ……ミー?」

 妹が、俺の胸で泣いていた。顔を真っ赤にして、鳶色の瞳を真っ赤にして、鼻水を垂らして恥も外聞もなく。

「良かった、兄貴! 目が覚めたんだね!」

 薄暗い洞窟の中で、エミーの笑顔が太陽のように輝いた。そう思ったら、涙も鼻水でさえも輝く宝石のように感じられてくる。

「すまない。心配をかけたな」

 何度も大袈裟に頷くと、また俺の胸に顔を埋めて号泣し始める。……仕方のないやつだな。

 正直、自分の身に何が起こったのか、さっぱりわからない。

 だが、一つだけ確かなことがある。

 俺は、この小さな妹に命を救われたんだ。

 そっと栗色の髪を撫で、顔を起こさせる。指先で涙を拭ってやると、指に火が点るような熱さを感じる。そこから全身に温もりが広がっていくようだ。

「お目覚めですか、スタール君」

 凛とした男の声。軋む身体に鞭を入れながら立ち上がると、深緑の重装魔が激しい戦いを繰り広げていた。

「これで、また望みが広がりましたね」

 炎と冷気だけでなく、大地の力さえも操る魔導師の戦い。これほど凄まじいものとは。

 だが、その身体は俺の目から見ても傷だらけで、なぜあそこまで戦えるのか不思議なくらいだ。

 足元から前方にかけて、累々たる屍の山。一体、どれほどの時間、この男は戦い続けてきたと言うのか。まして、屍の山は次々と減っているのだ。他の異形共が、屍を食らっている。もはや、彼がどれだけの異形を屠ってきたのか、想像するだに恐ろしい。

「状況はご覧の通りです。霊華さんが目を覚ますまで、大変申し訳ありませんが、死守ということになります」

 振り返ると、霊華が目を閉じ横たわっていた。

 時折苦悶に歪む寝顔は、悪夢との戦いを雄弁に物語っている。

 ──私がキミを、護ってあげるよ

 悪いが霊華、今度ばかりは逆みたいだな。

 俺が、俺達が、お前を護る。

 ふっ。お前はいつだって誰かを護るために戦ってきた。

 たまには、護られてやってくれよ。

「雑魚は任せろ。あんたは、でかいのに専念してくれ」

「ちょうど、それをお願いしようと思っていたところです」

 常に凛としたECHOの声だが、さすがに疲労の色が隠しきれていない。よく見れば、動きに切れがなくなってきている。どんなに回復薬があっても、やはり疲労は蓄積する。どんな強靭な人間でも、集中力には限界がある。

「……っく」

 五本足で単眼の獅子が、鋭い爪でECHOに迫る。血飛沫が上がった。

 かわし損ねた? いかん、隙ができる。

 タイガーギアで接近し、獅子の一撃を剣で受けながら、ECHOの肩を支える。

「どれだけ役に立てるかわからんが、少しは楽をさせてやる」

「ふ、ふふっ。頼もしいですね」

 苦笑のように見えたのは、本当に苦笑だったからなのか、それとも、疲労がピークに達しているためなのか。いずれにしても、これ以上、ECHOにだけ負担をかけるわけにはいかない。

「たっぷり休ませてもらったからな。存分に、暴れさせてもらうぞ」

 剣を握る手に力を込める。剣が目覚め、渇きと淫欲に身悶えする。

 背筋がぞっとして鳥肌が立った。

 怖い。恐ろしい。

 正体不明の敵も。血に飢えた剣も。

 なのに俺は、血を啜ることが、快感なのだ。

 何より、それが……怖い。

 だが、今は身を任せよう。

 何匹でも、何人でも、殺してやろう。

 胸の奥が熱い。

 この剣はやはり、血に飢えているのだ。

 袋小路は、熱気に包まれていた。押し寄せる異形と、迎え撃つ緑。爆音が轟き、剣戟は鳴り止むことがない。燃え盛る火炎、立ち上る水柱、時に大地をも揺るがす深緑の重装魔の戦いは、凄まじいの一言に尽きる。ファッションバッグの機能ゆえにわかりにくいが、敵の魔法に対しては法衣に、物理攻撃に対しては重鎧に常に換装しながら戦っている。あまつさえ、接近を許した敵に対しては槍による近接攻撃まで用いて対応する姿は、圧巻としか言いようがなかった。

「赤っ、青っ!」

 スタールは回復薬使用のキーワードを連呼する。鞄から赤い霧と青い霧が吹き出し、傷と消耗した闘気を回復させた。回復薬の残りを気にしながら、スタールはECHOの攻撃をかいくぐった敵に止めを刺す。その背後では、霊華をかばうようにして立つエミーが、回復魔法を唱え続けていた。

「くそっ、キリがない!」

 途切れなく襲い来る異形たちを前にすれば、スタールの悪態も至極当然と言える。

「ですが、少し数が減ってきたような気がします。さすがに、弾切れが近いんでしょうか」

 詠唱を短縮するオーラキャストから、アイスヘイル、レイニーフレアへ。広範囲を攻撃できる大技へと繋いでいく。十匹以上の異形が一瞬で蒸発し、ECHOへの攻撃も僅かに緩んだ。

「これで、減っただと?」

 大技を食らいながらも、何匹かが緑の防衛線を越えてくる。だが、既にほうほうの体だ。難なくスタールはそれを斬り捨てた。

「あんた、一体どれだけ……」

「もっとも、内容は充実してきているみたいですけどね」

 法剣を構え直すECHOの身体を、赤と青の霧が包んだ。その凝視する先に、巨大な三つの影。小粒の怨霊たちが、まるで道を空けるように左右に割れた。

「……お久し振りですね、パサカウ、パサホース」

 袋小路の篝火が、三つの巨体を照らし出した。二本足で立つ、巨大な牛と馬。他の異形たちとは違う、ECHOもよく知る怨霊大将の姿があった。呪われた沼地と、その瘴気の発生源である死霊の門の怨霊達を統べる、怨霊軍の重鎮中の重鎮である。

「ど、ドラゴンゴッズだと? なぜ、こんな所に」

 もう一つの影の姿が明らかになると、スタールも目を剥いた。四足で、身体中を堅い鱗で覆う爬虫類。だが、爬虫類というには余りにも禍々しい。B級ダンジョン、朽ち行く迷宮に潜む怨霊の中では最強最悪のモンスターだ。

