第三話 護る剣

3 異形の魔物

 しとしとと、雨が降り注いでいた。闇の雨が木の葉を叩き、雑草に露を作り、そして大地へ染み込んで行く。街道に魔力灯などなく、月も星もあの分厚い雲の向こう側にある。僅かに塔婆の寺院の灯りを窺うことができるが、玄武山を照らすには弱々し過ぎた。虫達の音色もなく、辺りに広がっているだろう叢と樹木以外に、命の鼓動はない。ただ雨音だけが、闇の中に悲哀歌(エレジー)を奏で続けている。

 塔婆の寺院から北上すること一時間。玄武山の麓には、更に北の最上なる河から流れ込む小さな池がある。池の畔には桟橋が掛けられ、その上には小さな小屋もある。濁った湖面からは、小さなボートの舳先が覗いていた。かつては淡水釣りを楽しむ太公望たちで賑わっていたことが窺えるが、原形を留めない釣り道具が散乱する光景は、虚無的でもある。

 小屋のすぐ傍に、より深い闇が、ぽっかりと口を開けている。その前に立てられた高い木の柵も無造作に破壊され、部外者の立ち入りを禁じていたであろう役目は既に終わりを告げていた。太公望たちを相手に商売をしていた男が、倉庫代わりに使っていた天然の洞窟だったことを知る者はもういない。

 今、その洞窟の前に、四つの人影がある。カンテラを掲げ、一様にフードを被ったレインコート姿は、この寂れた釣りの穴場には異質なものでしかなかった。先頭に立つ緑色のレインコートの男が、洞窟を指差す。一番背の高い青いレインコートが、洞窟の中へ消えた。黄色のレインコートがその後に続き、緑色も中へ入る。最後に残った赤いレインコートは一度だけ背後を振り返り、小首を傾げる様な仕草をする。フードを取り、天を見上げる。白金のポニーテールが闇の中に輝くようだ。やがて赤いレインコートも、洞窟の中に消えた。

 四人を飲み込むと、洞窟は打ち震えた。まるで飴細工のように空間ごと歪み、しかし一瞬の後には何事もなかったかのような姿を取り戻す。

 闇の雨は、まだ止みそうにない。

 鼻をつままれてもわからないとは、こういう闇のことを言うのだろう。手探りでレインコートを脱ぎながら、スタール・B・ジュウイクトは思った。コートを冒険者鞄にしまい、足元のカンテラを洞窟の先へ向けてかざす。一寸先は闇。また一つ、闇に関わる慣用句を思い出す。同時に、壁面に灯台の小さな窪みを見つけ、カンテラから火を移した。

「ハッピーバースデイ、とぅーゆー♪」

 暢気な若い女の声が歌い、栗色の頭が近付いたかと思うと、灯台の火を吹き消した。再び洞窟内はカンテラの頼りない明りのみになるが、スタールは過たず小柄な栗色の頭を引っぱたいた。

「いったーい!」

「アホかお前は。せっかく明りを点けたのに」

 ぼやきながら、灯台に火を点け直す。頭を押さえ、眉を八の字にする妹の不機嫌な顔がぼんやりと浮かび上がった。

「だってさー」

「だってじゃねえよ」

 一つの灯台が、別の灯台の場所を明らかにする。スタールは、次々と火を点けて回った。が、連れを置いて先に進むわけにも行かない。点灯に一区切りつけて、スタールは振り返る。

「いやあ、降られましたね」

 緑色の男が、レインコートを鞄にしまっていた。深い萌葱色の髪と同じ色の瞳。見る者を微笑まさずにはいない柔和な顔立ちは、祖龍きってのS級セイバーにして稀代の重装魔、「深緑の重装魔(ヘヴィグリーン)」ことECHOである。この男は、レインコートまでもが緑色なのか。

「ってゆーかさ、兄貴が買ってくれたこのレインコートなんだけど、黄色とかってあり得なくない? 私、ピンクの方が好きなんだけど」

 黄色いレインコートを広げ、ばたばたと振り回す。

「こんなところで振り回すな。水が撥ねる」

「水切ってるんだからハネるよそりゃ」

 ひとしきり水を切ると、エミーはコートを畳み始めた。

「黄色だと、目立つだろ? 暗い所ではその方が安全だ」

「子供じゃないんだからねー!」

 コートをしまいながら、エミーは赤いレインコートの女を見る。

「私も霊華さんみたいなのが良かったー!」

 赤いレインコートを脱ぐと、灰白色のトラッドシャツとマイアスカート姿が現れる。少し濡れた白金の髪が、艶かしくもあった。

「体格もあまり変わらないし、良かったら交換しようか?」

 ターコイズブルーの瞳が細められる。

「え、マジ? いいの?」

「霊華、あまりこいつを甘やかさないでくれるか?」

 大喜びで霊華に擦り寄ろうとするエミーの前に、スタールが立ちはだかった。

「兄貴には関係ないでしょ?」

「俺が買ったレインコートだ」

「でも、私のレインコートだよ」

「はいはい。ここはもう敵地ですからね。そのくらいにしておきませんか?」

 にこやかにECHOが手を叩く。エミーが頬を膨らませ、ぷいとスタールから顔を背けた。

「それでは、試験を開始しましょう。クリア条件は、ダンジョンボスの単独での討伐です。感知水晶は持っていますか、スタール君?」

 スタールは鞄から水晶を呼び出し、ECHOに見せる。

「問題ない」

 感知水晶を確認し、ECHOは小さく頷いた。

「試験官は私、S級セイバーECHOとA級セイバー霊華が務めます。制限時間はありませんが、早いに越したことはないですね」

 制限時間なし。改めて、スタールはセイバーの特殊性を思い知る。

 通常、ダンジョン攻略の際にはダンジョンに滞在できる時間が決まっている。セイバー資格保持者を伴わないダンジョン攻略では、二十四時間以内に戻らなければならない。それは、リザレクションフィールドの維持限界が関係している。滞在時間だけでなく、セイバー資格保持者が自分のランク以下のダンジョンに潜入する場合には様々な特権が認められていた。まず、突入人数。通常は、六人パーティでの突入が義務付けられているが、セイバー資格保持者を伴う場合には六人以下も認められる。次に、伝書による定時連絡。セイバーを伴わない場合は、二時間おきにダンジョン管理局に伝書で状況を簡単に報告する義務がある。セイバーを伴う場合、この義務は免除される。ダンジョンへ突入する時間帯にも制限がある。セイバーを伴わない場合、管理局が閉まる夜間の突入は認められない。また、夜間は怨霊が活性化することも突入が制限されている理由だった。

 ダンジョン討伐任務は、冒険者ギルドから受けられる仕事に比べて高報酬であり、そのため希望者も多い。反面、ダンジョンの危険性とそれに伴う「冒険者を守るための規則」が、一般の冒険者の討伐を融通の利かないものにしているもの確かだった。

