第三話 護る剣

2 サナ・ホワイトを追え

 蟋蟀(こおろぎ)が鳴いていた。

 祖龍南区。この閑静な住宅街では、二階であっても窓を開ければ昆虫達の奏でる夜曲を耳にすることができる。窓から顔を出せば、近所の家々の窓からも明かりが漏れている。夕食を済ませた後の家族の団欒か、あるいは恋人達の囁きか。

 夜気に冷えた風が部屋着の隙間に流れ込み、コニー・ジェレイントは身震いして窓を閉めた。

 家族の団欒、恋人達の囁き。そのいずれも、コニーの部屋にはない。祖龍の学校に通うために剣仙の実家を離れたのが四年前。今年に入ってダンジョン管理局への就職が決まり、中央での研修を経て洛陽支局へ着任したのは今月に入ってからの話だ。万獣からの大型旅客飛行器での通勤にも慣れたが、祖龍から万獣へのテレポート代もバカにならない。交通費は支給されるとは言え、引越しも頭を過ぎる。

 引越しかあ。

 知らず視線は本棚へと移る。大小厚薄関わらず、びっしりと本が詰まっている。専門書、学術書から小説はもちろん、漫画も雑誌もジャンルの枚挙に暇がない。更に、本棚に入り切らないものは部屋の床に無造作に置かれ、散乱している。それに加え、押入れには。

 コニーは押入れを開け、積まれている段ボール箱の一つを開ける。安い紙質で安い印刷。厚みはなく、二十頁もあるだろうか。表紙では、耽美的な絵柄で美しい男性が二人抱き合っている。にんまりと笑い、眼鏡をくいと上げてページを開く。

「……いけないいけない」

 首を二三度軽く振り、同人誌を箱に戻して蓋をした。押入れを名残惜しげに閉めて、机に戻り椅子に腰掛ける。机の上には紙束が一綴り。最上部に「報告書」と書かれており、他にはまだ何も書かれてはいなかった。

「引越し……しようかなあ」

 現実逃避のように呟くと、実家に置いてきた段ボール箱の山が思い出された。実家に置いてきた衣装も少なからずある。冬のイベントまでに新しい衣装を一着作っておきたいが、それとは別に実家の衣装も使いたい。一度帰らなければならない。コニーは下唇に人差し指を軽く当てる。次はどんな名目で取りに帰ろうか。同人誌の山もコスプレ衣装も、見つからないように隠してある。当然家族には秘密にしているし、友人の中にもコニーの「趣味」を知っている者は少ない。

 引越しをするとなれば、借家であるこのアパートに物を残していくことはできない。引越し業者に手伝ってもらう必要があるわけだが、秘密の段ボール箱をあまり人に触られたくないのも確かだ。まして、あの紙の束が詰まった箱が、持ち上げた瞬間に破れて中身が零れだしたりでもしたら。何かの拍子にコスプレ衣装が白日の元に晒されたりしたら。軽々に引越しなどできない。コニーは本気でそう思っていた。

「ああん、もう!」

 赤茶色のショートボブを両手でくしゃくしゃする。筆を取り、「報告書」という名の白紙に向かった。

 学生の頃を思い出す。試験前の夜なども、似たようなものだった。どうしても机から離れたくてしょうがなくなる。

 ウェッズさんに言われた定期報告は明日! やるしかないの!

 少々大げさな決意をして、コニーはウェッズの怒り顔を思い出した。

 霊華が見つけてきた死体を調べろと言われた翌日の朝。今後の打ち合わせのためにコニーはウェッズを訪れた。前日に幽冥エリアのダンジョン全てで討伐が完了したこともあり、局内は静かなものだった。皆、溜まった事務仕事の処理を黙々とこなしている。

「コニー、こっちだ」

 眼の下に隈を作ったままのウェッズが、コニーを会議室に招き入れた。昨夜は泊り込みになったんだろうか。他の局員をみんな帰して、それで自分が全部背負い込む。それはウェッズの素敵な所でもあるが、短所でもあるとコニーは感じる。コニーが新米でアテにならないのは仕方がないとしても、もっと部下を信用してくれてもいいんじゃないのか。何より、ウェッズがいつか壊れてしまうんじゃないか。それが一番、コニーは心配だった。

 コニーが会議室の椅子に腰掛けると、ウェッズはすぐに出て行ってしまった。居心地悪く待っていると、コーヒーカップを二つ持って、ウェッズが戻る。

 言ってくれれば私がやるのに。

 新米で、仕事も失敗ばかり。そんなコニーだからこそ、誰でもできるお茶汲みくらいは任されたいと思う。

「どうした? 口を尖らせて? 俺の淹れたコーヒーじゃ不満か?」

「そういうわけじゃ、ないですけど」

 湯気の立ち上るコーヒーを見下ろす。どう見てもブラックだ。コーヒーはミルクと砂糖をたくさん入れる方がコニーの好みではあったが。

「朝はブラックに限るな。眼が覚めるぞ?」

 言いながら、ウェッズはカップを口に運ぶ。そんなことを言っているが、ウェッズが朝に限らずブラックしか飲まないことをコニーは知っている。

 コーヒーの香が鼻をつく。お腹の虫が鳴った。寝坊しそうになって、朝食を抜いたことを今更ながらに思い出す。

「色気より食い気とはよく言ったものだな。まあ、お前らしいが」

 聞こえていたらしい。頬が紅潮するのを感じ、誤魔化すようにコニーはコーヒーに口をつける。

 ふっ、と鼻で笑うと、ウェッズはカップをソーサーに戻した。

「まず、洞窟で何があったかを明らかにしたい」

 泊まり込みで仕事をしていたとはとても思えない、そんな目だった。

 一体何があったのか。どんな事件が起これば、ダンジョン攻略中に人が一人失踪して、篝火の中から変わり果てた姿で発見されると言うのか。コニーもあの日、帰宅の道すがら考えたことではある。そもそも、失踪というのがわからない。仲間が全員倒れた時に怖くなって逃げるとか、逃げる時に金品を奪うとか、そういう話もわからないでもない。中には最初から金品目的で参加し、パーティを全滅させる輩もいるという。が、その逃げたと思われた者がそのダンジョン内で死体で発見されるというのはどういうことなのか。まして、ダンジョンに突入する冒険者には、必ずリザレクションがかけられている。

「私、思ったんですけどー」

 コニーは、昨晩風呂に入っている時に思いついた仮説を言ってみることにした。

「みんながやられちゃって、怖くなって逃げ出したはいいけど、脱出する前に怨霊に捕まったんじゃないですかねー?」

 そして倒れ、リザレクションフィールドが発動する。誰にも発見されないまま維持限界が過ぎれば、死体は怨霊に何をされたとしてもおかしくはない。発見されないこともあり得る。というのがコニーの考えだった。

「逃げるにしても助けを呼ぶにしても、とにかく脱出しようとするっていうのは、当たり前の判断だな」

 部分的に同意を示しながら、ウェッズはコーヒーを啜る。釣られてコニーも口をつけたが、まだまだ熱かった。

「だが、当たり前の判断だからこそ、セイバーはそこまで織り込み済みで行動する。逃げてしまって、もうダンジョン内には居ないかもしれない。だが、もしどこかで助けを待っていたら? 一人でもいないとなれば、それこそ必死で探すだろう。ダンジョン内の怨霊を皆殺しにしてでも、な」