「スタール君は、下がっていてください」

 ECHOが一歩踏み出すと、スタールからはその背中しか見ることができない。

「なっ、何を言っている? いくらなんでも、あんなのと同時に戦うなんて、無茶だ! 俺も──」

「ならば今の君に、奴らの範囲攻撃に耐えるだけの力がありますか?」

 凛としたECHOの声に、初めて突き放すような厳しさが宿った。

 スタールは、自らの歯軋りの音を聞いた気がした。横たわる霊華の眉間には深い皺が刻まれたままで、時折苦しそうに身をよじっている。エミーが何事か声をかけているが、届いているようには見えない。

 霊華……まだか? まだなのか? このままでは。

 ぶるる、とパサホースが鼻を鳴らす。

「はははっ、小僧、我らとたった独りで戦うと抜かすか! 舐められたものだな、兄者?」

「ふむ。しかし、この洞窟にどこからか迷い込み、今の今まで生き延びているのだ。侮ってはならん」

 パサ一族の長兄の一睨みは、血気盛んな弟を黙らせるには充分だ。

「さすがは怨霊軍の重鎮ですね。ですが、私はみなさんまとめてかかってきてくださっても一向に構わないですよ?」

 スタールは左手で強く口を抑えた。そうしないと、叫び出してしまいそうだったからだ。いかなS級セイバーと言えど、この三匹を同時に相手にして無事で済むはずがない。あまりの絶望的な状況に、ECHOはとうとう狂ってしまったのだろうか。

「なんだと、このガキ!」

 すぐにでも襲い掛からんばかりのパサホースを、パサカウが片手を振って制する。

「ほう……言うではないか」

「私としては、全員でかかってくることをオススメしますよ……死にたくないのならね」

 やれやれとでも言うように、ECHOは肩をすくめた。

 そんなことを言って、もし本当に全員で来られたら。スタールは生きた心地がしない。

「そこまで舐められては、黙ってはいられんな。良かろう」

 パサカウの顎が、ドラゴンゴッズに向けてくいと動く。

 不気味な息遣いと共に、ドラゴンゴッズがECHOとパサ兄弟の間に割って入った。パサ兄弟は、それに合わせて後ずさる。

「お手並み拝見といこうか」

 ドラゴンゴッズが雄叫びを上げた。ECHOはほんの少し腰を沈め、法剣を構えた。

 しめた。ドラゴンゴッズだけなら、ECHOの敵じゃない!

 S級セイバーとは、ダンジョン管理局の定める危険度ランクA級以上のダンジョンさえもたった独りで制覇できる力を持つ者のことである。対するドラゴンゴッズはB級ダンジョンボス。一対一なら、S級セイバーたるECHOが負ける道理などない。

 スタールにもようやくECHOの意図が理解できた。敵は今、圧倒的優位にいる。自分たちが負けるはずがないという慢心がある。ECHOは、挑発によってその慢心を突き、一対一の形に持ち込んだのだ。敵が言葉の通じるパサ兄弟であることも織り込み済みの作戦なのだろう。

 武芸や魔力だけではない。その「智」こそが最大の武器。これが、深緑の重装魔、ECHOという男なのだ。

 ドラゴンゴッズの顔が、大きく後ろにのけぞる。火炎攻撃の前兆。すかさずECHOはスキルストラウトの詠唱を始める。敵の攻撃の一切を封じる魔法、スキルストラウト。だが、ボスクラス相手では、その効果時間は瞬きする程だ。しかし、火炎攻撃を中断させるだけなら充分である。

 炎を止められたドラゴンゴッズは、その鋭い鉤爪による攻撃に切り替える。ECHOも攻撃魔法の詠唱に入り、戦いの火蓋は切って落とされた。

「エミー、霊華は?」

 スタールは霊華の傍らに片膝を付く。

「ダメ。全然変化なし。それより兄貴、ECHOさん、大丈夫なの?」

 言われて振り返れば、既に激しい戦いが繰り広げられている。

「誰が戦っていると思っている? ドラゴンゴッズだけなら、深緑の重装魔の敵じゃない」

「で、でも、なんか、押されてない?」

 エミーの不安も無理からぬものだった。さっきまでの雑魚との戦いに比べても、明らかに動きが悪くなっている。しかしスタールはエミーに向き直り、小声で囁いた。

「あれは、演技だ」

「演技?」

 実際、ECHOはカットできるものをカットせずに敢えて食らっているような節がある。パサ兄弟に対して実力を見せぬように戦っているのだろう。そのまま甘く見てくれれば、パサ兄弟も一匹ずつ相手にできるかもしれないという狙いがあるのはスタールにもわかった。

「とにかく、心配いらない。今は、霊華を起こす方が先だ」

「う、うん……」

 何度もECHOを振り返っていたが、すぐにスタールの腕にしがみついた。

「でも、兄貴、どうすれば」

「俺には、お前の声が聞こえた。俺を呼ぶ、お前の声が」

 鼻水まで垂らして泣きじゃくっていたことを思い出したのか、エミーの顔が真っ赤に染まる。

「いや、まあ、その、さっきは……あははっ」

「お前が呼んでくれなかったら、俺は帰って来れなかった」

 そこまで言って急に恥ずかしくなったのか、誤魔化すようにスタールは霊華の顔に目を落とす。

「サンキュ、な」

 エミーの紅潮は、あっという間に耳にまで達する。

「な、何よ、兄貴らしくもない! あー、もう、暑いなあ!」

 外耳をなぞるように髪をかき上げ、手をパタパタと振った。

「だから、呼び続ければ、霊華にも届くかもしれない」

「そうだね。きっと、届くよ」

 エミーが、霊華の肩を揺する。頬をぺたぺたと叩く。だが、苦悶の表情は変わらない。

 そう言えば。スタールはエミーの呼び声を思い出す。

「死なないで」

 エミーは、確かにそう言った。

 だが、今の霊華の状態を見るに、そんな言葉まで出てくるようには思えない。

「エミー」

「今、忙しいんだけど。てゆーか、兄貴も声出していこうよ」

「そうじゃなくて。エミーはどうして俺が死ぬと思ったんだ?」

 きょとん、と、子猫のような目が一層大きくなる。

「お前、俺にそう言ってただろ?」

 スタールをじっと見つめながら、その眉が徐々に吊り上っていく。

「そうだよ! 本当に大変だったんだからね!」

「だから、何が?」

「なんかー、兄貴が黒くなっていくの」

 ちょこんと、顎に人差し指を当てる。エミーの癖だ。

「黒く? 何が?」

「兄貴が」

「と言われてもな」

 全く要領を得ない話に、スタールは頭を掻く。

「錯覚かもしんないけど、なんか黒いモヤみたいなのがブワーって出てきて、兄貴の肌なんかも黒ずんできて。そんで、私、すっごい嫌な予感がしたから……」

 ずず、とエミーが鼻を啜った。瞳には涙が浮かび始めている。

「すまない。思い出したくなかっただろう?」

「い、いいよ別に。霊華さーん! 霊華さーん!」

 涙を溜めた瞳をスタールから隠すように、エミーは霊華への呼びかけを再開した。

 黒い靄。それは、あの百足から噴き出した黒い煙と同じものだったのだろうか。

 いずれにしても、今の霊華にその兆候はない。

 ひとまずは、安心……なのか?