「やっぱー、セイバーって凄いんだねー」

 制限時間なしを聞いて、エミーも同じことを感じたようだ。目を丸くして、ECHOと霊華の顔を交互に見ている。

「兄貴が資格を欲しがるのも、なんとなくわかるよ」

 鳶色の瞳が、スタールを上目遣いに覗き込んだ。

「資格持ってる人は、実際、結構たくさんいるんだよね」

 人差し指を頬に当て、霊華が呟く。発言の意図を察したのか、ECHOが言葉を継いだ。

「そうですね。資格だけ持っている人なら、確かに」

「え、なになに? なーんか意味深な言い方ー」

 つつつ、とエミーがECHOに擦り寄る。既婚者とわかっていても、モーションをかけずにはいられないらしい。スタールは気付かれないように溜息を吐いた。

「実は、資格を持っているだけではセイバーの仕事はできません。就業セイバーとして、各ダンジョン管理局に登録する必要があるんです」

 就業セイバー登録。それは、スタールもまだ迷っているものでもあった。

 就業セイバー登録をすることで、登録をしたダンジョン管理局の管轄内で討伐パーティの全滅があった場合に招集がかかる。逆に言えば、登録をしなければ、ダンジョン討伐に関するセイバー資格保持者の特権だけを利用することも可能だ。つまり、持っていても損のない資格であると言える。

 だが、資格を持つこととセイバーとして救出任務に参加することは別の話になる。セイバーの救出任務は高報酬とは言え、責任が重くリスクも高い。好き好んでやる人間が少ないのも事実である。

「セイバー資格受験者の方には一応一通り説明はするんですけど……スタール君もおそらく、D級受験の時に聞いていると思います」

 ECHOがスタールを向く。スタールは頷いたが、エミーは首を傾げた。

「そうなの、兄貴? なにそれ。私だけ仲間はずれはヤだよー?」

 エミーの上目遣いに、ECHOは微笑んで応えた。

「就業セイバーにも、実は常勤と非常勤があります。簡単に言ってしまうと、常勤は専業、非常勤は兼業ってところでしょうか」

 常勤セイバーは、原則としていついかなる時でも出動要請に応えなければならない。例外として、既に救出任務中である場合、セイバー試験の試験官をしている場合、その他、軍の特殊任務遂行中などは、この限りではない。故に、いつ出動になるかわからない常勤セイバーは、一般のダンジョン討伐や冒険者ギルドの仕事をしないのが普通だ。定期的に仕事が入るわけではないが、一回の出動で得られる報酬が高いため、専業で食べていける。また、専用の伝書が貸与されるのも特徴だった。

 それに対し、非常勤は出動要請を拒否することができる。救出任務だけでなく、通常のダンジョン討伐や冒険者ギルドの仕事も兼業できるが、セイバー報酬は当然常勤より安くなる。伝書の貸与もない。

「ちなみに、私は非常勤で霊華さんは常勤です。どちらの方が良いということは言えませんが、スタール君ももし就業するなら、自分のスタイルに合った方を選択してくださいね」

 エミーが目を丸くする。

「霊華さん、すごーい! 常勤セイバーなんて、やる人少ないんじゃないの?」

 尊敬でエミーの円らな目が輝いている。スタールも同じ気持ちだった。霊華は照れたように頭を掻く仕草をする。

 聞けば、霊華は就業セイバー登録を大陸中のダンジョン管理局で済ませているというではないか。高給目当てだけでそこまでできるものではない。

 そうして大陸中を、いつも誰かを助けるために、護るために飛び回っている。いつも、たった独りで。凶悪な怨霊がひしめくダンジョンを、たった独りで。そんな戦いを続けていれば、強くなるに決まっている。強くなれなければ、死ぬだけだ。少しでも霊華の強さに近付くためには、迷ってなどいられない。スタールは、さっきまで就業を迷っていた自分を恥じた。

 しかし。

 その一方で、一つの疑問が生じる。

 一体なぜ、霊華はそこまでして誰かのために戦おうとするのか?

 エミーにはやし立てられ、照れる霊華。静かに凪ぐ瞳の滄海を見つめても、答は得られなかった。

「心記石は私が持っていますね。試験とは言え、討伐には報酬が支払われますので、頑張ってください」

 ECHOは掌に収まる程度の小さな石を見せる。赤銅色のただの石にしか見えないそれが、最新の魔道工学の粋を結集して作られたものだとは、とても思えない。

「霊華さん、どうかしましたか?」

 見ると、霊華が背後を気にしていた。入ってからほとんど進んでいないため、まだ入り口を目視することができる。

「んー、いや、なんでもないです。あははっ」

 言いながら、やはり入り口を気にしている様子は変わらない。

「……まあ、いいでしょう。行きましょうか」

 ECHOが洞窟の奥を指差し、微笑んだ。

 スタールはコープスブレードを呼び出す。今日はいつもの愛刀ではない。霊華がかつて使っていたというコープスブレード。肉厚な刀身が、黄昏神器特有の緑の光を放つ。この刀もまた、霊華と共にいくつもの命を救ってきたのだろう。スタールの手の中で、ずしりと重みが増すようだった。

 左手のカンテラで、火を灯台に移しながら狭い洞窟を往く。すぐ後ろには、ぱたぱたというどこか間の抜けた足音。聞き慣れた妹の足音だ。その後ろから、革のブーツが土を踏む音。何気ない足取りにも隙がない。これは霊華だ。殿(しんがり)は、深緑の重装魔。隙がないどころか、探らないと足音さえ聞き逃すのではないかとスタールには思われた。

 一本道の洞窟は、少しずつ幅が広くなっていく。何度もうねり、方向の感覚が既に狂い始めている。一本道でなければ、帰り道にも不安が大きかっただろう。

 何度うねっただろうか。大きく左に折れていく道の先から、ぼんやりと明かりが漏れていた。打ち捨てられた釣り場。その倉庫として使われていた洞窟だが、人がいるはずがない。なのに明りが漏れているということは。

 お出ましか。

 スタールは剣を握る手に力を込める。怨霊達が自分達の住む洞窟に明りを点すという習性は、冒険者なら誰でも知っている事実だ。その理由は今もって謎に包まれているが、スタールにとってはどうでもいいことだった。怨霊どもの存在を知らせてくれるなら、むしろありがたくすらある。

 呼吸を整え、怨霊の気配を探る。一つ、二つ、三つ。敵はまだスタールの接近に気付いていない。

 エミーにカンテラを後ろ手に渡し、身振りで下がっているように伝える。エミーが息を呑む音さえ聞こえるようだった。

 スタールは、全身の気を下半身に集約する。充分に練れた所で、一気に駆け出した。

 ウィンドウォーク。移動速度を一時的にだが飛躍的にアップさせる戦士の技である。内功の達人が使う「軽功」と呼ばれる技を外功に応用した技で、内功を修めていないスタールでも使うことができる。スタールが内功を修め軽功を身に付ければ、この技も更に早くなるだろう。

 左に折れる通路の先に、三体の異形が蠢いていた。

「うっ」

 思わずスタールは左手で口元を押さえてしまう。

 三体とも、大きさはスタールの腰ほどもない。だが、その姿はスタールが「怨霊」と聞いて想像するものを遥かに超えていた。

 馬の頭部に、昆虫のような節足が三対。馬面にも節足にも、青黒い鱗のような物がびっしりと貼り付いている。

 人間の髑髏のような頭部。眼窩にはぬめぬめと光沢を放つぎょろりとした眼球。耳に当たる部分から蝙蝠のような皮の翼が羽ばたいている。

 どう見ても人間の右腕なのに、指が四本しかない。まるで毛細血管が全て皮膚を透けて見えるがごとき桃色の肌には、無数の複眼が埋め込まれている。四本の指を地に付けて、腕を逆立てるように立つ姿は、異形と言う以外にどう表現すればいいのか。

 なんだ、こいつらは!