 そこまで言うとウェッズは、書類を一束、コニーに投げて寄越した。

「これは……?」

「心記石は知ってるな?」

「そ、それはもちろんですよー」

 ダンジョン管理局に勤めるようになって、コニーは初めて感知水晶や心記石といった魔道工学のテクノロジーに触れた。そのメカニズムはコニーの知的探究心を刺激するには充分で、愛書狂(ビブリオマニア)を自称するコニーは既に、関連図書を網羅し始めている。

「知っての通り、心記石は冒険者の戦いを記録する。記憶容量は大きくないから、こっちで再生して討伐を確認したら初期化するだろう? だが、初期化の前にその記録を書面で書き写している。……ああ、お前にもやらせたことがあったな」

 それは他ならぬ、コニーの初仕事でもあった。心記石は、ごく簡単な術式で、それを触れた者の脳内に映像を再生させる。欠点は、一度に一人にしか見ることができないこと。素材の貴重さと複雑なメカニズム、高いコストパフォーマンスから量産ができないこと。復活の巻物同様、一般に流通することはまずない。

 それだけに、初仕事の衝撃は大きかった。冒険者達の戦いが目の前にあり、その壮絶さは非戦闘員であるコニーにとっては薄ら寒くなるほどだった。無事討伐を成し遂げた映像でさえそうなのだ。もし、返り討ちに遭う映像だったらどうなっていただろう。だが、ダンジョン管理局に勤める以上、目を逸らすことはできない。いずれは、そういうものともコニーは向き合っていかなければならないのだ。仕事の重さと同時に、やりがいを感じたことは記憶に新しい。

「つまり、この書類が当時の記録なんですね?」

 書類を手に取る。日付と書記者の名前が記されていた。

「記録では、セイバーが失踪者を探すために幽冥の怨霊を完全に殲滅している。他のメンバーと共にダンジョン内を隈なく捜索したことも明記されているな」

 ぐい、と、ウェッズがコーヒーを飲み干した。コニーも釣られそうになったが、舌を火傷するのではないかと思い、軽く口を付けるに止めた。やはりまだ熱かった。

「もっとも……篝火の中までは調べなかったようだが」

 ウェッズの言葉に、背筋が凍る。

「セイバーさんが到着した時には既に、あんな姿になっていた……ってことですか?」

「……わからん。だが、その可能性はある」

 空になったカップに、ウェッズが目を落としている。

「コニー」

「は、はい」

 ウェッズに見つめられて、思わずどきりとなる。その目に宿る強い意志の光は揺ぎないが、どこか不安と恐れがあるように見えた。

「まずは魔導院に行け。昨日の簡易鑑定では不充分だ。もっと詳細な死因の鑑定を依頼しろ」

「ええー……」

 コニーは少しげんなりして、長机に突っ伏した。昨日も魔導院に簡易鑑定を依頼するために出向いたが。

「なーんか、感じ悪いんですよねー、あそこの人達って」

 役所仕事、という印象はともかく、ダンジョン管理局を名乗った時の冷たい目や素っ気なさはどういうことなのか。ウェッズに会ったら愚痴ろうと思っていたことをコニーは思い出す。

「気持ちはわかるが、ダンジョン管理局と魔導院は、形の上では協力関係にある。文句言わずに行ってこい」

「形の上では、ねえ……」

「そこは、色々と『大人の事情』ってものがある」

「なんですか、それ?」

 顔を起こし、眼鏡をくいと上げる。ウェッズは、ばつが悪そうに胡麻塩頭を掻いた。

「……ダンジョン管理局は、祖龍怨霊拠点対策委員会の下部組織で、怨対委は軍属。つまり、俺達も一応軍属だな」

「えー、じゃあ私も軍人なんですかー?」

 軍人。その言葉にどこかときめくコニーだった。軍服コスは、コニーの好きなジャンルの一つでもある。

「とてもそうは見えんがな。ついでに言うと、お前には二等輜重(しちょう)兵って階級が一応ある」

「え。私、輜重兵なんですか?」

 コニーは目を丸くする。

「輜重って、食料とか武器防具とか、そういう物資のことですよね?」

「そうだな。まあ、ここの仕事に即して考えても、当たらずとも遠からずってところか」

「輜重兵……輜重兵かあ……」

 軍人には萌えるが、輜重兵は微妙だなとコニーは思う。

「じゃあ、ウェッズさんの階級は?」

「輜重中尉」

「うは。めっちゃ士官じゃないですかー。私てっきり、下士官だとばかり」

 そこまで言って、はっとなる。ウェッズが意外そうな顔で見ていた。

 ……やば。普通の女の子は、士官とか下士官なんて言葉、使わないよね。

「で、でもでもー、ここって軍隊って感じじゃないし、ウェッズさんも上官って感じじゃないですよねー」

 とにかく話題を変えなければならない。どこから自分の趣味がばれるかわかったものではないのだ。

「まあ、軍属とは言え、ダンジョン管理局に関しては実質上形骸化している。名前だけ、形だけで、民間企業と大して変わらないだろう。でも、軍が嫌いな元老院からすれば同じこと」

「元老院?」

 縁遠い言葉に身が硬くなる。元老院と言えば、祖龍の執政機関一つ。現在祖龍の政治を司っているのが、軍と議会と、元老院である。どんな法案も、それぞれが承認しなければ成立しない。しかし、怨霊の脅威が増している現在では戦時宣言が出され、軍の力が最も強い。

「魔導院は、元老院直下の組織だ」

「つまりー、軍と元老院が仲悪いから、その下部組織まで影響されてるってことですかー?」

「そういうことだな」

 ふう、とウェッズが大きな溜息を漏らす。コニーも同じ気持ちだった。怨霊達は日々活性化しているというのに、身内同士で何をやっているのか。

「しかしまあ、スクロールも感知水晶も心記石も、飛行器や冒険者鞄、ファッションバッグに至るまで、魔導院の研究成果にはみんなが世話になってる。軍も同じだ。それなのにでかい顔されたら、奴らとしては面白くないだろうな」

「それはそうですけどー」

 だからと言って、それがふんぞり返っていい理由にもならない。と続けるより前に、ウェッズが先に言葉を継ぐ。

「不愉快な思いをすることになるかもしれんが、頼む」

 そんな真摯な瞳で見つめられれば、嫌とは言えない。元より、断る気などコニーにはない。ただ、少しだけ愚痴って甘えたかったんだろう。自嘲気味にコニーは苦笑する。

「わかってますってー。大船に乗った気で任せてくださいよー」

 とん、と軽く胸を叩くと、平均よりやや大きめな「胸」も揺れた。この胸のおかげで大好きな男装コスがやりにくいとは、口が裂けても言えない。

「その船、救命ボートは付いてるのか?」

「ちょっとー! どういう意味ですか、それー!」

 微笑みながらウェッズが空のカップを手に取る。コニーのそれに手を伸ばす前に、コニーはウェッズのカップを奪い取った。

「片づけなら私がやっておきますから。ウェッズさんも、少し休んでくださいね」

 ウェッズの空いた手が所在無げに宙を掻いていたが、やがてコニーの頭の上に移動した。

「じゃあ、頼んだぞ」

 まるで小さい子供をあやすように。その手は、大きく優しく、暖かかった。

「もう! 子供じゃないんですからねー!」

 空のカップのために手が塞がっており、払いのけることができない。

 コーヒーカップを握るコニーの両手に、熱がこもるようだった。

 そうやって、魔導院に再鑑定を依頼しに行ったのがその日の午前。丁度半月前になる。鑑定結果が出るのは明日である以上、報告書に鑑定結果を書くことはできない。明日は朝一で洛陽魔導院に出向き、結果を取ってくる必要がある。それは報告書と一緒に提出すればいいだろう。