 霊華に変化が表れたのは、スタールが小さく息を吐いた時だった。

「ん……あ……」

 薄桃色の口唇が微かに開き、白い歯が覗いた。白磁の肌が、上気したように紅潮し始める。

「霊華?」

「霊華さん? どうしたの、霊華さん! 苦しいの?」

 びくんと身体が震え、左手が胸元へ、右手が下腹部へ伸びた。

「あっ……んんっ……」

 その声は、まるでスタールの耳も脳も通り過ぎて、直接心臓を叩くようだった。

「霊華、霊華っ! 何してるんだ、おい!」

 見かねたスタールは、思わず霊華の細い両手を力任せに掴み上げた。エミーの頬にも僅かに赤味が差している。エミーはぷいと顔を背けた。

「……はあっ……ああ……んっ」

 息遣いがどんどん荒くなっている。苦しんでいるようにも見えるが、これはまた別のものだと、スタールですら感付いた。

「エミー……どうしよう」

「兄貴……とりあえず」

 頬を染めたまま、エミーの目が細まりスタールを睨みつける。

「目、閉じて。耳も塞いで」

「し、しかし、この手を離したら……」

「じゃかましいっ! こんな姿、誰にも見られたいはずないでしょ! 特に、男にはっ!」

 とは言え、手を離せば行為がエスカレートする可能性が高い。だが、エミーの言うことも正しいのだろう。スタールは目を閉じた。

「霊華さん、しっかりして!」

 ぺちぺちと頬を叩く音は、スタールの脳髄を溶かすような喘ぎ声を隠してはくれない。

 一体、どんな夢を見ているというのか。

「あんっ……い……や」

 霊華が顔をぶんぶんと振る。

「いや……やめ……て」

 霊華の細腕に、力が篭もった。スタールよりも遥かに重い剣や鎧を軽々と扱う霊華の膂力は、本来ならばスタールを超える。もし本気で霊華が振り解く気になれば、それは容易いだろう。だがまだ、そこまでの力はなかった。

「霊華さん、目を覚まして! 全部夢、夢なんだから!」

 エミーが激しく肩を揺り動かす。甘い息遣いに上下する胸。マイアスカートから伸びる細い脚が、内腿を互いにこすりつけるようにうねる。

「い……や……やだ、やだ……」

 もう手を放しても大丈夫なんじゃないか。拘束している罪悪感からスタールは思う。それに、霊華は拒絶の言葉を漏らしているのだ。

「おにい……ちゃん……」

 目を開くと、視線がエミーと正面からぶつかり合った。

 お兄ちゃん。確かに霊華はそう言った。

 そう言えば、俺は霊華のことを何も知らない。

 ひょんなことから知り合った、普通じゃない精霊師。精霊師の癖に、戦士であるスタールを遥かに超える剣技。精霊師としての回復の技の数々を駆使して、A級セイバーとして活躍している霊華。その強さに魅せられ、更なる強さを求めて霊華についていくようになった。

