第三話 護る剣

1 セイバー試験

 全ては眩い光に包まれ、一瞬の後に闇へと変わる。ここではないどこか遠くの見知らぬ土地は、内なる宇宙より来る。星々の瞬きよりも尚遠く、心の深遠を見通せる者はない。時は刹那の中で止まることなく伸び続け、永遠は再び刹那へと帰る。光なき所に闇は在り、闇の在る所にこそ光は差し込むのだ。

 瞬きの中で永遠を経て、霊華は差し込む光に手を伸ばす。口を開けばそこに空気が生まれ、唾液が喉を下っていく。気流が頬を撫で、何かを焚く香りが鼻腔をくすぐる。

「そろそろかしら」

 清流のような声が耳を撫でた時、霊華の五感は再生した。

「目が、覚めましたか?」

 見慣れない天井。霊華には理解できない複雑な紋様は、何かの呪術なのか。

 こつりこつりと石床を叩くヒールの音が近づく。ボルドーのヴェールに覆われた顔が、霊華を覗き込んだ。

「ご気分は、いかかですか?」

 ぱちぱちと松明の爆ぜる音。雰囲気を重視してなのか、屋内は薄暗く、女の顔は良く見えない。身を起こし、大きく伸びをすると自然とあくびが出た。

「快眠だったようですね」

 ヴェールの奥から、くすりと漏れる。

「エトワールさん……? あ、ここ、『パレス』……」

 見回せば、アンティークに彩られた室内。来客用の寝室でもあるこの部屋は、占術館「パレス」の一室だった。

「では早速、お話を伺わせてください。隣の部屋でお待ちしておりますから」

 占い師エトワールは背を向け、扉を開けた。ヴェールと同じボルドーのワンピースは、ゴシック色が強い。ロングスカートだが裾丈は所々ランダムで、セクシーでもありエレガントでもある。

「あ、はーい」

 あくび混じりの返事にもう一度笑みを漏らしてから、エトワールは扉を閉めた。

 ベッド脇のテーブルからネクタイを引っ掴み、灰白色のシャツの上から締める。やはりトラッドシャツは、ネクタイがないと「らしく」ない。鏡を見ながら形を整え、霊華は思う。そう言えば、真都理もこのシャツを絶賛していた。かく言う霊華も、大いに気に入っている服の一つだ。

 ベッドの下の黒い革のブーツに足を入れて鏡の前に立つ。トラッドシャツ、マイアスカート、ヒロインブーツという服装は、霊華が最も好きなコーディネイトの一つでもある。

 鏡台に置いてある櫛を手に取り、髪を梳く。背中に届く白金の髪は、梳く程に輝きを取り戻していくかのようだ。ある程度整ったところで、髪をまとめて縛り、いつものポニーテールが完成した。

 年頃の普通の女の子なら化粧の一つもする所だが、霊華は苦手としていた。時々、真都理が見かねて喚いていたのを思い出す。八人いるギルドの中で、まともに化粧をするのは三人だけ。しかも、その中の一人が男とあっては、ファッションにうるさい真都理としては黙っていられないのだろう。

 興味はあるんだよ、うん。

 記憶の中の真都理に言い訳をする。着飾るのも好きだし、もっと綺麗になりたいとも思う。だが今の霊華には、もっと大事なことがあった。もっと強くなること。もっとたくさんの人を救い、護れるようになること。

 冒険者となりセイバーとなった時点で、「普通の女の子」は捨てている。普通の女の子のままでは、怨霊から人を救い護ることはできない。

 鏡の向こうに、今は亡き兄の顔が浮かんだ。

 その笑顔は、どこか悲しげでもあった。

 寝室の扉を開けると、薄暗い中に芳しい香が漂っていた。決して広くはない部屋の中心に、小さな円卓が一つ。エトワールが背筋を伸ばして座っていた。寝室同様、アンティークな調度。過度に飾らず、ミステリアスではあるがいかがわしくはない部屋だ。適度な神秘性は、日常とは違う異世界の緊張感を醸し出している。

「どうぞ、おかけになってください」

 エトワールが、対面にある椅子に逆手の掌を向ける。言われるままに、霊華は腰をかけた。

 薄暗さとボルドーのヴェールで、やはり顔は良く見えない。ヴェール越しで朧な瞳はとても澄んでいて、すっきりした顎のラインは美しい曲線。霊華よりも更に長い黒髪は、いつ見てもしっとりと濡れたような輝きがある。かなりの美人であることが容易に想像できるだけに、少しもったいないと霊華は思う。