 一体どこから発声しているのかわからぬおぞましい叫びが、スタールの内耳を侵す。

 慄然とするスタールに、三体の異形が躍りかかる。それは、歓喜の雄叫びか怨嗟の苦鳴か。

 戦士としての本能が警鐘を鳴らす。人間としての本能が、得体の知れない異形に対する恐怖を呼び覚ます。腰が引け、足が震えかけたが、寸での所で戦士の本能が恐怖を抑え込んだ。飛び掛る三体の敵に対して、考える前に身体が反応する。剣を身体の左側に引き絞り、素早く体内の気を巡らせ、右手へ。右手から刀身へと送り込むイメージ。

「ブレイブムーン!」

 コープスブレードの緑光が半月を描くように尾を引いた。前方に群がる敵を横薙ぎに両断する戦士の技、ブレイブムーン。

 断末魔の暇もあらばこそ。

 空中で上下に両断された異形の怪物たちは、呆気なく地に屍を撒き散らした。体液も、それぞれ色が違う。青緑、乳白色、茶褐色。どれも血液とは思えないほどの粘性を帯びているのが、一層おぞましい。

「兄貴!」

 カンテラを持ってエミーが駆けつけた。

「うえ……なにこれ? きしょい」

 スタールが最初にそうしたように、エミーも口元に手を置く。

「敵……だな、多分」

 剣を一振りして血払いをする。水洗いしたい気分だったが、さすがにそれは諦めた。

 遅れて、霊華とECHOも現れる。

「緒戦は楽勝って感じ? ……うわ、これ、凄いね」

「これは……」

 見た瞬間のけぞる霊華とは裏腹に、ECHOは素早く死骸に近付き片膝を付く。

「知っているのか?」

 スタールの問いにも答えず、ECHOは死骸の観察に没頭し始めた。

「え、えこーさん、そんなの触ったらきっと毒だよ」

 エミーがスタールに抱きつきながら指差す。

 スタールもこの異形から少しでも離れたかったが、エミーや霊華の手前、一歩後ずさるにとどめた。

 ハンカチで手を拭い、ECHOが立ち上がる。

「こんな怨霊、見たことありません」

 眉間に皺を寄せ、目を細める。隠しようのない戸惑いが、ECHOの柔和な顔を歪めていた。

 深緑の重装魔と言えば、S級セイバーとしてのみならず、大陸中で活躍する冒険者としても知られている。非常勤とは言え、セイバーとしても一流であり、非常勤であるからこそ、武勇伝は枚挙に暇がない。その強さの秘密は「武」ではなく「智」にあるとまで言われる深緑の重装魔さえ見たことがない敵とは。

 沈黙したまま、ECHOは霊華に目配せをする。霊華もまた、世界中のダンジョンを舞台に活動する常勤セイバーである。ことダンジョンの怨霊に関する知識は、ECHOにも劣らないだろう。

 だが、霊華は黙って首を横に振った。

「スタール君、彼らは、『強かった』ですか?」

 ECHOは死骸から目を離さずに問う。

「……いや。C級ダンジョンとは思えないほど、弱い。単純な強さで言えば……手応えから推測するに、仮免冒険者が一撃で倒せるレベルだろう」

 手応え。斬った時の感触を思い出し、スタールは身震いする。硬くもなく柔らかくもなく、それでいて、確かに剣から伝わるおぞましさ。

「おかしいですね」

 ECHOは前髪をかき上げる。萌葱色の髪がさらりと舞った。

「確かにこのダンジョンは、ごく最近になって怨霊の巣窟と化しました。ですが、討伐を兼ねた調査隊が確かに入っているし、その上でC級の認定がされています。もちろん、こんな異形の怨霊がいれば、必ず報告されているはずですが……」

 それきり黙ってしまう。耳たぶに軽く触れているのは、彼の考える時の癖なのだろうか。

「ちょっと気持ち悪いけど……これってむしろラッキー? そんなに敵が弱いんだったら、兄貴、このダンジョン楽勝だよ」

 スタールにしがみついたまま、鳶色の瞳をスタールに向ける。涙目だ。冒険者とは言え、16歳の少女には少々刺激の強すぎる敵だったことは間違いない。

「一理あるな。もしかしたら、ボスと雑魚とで、レベルに開きがあるダンジョンなのかもしれない」

 もちろん、そんなダンジョンなどスタールも聞いたことはない。だが、日々活性化し、増え続ける怨霊と怨霊拠点だ。新しいダンジョンならば、そういうことがあってもおかしくはないだろう。

「とにかく、このまま進んでみないか? 詳しいことは後でダンジョン管理局に問い合わせればいい。こいつらのことだって心記石に記録されているなら、その情報が管理局に喜ばれるかもしれんしな」

 ECHOはしばらく耳たぶに触りながら黙って聞いていたが、小さく息を吐くと、答えた。

「わかりました。では、ここからは試験と並行して調査もすることにしましょう。いいですか、霊華さん?」

 にこやかに霊華を振り向くが、霊華はまた背後を気にしているようだった。

「霊華さん? さっきから、どうしたというんです?」

 さすがにECHOも眉をひそめる。

 霊華は白い頬に細い指を当てた。

「うーん。気のせいかもしれないけど……」

 そう言って、また背後を振り返る。

「なーんか、誰かに見られているような、気がして。いや、うん。誰もいないし、多分気のせい。忘れてください」

「ふむ。まあ、霊華さんがそう仰るのなら。ですが、何が起こるかわからないのがダンジョンです。引き続き、殿は私が務めましょう……フロスグラム」

 ECHOの声に応じて、黄昏神器フロスグラムが現れる。

 スタールはぎょっとなる。フロスグラムと言えば黄昏神器の中でもトップクラスの法器であり、深緑の重装魔の本気の法器でもある。

 驚いたスタールの顔に気付いたのか、ECHOが優しく微笑んだ。

「まあ、そうは言ってもC級ダンジョン。私がこれを本気で振るうことにはならないとは思いますが……念のため、ね」

 わからないということが、人間にとっては最大の恐怖になる。スタールは、そんな話を思い出していた。人間が闇を本能的に恐れるのも、何も見えないという「謎」に対する恐怖だと。このダンジョンには、脅威になるかどうかさえわからない謎があるのは確かだ。

「それはそうと……」

 スタールはまだしがみついているエミーを見下ろす。

「そろそろ離れろ」

 エミーの顔が、みるみる朱に染まる。大袈裟に飛び退いて、エミーは桃色の舌を出した。

「つ、次はECHOさんに抱きついてやるモンね、ゼッタイ!」

「是非そうしてくれ。邪魔でかなわん」

 スタールは剣を握り直し、洞窟の奥を見た。

 怨霊達の点した明りが、煌々と通路を照らし出している。

 スタールは、そこに昏い闇しか感じなかった。

 湿った空気が、肌にまとわりつくようだった。空気そのものが粘性と重みをもって絡むような錯覚は、焦燥感を煽り立てる。岩肌はぬめぬめとした光沢を放ち、ごつごつした地面も気を抜けば足を滑らせる天然の罠になるだろう。いくつもの灯台と篝火が洞窟内を照らし出しているのに、この不快な空気は炎に臆することを知らない。照らし出される光景は虚像に過ぎず、闇と認識できぬ昏く深い闇だけが洞窟内を満たしているに違いなかった。