 だがスタールは、霊華のことを何も知らない。

「霊華さん、代わりと言っちゃナンだけど、ここにウチの兄貴ならいるから!」

「バカ言ってんじゃねえ」

 そんなもの、何の代わりになると言うのか。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん……」

 閉じられた霊華の目から、涙が零れた。

 スタールの脳裏に、自分の胸で泣きじゃくるエミーの姿が浮かんだ。エミーは黙って、霊華の涙を見つめているようだった。

 するりと、霊華の腕がスタールの拘束を逃れる。

「やだ、ダメ……お兄ちゃん……ああんっ」

 左手が胸元に、右手はスカートをたくし上げようとする。エミーが両手で右手を掴み、同時にスタールは左手を取った。

「……あぶねー」

 スタールとエミーの声がハモる。

「霊華……どういう夢を見てるんだ? 嫌がってるのか? 嫌がってないのか? わけがわからない」

「そんなん、私にだってわかんないよー!」

 泣き出しそうな声でエミーが叫ぶ。

「ちくしょう、霊華っ、霊華! しっかりしてくれ!」

 スタールの声は、もはや懇願だった。

「兄貴!」

 赤い警告灯が、スタールの頭の中で激しく明滅した。何か危険を察知した時の、エミーの声だ。

 黒い霧が、霊華の身体の上でわだかまりつつある。

「これが、お前の言っていた……」

「うん。でも、なんかちょっと違う」

 何がどう違うのか、スタールには知る由もない。ただ、黒い霧が人の形になっていくのを見守るしかできなかった。

 断末魔の叫びを上げて、ドラゴンゴッズが地に伏した。

 ECHOはちらりと背後を見やる。黒い何かが、霊華にのしかかっているのが見えた。

 しかしすぐにECHOは前に向き直り、法剣を構える。

 大きく肩で息をする。苦しそうな表情と、傷だらけの身体。

 もちろん、息遣いと表情は演技で、傷も敢えて残しているのだ。

「ふふ……ははははっ!」

 パサカウの哄笑が洞窟内の響き渡る。びりびりと空気が振動し、小粒クリーチャーはそれだけで逃げ出した。

 パサホースも兄の意図を図りかねて、目を白黒させている。

「茶番だったな、小僧。いや、実に大したものだ」

「あ、兄者? 茶番って、どういうことだ?」

「この小僧はな」

 人間が十人がかりでも持ち上げられそうもない戦斧を、ECHOへ真っ直ぐに向けて見せる。

「実力を隠してドラゴンゴッズを屠りおったわ」

「なんだって?」

 ECHOの身体を、赤と青の霧が包み込む。霧が晴れた時、不敵に笑う普段通りの重装魔がいた。

「……さすがパサ一族長兄ですね。こうもあっさり見破られるとは」

「き、貴様、たばかったか!」

「イカサマは、見抜けなかった者の負けなのです」

 余裕の笑みではあったが、ECHOの頬をつうと冷や汗が伝う。苦肉の策は破られたのだ。

「弟よ、二人がかりで行くぞ?」

 牛面が邪悪に歪む。

「兄者、いくらなんでも人間ごときに我ら二人がかりでは、物笑いの種ぞ!」

「黙れ。こやつ、おそらく、我ら一人ずつでは勝てんわ」

「なっ、正気か兄者! 相手はたった一人だぞ? こんな奴、俺一人で充分!」

 パサホースは矛を高々と掲げた。

「我は誇り高きパサ一族が次男、パサホースなり! いざ、尋常に勝負!」

 長大な矛がECHOに襲い掛かる。空気を切り裂き、大地をも震撼せしめる必殺の突きはしかし、ECHOを僅かに後退させただけだった。

「さすがに、痛いですね」

「馬鹿な。俺の矛を受けたのだぞ?」

 うろたえる馬面の隙を、ECHOは見逃さない。パサホースの足元から水柱が立ち上り、ついで投擲された魔札の業火が顔面を焼く。

「うぐあっ」

 たまらずのけぞるパサホース。そんな弟を横目に、パサカウが走った。

「阿呆が! 奴を侮るな!」

 ECHOを射程圏内に収め、魔法の詠唱を始める。しかし、すぐさま反応したECHOのスキルストラウトの方が早い。詠唱カットからオーラキャスト、魔法の連発。

「ぐう……なかなかの火力だが、その程度では俺を倒すことはできん。弟よ!」

「応!」

 パサホースもまた、詠唱を始めた。

「これはいけませんね」

 ECHOは精神を集中し、全身の真気を収束する。

 真気とは、魔導師の魔力とも、戦士の闘気とも違う、戦うことでその身に蓄積することのできるエネルギーである。魔力放射、打撃がぶつかる時の衝撃、その残留エネルギーを体内に蓄積する技術を、全ての冒険者が身に付けている。

「はあああああ!」

 パサホースの魔法が完成した。紫色の光の波がECHOに向かって放たれる。それが自身に届く直前、ECHOは蓄積した真気を一気に爆発させた。眩い光が、洞窟内を真っ白に染め上げる。極限まで圧縮し弾けた真気は、爆発の瞬間いかなる攻撃をも無効化する無敵の盾となる。更に、爆発後の短時間、発動者の能力を大幅にアップさせるのだ。

「真元爆発か。ストラウトは、さっき使ったな。食らえいっ!」

 立て続けに、パサカウが魔法を発動させた。パサホースと同じ、紫色の光。これに囚われたものは、小さな怪我もたちまち大怪我になる呪いを受ける。

 紫の呪いはECHOを包み込み、その身を怨霊への供物と変える。

「さすがにこれは、厳しいですね……」

 巨大な影が二つ、ECHOの前に立ち塞がる。

 ECHOの左手が、耳たぶに軽く触れた。

 黒い人影は、霊華を抱きしめるように覆い被さっていた。

「ううっ……あうっ……ああああっ」

 霊華の嬌声が、一層大きくなった。だが、さっきまでの声とは違い、苦痛に満ちたものであるようにスタールには感じられた。

「霊華っ! くそっ、なんなんだこいつは!」

「こんなの、兄貴の時はなかったよ! なんなの、なんなの?」

 エミーはしっかりと、両手に霊華の右手を包み込む。右手は、強くエミーの手を握り返してきた。霊華の握力が、エミーの両手を軋ませる。

「エミー、手を放せ! 危険だ!」

 同様に左手を握っていたスタールが叫ぶ。スタールの握る左手もまた、万力のような力でスタールの手を締め付けていた。

「だいじょう、ぶ。ちょっと痛いけど、大丈夫だよ、霊華さん。私が、傍についてるから。兄貴が、いてくれるから」

 痛みに顔を歪めながら、それでもエミーは笑顔でいた。霊華が見ているはずもないのに、霊華を安心させようとしているかのようだ。

「エミー……」

 スタールは片手をエミーの手に、そっと乗せた。

「兄貴?」

「少しは痛みも和らぐ……わけないか」

 エミーの涙は、痛みによるものだけだったのか。

「……やめて。違う、違う。私は、私は」

 霊華の涙は、止まることがない。その瞼の向こうで、蒼い瞳は一体何を映しているのか。

「やだよ、お兄ちゃん。どうして? どうしてなの? どうしてみんな、お兄ちゃんを殺そうとするの?」

 不穏な言葉に、スタールもエミーも凍りついた。

「やだ! やだやだやだ! できない、できるわけない! なんでなの、お兄ちゃん、お兄ちゃんお兄ちゃん!」

 エミーの笑顔も、徐々に曇る。

「エミー……泣いて、いるのか?」

 既にエミーの瞳からは大粒の涙が零れていた。霊華が涙を流すほどに。「お兄ちゃん」を呼ぶほどに。

「霊華さんが、今何を見ているのか、私にはわからない。でも、悲しいの。霊華さんが『お兄ちゃん』って叫ぶ度に、凄く凄く胸が苦しくなるの」

 既に笑顔はなかった。エミー自身にも、何が悲しいのかはわかってはいまい。だが、その顔は、ただただ何かを悼んでいるようだった。

 スタールの胸にも、ずきりと痛みが走る。

 霊華がこれほど求めて止まない「お兄ちゃん」とは、一体何者なのだろうか。

「嫌だ! 誰にも、殺させない、死なせない! お兄ちゃんは、誰にも渡さない!」

 スタールは、霊華にのしかかる影が少し小さくなっていることに気が付いた。回復の兆しかと安堵しかけた矢先。

「ダメ、霊華さん!」

 エミーの涙声が訴える。霊華の白い肌に、黒い斑点が現れ始めている。

 これが、エミーの言っていた「黒くなる」なのか。少しでも安堵しかけた自分を、スタールは殴り倒したい気分になった。回復の兆しどころか、危険な状態にまで陥っているではないか。