「早速ですが、お伺いします。どんな夢を、ご覧になりましたか?」

 夢。果たしてあれを、単純に夢と呼んでいいものなのか。夢と呼ぶにはあまりに生々しい右膝の痛み、胸の鼓動、火照ったであろう頬の熱さ。今でもはっきり思い出せる。

 ここではないどこか。見知らぬ土地。アークという見知らぬ男。見たこともない怨霊との戦い。霊華が知っているものなど何一つなく、何もわかるはずがない。

「それは不思議ですね」

 話を聞き終えたエトワールは、小首を傾げた。

「不思議?」

 少しがっかりしたことは否めない。霊華にはわからなくても、あの夢を見せた本人ならばわかるものだと思っていただけに。

「最初にご説明しましたように、私の占いは夢占いです。でもそれは、見た夢を占うものではなく、占うための夢を見てもらうものなんです」

 エトワールの瞳が、神秘的に輝いた。

 そもそも、それが普通の夢占いならば、霊華もわざわざ足を運んだりしなかっただろう。多くの場合「夢占い」とは、その人が見た夢から何かを占うものである。曰く、空を飛ぶ夢は良いことの兆しだとか、追いかけられる夢は切羽詰っていることの象徴だ、など。

 だが、エトワールの夢占いは根本的に違うのだと言う。タロットや水晶占いのように、まず依頼人から占いたいことを聞く。次に、エトワール独自の占術によって何らかの夢を見せる。来客用の寝室は、そのためにある。そして、その夢の内容が占いの結果になるのである。

「夢は、見る人や占う内容によって千差万別です。でも、ほとんどの場合、その人と関わりのある内容になるはずだし、知ってるものが何も出てこないってことにはならないはずなんです」

「でも、エトワールさんの夢占いで、自分の知りえない未来が現れることもあるんでしょう?」

 霊華は、エトワールの夢占いで最も興味を持っていた評判をそのまま口に出した。

 実際、エトワールの夢占いの最大の特徴はそこだった。普通の占いは、タロットにしても水晶にしても、未来を見るのは占い師であり依頼人ではない。依頼人は占い師の見た未来を聞くだけである。自身もタロットを趣味としているだけに、それがどれほど画期的な占いか霊華にはよく理解できた。そして、肝心の的中率もかなり高いという噂である。無論、必ず未来を夢見るというわけではない。依頼内容によっては過去を見ることもあるし、未来でも過去でもない夢を見ることもある。

 そんな占いならば毎日長蛇の列ができていてもおかしくなさそうなものだが、特に予約もなしに霊華はここに来ている。料金が高めであることや、日が沈む前に閉店する営業時間の短さ、三日営業するごとに一日休業する独特の営業スタイルも原因だが、最大の原因はエトワールに宣伝や広告の意思がないことだろう。場所も西区の裏路地で、入り口は小さく目立たない。看板もドアに小さく取り付けてあるだけで、そこに書いてあることと言えば「夢占いパレス」だけである。

「もちろん、未来のことなら知らなくて当然です。でも霊華さん、夢の中であなたは戦士だったと仰いましたよね?」

「……うん」

「失礼ですが、私にはあなたが戦士にはとても見えません」

 重鎧姿で剣でも持っていればともかく、私服の霊華なら頭の羽根を見て誰でもそう思うだろう。

「それとも、霊華さんはご自分のことを戦士だと思ってらっしゃるのですか?」

「さすがにそれはないよね」

 兄を見て、戦士に憧れたことはある。兄の死をきっかけに、剣を取ったのも事実だ。だが、それは戦士になるということとは違う。確かに、戦士になりたかった。なぜ自分はエルフなのか。どうして人族に生まれなかったのか。そんな風に自分を呪ったこともあった。精霊師であることを捨てようとしていた時期もあった。

 ──戦士でも精霊でもいいじゃろ。霊華は霊華じゃ

 ──どっちだっていいよっ! 霊華ちゃんは霊華ちゃんだよう!