 コニーは心記石の記録をめくる。書類には、パーティの戦いとセイバーの活動が詳細に記されていた。

 パーティ全滅の原因は、冥土の火。正確には、冥土の火とその周辺にいた怨霊群である。冥土の火周辺の怨霊は、倒れる時に大爆発を起こす習性がある。冥土の火討伐前に、周囲の爆弾処理をしていたが、冥土の火に気付かれてしまいやむを得ず戦闘に突入。冥土の火の攻撃と周囲の爆発を処理しきれなくなりパーティは全滅した。

 この時、最後まで生き残っていたのが、被害者ルチウス・マーローと、仲間の暗殺師サナ・ホワイト。他の四人が次々と倒れ、全滅を危惧した二人はその場から撤収。心記石はパーティリーダーの戦士が所持しており、彼はこの時点で倒れたので、その後の二人の詳細な記録はない。ただ、セイバーが入った時、サナ・ホワイトは出入り口に近いところで倒れていたらしい。サナの話によると、彼女が囮になってルチウスを出口に走らせたということだ。しかしルチウスは助けを呼びに管理局に現れることもなければ、ダンジョン内で発見されることもなかった。

 心記石に残っていなかった部分は、サナ・ホワイトなる冒険者しか知らない。

 コニーは一度筆を置き、鞄から小さな冊子を取り出した。メモ帳である。この一週間で調べたことが書き殴ってある。ぱらぱらとめくると、「サナ・ホワイト」と大きく目立つように書いた頁が開く。

 大きく深呼吸を一つすると、再びコニーは筆を取った。

 暖かな午後の日差しが、テラスに降り注いでいた。祖龍南区、喫茶「ヴィンデ」の店内は昼食を摂りに来た客で満員になっており、テラスにもそろそろ座る席がなくなろうとしている。プラム色のパラソルの立つテーブルが空いているのを見つけ、そそくさとコニーは腰を下ろす。白木で組んだテーブルと椅子。椅子にはピンクのクッションが敷いてあるが、幾多の客を乗せ続けた名誉の勲章が所々に見え隠れしている。

 歩き回っていたせいか、少し汗ばんでいる。コニーはグレイのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩める。ついでにブラウスのボタンを一つだけ外すと、心地良く空気が流れた。だが、ベストは脱がない。ベストのデザインは特に気に入っている。ベストだけではない。そもそも、ダンジョン管理局に就職を希望したのは、ほとんどこの制服のためと言って良かった。白いブラウスと紺のネクタイ、ジャケットは六つボタンで、裾がヒップにかかるほど長い。これで腰にジャケットの上からベルトでも巻けば、そのまま軍服コスになるのではないかと思われた。ボトムも、制服として規定されているのはタイトスカートとパンツで、これもコニーにとってはポイントが高い。男装を好むコスプレイヤーとしては、やはりパンツの方が馴染むのだった。

 軍服っぽいなーって思ってたら、ホントに軍服なんだもんなあ。

 今朝方の、ウェッズとの会話を思い出し、コニーはニヤけた。

「お客様~、ご注文はお決まりですニか?」

 振り返ると、狐の耳を頭に生やした妖族の少女が笑顔で立っていた。営業用スマイル、と言うよりは、何か楽しくて仕方がないという笑顔である。

 見慣れない顔だな、とコニーは思う。常連と言うほど「ヴィンデ」に来ているわけでもないが、今日が初めてというわけでもない。ましてヴィンデのウェイトレスは、メイド服など着ていなかったはずである。コスプレイヤーの性なのか、コニーの興味は制服に対する違和感ではなく、そのメイド服に注がれる。

 黒ベースで、王道とも言えるゴスロリスタイル。ヘッドドレスのホワイトブリムの意匠もさることながら、白いカフェエプロンに付いたハート型のポケットには作者のこだわりが感じられる。量販店で「メイド風」と称した衣装が売られているのは知っているが、この妖族の少女が着ているものはプロの一点モノに違いない。

「お客様~? どうかしましたですニか?」

 狐耳をぴるぴると動かして、少女がコニーを覗き込む。ライムグリーンの瞳が心配そうに曇るのに気付き、コニーは我に返った。

「え、えーとー、ランチのAでお願いしますー」

 居住まいを正しながら、眼鏡をくいと上げる。

 少女は満面の笑みで叫んだ。

「聞きましたですニ、トン吉くん? 聞いたならさっさと厨房に注文を通すですニっ!」

 少女が叫んだ方向で、ストーンゴーレムが接客をしていた。あんな大きなモノがテラスにいて、なぜ今まで気が付かなかったのか。コニーの口が、あんぐりと開く。

 確かに、妖族の女性が鳥獣を下知する能力を持っていることは、冒険者でなくとも知っている事実ではある。祖龍ほどの大きな街で、大勢の冒険者が闊歩していれば、街中で彼女らのペットを見る機会も珍しい話ではない。だが、そのペットを喫茶店で働かせている妖精なんてものは、悪い冗談にしか見えない。

「え、なんで私が? お嬢様が行けばいいじゃないですか。私は私で忙しいので、邪魔しないでくれますか?」

 言いながら、目の前の客に頭を下げている。伝票とペンを、とても指があるとは思えない手でどうやって持っているのか謎だ。それにも増して謎なのは、ゴーレムの頭のホワイトブリムだったが。

「うるさいですニよ。そもそもチミが、無理矢理椅子に腰掛けようとするからこんなことになっているですニ。ゴチャゴチャ言わずに働けっ、ですニ!」

「椅子を弁償すると言いながらピンクのクッションを買い取ろうとした挙句、財布を忘れたお嬢様には言われたくないですな」

「誰がサザエさんですニかっ!」

「言ってませんから」

 ゴーレムは一礼すると、奥へ下がろうとした。良く見ると、白いフリフリのカフェエプロンを付けている。

「あ、こちらのお客様にAランチですニよ?」

 あくまでもゴーレムに注文を通させるらしい。コニーの腹の虫が、恨めしそうな声を出した。

「申し訳ありませんですニ、お客様。ウチの石頭が大変な失礼を、ですニ」

「は、はあ……」

 本当にAランチは無事運ばれてくるのか。コニーの眼鏡がずり下がった。

 溜息を吐きながら眼鏡をくいと上げると、ウェイトレスがまだ傍に立っているのに気付く。テーブルの反対側の椅子に掛けておいたジャケットをじっと見つめたまま動かない。

「あのー、ウェイトレスさん? 何か……?」

「お客様~、ダンジョン管理局のヒトだったんですニ?」

「え、ええー、まあー」

 ある意味独特なデザインの制服のため、ダンジョン管理局に出入りしたことがある者ならば誰でもすぐに気が付くものではある。ダンジョン管理局の人間は基本的に内勤のため、逆に言うと、すぐにそれに気付く者はダンジョン管理局を利用している人間か、ダンジョン管理局の人間である。