 少し道幅が広くなったとは言え、それでも四人が横列で歩けるほどの広さはない。天井が高いのが救いか。縦列の先頭を行くスタールは、視線だけを上向けた。剣で戦うには充分な道幅ではあったが、天井が低ければ長剣を振るうにも難儀するだろう。

「やっぱー、なんか気持ち悪いよね、ここ?」

 エミーがスタールの外套を掴んだまま零した。

「洞窟なんて、どこもこんなものですよ」

 低く落ち着きがあり、凛とした清涼感を含む声。声に色があるとすれば、この男の声はやはり緑色に違いない。

「それはそうなんだけど……なーんか他より嫌な感じって言うか。ねえ、霊華さん?」

「うーん……」

 白くしなやかな人差し指を軽く頬に沈めて、霊華は小首を傾げた。

「同じって言えば同じだし、違うと言われればそんな気もするし」

「やだー、霊華さん、その仕草可愛いー! 私もそれ欲しいー!」

 外套を掴んだまま手をばたつかせる。

「引っ張るなバカ」

「あ、ごめんごめん」

 スタールが振り返ると、エミーは大袈裟に両手を広げ、放したことをアピールする。霊華の人差し指は既にその白磁の頬からは離れ、所在なげに空を迷っていた。

「人様の癖を欲しがるとか、意味がわからん」

「女の子は常に、可愛く美しくなろうとしているものなのです」

 エミーは人差し指を頬に当てて小首を傾げて見せる。確かに、霊華が時折見せる仕草だ。

 当の霊華は、右手を左手で隠すように包み込んでいる。スタールと目が合うと、ぷいと顔を背けた。

「兄貴、『そう言われてみれば確かに可愛いかも』とか、今思ったでしょ?」

 件の仕草を継続しながら、エミーが笑う。小悪魔の笑みだった。

「お前がやっても、可愛くもなんともないってことはよくわかった」

「あ、否定しない? 図星だねー?」

「そんなんじゃねえよ」

 救いを求めるように最後尾のECHOを見たが、エミー同様ニコニコしている。

「あまり大きな声を出すんじゃないぞ?」

 捨て台詞のように言い置いて、スタールは洞窟の奥へと再び歩を進めた。軽く、後ろに引っ張られるような感覚。またエミーが、外套を掴んだのだろう。いざ戦いとなればすぐ放すことをスタールは知っているし、逆に掴まれていることがスタールを安心させもした。

 洞窟内は怨霊達の点しただろう篝火。照らし出されているはずのこの魔の巣に、やはりスタールは昏い闇しか感じない。

 不意に、人差し指を頬に当てる霊華の顔が浮かんだ。

 図星なわけ、ないだろ。

 言われた瞬間心拍数が上がったのは確かだったが、それが図星だからなのかどうか、スタールは判断しかねた。それよりもむしろ問題だったのは。

 エミーの勘は、軽視できない。

 確かにエミーは、昔から物事を深く考えるタイプではなかった。何をするにも感覚が先行する娘である。その感覚は時に、論理性や検証を簡単に飛び越えて真実を鋭く貫いていた。常人が気付かないようなことでも、気付くのだ。そのことは、スタールが誰よりもよく知っていた。  そんなエミーが、この洞窟に他のダンジョンにはない脅威を感じている。

 ……面白い。

 剣を握る手に力が篭もる。後ろの三人に気付かれないように、スタールは大きく息を吸い込み、吐き出した。感覚を研ぎ澄ませば、ねっとりとした空気からもどす黒い何かが感じられるようだ。全身の血が巡るのがわかる。心臓を飛び出し、身体中を駆け回り、指の先まで闘志を運んで、そしてまた心臓から飛び出していく。

 敵は、どこだ。

 道幅は更に広くなり、初めての分かれ道が現れる。まるで門番のように立ち塞がるは異形の怪物達。

 見たこともなく、想像もできないような異形。怨霊という存在自体が自然の理から逸脱したものであるに違いないが、それでもこれは異形すぎる。だが、翻って考えれば、自然の理から外れれば外れるほど、そこから機能性は損なわれていく。大岩を破壊する逞しい腕も、それを支える身体があって初めて力を発揮するのだ。それが自然の理というものである。そこから外れれば、残るものはただの肉塊でしかない。

 敵は、どこだ。

 剣光が幾条もの弧を描く。その度に、おぞましい断末魔を撒き散らして肉塊が死骸へと変じていく。

 敵は、どこだ。

「スタール君、一応私もマッピングはしていますが……」

 ECHOの声が聞こえないわけではない。マッピングも、頭の中でやっている。それは、繰り返しダンジョンに入る冒険者なら身に付けていて当たり前の技能でもある。

 敵は、どこだ。

 おぞましい外見も声も手応えも、一度慣れてしまえば、そこにあるのは敵と呼ぶのも哀れな肉塊ばかり。

 敵は、どこだ。

 剣が肉塊を切り刻むほどに、その重みは失われていく。この剣は、これほど軽く、扱い易いものだったのか。

 まるで羽根のように。まるで翼でも生えたかのように。

 敵は、どこだ。

 粘つく空気を通してさえ、肉塊どもの居場所がスタールには感じられた。

 いくつもの分かれ道、上り坂、下り坂。

 どこをどう通ってきたか、全て鮮明に思い出せる。今なら、どこでどんな肉塊を斬り捨てたかを克明に書き残すことさえできるだろう。

 敵は、どこだ。

 霊華と出会ってからスタールは、より強い敵を求めた。今では、首狩りコマンダーに苦戦することもない。

 強い敵と戦うことで、より強くなれる。常に強敵と相対することで、戦士としての純度が高まる。

 スタールの全身に、真紅の闘志が満ち溢れている。

 エミーが幼く、剣仙から離れられなかった頃には決して感じることのなかった、その身に宿る真紅の炎。

 霊華と出会うことで、より激しく燃え盛るようになった、闘志の炎。

 敵だ、敵が必要だ。強い、強い敵が。

 だが、強い敵を求める一方で、剣は血を啜る喜びに打ち震えていた。肉を切り、骨を断つ感触。飛び散る血飛沫。剣が、軽い。この剣はもはや霊華の剣ではなく、スタールの剣だった。

 剣の歓喜が、肌を通してスタールに流れ込んでいく。それは一つの快楽となって、スタールの脳髄を溶かす。背筋が凍り、鳥肌が立つ。地獄の底のごとく昏く、蕩けるほどに甘いそれは、スタールの全身を震えさせずにはおかない。