 迷走し、無理をしていた自分を救ってくれた二人の顔を思い出す。

 だから、霊華は戦士を名乗ることはない。今までも、これからも。

 であるならば、自らを戦士と言った自分は何者だったのか。

「それじゃあ、あの夢は何だったの?」

「……わかりません。あなたの依頼内容とも、どう考えても合致しないし」

 エトワールは、テーブルの水晶球に軽く触れ、じっと見つめた。

「おそらく、夢の中のあなたは、あなたであってあなたでない者」

「……どういうこと?」

 意味深なエトワールの言葉に、霊華は思わず身を乗り出す。

「こんなことは、私も初めてです。……霊華さん」

 エトワールと目が合う。瞳の清流に、白いいくつもの泡が立つようだった。

「料金はいただきません。その代わり、またいらしてくれませんか?」

 突然の申し出に、霊華は腰を浮かす。

「え、ちょっと待ってよ」

「少し、あなたを調べさせてください。このまま何もわからないのでは、占い師としての沽券に関わります」

 ずいと顔を近づけ、エトワールは霊華の手を握った。近づいたことで、少しはっきり見えたエトワールの顔は、想像以上の美貌だった。

「……うーん。私も占い好きだし、ちょっとだけ気持ちはわかるかな」

「それじゃあ!」

 ヴェール越しに、エトワールの笑顔が滲み出る。あどけなさの残る笑顔に、見た目以上の若さを霊華は感じた。年下かもしれない。

「あ、でも、料金は払うよ」

「いえ。そういうわけには」

 恐縮して身を硬くするエトワール。だが、どちらかと言うと霊華の方が恐縮したい気分だった。

「だって、悪いよ。そっちだって商売なんだし」

「私の好奇心で調べさせてもらう以上、ここからは商売ではなく趣味ですから」

 頑とした声音に、譲るまいという意思を霊華は見た。かと言って、タダで占ってもらうのもやはり気が引ける。

「それじゃあ、半額ってことでどう?」

 ふっ、とエトワールが霊華から視線を外す。揺らいだと判断した霊華は、少々強引に攻めることにした。

「OK、決まりねー。じゃあ、お金はここに置いとくよ?」

 言うが早いか、霊華はバッグから財布を呼び出し、高額紙幣を何枚かテーブルに置く。

「あ、で、でも」

「私、これから出かけるから。『パレス』も、そろそろ閉店時間なんじゃない?」

「えっ?」

 弾かれたように窓へ駆け寄るエトワール。カーテンを少し開け、すぐに閉じた。

「いけない。もうこんな時間」

「ね? じゃ、またねー」

「あ、霊華さん……」

 何かを言いかけたエトワールを無視して、霊華は慌しく外へ出た。

 西区の裏路地は元々日当たりが悪く薄暗いが、それでも夜の帳が降り始めているのがわかる。

 パレスの反対側には、寂れたバーが一軒。ドアの隙間からは明かりが漏れて、ドアノブには簡素な看板がかけられている。「オープン」と書かれたそれを見て手を伸ばしかけたが、この後の予定を思い出して踵を返す。

 結局、占いの結果、聞けなかったな。

 これから行われるスタールのセイバー試験について。それが、霊華の依頼だった。

 セイバー試験が終わったら冷えたエールをあおると心に決めて、霊華は裏路地を後にした。

 空は、分厚い雲に覆われていた。陽は既に没し、月明かりも星明りも降り注ぐことはない。遥か南では、祖龍の灯が夜の闇を切り裂かんばかりだが、この地を照らすには遠すぎる。闇の中には、行商人を、旅人を、あるいは冒険者の血肉を貪らんと爪を砥ぐ者達が潜んでいる。それは、数多の英雄達を祀ったこの地でも、例外ではないのだ。南は英雄坂から北は白玉の浜辺に至るまで、決して雲が晴れることがないのは、聖なる土地を怨霊達に蹂躙された英霊達の怒りなのか悲しみなのか。

 塔婆の寺院。

 元々は英雄廟など、英雄達の墓を管理維持する施設だったが、今では青緑エリアのダンジョン管理局も兼ねている。最高責任者のパリスは祖龍の長老も一目置く程の学者であり、怨霊研究の権威としても名高い。だが、ここ最近の怨霊の活性化の原因を突き止めるために不眠不休の研究を続けており、人前に出ることは少なくなったという。

 スタール・B・ジュウイクトは空を見上げた。寺院の上空を覆う雲を見るにつけ、この地に眠る英雄達に思いを馳せずにはいられない。幼い頃、たくさんの英雄譚を夢中で読んでいた。一振りの剣と共に怨霊の大軍団と戦った男の物語。あらゆる武器を使いこなし、巨大な龍を屠った豪傑。多くの少年がそうであるように、幼いスタールもそんな英雄に憧れた。その強さに心酔した。だが、どんなに強い英雄も、ああして墓に入ってしまえば怨霊達に対して成す術もない。

 強さとは、何なのか?

 スタールは、改めて自身に問う。強さの先に、何があるのか。答は出ない。だから尚更、強くならねばならない。もっと強くなれば、もっと強くなることで、きっと何かがわかるはずだ。

 霊華の顔が浮かぶ。白い肌、白金の髪、蒼い瞳。自分と大して変わらぬ歳で、その笑顔には僅かに幼ささえ覗かせるというのに、装備品も剣技も、全てがスタールを上回る。まして霊華は戦士ではない。精霊師である。この彼我の差は一体何なのか。