「霊華さん、そっち行っちゃダメ!」

「霊華、負けるな! 『それ』は、お前の兄貴なんかじゃない! 霊華!」

 だが、黒い影はどんどん小さくなっていく。まるで、霊華と一体化しようとしているがごとく。

 そして、黒い斑点は数と大きさを増していき、いずれ霊華全体を覆うことだろう。

「お兄ちゃん……好き、大好き。傍にいて。他に何もいらない。お兄ちゃんさえ、いてくれたら。お兄ちゃん、お兄ちゃん……」

 影は、ほとんど霊華の身体に埋没していた。頭のように見える部分だけが、まるで霊華に口付けるように残っている。白磁の肌はほとんど失われ、もはや腐敗を始めた死体さえ連想させた。

「ダメー!」

「やめろ、やめてくれ。霊華を、連れて行かないでくれ……頼む」

 二人の声が霊華に届いたかどうか、誰も知ることはできない。

「ばか、な……」

 パサカウが、戦斧を取り落とした。身体中に火傷、凍傷が広がっている。氷の刃に抉られたであろう傷からは、氷が解けたために青黒い体液が流れ続けている。

「すまねえ……兄者」

 それが、パサホースの最期の言葉となった。地鳴りと共に、巨大で邪悪な馬の怨霊は倒れた。

「このパサが……二人がかりで、負ける……だと?」

 もはや、立っているだけでも限界が近いのだろう。パサホースは自分を追い詰めた者の姿を追う。倒れ伏す緑がいた。

 深い緑色の髪は泥と血にまみれている。シャツとスラックスも美しい緑色だったはずが、自らの血と返り血で、もはや何色だかわからない。

 今、ECHOの右腕が法剣を握り締め、左手は地面をしっかりと掴んだ。法剣を地面に突き立て、それにすがるようにして身を起こす。

「ふははっ、ふははははっ! 立ちよったわ! ふはははははっ!」

 赤と青の霧が、ECHOを包み込む。しかし、深刻すぎるダメージは、簡単には回復を受け付けない。

 ECHOは魔札を構える。魔力を集中すると、紅蓮の炎が点った。

 一切の不浄を焼き尽くす、スローフラッシュの輝き。深緑の瞳が、パサカウを射抜いて放さない。

 片膝が折れたが、法剣を杖代わりにして身体を支える。魔法を放つまでは、倒れるわけにはいかない。だが、一度放たれてしまえば、魔法は必ず対象を捕らえる。どんな回避も防御も関係ない。それが、この世界での魔法の因果律なのだ。

「もう、終わりにしましょう、パサの戦士よ」

「ふ、ふふ。そうだな。もはや斧を持つことも叶わぬが、俺にはまだこの拳が残っている」

 魔法の射程距離ぎりぎりで、二人が対峙する。

 ECHOの詠唱は既に完成している。あとは、放つだけだった。だが、パサカウも、最後の力を振り絞って捨て身で攻撃してくるだろう。今のECHOにも二の矢を継ぐだけの力は残っていない。もし、この一撃で決められなければ、倒れるのはECHOだ。

 静寂が訪れる。

 実際にはスタールたちの声や異形達の声がある。だが、今この場の二人の間には、静寂以外の何もなかった。

 一体どれほどの時間、膠着していたのだろうか。それは、永遠とも刹那ともつかない時間だった。

 ECHOの額から、一筋の血が流れる。それはECHOの右目に入り、僅かに視界を曇らせた。

「おおおおおおお!」

 出し抜けに、パサカウが雄叫びを上げながら急襲した。ECHOも投擲の姿勢に入る。瞬間、ECHOの左膝がかくんと折れた。疲労による脱力ではない。膝が、真っ赤な血潮を噴き出している。大きな牙が、ECHOの左膝を破壊していた。吹き矢でも吹くように、パサカウが飛ばしたものだ。

「はははっ、奥の手は最後の最後まで取っておくものよ! 死ねい!」

 だが、振り上げた拳は空を切った。

「なっ!」

「仰る通りですねえ」

 緑色の声は、パサカウの背後から。

「う、動けるはずが……」

「あれ? 見たことありませんか、アースダッシュ?」

 ECHOが天使のような微笑を浮かべる。だが、怨霊達にとっては死神の微笑みに他ならない。

「貴様……わざと、今まで使わずにいたな?」

「奥の手は、最後の最後まで見せないものです」

「ぬかったわ……貴様、名は何という?」

 少しも変わらない微笑で、ECHOは答えた。

「死にゆく怨霊に名乗ってやる名前など、ありませんよ」

 浄化の炎がパサカウの頭で炸裂し、跡形もなく吹き飛ばした。

 怨霊大将が倒れたことで、他の弱い怨霊達は全て逃げてしまったようだ。ECHOは尻餅をつくように腰を下ろす。

「少しだけ、休ませてもらいましょうかねえ」

「そういうわけには、いかないな」

 腰を浮かしかけたが、すぐに動けるほどの体力は残っていなかった。

「この洞窟に迷い込んで、今の今まで生き延びているとは、侮れん」

「そうだな、兄者」

「三人でやっちまいましょう、兄者」

 巨大な牛の怨霊が、二匹の弟分を連れていた。

「……おかしいってレベルじゃないですね、この洞窟は」

 ふらつく身体に鞭を入れ、ECHOは再び立ち上がった。

 影の頭さえ、埋没しようとしていた。この影が全て霊華の中に入っていったら、おそらく霊華は二度と戻らない。エミーだけでなく、スタールもまたひしひしと感じていた。

 スタールもエミーも、霊華の手を握り締めて叫ぶしかなかった。

 ただただ、その名前を。

 強く儚い、魔法戦士の名を。

 影が埋没していく。霊華の身体はもう、死体同然だった。涙も止まり、腕からは力が感じられない。生命が感じられない。

「俺たちじゃ、ダメなのか? もう、お前を呼び戻すことは、できないのか? 霊華……」

 スタールの両膝が折れ、地面にへたり込んだ。エミーが、霊華の右手を頬に当てながら、泣いている。

 胸に大きな穴が開いたようだった。スタールは、夢の中でエミーを殺されたことを思い出す。

「俺達は、ここで、死ぬのか……?」

 全身から力が抜けていくのをスタールは感じた。

 ECHOも、たった一人でいつまでも持ちこたえられるものではない。霊華は、最後の望みだった。それが断たれた今、スタールの胸中を絶望が埋め尽くしていく。

「スタール、君……」

 左足を引きずりながら、ECHOが戻ってきた。

「ECHO……霊華が、霊華が……」

 傷だらけのECHOの顔だったが、霊華を見た瞬間、一気に青ざめた。ECHOは一瞬だけ目を閉じ俯き、すぐに顔を上げた。

「失礼しますよ」

 言い終わる前に、ECHOの拳がスタールの顔面を捉える。鈍い音に、エミーも顔を上げた。

「私も、絶望の意味は了解しているつもりです。ですが、了承する気は毛頭ありません。立ちなさい、スタール君」

 スタールは殴られた頬を押さえ、ECHOを見た。瞳の大森林が、ざわめいている。張られた頬の痛みは、さほどではなかった。思い切り殴られたような気がしたが、逆に痛くないのが大きな痛みだった。ECHOは既に、限界を超えているのだ。