「もしかしてー、冒険者さんですかー?」

 怨霊との戦いを生業とする冒険者が、なぜ喫茶店でアルバイトをしているかはともかく。

「な、なんでばれたですニか?」

 コニーは改めて、目を見開いた少女を見る。

 小柄で、あどけなさを残す顔立ち。コニーと同じ、赤茶色のショートヘア。ライムグリーンの瞳が静かに揺らめくようだ。やや小振りの口唇には、微笑が絶えることがない。

 こんな可愛らしい少女さえ、怨霊との戦いに身を投じている。

 コニーの脳裏に、初仕事で見た心記石の映像が蘇る。見るからに恐ろしい怨霊。そんな凶悪な敵と死闘を繰り広げる冒険者達。リザレクションがあるとは言え、戦いの中で命を落とす者は後を絶たない。

 この子だって……。

 不意に、霊華の連れ帰った遺体がフラッシュバックする。目の前の少女が得体の知れない怨霊に襲われ泣き叫ぶ姿が、脳内で像を結んだ。

 慌てて首を激しく振った。嫌な想像を振り払うように。

「うにゅ?」

 少女が小首を傾げる。その仕草はとても愛らしく、まるで本当に幼子であるかのようだ。

 冒険者を支援して、護るのが私達の仕事。

 いつかウェッズが言った言葉を、心の中で強く繰り返す。

「な、なんでもないですからー」

 両手をぱたぱたさせながら笑う。引きつってないかどうか、それだけは気になった。

「でも、ダンジョン管理局の制服って、凄く素敵ですニっ」

 ライムグリーンの瞳が、木漏れ日のように煌いた。

「本当ですかー? 嬉しいなあ。そういうこと言ってくれる人、意外に少ないんですよねー」

「本当も本当ですニ! ボクも実は、この制服目当てで、ダンジョン管理局の試験を受けたことがありますニ!」

 そう言って、ささやかな胸を大きく反らす。

 一般に、ダンジョン管理局は難関とされている。受験した、というだけでも話のネタになる程には。もっとも、受かるかどうかはまた別の話である。

「懐かしいですな」

 いつの間にやって来たのか、メイド服を無理矢理着込んだゴーレムがAランチをトレイに乗せて、少女の隣に控えている。

「おおぅ、トン吉くん、いつの間にハイディングを覚えたですニか! 心臓に悪いですニ」

「お待たせいたしました」

 のけぞる少女は無視して、ゴーレムがテーブルにランチを置く。やはり、どうやって持っているのかは謎だ。

「あの時は大変でしたね。『実技はまだですニか! 実技なら自信があるですニ!』とか言って暴れだすから……」

「にゅ。実技があれば、絶対受かってたですニ。それは間違いないですニ」

 一体、どんな実技を想定していたのか。コニーは疑問に思ったが、黙っていることにした。

「で、でもー、ウェイトレスさんのそのコスも、凄いですよー。私も欲しくなっちゃいますー」

 管理局での出来事も気になったが、それより一番気になっていたことを口に出す。

「おおっ! このコスの素晴らしさがわかるとはっ! お客様も、只者じゃないですニね!」

「ですな。なかなか『コス』という単語は出てきませんからな」

 意外に鋭いゴーレムの言葉に、コニーは思わず口を押さえた。

「うにゅ? そう言えば、お客さん、どこかで見たような気がしますニ」

「はて……言われてみれば、確かに」

 咄嗟にコニーは、顔を背けるようにランチに向かう。

 突然がつがつと食べ始めたコニーにも、少女達の怪訝な表情は変わらない。

「眼鏡、外してもらってもいいですニか?」

 来た。悪い予感が的中して、コニーは食べる速度を上げる。

「お嬢様、食事中に失礼ですぞ?」

「う、うーにゅ。なんか、喉元まで出掛かってるんですニ。もうちょっとなんですニ」

「ご、ごちそうさまー! お金、ここに置いておきますねー!」

 財布から紙幣を一枚取り出し、テーブルに叩き付ける。

「お待ちください! お釣りは──」

「あげますうー!」

 ジャケットと鞄を引っ掴み、脱兎のごとく駆け出した。眼鏡がずれるのも構わず店から出る。

 迂闊。コニーは自分を叱責する。

 あの独特の喋り方、完成度の高いメイドコス、妙な衣装のゴーレム。なぜ忘れていたのか。去年の冬、コスプレイベントで一度会っている。他にも、何度かイベントで見たことがあった。

 決して悟られてはいけない。コニーが、祖龍に名だたるコスプレイヤー「紫苑」であることは。

 祖龍の城、南区に冒険者ギルド本部はある。商店街や居住区からは少し離れており、どちらかと言うと東区寄りに位置している。三階建ての石造りの建物であり、一つの区画を占有するほどの大きさを誇る。大陸の主要都市だけでなく、小さな村にも出張所がある冒険者ギルドの総本山が、ここだった。

 洛陽の魔導院に死体の再鑑定を依頼したその足で、コニーは冒険者ギルド本部へ向かった。暗殺師サナ・ホワイトの所在を掴むためである。

 冒険者を志す者は、まずギルドに登録しなければならない。その際に必要になる情報は、姓名、生年月日、性別、現住所、連絡先である。登録が済めば、各種試験が行われる。人族ならば、おぼろ村から。エルフならば、夜露の村、といった具合だ。個人情報を登録した段階では仮登録とされ、冒険者を名乗ることはできない。正式登録のためには、三つの試験をクリアする必要がある。冒険者の戦闘能力の指標である「クラス」を認定する試験、「ルーキー」と「ノービス」。そして、「ノービス」クリア後に課せられるダンジョン討伐試験、いわゆる「一の試練」である。これら全てをクリアして、祖龍の本部で本登録をすることで、初めて一人前の冒険者として認められる。この際、仮登録情報は破棄される。そのため、冒険者の登録情報は本部にしかない。

 威風堂々たる佇まい。

 洛陽のダンジョン管理局の何倍の大きさだろうか。考えただけでも、コニーは眩暈がした。

 しかし、ここでなければサナ・ホワイトの情報を入手することができない。サナ・ホワイトだけが、ミッシングリンクを埋める鍵を持っているのだ。

 冒険者ギルドは魔導院と違って軍属らしいし、そんなに怖いことはないよねー。

 正面入り口には、建物の大きさに見合った大きな木製の扉があるが、営業時間内ならば開放されている。中では冒険者から事務員から、あるいは商人や職人まで、ありとあらゆる職種と種族がひしめき合っている。各受付や窓口には長蛇の列ができており、カウンターの向こう側では事務員が慌しく歩き回っていた。

 洛陽のダンジョン管理局でも、ここまで人で溢れることはない。それは、ダンジョン管理局を訪れる者のほとんどが冒険者に限られるからでもある。だが、冒険者ギルドには冒険者だけが訪れるわけではない。冒険者登録をすることもギルドの重要な役割だが、冒険者に仕事を斡旋することこそが本分と言える。冒険者の仕事とは、無論、怨霊に関わるものである。そして怨霊は、冒険者だけを選んで襲うわけではない。怨霊による何らかの被害は、全て冒険者ギルドに寄せられるため、ここを訪れる者に特定の条件などありはしないのだ。