「なーんで急に、セイバーなんだかなあ」

 デニムのスカートの裾を弄びながら、小柄な少女が呟いた。

「エミー、やっぱりお前、帰れ」

 口を尖らせるエミーに、スタールは憮然として言い放つ。

「やーだよ」

 ほんのり湿る口唇を割って、桃色の舌が顔を出した。

「くどいようだが、俺は独りで戦わなければならない。お前がいたってしょうがないだろ」

 内心の嘆息を隠しながら、今日何度目になるかわからない説明を繰り返す。

「だって……兄貴独りじゃ心配だよ」

 俯く仕草に、スタールは少し感慨深くなる。あの跳ね返り娘にもしおらしい所があったものだ。少しは女らしくなっているのかもしれない。

「兄貴を放っておいたら、どこでどんな失礼をかましてヒンシュクを買うことか」

 スタールは、この妹をほんの少しでも可愛らしいと思った自分を殴り倒したくなった。

「お前は俺をどういう目で見ているんだ?」

 エミーは、満面の笑みで自らの目を指差して見せた。一重で細いスタールの目とは違い、二重で大きい円らな瞳だ。スタールの胸に、亡き母の面影が蘇る。どうして中身まで似せてくれなかったのか。母を恨むべきなのか神を恨むべきか、スタールは判断しかねた。

「大丈夫。兄貴がピンチの時は私が助けてあげるから」

「それじゃあ試験にならないだろうが。それに、」

 敷地内の時計を見上げる。約束の時間にはまだ早い。

「上級セイバーが二人も試験官として来てくれるんだ。C級ダンジョン程度では、どう考えてもお前の出番なんかない」

「ねー? 楽しみだよねー? どんな人が来るのかなあ? 素敵な人だといいなあ。兄貴は、どんな人が来るのか知ってるの?」

 エミーが目を輝かせる。それが目的か。ミーハーめ。スタールは嘆息を隠そうという気にもならなかった。

 本来セイバー資格を得るための試験は、祖龍怨霊対策委員会から出向する試験官と、委員会専属の護衛チーム数人の監督下で行われる。だが、五階級あるセイバーランクの中でも上級セイバーと言われるA級とS級の資格所持者二人以上の推薦があれば、B級以下の試験は免除される。ただし、上級セイバーに資格発行の権限があるわけではない。推薦のためには該当するランクのダンジョンを単独でクリアできることを、上級セイバー自身が確認する必要がある。実質的には、上級セイバーが試験官を委員会に代わって務めるに過ぎず、試験が免除されるわけではない。

 しかしそれでも、正式な手続きを踏むより簡易である点、受験料も割安になるなどの理由から、上級セイバーによる試験も少なからず行われていた。

「でも、真面目な話、どうして突然? セイバー資格なら、D級を持ってるじゃない?」

 強い風が吹いた。夜気に冷やされた風が、二人の栗色の髪を揺らす。ボーダーシャツを隠すように、エミーは半袖のジャケットを胸元に引き寄せる。

 寺院の敷地に、他に人影はない。頼りない篝火の明かりが今にも風に吹き消されそうだ。

「D級なんかじゃ役に立たないし、そもそもD級ダンジョンでパーティが全滅すること自体が稀だ。仕事にならん」

「確かにセイバーは高給だって聞くけど……そこまでしなくても、普通の仕事で食べていけるでしょ?」

 いつも強気のエミーにしては珍しく、か細い声だった。

「それに兄貴だって、言ってたよね?」

 言葉を継ぐ前に、エミーがかすかに息を呑んだ。

「セイバーの、あの噂……」

 一際強い風が吹き、辺りの梢を揺らす。木々のざわめきは、まるで何かの前触れのように禍々しい。

 セイバーの本業は、ダンジョンでの救出任務である。その仕事の性質上、セイバーには単独で作戦行動を取ることのできる能力が求められる。多対一での戦闘や、パーティメンバーをかばいながらの戦闘、それを行うための戦略と戦術。自分や仲間の負傷、戦闘不能への対処。不測の事態に対する判断力。単独で長時間 行動するだけの精神力と体力。そのような独特の能力故に、救出以外にも軍から任務が課せられることも多々ある。護衛や斥候など、単独での能力の高さを生かす任務が多いという。隠密行動が多くなる傾向があるのも特徴と言える。だがその隠密性故に黒い噂が絶えないのも事実である。

 現在、祖龍の城では議会や元老院よりも軍部の力が強い。それは表向き、怨霊の活性化が理由とされている。しかし、軍部の台頭の背後に、セイバーによる暗殺の嵐があったという噂も、まことしやかに流れていた。

 スタールの口から溜息が漏れる。確かに噂は知っているし、セイバーを胡散臭く思っていた時期もあった。

 だが。

「暗殺は、暗殺師の仕事だろう」

 幽冥境での一件が思い出される。霊華の力を肌で感じるために、彼女の言う「護る力」を見たいがために、スタールは救出任務を終えたばかりの霊華とパーティを襲った。あの時、霊華は自らが襲われたことよりも何よりも、彼女の救い出してきた若いパーティを案じていた。霊華が激昂したのも、スタールがパーティメンバーにまで襲い掛かったからだ。