「最悪の中の、最善を尽くしましょう。必ず、生きて帰るんです」

 この男は、どれだけの戦いを潜り抜けてきたのだろうか。どれほどの地獄を味わえば、ここまで強くなると言うのか。凛とした声は変わらず、美しい緑色だった。

「……わかった。俺は、何をすればいい?」

 震える足を叱咤して、スタールは立ち上がる。

「今、私は凶悪な怨霊から逃げてきたところです。ですが、すぐにここにやって来るでしょう。私が時間を稼ぎます。君達はその間に逃げてください」

 ちらりと、ECHOは霊華を見やる。

「もちろん、霊華さんを連れて、ね」

 ずんずん、と何か巨大なものが大地を踏みしめているかのような地響きがした。ECHOの言う怨霊が来たに違いない。

「ECHO、あんたはどうするんだ?」

「もちろん、私も逃げます」

「死ぬ気じゃないだろうな?」

 ふっ、とECHOが微笑んだ。相変わらずの天使の笑顔だった。

「まさか。私が妻以外の人間のために命を投げ出すとでも?」

 こんな状況でも軽口が出てくるECHOに対して、スタールは笑みを漏らす。いや、本当にただの軽口なのか。本気で言っているようにも思えて、尚更スタールの口元は笑いを作らずにはいられない。

「急いでください。ここは袋小路です。出口を塞がれたら、終わりだ」

 出口を見ながら、ECHOの顔にも影が落ちる。

 スタールは霊華を抱きかかえ、ECHOに肩を貸した。エミーはECHOの足にアクアヒールをかけている。

「ありがとうございます。これなら、走れそうですね。では、行きましょう」

 一行は、早足で袋小路の出口を目指した。

 だが。

「ここにいたか、鼠ども。兄者、ここだ、ここにいる!」

 既にパサ兄弟三男坊、巨大な猿の形をした怨霊、パサアモンが立ち塞がっていた。

「これはいよいよ……絶望的ですね」

 法剣を構えながらの言葉とは裏腹に、口元の不敵な笑みは消えることがない。

「三匹まとめて、倒すしかないだろう……コープス」

 スタールの右手に、輝く剣が現れる。

「……仕方がありませんね。スタール君、回復薬は惜しまないでください。エミーさんは下がって。霊華さんをよろしくお願いします」

「で、でも……」

 霊華の身体を支えながら、エミーが何かを言おうとする。小柄なエミーには、霊華を抱えるのは厳しいようだ。しかし、そんなことを言っていられる状況でもない。

「見つけたか、弟よ」

「捻り潰してくれようぞ」

 三匹が揃い踏みする。大陸広しと言えど、この三匹を同時に相手取るなど前代未聞だろう。しかも、たった二人で。生きて帰れたなら、伝説として語り継がれてもおかしくはない。

 ECHOは丸薬の入った袋をスタールに投げた。

「これは……?」

「條霊錠です。奴らの呪いを食らったら、即座に飲んでください。さもないと、死にます」

「わかった」

 ECHOがアースシールドを、スタールはグレートオーラを使って自身の防御力を高める。おそらく気休めにしかならないだろうが、戦意を高め恐怖を忘れさせる効果もある。

「では、行きますよっ!」

「おうっ!」

 二人の男達は、絶望的な戦いに身を投じていった。

「霊華さん……見て」

 エミーは霊華の顔を膝に乗せ、そっと顔を撫でた。

「兄貴もECHOさんも、戦ってくれてる。霊華さんを、護るために。生きて全員で、お家に帰るために」

 霊華は何も答えない。静かに目を閉じ、眠っている。寝息は聞こえない。肌も腐敗し始めたかのように黒ずんで、体温が感じられない。

「私、なんにもできない。私じゃやっぱ、兄貴達を護ってあげられないんだ」

 白金の髪は柔らかく、瑞々しい。すぐにでも目をこすりながら起きるんじゃないかと思わされる程に。

「霊華さん……もう戻って来てくれないの? 出会ったばかりだけど、私、優しくてあったかい霊華さんのことが、好きだよ?」

 閉じられた霊華の瞼に、煌くものがぽつりと落ちた。

「帰ったらさ、今度はどこかに遊びに行こうよ。甘いもの食べて、美味しいもの食べて……あれ? なんか食べてばっかりだね」

 爆発音。剣戟。地響き。何かが砕ける音。誰のものとも付かない悲鳴。

 その全てが、今の霊華には届かないのか。

 エミーの声も、何もかも。

「霊華さん……せっかくお友達になれたのに、こんなの、ないよ。戻ってきて、私ともっと遊んでよ。それとも、そっちの方が、居心地がいいの? 『そこ』が、霊華さんの望んだ場所なの?」

 瞼だけでなく、かつて雪のようだった頬にも、整った小振りの鼻にも、薔薇色だった口唇にも、エミーの涙が零れ落ちている。

「お願い……私を護ってなんて言わない。私はいい。でも、兄貴を、ECHOさんを助けて。私、私なんかじゃ……うっ、ううっ……」

 霊華は何も答えない。静かに眠り続けている。それは、永遠の安息なのだろうか。

 スタールが、パサカウの斧をかわし損ねて体勢を崩すのが、エミーからもはっきり見えた。そこへ、パサホースの矛が迫る。このままでは、スタールの顔面が矛によって粉々に砕かれるだろう。リザレクションフィールドは発動するが、それは死を先延ばしにする法に過ぎない。リザ結界をリザレクションで解く時に、回復不可能な傷は即ち、リザ結界の発動如何に関わらず、死を意味する。