 強いも弱いもない。強い敵を求める高潔な武人としての意思とは別に、剣はただ血に飢えていた。

 スタールは、震えながらも剣に逆らおうとはしなかった。

 雑魚の血が欲しければ、いくらでもくれてやる。だが。

 いくつの屍を築いてきただろうか。

 スタールは足を止めた。

「ふん……少しは手応えのありそうなやつが出てきたな」

 巨大な百足。一言で表すならばそれが最も簡易だろう。身体の前部をそそり立たせたその姿は、剣仙周辺でもよく見かける百足の怨霊に似ていなくもない。

「兄貴、走るの早いよ……うげえ!」

 追いついてきたエミーの嘔吐しかねない声に、その異形の与える衝撃が窺える。

 そそり立つ身の丈はスタールを遥かに超える。体長に至っては、更にその倍もあろうか。頭部と思しき部位に、人面を冠している。半ば腐敗した人面は、口が上、濁った両目は下に。上向きになっている鼻の穴は、その機能性を損なっていることが明らかだ。硬い外骨格は人間の屍蝋のごとく青白く、何より異様なのは、百では足りない足。その全てが、血管が全て透けたような桃色の、どう見ても人間の腕。

「これは……また、素敵なデザインですね」

 軽口を叩いているが、ECHOの声には嫌悪感が滲み出ていた。

「こんな……ひどい」

 霊華の言葉は、何に対するものだったのか。

 ひどい? 何と比べてひどいんだ?

 下半身に力を込める。スタールの腕の筋肉が隆起し、鼓動が早まる。血流が激しく全身を駆け巡り、熱すぎるほどだ。頭の中が真っ赤に染まる。

 今ここに、スタールの求める「敵」がいた。

「敵は斬る。それだけだ!」

 ウィンドウォークで駆けながら、跳躍。それでも頭部には届かない。

 狙いを変えて胴体に剣を振り下ろす。

 甲高い金属音が鳴り響き、スタールの剣は呆気なく弾き返された。

 ち、硬いっ。

 剣が弾き返され、空中で体勢を崩しかけた所に、百足の腕が急襲する。スタールが目を剥いたのは、襲い来る腕の数の多さではない。腕の長さから考えれば明らかに射程距離外であるにもかかわらず伸びてきた腕。人間の腕としての長さを維持しながら、しかし腕の付け根と胴体を繋いでいたのは剥き出しの筋繊維だ。

 百足が絶叫する。まるで、腕を伸ばすことが苦痛であるかのように。男とも女とも付かない声は、無数の人間が同時に叫んでいるかのごとく。

 スタールは両腕を眼前で交差させる。丹田に気を収束し、解き放つと同時に両腕を伸ばした。

「パワーシャウト!」

 敵の神経系に作用し、一時的に行動の自由を奪うこの技が、腕という部位に効果があるのか。

 果たして腕達は空中で力を失ったように垂れ下がる。スタールの身体も重力に捉えられるが、降下が始まる前に剣を振るう。青黒い血飛沫。百足の絶叫。スタールの着地と同時に、数本の腕が地に落ちた。

 頭には届かない。胴体は硬過ぎる。ならば。

「その腕、全部むしり取ってやる」

 着地点から一歩踏み込み、逆袈裟に薙ぐ。一度に五本の腕が宙を舞った。

 奇妙な感覚だった。普通の怨霊とは違う、しかし、ここの他の異形達とも違う手応え。

 スタールは、人を斬ったことがない。だが、もし人を斬ったならば、このような手応えなのか。うっすらとそんなことを思うものの、すぐに剣の歓喜に打ち消される。

 人だろうが化け物だろうが、何でもいい。斬れ。殺せ。

 歓喜と背中合わせの渇望が、スタールを駆り立てていた。

 気味の悪い絶叫は止むことはなく、血管の露出した腕がスタールに伸びる。かわし、弾き、あるいは斬って応じながら、伸び切った腕に対しては筋繊維を断つ。

「兄貴っ!」

 唐突に、エミーの悲鳴が空気を切り裂きスタールの耳を直撃した。

 考える前に身体が動く。全身から指向性を持つ気を前方に放射。反作用で瞬時に身体が後方へと移動する。戦士の瞬動スキル、ドラゴンギアである。地面から二本の腕が飛び出した頃には、既にスタールは大きく間合いを離していた。

 ちらりと振り返ると、エミーが片目を瞑って微笑んだ。

「エミーさん……今のは……」

 試験官の顔に戻ったECHOが、エミーの顔を覗き込んでいる。

「え? べ、別に私は兄貴に声援を送っただけですよー」

 ECHOが耳たぶを触り始めた。

「ま、まさか、声援送るだけで反則になったりしませんよね?」

「……まあいいでしょう。念のため言っておきますが、声援でもアドバイスを送るような真似は減点になりますからね?」

「は、はーい」

 百足の腕を捌きながら二人の会話に聞き耳を立てていたスタールは、内心胸を撫で下ろす。セイバー達はエミーの勘の良さを知らないし、エミーの一言でスタールが全てを理解することも知らない。エミーが事前にスタールの危機を察知して伝え、素早くスタールが反応して回避する。二人が戦いに臨む時にはごく普通のことだが、エミーのたった一声でそこまでのことが行われているなど、赤の他人に理解できるはずもない。

 サンキュ、エミー。

 胸の中だけで呟き、スタールは再び間合いを詰める。

 見れば、胴体から筋繊維が伸び、地中へと突き刺さっている。

 そういうことかよ!

 地面に気を取られている間にも、上から左右から腕が執拗にスタールを狙う。既にかなりの数を斬り落としているはずなのに、増えていく一方だった。

 その掌は全て開け放たれ、拳を作るものはない。殴打することを目的にしていない。スタールを捕獲するつもりなのか。あるいは、それは、スタールに救いを求めているようにも見えた。

 救い、だと。馬鹿な。

 数が多い。捌ききれない。スタールは再度間合いを取り直し、ふと見上げた。

 逆さに付いた人間の顔。腐敗して崩れかけたその顔からは、性別も年齢も窺い知ることができない。その濁った瞳は、じっとスタールを見つめている。

 泣いて、いるのか。

 スタールは頭を振る。ただ、攻撃の手が殴打してこない。それだけのことのはずだった。

 だが、一度頭をよぎった想像を、打ち消すことができない。

 同じ……ことだろう。

 人が怨霊を救うことなどできはしない。できることがあるとすれば、永遠の眠りを、与えてやることだけだ。

 剣が喘いだ。快感に身をよじり、何度も求めてくる情欲に溺れた女のように。

 もっと、もっと。剣の嬌声は淫猥ですらあった。

 スタールの肉体が、求めに応じて突き動かされる。

 いつものスタールならば、剣と共に登り詰めていくだけだ。だが今日は。いや、百足の瞳に涙を錯視した時から、剣に動かされている自分を感じている。スタールが剣を振っているのではなく、剣が別個の意思を持ったかのように自ら血を啜りに動いているような。剣がスタールを操っているような。

 それでも、スタールの身体から真紅の火照りが消えるわけではない。心も身体も、確かに敵を求めて飢えていた。

 敵は、どこだ。そうだ、敵は、ここにいる。

 剣を握る手に、もう一度力を込める。

 淫らな声は、止まるどころか益々大きくなっていく。

 もう一度、百足の目を見た。涙など見えるはずもない。

「パワーボディ!」

 闘気を防具に送り込み、そこに宿る力を変化、反転させる戦士の技。物理防御力を飛躍的に高める反面、魔法に対する抵抗力が低くなる。

「うおおおおおあああああ!」

 百足へ向かい、一気に走り出す。迫り来る無数の腕という腕を剣で迎え撃つ。だがスタールは、かわそうとはしなかった。剣による反撃も最小限にして、ただ百足に肉薄することだけを重視した走りだ。