 それ程までに、何かを、誰かを護ることを重んじるあのA級セイバーが、そんな汚れ仕事をしているとは到底思えなかった。

「兄貴ぃ、暗殺師だから暗殺してるなんて、偏見なんじゃないの?」

「……そうだな。すまん」

「でもさ」

 エミーが空を仰ぐ。釣られてスタールも昏い雲を凝視した。

「暗殺師だろうが戦士だろうがセイバーだろうが……身内で争ってたらダメだよね」

 重たい雲は、どんなに見つめても晴れることはなかった。

 五族がそれぞれ対立して、互いに世界の覇権を争う時代があった。

 だがそれは、怨霊の勢力がまだ弱かった時代の、幸せな痴話喧嘩のようなものだ。故郷での惨劇を思い出し、スタールは思う。怨霊の勢力は日に日に増大している。怨霊の拠点たるダンジョンは増え、反対に五族の村や集落は、こうしている間にも滅びている。

 燃え上がる炎と、断末魔の叫び。破壊。殺戮。蹂躙。陵辱。悲鳴、悲鳴、悲鳴。

 危うい所で救われたとは言え、一歩間違えればスタールの故郷もなくなっていたに違いない。それでも、スタールは家族を失った。今ここにいる、たった一人の妹を除いて。

 何のため? 何のためだって?

 霊華は、たった独りでセイバーとして戦ってきた。ただでさえ凶悪なダンジョンの怨霊と、たった独りで。自分とほぼ同じ歳なのに、一体何が違うのか。ダンジョンと言えば、パーティを組んで力を合わせて挑むもの。それがスタールの認識だ。なのに、たった独りでダンジョンに入り、あまつさえ、敵を殲滅するというセイバー。

 俺と霊華、何が違うか? 俺は、ぬるま湯しか知らない。

 スタールの胸に、熱い炎が点った。

「いい夜だ。そして、良い目をしている」

 突然の声に、素早く身を翻しながら身構える。声とエミーの間に割り込む体捌きは、既に無意識だ。

 頼りない篝火の照らす薄闇の中に、一際濃密な闇があった。闇の中で何かが揺れている。それが、漆黒のロングコートの裾だとわかるまでには、数秒を要した。

「何者だ……コープス」

 見たところ、怨霊ではない。人だ。だが、何かがおかしい。反射的に愛刀を呼び出したのも、スタールの戦士としての本能が赤く明滅したからだ。背中がじんわりと湿っていく。全く、気配を感じなかった。寺院の周囲には怨霊除けの結界が張られているとは言え、常に周囲の気配や殺気には気を配っている。誰かが近づけば、スタールは必ず気付いただろう。なのに、この黒コートは突然そこに現れた。

「怖がらなくてもいい」

 黒コートの男は、両手を軽く上げて見せる。革の手袋も黒なら、スラックスにもブーツにも鍔広の旅人帽(トラベラーズハット)にも、ぬばたまの闇が巣食っていた。

「驚かせてしまったようだ。すまない」

 男の紅い口が、妖しく笑む。旅人帽の鍔に隠れて、目は見えない。病的なまでに白い肌に、血よりも紅い口唇は妖艶としか言いようがない。すっきりと整った鼻筋は、神が特別に造り給うたものなのか。旅人帽から流れる黒髪は烏の濡れ羽より尚美しい。ほう、という湿った息遣いが背後から聞こえなれば、スタールも 自失状態に陥っていたに違いない。エミーの顔が蕩けているのが容易に想像できた。だからこそ尚更、スタールは飲まれるわけにはいかなかった。

「……何者だと、訊いている」

 喉が異様に渇いていた。気を抜くと、声まで枯れるかと思われた。

「通りすがりの旅人、だな」

 旅人帽の鍔を軽くつまんでみせる。

「何の用だ?」

「特に用はない。ただ、こんなに良い夜に、こんなに良い目をした男に出会えたことが嬉しかった……ではダメかな?」

 鍔から手を離さず、男の口が優しく微笑む。

 恐怖はない。殺気も感じない。相変わらず気配らしい気配も感じず、つまるところ、この男からは何も感じない。そのことが逆にスタールを薄ら寒くさせた。愛刀を握る手にも汗が滲む。強く握り過ぎて、掌に痛みさえ走っていた。

「強く……なりたいんだろう?」

 美しい闇が、一歩近づく。その動作までも神に寵愛されているのではないか。眩暈がするのは、その妖美さのためなのか、底冷えするような不可解さからなのか。

「少しだけ、力を貸してあげよう」

 美影身がまた一歩近づく。一歩動いたようにしか見えないのに、男は既にスタールの剣に触れられる距離にいる。スタールの心臓が破裂せんばかりに拍動した。既に確信していた。この男は危険だ。早く、離れなければならない。逃げなければならない。