 それにしても。

 コニーは上京したての学生のように、室内を見回す。

 冒険者も数多く出入りしているが、商人や職人といった非戦闘員がかなり多い。それだけ、怨霊による被害が多発しているということでもある。

 ダンジョン管理局にいるだけでは決して見ることのできない現実が、ここにはあった。

 窓口はいくつもに分かれている。

 被害届。討伐。登録。その他もろもろ。どこに行けばいいのかわからないため、コニーは「相談」という窓口に向かう。

 幸い人は多くなく、すぐに順番が回ってきた。

「次の方、どうぞ」

 若い女が事務的に言う。制服はブラウンのスーツで、ごくごく一般的なものだ。改めて、ダンジョン管理局で良かったとコニーは思う。

 そんな小さな優越感を見抜かれたのか、事務員の眉間に軽く皺が寄った。

「あ、あのー。ダンジョン管理局洛陽支部のコニー・ジェレイントです。人を探しているんですけどー」

 コニーのグレイのジャケットの胸元には、洞窟の入り口と剣を模したエンブレム。胸に視線が走り、事務員の眉がぴくりと動いた。エンブレムを確認したのか、それとも自分でも割と気にしている胸を見られたのか、コニーには判断が付かなかった。確かに、この事務員はあまり大きい方ではない。

 好きで大きくなったわけじゃないよう……。

 早くも気圧されながら、それでも言葉を続ける。ただの被害妄想だ、と自分に言い聞かせながら。

「え、えーと、サナ・ホワイトっていう暗殺師の方なんですけど……調べてもらえませんかねえ?」

「ご家族の方ですか?」

 事務員は満面に営業用スマイルを浮かべた。

「ち、違いますう」

「大変申し訳ありませんが、登録情報をお教えすることはできません」

 白い歯を見せて笑んでいるが、目が冷たい。とコニーが感じるのは、やはり被害妄想なのか。

 ああ……さっきのあの子……名前、思い出せないけど……。

 喫茶ヴィンデのウェイトレスの笑顔が蘇る。裏表を微塵も感じないあの無邪気な笑顔が、無性に恋しくなる。

 そんな冒険者の笑顔を護るためにも、これは必要ことなのだ。そう念じて、コニーは自分を奮い立たせる。

「そこをなんとか、お願いできませんかあ?」

「規則ですから」

 ぴしゃりと言い切る。何度も使っている言葉なのだろう。有無を言わせない厳しさがあった。

「どうしても?」

「規則ですから」

「硬いこと言わないで、お願いしますよー。冒険者ギルドとダンジョン管理局の仲じゃないですかー。一の試練だって、ウチが協力しなかったら成り立たないですよー?」

 やはり簡単には引き下がれない。ここでサナ・ホワイトを辿れなければ、手がかりがなくなってしまう。当時の別のパーティメンバーからサナに近付こうにも、これでは追うことができない。

「しつこいですね。いいですか? 例えば、あなたがタチの悪いストーカーだったとしたら?」

「こ、この制服を見てくださいよー。正真正銘、ダンジョン管理局の局員ですってばー」

「関係ないでしょう?」

 既に営業用スマイルは剥がれ、苛立ちを露にし始めていた。

「じゃあ、どうすれば教えてくれるんですかー?」

 カウンターに両手を突き、ずいと上半身を押し込むように迫る。事務員の頬が、引きつった。図らずも、自分の胸を強調する格好になっていることに、コニーは気付かない。

「どうやったって、あなたにはお教えできません。あなたが、ご家族か、さもなきゃ……」

「な、なんですかっ?」

 コニーは更に迫る。事務員がのけぞった。

「公安の捜査官でもない限り。でも、違うでしょう?」

「そ、それはそうですけど……」

 公安。心の中でコニーは呟く。

 公共安全機構。祖龍の三大執政機関の一つ、議会の管轄にある組織である。その名の通り、公共の安全を守ることを役目としている。各地に分署があり、犯罪への対処、治安維持などを担っている。別名、警備警察機構。「警察」とも略される。

「わかりましたか?」

 肩を落とすコニーを見て、どこか顔を綻ばせる事務員。ここへ来て、初めて裏のない表情を見せた。そこに少しだけホッとしている自分が、コニーは不思議でもあった。

 コーヒーカップから湯気が立たなくなって久しい。カップにはまだ半分ほどコーヒーが残っている。濁りなく黒いそれには、ミルクも砂糖も入っていない。

 コニーは書きかけの報告書をくしゃくしゃに丸めると、ゴミ箱へ放り込んだ。

 どうも、無駄な話が多い。特に、喫茶ヴィンデでのことなど、報告してどうすると言うのか。学生時代のレポートのようなものだろうと甘く見ていたが、調査結果をまとめるというのは存外に難しいものだ。とりあえず、書くだけ書いて余計な話は後で削ればいいとは思いながら、しかし書き直すことの手間も馬鹿にはならない。

 いずれにしても。

 床に散乱する本の中に混ざって潜む紙袋を見つめた。

 サナ・ホワイトの登録情報を入手するためにやったことは、さすがに書けない。

 結果だけ書くのはいいけど……どうやって調べたか聞かれると、困るなあ……。

 「調査方法」のことを思い返しながら、コニーはウェッズに対する言い訳を考え始めていた。

 雲は、綿菓子のように白かった。高空に広がる蒼穹は果てしなく、純白の雲はいつかそこへ飲み込まれていくのだろう。太陽が高くなるにつれて朝靄も(ねぐら)に帰ったが、冷気は少しだけ残っていた。

 祖龍南区、冒険者ギルド本部。

 髪に白いものが混ざり始めた初老の男が、正面入り口の観音扉に鍵を差し入れる。白いシャツにブラウンのベスト、同じ色のスラックスはギルド事務員の制服だ。かちりと解錠の音を確認して、両手で二つの取っ手を掴む。体重をかけながら引くと、重厚に唸りながら扉が開いていく。全開にし、閉まらないように固定してから、男は額の汗を拭った。

 こつり、こつりと、石畳を叩く靴音。営業開始早々に訪れる者も、決して少なくはない。男は振り返る。

 裾の長い詰襟とスラックスは深い瑠璃色。黒い革靴の踵は高めで、石畳を踏む度に淑やかな音を鳴らす。白い手袋には、一切の穢れを許さぬ厳しさが宿るようだ。官帽に誂えられた金色の帽章は、翼を広げた三本足の烏。

 汗を拭う格好のまま、男は一瞬身を強張らせる。別にやましいことなどないのに、こうして萎縮してしまうのは、その制服の成せる業だろう。

 公共安全機構。

 法の番人となり、街の治安を守る彼らはまさに、犯罪者達の恐怖の対象でもある。

 瑠璃色の制服は、脇目も振らず真っ直ぐ入り口を目指している。革靴の音は一定のリズムを刻み、長衣の裾が踊るように揺れる。ピンと伸ばした背筋、ぶれない歩み。決して大仰な立ち居振る舞いではなく、そこには気品と優雅ささえ漂うようだ。官帽の鍔で目元は良く見えない。しかし、きめ細かい真珠のような頬と、小振りな薄紅の口唇は美貌と呼ぶには充分過ぎた。

 官帽の鍔が微かに巡る。一瞥され、男は自らが見惚れていたことに気付き、思わず頭を垂れる。薄紅の口唇が僅かに笑んだように見えたのは、彼の錯覚だったかもしれない。

 制服姿は足を止めることなく、入り口の向こう側へと歩を進めていく。

 後姿を見送りながら、男はふと気付いた。清廉で厳格な印象とは裏腹に、その体躯が小柄であることに。

 コニー・ジェレイントは、今まさに快感の渦の中にいた。

 冒険者ギルドの扉を開けていた初老の男、彼の自分を見る目。それは、誰もが公安に対して抱くであろう畏敬に違いなかった。

 普段の自分とは全く異なる存在になること。

 それを変身願望というのは容易い。だがそこに、全く違う新しい世界があることもまた、事実だった。普段は見えないものが見え、知らないこともわかり、できないことまでできるようになるような。鈍くさい自分でも変身することで、どんなことでもできるようになるのではないか。コニーには、そう思えてならない。人より少し大きめの胸も、さらしで巻いて小さくなっている。男からの視線も気にならない。どころか、今のコニーは男性なのだ。

 そう。私は、コニーじゃない。紫苑、なんだから!