 腕達は殴打こそしないものの、掴みかかろうとするその動きがスタールを徐々に傷つけていく。人間の腕にしか見えないのに、その握力は人間のそれを遥かに超えていた。動きを止められないよう、掴まれた時だけ腕を切り飛ばし、引っかき傷は無視する。

 そんな無茶な特攻で向かう先は、百足の背中。背中に乗ったとしても、腕が伸びるこの百足には死角足り得ない。だが、スタールの目的は別にあった。

 スタールの目的を知ってかしらずか、まるで背中への進攻を阻止するかのように、腕の執拗さが増す。多少のダメージは無視するとは言え、限度がある。

「スラッシュレイブ!」

 回転による全包囲攻撃。一瞬で周囲全てを薙ぎ払うため、数ある戦士の剣技の中でもスピードを要求される技である。あるものは弾かれ、あるものは原形を留めないほどに破壊される。

「デーモンスラスト!」

 更に、外功と併せた闘気の直接放射で、前方の腕を吹き飛ばす。道は開けた。ここまで突進するのにも温存していたウィンドウォークを解放する。

 と同時に跳躍。屍蝋の硬い背中に降り立つが、ここで終わりではない。ウィンドウォークの効果が残っている内に、スタールは頭部を目指して駆け出した。完全に背後にいるにもかかわらず、腕は正確にスタールを狙い伸びてくる。だが、追いすがろうとする腕はウィンドウォークのスピードに及ばない。問題は、頭部の下から伸びてくる腕。

 ここだッ!

 全ての力を下半身に込め、飛び上がる。ウィンドウォークの力が、スタールの跳躍力を何倍にも高めている。だが、それでもまだ目指す頭部には届かない。

 スタールは空中にまで襲い来る腕を冷静に見定める。そして。

「はっ!」

 戦士の技とは、これほどの駆動を可能にするものなのか。

 襲い来る腕を足場にし、まるで飛び石を渡るがごとくスタールは舞う。

 今、鳶色の瞳の戦士は、栗色の髪を揺らして悲しき人面の上まで躍り出る。

 これは時が見せる魔法なのか。スタールの周囲の時間が、限りなく緩やかに流れる。静と動の狭間で、刹那とも永遠ともつかぬ間に、スタールの剣が大きく振り上げられた。

「もう、休め」

 囁く声は、果たして人面に届いたのか。振り返った人面の濁った瞳が、スタールを見つめ続けている。

 振り下ろされた剣は、人面を頭頂から真っ直ぐ下に割った。

 直前、スタールは確かに見た。

 その口が、何事か呟くように動いたのを。

 異形がスタールに、何を言わんとしたのかは誰も知る由はない。割られた百足の顔からは、何の感情も読み取れない。

 見つめながらスタールは、己が祈っていることに気が付いた。

 だが、何を祈っているのか、スタール自身にもわからなかった。

 地鳴りと共に、巨大な百足が地に伏す。スタールは空中でくるりと一回転して、体勢を立て直しながら降り立った。真っ二つに割られた百足の頭部からは、どす黒い液体がとめどなく流れ出している。

「やったね、兄貴!」

 大袈裟に指を鳴らして、エミーが駆け寄る。スタールは一度剣を鞄に収め、軽く右掌をエミーに向けた。ぱちんと、エミーの掌が打ち合わさせる。

「でもー、兄貴が突っ込んでいった時は、ちょっとハラハラしちゃったよー」

 両掌を胸に当て、エミーが上目遣いにスタールを覗き込む。微かに八の字を作る眉は、心配の表れなのか。

「そう簡単に、この俺がやられるものか」

 ちらりとエミーの背後を見やると、セイバー二人が歩み寄ってくる所だった。

 だがその表情に、敵を倒した労いも賞賛もない。口を真一文字に引き締め、ただじっとスタールを見つめるその瞳には、何かを咎めるような色さえあった。

 強敵を倒したというのに、なぜそんな目で見られなければならないのか、スタールには思い当たる節がない。

「この洞窟は、ボスモンスターが三匹だったか」

 セイバー達の目から逃れるように、スタールは周囲を見回す。送信用の水晶を設置しなければならない。どこかに、設置場所があるはずだ。

 スタールが鞄から水晶を呼び出した時、霊華がぼそりと呟いた。

「やっぱ、まだ早かったかな」

 スタールの身体がびくりと震え、エミーが霊華を振り向いた。霊華は伏目がちに、ECHOに視線を送る。

「スタール君」

 霊華の目配せに応えるように、しかしECHOはスタールに向けた言葉を発する。

 ECHOの目が、正面からスタールを捉えている。その瞳の奥に、果てしない森林をスタールは垣間見た。

「セイバーの仕事をご存知ですね?」

「……ダンジョンで全滅したパーティを救うこと、だ」

 目でスタールを射抜きながら、ECHOが頷く。炎をも恐れぬこの洞窟のねっとりとした空気が、ECHOを中心に引き締められていく。

「ですが、パーティを救い護る前に、もう一つ、セイバーが護らなければならないものがあります。それが何だか、わかりますか?」

 ECHOの瞳の森林は、スタールを飲み込んで解放しようとはしない。

 セイバーの仕事とは、倒れたパーティを助け出し、呪われたダンジョンから無事帰還させること。セイバーを目指していなくとも冒険者ならば誰でも知っていることだし、逆に救われる側に立つ者も少なくはない。

 だが、それ以前に護らなくてはならないものとは何なのか。

 深過ぎる森に答を求めたが、スタールは何も見つけることはできなかった。

「わかりませんか? ならば、君にはまだセイバーは務まらない……」

 初めてECHOがスタールから視線を外した。俯き加減の目の先にあるのは、スタールのグリーブなのか、彼の背後に倒れる異形なのか。

 血流が、身体の末端に下がる感覚にスタールは襲われた。闘志に高ぶり熱くなっていたはずの血が、一気に冷たくなる。

「待ってくれ。どういうことなんだ? 俺は、もう失格ということか?」

 送信水晶を握る手にも知らず力が篭もる。反面、膝からは力が抜けていくのを感じる。さっきまでの闘志とは違う、全く別種の鼓動が早まる。腹に重たいものがわだかまっていく。

 エミーが円らな瞳を更に大きくして、霊華とECHOを交互に見やった。

「そういうわけではありません。ですが、君がそれを理解できないのならば、これ以上続ける意味はありません」

 囁くように優しく、しかし厳然たる意思が、その声には込められているようだった。

「実質的には、失格ということか……でも、納得はできない。なぜだ。俺は敵を倒した。セイバーの仕事が救うことなら、救うために敵を倒すことも必要なはずだ」

 ECHOの肩を揺さぶりたい衝動に駆られたが、足は動かなかった。

「そ、そうだよ、それじゃ全然わかんないよ! ちょっと危なっかしいところもあったけど、兄貴はちゃんとやっつけたじゃん! 頑張ってたでしょ?」

 エミーが引っ張るように両手で霊華の白い手を掴む。哀願するようなエミーを見て何か感じるものがあったのか、霊華は一瞬だけ微笑んだ。そして掴まれていない手をそっとエミーの両手に被せ、その手をじっと見つめる。