 だが、スタールは動かなかった。

 「力」「強さ」という言葉は、スタールの深奥に何かを打ち込むようだった。

「なかなか良い剣だ。貸してごらん」

 言い終わるより早く、スタールの愛刀は男の手に渡っていた。全力で握り締めていたはずの剣が、いかにして何の抵抗もなく渡ったというのか。

「剣、か。懐かしいな」

 がさりという音。はっとなって見やると、寺院を囲む外壁の傍で木の枝が地に落ちていた。

「ふむ。手入れも行き届いている」

 剣を振った素振りもないのに、その剣が枝を切断したと誰が認識できようか。まして、完全に間合いの外だというのに。

 男はしばらくしげしげと剣を眺めていたが、おもむろに左の人差し指を刀身に沿って滑らせる。指が触れた部分から刀身が黒い靄に包まれ、男が指を離すとすぐに消えた。

「俺の剣に……何を、した?」

 スタールは、昔聞きかじった内功の調息を試みた。体内を巡る気を整える呼吸法である。何でもやってみるものだ。スタールは思う。調息しなければ、まともに声を出すことさえ叶わなかっただろう。

「なに、ほんの少し切れ味が良くなっただけだよ。もっとも、効果は二~三日で消えてしまうがね」

 まるで羽毛でも扱うように、そっとスタールの手に剣を握らせる。

 剣を強化する技。スタールにも覚えがあった。

「ブレイドカース……神霊族、剣士か?」

「……昔の話だよ。今はただの旅人だ」

 顔を隠すように鍔をつまみ、男が背を向ける。化鳥の翼のごとく、漆黒のコートの裾が翻った。

「待て!」

「礼ならいらない。おれが勝手にやったことだ」

 追いすがりたい衝動に駆られる。なぜ追わなければならないのか、スタール自身にもわからなかった。

 また一歩、黒コートが離れる。

 何かをしなければならない。ここでこの男を逃がしてはいけない。止めなければいけない。水面下で何か取り返しの付かないことが起ころうとしている。何の根拠もなかったが、そんな切迫感に締め上げられるようだった。

「名を名乗れ。俺はスタール・B・ジュウイクトだ」

 虚しい時間稼ぎ。スタールは自嘲する。だが、ここにもうすぐやってくるであろう二人の上級セイバーならあるいは。せめて、それまでは。

 男の足は止まらず、しかし。

「忘れたな、そんなものは」

「名無しの権兵衛というわけか?」

 精一杯の虚勢。むしろ普段は出てこない軽口が、こんな状況で出てきたことがスタール自身にも意外だった。

「……夜光」

 立ち止まり、男が横顔を見せる。白蝋の肌は、夜の闇の中で玲瓏と光る月のごとく。

 調息が乱れる。殺気もなく、気配すらない。スタールの身体はそこに深い闇以外のものを認識していないのに、脳は人の形をしたそれと口を利いている。聞きかじりの調息では、矛盾に蝕まれる精神を維持できない。

「そう、呼ばれることが多いというだけだが」

「何やってんの、パパー!」

 快活な女の声が、凍りつく時を融かした。

 外壁を軽々と飛び越え、男の隣に降り立つ。セミロングの黒髪を後頭部で結っている。霊華のポニーテールにも似ていたが、ポニーテールと言うにはいささか位置が高い。薄く青い肌の色とギザギザに尖った大きな耳は海龍族特有のものだ。血のように紅く大きな瞳が、闇の中で光芒を放っている。すっきりとした顎のラインだが、大きく丸い瞳は幼くもある。

「真夜、どこへ行っていた?」

「ごめんなさいーっ! でも、あんまり美味しそうだったから、つい」

 真夜と呼ばれた少女は、小さく舌を出す。薄暗闇の中で、その舌の紅は異様なまでの艶やかさだった。

「まあいい。行くぞ」

「はーい!」

 革のジャケットの腕が黒コートの腕に巻かれると、真夜は満面に向日葵のような笑顔を浮かべた。胸元とミニスカートにこれでもかと付けられたシルバーアクセがジャラジャラと音を立てる。

「……くっつくな」

「えー。いいじゃん、別にー!」

 心の底から嬉しい、という感情を少しも隠そうとしていない。そんな真夜を横目に、夜光はスタールをちらりと見やる。

「君が強さを求めるなら、あるいは、また会うことがあるかもしれんな」

「それは、どういう──」

 漆黒の翼がはためき、真夜を覆うと、一瞬後には二人の姿は掻き消えていた。

 からん、と乾いた音。コープスブレードが地に転がる。スタールは剣の傍に両手を付き、肩を大きく上下させる。エミーは、魂を抜かれたようにへたり込んでいた。

 調息だ、調息……呼吸を、整えろ……。

「ちょっと、どうしたの!」

 叫び声に振り返ると、外壁にたった一箇所だけ設えられた扉を開け、白金の髪と蒼い瞳のエルフが立っていた。

「霊華、か……」

「スタール君!」

 霊華が四つん這いで息を荒げるスタールに駆け寄る。後ろにはもう一つの人影。薄暗い中でもわかる、美しい緑色の髪、柔和な瞳。見る者を微笑ませずにはおかない優しい顔を心配で染め、「彼」がエミーを介抱しに駆ける。緑色の上級セイバー。スタールは、そんな男を一人しか知らない。