 エミーの心臓が凍りつく。最悪の展開に、顔を覆うしかなかった。

「おい……」

 スタールは死を覚悟していた。自分は間違いなく頭部を打ち砕かれて、リザレクションも意味を成さない程の惨たらしい死を迎えるだろうと。

 だが、スタールが見たものは、天国にいる両親の顔ではなかった。

「何を、やっているんだ……えこおおおおおおおおっ!」

 ECHOの背中から、矛の先端が覗いていた。緑色のシャツは今、真紅に染まりつつある。

「まずは一匹、仕留めたり」

 ぶるると鼻を鳴らして、パサホースが笑いながら矛を引き抜いた。鮮血が、スタールの顔に降り注ぐ。

 ぐらりとECHOの身体が大きく揺れる。これは時の加速なのか減速なのか。その背中が崩れ落ちる様は、まるでスタールを焦らそうとしているかのごとくゆっくりとしたものだった。

 地に伏す前に、しっかりとECHOと抱きとめる。

「なぜ……なぜだ? どうして俺なんかをかばったりしたんだッ!」

「私としたことが……大変なヘマをやらかしたものです……ね」

 激しく咳き込むと、多量の吐血が緑色のシャツを染めた。

「畜生、畜生! セイバーは自分の命を護らなきゃいけないんじゃなかったのかよッ!」

「その……通り、です」

「じゃあ、なんでッ?」

 目が熱くなっていた。視界が急激にぼやけていく。暖かいそれが頬を伝った時、スタールは自分が泣いていることに気付いた。

「さあ……なんででしょうね。私にも、わかりませんよ……ごほっ、ごほっ」

 実際、普段のECHOならば見殺しにする選択もあり得た。被害を最小限にして脱出をするつもりなら、戦力的にスタールよりもECHOが残っていた方が可能性として高くなる。ECHOが倒れてスタールが残っても、脱出は絶望的にしかならない。

「スタール君……霊華さんは、必ず、戻ってきます。だから、私もすぐに復活できますから……ごほっ!」

「わかった、もういい、喋るな!」

 スタールの涙が、ECHOの顔を濡らす。ECHO自身の血液と混ざり、更にECHOの頬を伝って地面に吸い込まれていく。

「……男の子が……そんなに簡単に……泣くものではありません」

「う、うるさい!」

 慌てて涙を拭う。意味などないことはわかっていたが、スタールの身体は勝手に動いた。

「ではまた、後ほど……」

 ECHOが静かに目を閉じる。瞬間、リザレクションフィールドが発動し、淡い光がECHOの全身を包み込んだ。

「別れは済んだか?」

 無表情にパサアモンが呟く。他の二匹も、黙って佇んでいた。

「武士の情け、か?」

 剣を握る手が、わなわなと震えた。

「我等は誇り高きパサ一族である!」

 三匹が、大きく胸をそらした。

「そうかい。ありがとよ」

 俯いたまま、スタールは顔を上げようとしない。

「いずれにしても、貴様らは全員ここで死ぬ」

 パサホースが、矛を構えた。

 スタールの足に震えが走る。それは、恐怖のためなのか怒りのためなのか悲しみのためなのか悦びのためなのか、スタールにはわからなかった。

 恐る恐る目を開いたエミーが見たものは、リザ結界に包まれて倒れるECHOと、死んだと思われたスタールの俯く姿。

 そして、もう一つ。

「レーヴァ……テイン?」

 冒険者の持つ鞄は、持ち主の声にのみ反応して、設定されたキーワードに応じたアイテムを任意の場所に出現させることができる。

 今、魔法戦士の主武器、炎の剣レーヴァテインが、呼び声に応じて持ち主の手に現れた。

「レーヴァテイン……そう。これが私の……ううん、『貴女』の剣なのね」

 二本の足で地を踏みしめ剣をかざすその姿は、魔法戦士でなくて何だと言うのか。

 腐敗を始めた死体のように黒ずんだ肌は既にどこにもなく、弾けるほどに生気に満ちた雪の肌が帰ってきていた。

「霊華、さん?」

「キミの声、聞こえてたよ」

 彼女は、自分の背中越しにエミーに話しかける。

「霊華さん……だよね?」

「レイカ……? うん、そう。そうだね」

 エミーは、立ち上がることもできずに泣き出した。大声で、恥も外聞もなく。

「キミの声、キミの想い、届いたよ。だから、今日だけは特別。『私』が、護ってあげる」

 白金の髪が揺れる。瞳の海に、荒れ狂う嵐が訪れる。

 両手を交差させ、しゅっと息を吐くと、闘気が彼女の身体を護るべく覆った。

「さしあたっては、あの三匹か」

 軽く腰を沈めたかと思うと、彼女の姿は掻き消えた。

 否、消えたのではない。一瞬の後にスタールとパサ兄弟の間に移動したのだ。ウィンドウォークどころか、タイガーギアさえ超える駆動だった。

「れ、霊華?」

 霊華が突然目の前に出現したことを驚くべきなのか、彼女が戻ってきたことを喜ぶべきなのか、スタールは悩みかけた。が、結局両方だとしか言いようがない。

「ふはははっ! 今更一人くらい増えた所で何になる!」

 パサアモンが歯を剥き出して高らかに笑う。

「臭いな」

「何い?」

 鼻をつまんで、霊華は手をぱたぱたと振った。

「臭い息、吐きかけるなって言ってんの、この雑魚が」

 三匹が顔を見合わせる。誰からともなく失笑が漏れ、やがてそれは高らかな嘲笑へと変わった。

 スタールの目が、これでもかと言うくらい見開かれる。これも、ECHOがやったような挑発なのだろうか。敵を油断させ、一対一に持ち込む作戦なのか。だが、霊華の態度はあっけらかんとしたもので、策のために演技をしているようには見えない。もっとも、演技とわかるような演技では策にもならないわけだが。

「あんたたちが『こっち』でどんだけの奴らなのか知らないけど、私のいた所じゃ、あんたらくらいのは三下にもなれないよ」

 言いながら、霊華は大きな欠伸をして見せた。だが、パサ達の嘲笑に変化はない。むしろ、更に声を大にして笑っている。

「お、おい霊華……」

 さすがに不安になり、霊華の肩を掴もうとしたスタールだったが。

「熱っ」

 触れることもできずに、自ら手を引っ込めることになった。

 霊華の身体が、燃えるように熱い。比喩でもなんでもなく、触れただけで火傷を負うほどに。

「下がってて。すぐに片付けるから」

 身体の熱とは裏腹に、その言葉は静かなものだった。

「もっとも……どの道、長時間は戦えないんだけどね」

 振り返る霊華の苦笑は、スタールが見たこともない笑顔だった。

 霊華……? 霊華、なのか?