「その、ね、『危なっかしい』が問題なの」

 言いながらスタールへ振り向く。蒼い瞳の海は、静かに凪いでいた。

「いい、エミーちゃん?」

 霊華はもう一度エミーを見つめる。その姿は、泣いている子供を困りながらも優しくあやす慈愛に満ちた母のようでもあった。

「セイバーの仕事に、失敗があっちゃダメなの。助けに行く途中でセイバーが敵に倒されることがあったら、みんな死んじゃうから。セイバーは、絶対に倒れちゃいけないんだ」

「霊華さん、それは」

 霊華が何を話そうとしているかに気付き、ECHOが口を挟む。

「んー、私はエミーちゃんに話してるんです。スタール君なんかには、何も教えてあげませんよ?」

 霊華はこっそり、エミーにウィンクして見せる。エミーは何度か霊華とECHOを見比べたが、やがて霊華に向かって大袈裟に何度も頷いた。

 ECHOが口を開きかけたが、小さく息を吐くと、苦笑しながら霊華にもスタールにも背を向けた。

「だから、セイバーがまず護らなくちゃいけないもの、それは……ね。エミーちゃん、わかるでしょ?」

 エミーの首が、機械仕掛けの人形のようにスタールに向き、再び霊華に向き直ると、またぶんぶんと頷いた。

「そ、そっかー! いやあ、兄貴ってば本当にブァカだから、自分の身体も省みないで戦っちゃうんだよね! そんな兄貴に、わかるわけないよね! あは、あはははは」

 引きつったように笑うエミーを見て、スタールは思う。

 そこまであからさまにしなくても、さすがにわかるぞ。

 スタールは、敵を倒すことしか考えていなかった。倒すためなら、多少のダメージは仕方のないものだし、勝ちさえすれば後はどうとでもなる。ダメージの大小に関わらず、勝てばいいのだ。それが、スタールの戦いだった。

 だが、セイバーの戦いは、それとは根本的に異なる。スタールや、その他一般の冒険者がダンジョンに突入する目的は、あくまで討伐。だが、セイバーの目的は討伐ではなく救出である。無用な戦いを避け、自分が被るダメージを最小限に留める。それもまた、セイバーの戦いなのだ。

 セイバーがまず護らなければならないもの、即ち、セイバー自身の身である。

 倒すためにダメージを省みないスタールの戦いは、セイバーの戦いとは真逆と言えた。

 ……セイバー、か。

 スタールは両掌を広げた。敵を斬る感触。百足の頭を割った感触は、まだ残っている。この手が剣を握れば、また、血を求めていななくだろう。

「スタール君」

 声を見やると、いつもの優しい微笑みに戻ったECHOがいた。

「今の君の剣は、殺す剣なんです。ですが、セイバーに求められるのは、護る剣」

 談笑する声が聞こえる。エミーと霊華が、早くも話題を変えてガールズトークに花を咲かせているのだろう。

 ECHOの視線を追えば、そこに常勤A級セイバーの屈託のない笑顔があった。

深緑の重装魔(ヘヴィグリーン)、試験を続けてくれないか?」

 微笑みは一瞬驚いたような顔になり、すぐに笑顔へと変わる。

「もちろんです」

 瞳の森の向こうから、眩い光が差したように、スタールには見えた。

「あららららららら」

 唐突に響き渡る、若い女の暢気な声。この場の四人の声とは明らかに違う声。しかし、スタールの胸に、どこか引っかかる声でもあった。

 素早く身を翻し、剣を呼ぶ。ECHOは既に法剣を構えている。霊華もエミーをかばうように立ち、その手にはレーヴァテインが握られていた。

 一体いつ、そこに現れたのか。百足の骸を踏みつけて立つ人影がある。

 革のジャケットに紺のミニスカート、太いベルトにはシルバーアクセサリがジャラジャラと音を鳴らしている。紅の瞳と、やはり血のように紅い口唇は妖艶の極みと言えよう。長い黒髪を一つに結っているが、ポニーテールと言うにはその位置は高過ぎる。ギザギザの大きな耳は、海龍族特有の耳だ。

「何人か迷い込んできたって聞いたから見物に来てみれば……やっちゃったんじゃないの、コレ? きゃははっ」

 黒い革のブーツで、百足の「脚」を一本蹴り飛ばす。

「お前は……」

 スタールの脳裏に、寺院での出来事がフラッシュバックする。闇が凝縮したような男、夜光。その傍らにいた少女。

「あれー? あんた、どっかで見たことあるね」

 骸から飛び降り、少女は無造作にスタールへと歩み寄ってくる。徐々に近付いてくる得体の知れない少女に対して牽制の一つもできないままに、顔を目と鼻の先に近づけられてしまったのは、殺気がなかったからだけではない。一見、何の変哲もない歩みだが、どこかスタールは違和感を感じていた。現れては消え、消えては現れる陽炎を見ているかのように、掴み所がない。

 甘い吐息がスタールの頬を撫でるほど、少女の顔は肉薄していた。脳髄が痺れそうになる。

 大きく丸い瞳は釣り目がちで、悪戯好きの子猫を思わせる。薄紫色の肌は海龍族特有のものだが、そのきめ細かさが若さを表すことはどんな種族でも変わらない。少し低いが整った鼻筋。丸みを帯びているものの、すっきりした顎のラインは美貌を構成する重要な要素だろう。

 エミー以外の女が、かつてここまでスタールに肉薄したことはない。知らず、スタールの動悸は早まる。だが、少女は子猫のようにスタールをまじまじと観察するだけである。

「スタール君、お知り合いですか?」

 まるで道でも尋ねるようなECHOの言葉遣いだが、その声には警戒心が強く現れている。

「は、離れろっ」

 という言葉とは逆に、スタール自身がバックステップで距離を空けた。

「こいつ、夜光と一緒にいた女だ」

 ECHOの目が険しさを増す。霊華も眉間に皺を寄せ、剣を握り直した。

「ああ、あんた、あの時の。こうして近くで見ると、ちょっと可愛いかなー。きゃははっ」

「んな、なんだとっ」

 スタールの声に怒気が篭もる。頬が熱を持ち始めた。他の三人を自分の背後に置こうと、スタールは少女に一歩だけ近付いた。

「兄貴、何喜んでんの!」

 どこまで本気なのかわからないエミーの声が飛ぶ。

「べっ、別に喜んでない!」

 応えながら、しかしエミーに顔を向ける気にはなれなかった。

「ただの冒険者ならパーティに加わってもらう所ですが、夜光の関係者と聞いてはそうもいきませんね……夜光のこと、色々とお話ししていただきましょうか」

 フロスグラムがECHOの魔力に呼応して輝いた。土属性に変換された魔力がECHOの全身を覆う。自身の物理防御力を飛躍的にアップさせる魔導師の魔法、アースシールドである。