 口元に笑みがこぼれそうになる。男装コスをしている時は、いつもそうだった。油断すると、顔が緩んでしまう。ニヤついているのがさっきの事務員に気取られてないか気にならないでもなかったが、それも今のコニーにはさしたる不安を与えない。今彼女はコニーではなく、紫苑なのだから。

 紫苑は、昨日同様「相談」の窓口に迷いなく進む。営業開始から間もないためか、利用客の姿はまばらである。視線の先には、やはり昨日と同じ受付の女がいた。

 室内の視線が集まり、紫苑はそれを肌で感じる。人の注目を浴びることが、これほど痛快なものとは。コスプレを始めなければ、一生知らずに過ごしただろう。紫苑ではなくコニーが集める視線と言えば、男達の胸元への視線ばかりだったことも、快感をより大きくしていた。

「こんにちわ」

 微笑みながら、紫苑は窓口の女に声をかける。発声も、かなり練習している。男性としてはやや高めの声だが、男として通用しないこともない。小柄な男性ほど声が高くなる傾向があるのも確かであり、その事実も性別を疑われにくくしている。

「こ、こんにちわ」

 さ、と女の頬に朱が差す。紫苑は、この手のリアクションにも既に慣れている。可愛いものだ、と、自分が既に精神的に優位に立ったことを感じ取る。

「僕はシオン。公安の捜査官です」

 紫苑は長衣のポケットから黒革の手帳を取り出して見せた。帽章と同じ、金色のエンブレムが輝いていた。女は手帳より紫苑の顔ばかり見つめており、手帳はほとんど見ていない。が、いずれにしても長時間見せるつもりもなかった。

 当然のように、この手帳はコスプレの小道具に過ぎず、実物とはディテールを変えてある。コニーの裁縫技術をもってすれば本物そっくりに作ることもできたが、それは祖龍の法に触れる。制服や官帽に関しても同様で、全く同じデザインにすれば偽造の罪を問われることになる。逮捕されない程度に、しかし、どこまで本物に近づけることができるかが、レイヤーとしての腕の見せ所でもあった。祖龍にその名を轟かす紫苑という名のレイヤーは、そこにおいて天才的だと言えるだろう。

「きょ、今日は、どのようなご用向きでしょうか?」

 受付女の声が上ずる。紫苑の美貌がコスプレをバレにくくしているとは言え、長引けばどうなるかわからない。紫苑は単刀直入に用件に入った。

「サナ・ホワイトという冒険者を探しています。所在を教えてはいただけないでしょうか?」

 あくまで優しく、あくまで美しく、あくまで優雅に。そして、白い歯を見せることも忘れない。

「は、はい。すぐにお調べします!」

 弾かれたように席を立ち、部屋の奥へと走り去っていった。

 ふ。ちょろいな。まあ、この僕の美貌では、仕方のないことだが。

 眼鏡に触れようとして、掛けていないことに気付く。心まで紫苑になりきっていても、癖は出てしまうものらしい。と言って、眼鏡なしで真っ直ぐ歩けるほどコニーの視力は良くない。コスプレの際には、魔導院謹製のコンタクトレンズが欠かせないのだった。もっとも、製造元は近所の眼鏡屋だが。

 行き場に困った右手の中指が、顔を覆うように眉間を軽く触る。連動するように、紫苑の左手は自分を抱くように右の腰へ。後は、ちょいと首を傾ければ、レイヤー紫苑のいつものポージングが完成する。

 ふ、ふふ。僕、かっけぇ。

 偽公安と言うよりは、もはや完全にレイヤー紫苑だった。

「ああー! 紫苑さん、紫苑さんじゃないですニか!」

 無駄に大きな叫びが、紫苑の耳をつんざいた。

 ぎょっとしてポーズを崩しそうになったが、ファンの声に対しての反応も、既に身に染み付いていた。この美しいポーズを、ファンの前で崩せるはずがない。

 しかし、それはイベント会場であれば、の話。紫苑は今、レイヤーではなく偽公安である。

「まさか、こんな所で紫苑さんに会えるとはっ! ボクはものすんごくラッキーですニ!」

 狐耳を頭に生やした妖族の少女が、ライムグリーンの瞳にこれでもかと星を詰め込んで駆け寄ってくる。ぱたぱたと動く尻尾は、千切れんばかりだ。

 紫苑にも見覚えのある少女だった。イベントで同じレイヤーとして参加しているのを、何度か目撃している。まだまだ紫苑には及ばないとは言え、そのコスの質の高さに感心した覚えがあった。戦闘ペットに無理矢理メイド服を着せていた、という点でも印象深いレイヤーである。

「ああ、君は……メレット、だったね」

 コニーがすぐに思い出せなかったものを、紫苑はすぐに思い出した。自分を慕う女性の名前を、紫苑が忘れるはずがないのである。

「うにゅーっ! 紫苑さんに名前を覚えていてもらえたですニ! この狐、天にも昇る気持ちですニ!」

両手をしっかりと胸の前で組んで、メレットは天井を拝むように見上げる。

「君のコス、凄く出来がいいから。良く覚えているよ」

 嘘ではなかったが、印象の強さとしてはゴーレムのほうが強烈だった。などということは、紫苑は口が裂けても言わない。

「今日の君のコスも、とてもいいね。特に、カフェエプロンのポケット。可愛いよ」

「あ、ありがとうございます、ですニ~。そういう紫苑さんの公安コスも……もがもが」

 事ここに至り、紫苑は事の重大さに気が付いた。慌ててメレットの口を塞いだが、間に合ったのか。

 周囲の様子を窺う。大騒ぎしているメイド服の妖精に注目は集まっているが、紫苑が怪しまれている雰囲気はない。ひとまず安心できそうだったが、依然として予断を許さない状況ではあった。

「にゅ~、紫苑さん、そんな風に抱きすくめられたら、この狐、イケナイ道に走ってしまいそうですニ~」

 当然、レイヤー達の間では紫苑が「男装の麗人」であることは周知である。だが、今の状況、「イケナイ道」という言葉からでもボロが出かねない。

 ど、どうしよう……?