 違和感が、あった。

 どこをどう見ても、彼女は霊華に他ならない。だが、言葉遣いや仕草に、違和感があるのも確かだった。それ以上に、彼女の身体から立ち上る闘気。

 闘気は、戦士にとって魔導師やその他の魔法職で言うところの魔力に当たる。魔法を使う者は、魔力というエネルギーを消費して魔法を発動する。戦士は、闘気と呼ばれるエネルギーを消耗して、様々な技を使うのだ。

 更に、さっきの霊華の瞬間移動にも似た動き。ウィンドウォークともタイガーギアとも似ているが、どちらとも異質なものだ。かと言って、真夜のような『抜き』による動きでもない。

 スタールの知る限り、体内の気を練り利用する内功くらいしか思い当たらない。その中でも軽功と呼ばれる技を極限まで高めれば、あのような動きも可能になるのではないか。スタールも、軽功自体は見たことがある。だが、それでも霊華の動きは速すぎた。

「時間がないからね。さっさと終わらせるよ?」

 霊華は剣を、身体の左側へと引き絞るように構える。軽く腰を落とし、膝は柔らかく曲げる。一見無造作な自然体の構え。しかし、隙が見当たらない。

 パサ兄弟たちは、相変わらず笑っている。油断というレベルではない。完全に舐め切っている。

「ま、見くびろうがバカにしようが、関係ないけどね。どうせ、死ぬんだし」

 霊華の呼吸が、独特のリズムを刻む。

「剣は人、人は剣なり。我、人にあらず、しかして剣のみにならず。ただこの一刀を持ちて、地を斬り海を斬り空を斬り、今、全てを斬る。我が意、既に虚。虚にして意なるは人剣一体の理……」

 空気が震え、地は鳴り響く。霊華の中で高まる「力」は、周囲の全てを震撼させずにはおかなかった。

「あ、兄者……」

 パサホースの矛の先が震えている。アモンの歯が、がちがち鳴った。

「これは……まさか、まさか!」

 パサカウの狼狽は誰の目にも明らかだ。

「ここは俺が食い止める! お前達は逃げろ!」

 牛が大きく一歩踏み出すが、膝が笑っていた。

「な、何を言っているんだ兄者!」

「そうだぜ。我等は、生まれは違えども死ぬ時は一緒ぞ!」

 勇ましく胸を叩いてはいるが、ホースもアモンも声が震えている。

「馬鹿野郎! あの構え、あの闘気……お前達も知っているはずだ! 逃げろ!」

「で、でも」

「もう、遅いよ」

 蒼い瞳が光芒を放つ。

「回天流奥義、千弐百八拾八式……桜花秋霜」

 パサたちの動きが固まった。言葉もなく、ただ立ち尽くしている。

 スタールには、何が起こったのかわからない。気が付いた時には、身体の左側に引き絞っていた剣が、振り抜いた後のように右側にだらりと下がっていた。

 ホースとアモンの身体が、横にスライドした。否、動いたのは上半身だけだ。下半身をその場に残し、上半身だけが滑るように横に移動している。断末魔さえなく、ホースとアモンは両断され、絶命していた。

「ぐううう」

 パサカウは一人、腰と頭に手を当て、必死の形相で霊華を睨んでいた。

「こんな、馬鹿な。回天流だと……なぜだ? 『こっち』に、いるはずがない。あるはずがない!」

 押さえた場所に、青黒い線が走る。線と同じ色の血を噴き出しながら、パサカウの上半身がずれていく。頭頂部からも勢い良く血潮が噴出した。正中線を絵の具でなぞったかのようだ。やがて四分割されたパサカウの身体は四散した。

 だが、巨体が倒れた割に、驚くほど音がなく静かだった。スタールが駆け寄ると、原型を留めた死骸は一つもない。両断されただけと思われた死骸は、スタールの想像を遥かに超える細かさで撒き散らされている。あの一瞬に、どれだけの斬撃を加えたというのだろうか。

 強すぎる。

 何の感慨もなく、大欠伸をする霊華を見て、スタールの背筋に薄ら寒いものさえ走った。

 もはや、スタールの考える「強い」という範疇を完全に逸脱している。内功がどうだの軽功がどうだの、そんな類推さえ馬鹿馬鹿しくなる。桁が違うという言葉さえ不充分だ。

 ……『世界』が、違い過ぎるんだ。

 「世界が違う」という言葉に自分で頷きながら、スタールの脳裏にもう一つの映像がフラッシュバックした。

 夜の闇。分厚い雲。人の形をした闇と、その中で玲瓏と輝く月のごとき白い肌。

 ──君が強さを求めるなら、あるいは、また会うことがあるかもしれんな

 なぜ夜光を思い出したりしたのか、スタール自身にも良くわからなかった。

「そんじゃ、私はそろそろ消えるよ?」

 霊華が剣をしまい、スタールに微笑んだ。

 その微笑みも、よく似ているがどこかが違う。霊華の微笑みは、こんなに悪戯っぽくはない。

「ま、待て霊華……いや、違う。誰なんだ、あんた?」

 「彼女」は、腕を組んで唇を少し突き出した。

「うーん。『レイカ』だけど、『レイカ』じゃない……あははっ、何て説明すればいいか、わかんないや」

 恥ずかしそうに鼻の頭を掻く仕草は、やはりスタールの知っている霊華のものではない。

「じゃあ『霊華』は? 『霊華』は無事なのか?」

「心配しないで。無事だし、私ももう出てくることはないと思うから」

 別に、「彼女」を邪魔と思ったわけではないのに、誤解されたような気がしてスタールはバツの悪さに頭を掻く。

「あ、いや、そういうわけじゃなくて」

「わかってる。キミ、見かけによらず、優しいんだね」

 耳が熱くなった。白い歯を見せる笑顔は、霊華とは違うという印象を裏切っていた。本当は最初から「彼女」は霊華自身で、これは何かの演技か冗談なんじゃないかと疑いたくなるほどだ。

「じゃあね。もう会うこともないだろうけど、元気で」

「お、おいっ!」

 手を伸ばした時、霊華は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

 慌てて霊華を抱きとめ、思わず口元に耳を当ててしまう。すー、すー、と寝息が聞こえた。苦悶の表情も、黒い斑点も禍々しい影もない。

 スタールは、霊華を抱いたまま座り込んでしまった。

 安らかに寝息を立てる霊華の雪の肌に、暖かい輝きが、ぽつりぽつりと零れ落ちていた。

inserted by FC2 system