「きゃはっ。あたしの相手なんかしてて、いいのかなー?」

「何ですって?」

 ECHOが緑色の眉をひそめる。

 スタールは少女の注意がECHOに注がれた一瞬を見逃さない。雄叫びも気合もなく、静かに剣を振り上げた。

 ……峰打ちにしておいてやる。

 充分力を加減して、少女の首筋を狙った。剣の峰が襲い掛かる。たとえ手加減した峰打ちでも、その刀身を振りかざされるだけで剣は喜びに震えるようだった。

「ばればれー」

 だが剣は空を斬る。声はスタールの背後から聞こえた。

 スタールの全身から、嫌な汗が噴き出した。スタールは目を逸らしていない。直前まで少女は確かに斬撃の先にいた。瞬きだってしていないはずだ。しかし、現実に剣は空を斬り、少女はスタールの背後にいる。

 何が起きた? 何も、見えなかった。

 素早く反転して、少女を睨む。少女の紅の口唇は、薄く笑んでいる。スタールより頭一つ分は小柄なのに、その目は明らかにスタールを見下ろしていた。

「スタール君、その動きは高レベルの『抜き』です! まともにやっても当たりません!」

 よく通る声がスタールの耳を叩く。ECHOは叫びながら、紅蓮に燃え盛る魔札を少女に向かって投擲する。

「魔法かー。さすがのあたしでも、魔法だけはかわせないんだよねー。でも」

 魔札が少女の胸元に炸裂する。敵を熱と爆風で攻撃する魔法、スローファイア。爆発の規模から、ECHOが手加減したことが窺える。

「ああ、もう! 服が少し焦げちゃったじゃん!」

 見れば、確かにほんの少し黒ずんだ焼け焦げができていた。だが、少女にダメージがあったとはとても思えない。手加減したとは言え、フロスグラムという高階級法器から放たれた魔法にしてはあまりにお粗末過ぎる。

「なるほど……アヴォイドシールドですか」

「あたりー」

 おどけるように、少女は人差し指を立てて見せた。

 アヴォイドシールド。あらゆる攻撃を無効化する暗殺師の技である。

「アヴォイドシールドの発動は、25%……運がなかったようですね」

「きゃははっ、それはフツーの暗殺師の場合。あたしのアヴォイドシールドは、特別なんだもんね」

「ふむ。あの夜光が関わっているのなら、それもあり得るかもしれませんね。厄介な話です」

 口元に笑みを浮かべながら、しかし左手は耳たぶに伸びていた。

「『抜き』だか何だか知らないが」

 スタールがウィンドウォークで駆ける。走りながら剣を鞄に戻したのは、何かの狙いがあるのか。

「捕まえちまえば、関係ない」

 身を低くして、両手を肩幅より少し大きく広げる。狙うは、少女の下半身。タックルの要領で捕らえ、地面に引き倒すことができれば、回避行動など意味を成さない。また、下半身の動きで、回避行動も予測できるはずである。ミニスカートから伸びたしなやかな脚を、どんな動きも見逃すまいとスタールは注視する。

 今度こそ、見切る。

 少女の脚は動かない。どんな流派の構えとも違う、自然体の立ち方だ。少女の脚が目前まで迫る。この間合いなら、逃げようがない。スタールがそう確信して、両手を伸ばした時、少女の脚は忽然と姿を消した。

 完全に捕らえたつもりでのタックルだったために、そのままスタールは地面につんのめった。

「そりゃー、あたしの脚線美に参っちゃうのはわかるけどねー」

 さっきまでと少しも変わらない自然体の構えで、少女はやはりスタールの背後にいた。

 まただ……全く見えなかった。これが、「抜き」なのか?

 「抜き」とは、予備動作の省略だと、スタールも聞いたことがあった。どんな動作にも、必ず予備動作が存在する。攻撃一つとっても、まず相手を視認するために目が動く。次に、腕を動かすために筋肉が隆起する。そして剣を振り上げ力を溜め、振り下ろす。その予備動作全てを「抜く」ことができたら、人間の目はその攻撃を見切ることができない。極められた「抜き」は、見切るどころか視認することさえ困難だと言われる。

「あの『閃光の商人』以外で、これほどの『抜き』が可能な人間がいたとは、驚きです」

 ECHOの賞賛には、呆れさえ感じられる。

「スタール君、『抜き』はスピードではありません。がむしゃらに突っ込んでも決して当たりはしないでしょう」

 跳ねるようにスタールは立ち上がる。顔に付いた泥を拭うと、赤い擦り傷が現れた。

 くそ……ちくしょう、ちくしょう!

 コープスブレードが再びスタールの手の中で輝く。瞬間、何かどろどろしたものが自分の中から剣へと流れていくような感覚があった。それに応えるように剣が艶かしく身をよじり、媚びるように淫猥な嬌声を上げる。

 薄笑いを浮かべる少女を睨みつけ、剣を構えた。

「きゃははっ。いいじゃん、その目。あたし、感じちゃう。パパが言ってた通りだね」

 紅の口唇を割って、かすかに赤い舌が覗いた。まるで別個の生き物のように蠢くそれは、見る者の情欲を掻き立てずにはいないだろう。

「スタール君、落ち着いて! ここは私に任せてください!」

 ECHOが、ずいと一歩踏み出した。

 それに合わせるように、少女が一歩後ずさる。

「へへっ、あんた、スタールっていうんだ? あんたとはもう少し遊んであげたいけど……」

 また一歩下がり、少女は百足の死体をしげしげと眺めた。

「どうせ、ここでみんな死ぬから」

 その微笑の、艶美さよ。

 まだ二十歳にも満たないであろう少女とは思えない、恐ろしいまでの艶やかさだった。

「舐められたものですね」

 ECHOの目が細められるが、少女は意に介さない。

「誰も、生きては出られない。あんた達が、どんなに強くてもね。ここって、そーゆー所なの」

 恐ろしい言葉が終わる前に、少女の身体は少しずつ透き通っていく。

「ハイディング……? 待ちなさい!」

 ECHOの叫びも虚しく、少女の姿は掻き消えた。もはや、気配さえも感じられない。

「な、なんなの、今の女ー! むかつくー!」

 白い歯を剥き出しながら、エミーが手をじたばたさせる。そんなエミーの口を霊華が押さえた。

「もがっ」

「エミーちゃん、静かに」

 霊華は人差し指を自らの口の前で立てる。同時に、ECHOを見、スタールにも視線を送った。

 果たして、霊華の耳にしたものが徐々に全員の可聴域に入る。

「なん……だ、この音は」

 スタールも確かに聞いた。まるで地の底から沸騰しながら噴き上がろうとしているマグマのような音。だがそれは、マグマのように全てを溶かす圧倒的な熱エネルギーではなく、もっとずっと昏く深く、人を引きずりこんでしまうような禍々しい響きだった。

 霊華が顔を上げ、百足の骸を見た。エミーも何かに操られるように、骸を見た。ECHOは法剣を構えながら、骸から目を離そうとはしない。

 スタールは、何かに引かれるように百足を見た。

 両断された頭部から、何かが噴き出している。液体とも気体ともつかない、黒い煙のようなものが、もはや止めようもなく四人を包み込もうとしていた。

 ──誰も、生きては出られない

 夜光が「真夜」と呼んだ少女の艶然たる微笑が、スタールの頭から離れなかった。

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