 深緑の重装魔(ヘヴィグリーン)……そうか、彼が来てくれたのか。

 エミーの心配が必要ないことを悟り、スタールは意識を失った。

 温もりが、スタールの身体全体を覆っていく。とても懐かしいようで、反面、とても身近で慣れた暖かさ。温もりは皮膚から血管へ、血液は全ての体組織に行き渡り、心の中までも暖めていくようだ。

 ──いい子ね、スタール

 あれは一体何年前になるのか。

 おやつのプリンをエミーがこぼして、泣き喚いていた。スタールはプリンを一口だけ食べると、残りを無言でエミーに差し出した。

 泣いたカラスは笑顔に戻り、暖かい手がスタールの頭を撫でた。

 鼻水を垂らしながら嬉しそうにプリンを頬張るエミーと、母の優しい笑顔が、プリンより美味しいものに感じられた。

 ぴしゃり。

 鋭い痛みがスタールの頬を叩く。

「スタール君! スタール君、しっかりして!」

 ぴしゃり。

 二度目の痛みは、最初とは反対側の頬へ。

「スタール君、スタール君!」

 次第にクリアになる視界。曇天の闇の中に、白い肌と蒼い瞳、白金の髪が像を結んでいく。身体を覆っていた温もりも、今は後頭部に収束している。それに加えて、柔らかい感触。

「兄貴は寝起きが悪いからなあ。私もいつも攻撃魔法で起こしてるくらいだし」

 妹の声が、とんでもない発言をしている。そんな事実はない。そもそも、寝起きが悪いのはエミーの方で、毎朝起こすのに苦労しているのはスタールなのだ。が、今はそんな抗議をしている場合でもない。身の危険を感じ、スタールは身じろぎをする。声も出そうと思ったが、呻き声しか出ない。

「そ、そうなの? それじゃあ、もう少し強く──」

 スタールは、背中に氷を入れられたような気分になる。幽冥境で、あの若いパーティが止めに入らなかったら……という恐ろしい想像が今まさに実現しようとしているのではないか。

「ま、待て待て! 起きっ──」

 勢い良く跳ね起きようとした所に、スタールの頭を膝に乗せていた霊華の顎が衝突する。

「痛っ! 何すんのよ!」

 鈍い音が、寺院のこだました。

「わーお。クリーンヒット……」

 エミーが感嘆の息を漏らす。

「いてて……なんてパンチだ。お前、ホントに精霊師か!」

 鼻っ面を押さえながら、スタールは思わず悪態を吐いた。場所が場所だけに、涙が滲みそうになる。

「あ、ご、ごめーん。つい……」

 両掌を軽く合わせての謝罪は一瞬。すぐに短杖を呼び出して、霊華はヒールを詠唱する。

 スタールの身体を暖かい光が包むと、顔面の痛みは嘘のように引いた。頬の痛みが消えていない気がするのは、幽冥境での記憶故なのか。

「ふふふっ。確かに、霊華さんのパンチは精霊師のパンチじゃないですよねえ」

 聞き慣れない声に振り返ると、緑色の男が微笑んでいた。

 幻惑の森を想起させる深い緑色の髪と、同じ色の瞳。少し幼くも見える柔和な顔立ちは、出会う者を微笑まさずにはいないだろう。シャツにネクタイ、スラックスという出で立ちだが、全て緑を基調とした配色。「緑の人」とも呼ばれる、祖龍きってのS級セイバーにして稀代の重装備魔導師の姿があった。

深緑の重装魔(ヘヴィグリーン)……」

 音に聞こえし魔導師を前に、霊華に膝枕されている今の自分が急に恥ずかしくなり、スタールは慌てて立ち上がる。

「私をご存知なのですか? 嬉しいですねえ」

「こ、こっちこそ、あんたの噂はたくさん聞いている。スタール・B・ジュウイクトだ」

 おずおずと右手を差し出す。少し、震えていた。

「兄貴ー、緊張しすぎー。リラックスリラックスー」

「う、うるさい! お前は黙ってろ!」

 緊張を隠していたつもりのスタールだったが、妹にだけは見抜かれていたようだ。

 そんなやり取りに目を細めながら、深緑の重装魔は優しくスタールの手を握り返した。

ECHO(エコー)と申します。以後、お見知りおきを。それと、今日は私の都合でこんな時間から試験になってしまったことを深くお詫び申し上げます」

 深々と頭を垂れる様に、スタールは改めて感心する。常に柔らかい物腰で、年上だろうが年下だろうが、冒険者としての実力如何を問わず、常に相手に対して敬意を払う。一部、相手の力量も読めない未熟な輩が、その物腰を「卑屈」と解釈し見くびることがあるというが、スタールにはむしろ逆に思えた。