 常に冷静沈着にして容姿端麗、美しく優雅な立ち居振る舞いを旨とする紫苑だったが、背中に嫌な汗が流れるのを止めることが出来ない。もし偽公安であることがバレれば、本物の公安を呼ばれてしまう。

 とにかく、事務の女がサナ・ホワイトの情報を持って戻ってくるまで、なんとか切り抜けなければならない。

「そ、それはそうとメレット。君はどうしてここへ?」

 冒険者に対して「なぜ冒険者ギルドに来ているのか」などという質問は愚の骨頂でしかない。だが、今はコスから話題を遠ざける必要があった。

「やだなあ、紫苑さん。ボクはこう見えても冒険者ですニよ? 人々を苦しめる怨霊達をやっつけるために戦う毎日なのですニ!」

 紫苑は、メレットのコスの完成度やイベント出現頻度を思い返す。そんなに「狩り」に出ているとは思えなかった。などと勘繰る自分を叱責する。そんなこと、今はどうでもいい。

「そ、そうかあ。メレットは偉いね」

「ですニ!」

 両手を腰に当て、誇らしげにささやかな胸をそらす。

 自分の短慮な受け答えに、紫苑は内心舌打ちした。これでは会話を引っ張れない。

 まだ? まだなのか?

 相談窓口を何度も見やる。戻ってくる様子はない。

 メレットは、口を塞がれた時のドサクサをいいことに、まだ引っ付いていた。

「うーにゅ。この詰襟、素晴らしい出来ですニ。染色も完璧ですニ」

 ちゃっかりコスを品定めしている。さっきより小声なのが紫苑にとっては救いだったが。

「おお! このバックルのエンブレム、本物にも見劣り──」

「ううおおおっほん! おほんおほん!」

「にゅ? どうしたですニ、紫苑さん? 風邪ですニか? 身体を壊したりして、次のイベントで紫苑さんに会えなかったら、ボクは悲しいですニ」

「は、はは。大丈夫さ」

 このままメレットを強引にでも外に連れ出したかったが、肝心のサナ・ホワイトの情報をまだ手に入れていない。一旦引くのも手だが、途中でいなくなって公安に問い合わされでもしたら厄介だ。やはりこのまま、切り抜けるしかない。

「おー、メレットじゃないかー。珍しいのー。お前がこんなところにいるなんて」

 メレットを呼ぶ声に振り向くと、金髪を逆立てた男がいた。

「王子サマー。でも、王子サマこそ、珍しいと思うですニ」

 どうやら、知り合いらしい。ぴょこ、と紫苑のコスから目を放し、メレットは軽く手を振る。

「失礼なヤツじゃな。確かに怨霊退治はあんまりやらんけど、冒険者ギルドは上客じゃからなー。な、先生?」

 金髪の背後を見れば、オレンジ色のドレスに身を包んだ無表情な女がいる。最近量販店で人気の「キャット」と呼ばれるドレスだ。量産品ではあるが、比較的縫製がしっかりしており、紫苑も気になっていたドレスでもある。

「……それで?」

「はっはっはー」

 冷たくも見える態度に、王子と呼ばれた男は豪快に笑って答える。やがて王子はメレットの背後にいる紫苑に気付き、眉をひそめた。

「メレット、公安に友達がいるのかー。ん? 公安?」

 眉間に皺を寄せ、王子は紫苑に視線を走らせる。目の動きで紫苑は気付いた。王子が紫苑本人ではなく、コスを観察していることに。

 金髪、逆毛、商人、無表情な相棒、豪快で独特の笑い、王子という呼び名。

 まさか、閃光の商人……王子べじ太?

 冷水を浴びせられたような気分になる。商人として名高い彼だが、回避を極めた戦士としても知られている。その超人的な『見切り』は、どんな微細な動きも見逃さない。商売をやる上での『目利き』とも相まって、彼を大陸一の商人にしたともっぱらの評判である。

 つまり、偽公安を見破られるという意味で、今最も危険な相手とも言えた。

「あー、王子サマ、紹介するですニ」

 心臓が止まりそうになる。こんな所でレイヤーだと紹介されたら。

 相談窓口を見る。まだ戻りそうにない。

「あ、えーと、メレット、僕の紹介なんか、いいからいいから」

 震える足で、メレットにしがみつく。

「何を言うですニか、紫苑さん。この王子サマは大陸一の商人ですニ。コネを作っておいて損はないですニ。それに、王子サマはとってもいい人ですニ。紫苑さんのことも王子サマのこともボクは大好きですニ。だから、是非是非紹介させてくださいですニ!」

 メレットは、譲ろうとしない。さっきまでの軽いノリとは違う、真摯な意思を紫苑は感じた。

 そんなこと言われたら、止められないよ……。万事休すか……。

 紫苑の頭の中で、獄中に入る自分が想像される。ウェッズの幻滅した顔が浮かんだ。

「王子サマ、この人は──」

「おおーっと、おいら、こんな所で油売ってられないんじゃよ。すまんな、メレット、また今度紹介してくれ」

 言いながら、王子はずかずかと勝手口に回ろうとする。オレンジの女も、黙って従った。

「ちょ、待ってくださいですニ!」

 慌ててメレットが追いすがる。王子は一度足を止め、首だけで紫苑を向いた。

「紫苑って言ったっけ? 悪いやつには見えんし、何かワケがありそうじゃな。でも、メレットの気持ちも汲んでやってくれ。今度、二人でおいらの店に来いよー?」

 笑みながら、片目を瞑って見せる。

「王子サマ、王子サマ!」

「せっかくだから、お前もつれてってやるぞー。はっはっはー」

「ちょ、ボクは別に勝手口に用はないですニよ! あー、紫苑さーん、紫苑さーん!」

 王子は強引にメレットを抱えて、出て行った。なぜか、オレンジの女が立ち止まり、こちらをじっと見ている。

「餃子、食べさせてあげるわ」

 表情一つ変えずに呟くと、すぐに王子達の後を追う。

 三人の後姿を見送りながら、紫苑=コニーは、深々と頭を下げた。

 冷めたブラックコーヒーを飲み干した。報告書の隣に置いたメモ帳に目を落とす。サナ・ホワイトに関する情報が記載されている。

 サナ・ホワイト
 20歳
 暗殺師
 シニアクラス
 祖龍東区4-2-7 桃山荘202号室

 ※祖龍中央魔導院所属

 冒険者ギルドから手に入れた情報は以上だ。その下に、コニー自身が調べて記入したことが書いてある。

 実際に、この住所を訪ねてわかったこと。コニーはできる限り心を落ち着けて、思い返す。筆を執り報告書に向かうが、筆は思うように進まない。

 わからないことだらけだ。

 コニーは頭を掻く。だが、それはそれ。謎は謎として、解明できているかどうかはともかく報告しなければならない。

 コーヒーを淹れ直そうと立ち上がった時、蟋蟀(こおろぎ)の鳴き声が止んでいることに気が付いた。ぽつりぽつりと、窓を叩く音。それはやがて、夜を彩る悲哀歌(エレジー)に変わる。

 公安コスもいいが、やはりダンジョン管理局の制服が一番落ち着く。入局して間もないのに、この制服は既にコニーの服になっていた。紫苑ではない、コニー自身の服。それは、コニーが違う誰かになることではなく、コニーがコニーとして成長していける服でもあった。

 紺碧の空を見上げれば、吸い込まれていくような錯覚。昨日と変わらぬように見える雲も、きっと違う雲なのだろう。

 祖龍東区。

 朝食を「ヴィンデ」で摂り、その足で東区まで移動してきた。徒歩だと遠い道のりも、旅客専門の運び屋を捉まえれば時間はかからない。だが。

「毎度ありー」

 運び屋の男に紙幣を渡す。

「やっぱ、慣れてないとちょっと辛いよな、アイスドラゴンの乗り心地は」

 悪戯な笑みで顔色の悪いコニーを見下ろしながら、男は優しくペットの頭を撫でた。

「でも、速かったろ?」

「そ、そうですねー」

 なんとか笑顔を作ろうとしたが、上手くいったかどうかに、コニーは自信が持てない。

「ははっ。そんじゃ、またのご利用をー」

 からっと笑いながら、運び屋を乗せてアイスドラゴンは走り去っていった。アイスドラゴンは、大陸に流通している騎乗ペットの中では数少ない二足歩行獣の一つである。スピードはむしろ速い方なのだが、四本足と比べるとどうしても揺れが激しくなる。

 単純に安いという理由でアイスドラゴンを選んだコニーだったが、安いなりの理由を噛み締めることになった。

 祖龍東区は、大きく分けて、閑静な高級住宅街と活気ある港町からなる。海の怨霊もここ数年で爆発的に数が増え、かつての活気は失われている。とは言え、まだまだ頻繁に船の出入りはある。漁船だけではなく、夢幻の港や漁村、古代都市への定期便は、重要な物資輸送を担っている。

 その港を挟むようにして、南北に高級住宅地がある。名だたる名士や政治家、富豪達がこの近辺には多く在住しているという。先日出会った王子べじ太もまた、この東区に豪邸を構える富豪の一人だとコニーも聞いたことがあった。

 冒険者ギルドの情報によると、サナ・ホワイトは、そんな高級住宅地に住んでいることになる。

 一介の冒険者、それもシニアクラスの人が、こんな場所に住めるものなのかな。

 冒険者ギルドが定める冒険者の階級「クラス」は、巷間では次のように言われる。

 「ルーキー」「ノービス」は仮免、「レギュラー」で卵。

 「シニア」で産声を上げて、「アマチュア」でひよっ子、「ミドル」でようやく一人前。

 その後は「ハイ」「マスター」「ロウ/カオス」と階級が上がっていくが、一流どころは皆「ロウ/カオス」以上である。

 つまり、シニアクラスなどまだまだ新米もいいところ。安い仕事しか回してもらえないのが普通なのだ。

 なのにサナ・ホワイトは、シニアクラスで東区住まいである。

 疑問がないでもないが、あの王子べじ太のように、冒険者から転身して財を成す者もいる。あるいは、両親が裕福なのかもしれない。

 いずれにしても、苦学生だったコニーにとって、あまり良い印象を持てる境遇ではない。

 サナ・ホワイトの住むアパート桃山荘は、北側にあった。二階建て木造集合住宅だが、南区のアパートに比べ、外装も美しく、外から見ても部屋が広いのが良くわかる。おまけに、一階の部屋には広い庭があり、二階にも広いベランダが付いている。

 コニーは入り口に回った。

 外から部屋の入り口に直接行けるわけではなく、正面玄関を通る必要がある。各部屋の入り口は、建物の内側にあるのだ。正面玄関には大きな木製の扉。冒険者ギルドのものよりは小さいが、耐久性は引けをとらないだろう。

 開けようとして近付いた時、コニーは扉横の壁に埋め込まれた青い宝玉を見て、肩を落とした。

 これ、個人認証システム……。何よ、これじゃ入れないじゃない!

 高級住宅地と縁のないコニーが一目でその正体に気付いたのは、魔道工学の本を読み漁っていたことによる。高級住宅地向けのセキュリティシステム、個人認証。これもまた、魔導院謹製のテクノロジーの一つだ。

 また、魔導院かー。

 この調査を始めてからというもの、コニーは魔導院に関わってばかりのような気がしていた。実際には、死体の簡易鑑定と、再鑑定、そして、サナ・ホワイトの情報にあった「祖龍中央魔導院所属」の文字の三つだけだったが。

 そもそも。玄関前に立ち尽くしたまま、コニーは考える。

 魔導院は、公的な研究機関のはずだ。研究者が魔導院に所属するのはわかる。だが、どうして怨霊との戦いを生業とする冒険者が魔導院に所属するのか。それが魔導師や精霊師のような魔法職ならまだわからないでもない。だが、サナ・ホワイトは暗殺師である。

 もしかしたら、この調査、まだまだ魔導院と関わることになる……? やだなあ。

 特に根拠もなく、しかし、確かにコニーは嫌な予感を感じた。

「何してるの? 君、ここの住人じゃないよね?」

 はっとして振り返ると、若い男が訝しげに立っている。ラフな服装。無駄に多いシルバーアクセ。冒険者鞄を持っていない所を見ると、どこかの金持ちのボンボンなのだろう。

 セキュリティ完備のアパート。その入り口で立ち尽くしていれば怪しまれても仕方がない。

「あ、私は決してアヤシイ者では」

「その制服、ダンジョン管理局の人?」

 じろじろとコニーを見ている。その視線が胸元で一瞬止まったような気がして、コニーは居心地が悪くなる。面長で細い目は、どこか蛇を思わせた。

「は、はいー。実は、ここに住んでいるサナ・ホワイトさんにお会いしたくて」

「サナ……ああ、いたね、そんな人」

「え、いた?」

 蛇男は何を見るでもなく天井を見上げる。

「いつくらいだったかなあ。もう半年くらい見てないね。なんか、家族っぽい人達が、公安連れて部屋に入っていくのを見たことあるぜ」

「それって、どういう……?」

 思わず一歩近付きそうになったが、胸ばかり見る蛇の目が嫌で、コニーは踏み止まる。

「さあね。部屋を引き払ったわけでもなさそうだし、死んだって話も聞かない。神隠しじゃないのか?」

「そん、な……」

 頭を殴られたような衝撃が、コニーを襲った。

 この男の話が本当だとすると、半年前にサナ・ホワイトは既に失踪していたことになる。生死は不明だが、死亡が確認されれば冒険者ギルドでわかるはずだ。何より問題だったのは。

 ルチウス・マーローの失踪は、先月。これって、どういうことなの?

 ルチウス・マーローの失踪時に、サナ・ホワイトはその場にいたのだ。ダンジョン管理局の討伐記録にも残っているし、何より心記石に映像として記録されていたのだ。だが、サナ・ホワイトは、それより五ヶ月前に失踪していた。

「顔色が悪いね。大丈夫? なんなら、俺の部屋で休んで行けば?」

 蛇男が、下心を隠そうともせずに舌なめずりをする。

 コニーは無視して、背を向けた。正確には、蛇の言葉も届かないほど、頭が混乱していた。

「ふらふらじゃないか。ほら、こっちに来なよ」

 薄ら笑いを浮かべて、蛇がコニーの二の腕を掴んだ。

「放せ。汚らわしい」

 呪詛のような低い声、紫苑の声だった。

「ひっ」

 あまりの変貌に、蛇がのけぞる。

 強引に振りほどくと、コニーはアパートを後にした。

 港の方角から、湿った風が吹いた。妙に温く、肌にまとわり付くような風だった。

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