 卑屈? 弱腰? とんでもない話だ。

 スタールはそこに、確固たる自信を見る。強さに憧れ、強さを求めるスタールだからこそ、敏感に感じられることがある。身が引き締まるようだった。

「兄貴も、見習おうねー」

 妹の野次にも似た声に、またドキリとなる。元々勘の鋭い所があったが、兄の心を不意打ちで裸にするのは本当に勘弁して欲しいと、内心溜息を吐く。

 省みれば、スタールには不遜とも傲慢とも取れる態度が過去に多々あったのは確かであり、スタール自身も全く自覚をしていないわけではない。

 霊華の怒る顔が自然と胸に浮かんだ。

 わかってる。わかってるさ。でも。

 誰よりもスタールのことを熟知しているエミーだからこその発言だったが、だからこそ、素直に頷く気にはなれなかった。

「やっぱりお前、帰れ」

「だが断る」

「お前な」

 見れば、上級セイバー二人が顔を見合わせている。身内の恥を晒しているようで、スタールは穴に潜りたい気分になった。

「そんなことよりスタール君、一体どうしたって言うの?」

 霊華の眉間に皺が寄った。

 一体何が。むしろ、スタールが聞きたいくらいだった。気配のない闇の化身。あまりに美しすぎるその闇は、スタールの五感を麻痺させ、精神を蝕んだ。思い返せば、底冷えするような恐怖がスタールの内側から滲み出していく。

 ──君が強さを求めるなら

 その言葉に、ぞっとした。あの男が言う「強さ」は、きっととてつもなく恐ろしいもので。だが、そこに甘美な響きを感じている自分が、怖かった。

「……夜光?」

 話を聞き終えた霊華の顔に、疑問符が浮かぶ。エミーも似たようなものだった。どうやら、何も憶えていないらしい。

「そう呼ばれていると、奴は言った」

 大きく深呼吸をする。話している間も、身体の震えが止まらなかった。

「その剣、見せてもらってもいいですか?」

 顎に手を当て何かを考え込んでいたECHOがスタールに掌を向ける。剣はスタールが意識を失うと同時に鞄に戻っているため、スタールは再度剣を呼び出す。

「確かに、ブレイドカースですね。ですが……霊華さん、ちょっと構えてもらっていいですか?」

「え、いいけど……レーヴァテイン」

 顔に新たな疑問符を増やして、霊華が剣を構えた。

「あ、それはやめておきましょう。できれば、メインで使ってない武器の方が良いと思います」

「えと、それじゃあ……スカイズソード」

 何気ない武器交換だが、やはりスタールには信じがたい光景でもある。霊華が「レーヴァテイン」と呼ぶ刀は、黄昏の神器の中でもトップクラスの武器「真紅の刀」だ。スタールのコープスブレードより軽く三つ四つは階級が高い。代わりに出したスカイズソードも性能は真紅に劣るが、それでもスタールごときには到底扱える代物ではない。

「おや。また新しい剣を手に入れたのですね」

「えへへー。普通のスカイズソードより、軽くて速いんだ。最近のお気に入りなんです」

 霊華の顔がだらしなく緩む。苦笑で答えながら、ECHOが呟いた。

「……霊華さん、かのA級セイバー、見えざる癒し手(インヴィジブル・ワン)が武器収集マニアっていう噂は、本当だったんですね」

「え? あ、いや、その。それは、あくまで噂であって……」

 噂じゃない。だらしなく緩んだ笑みを思い出し、スタールは確信した。

「お気に入り……っていうのもちょっとどうかと思いますが、この分だとお気に入りしか出てこないようなので、失礼して──」

 しゅっ、と小さく息を吐く音。ECHOがコープスブレードを振り上げ、霊華に迫る。この身のこなし、スピード、既に魔道の規格からは外れた動きである。

「え、ちょ」

 半ば不意を付くような斬撃にも、表情とは裏腹に霊華は難なく対応した。大上段からの一撃を横薙ぎに打ち払う。

 これにもスタールは驚嘆せざるを得ない。スタールならば、上段からの斬撃を剣を横にして受けただろう。そこから押し返して体勢を崩した敵に反撃するか、ないしは受けから蹴りに移行する。だが霊華は、そのどれもせずに横に払った。無論、高速で打ち下ろされる剣に対して受けるより払う方が高度な技術を要する。タイミングと間合いを誤れば、自分が膾切りになってしまう際どい回避である。

 ECHOの剣は力の方向を変えられ、地面に突き刺さる。

「流石です」

 剣を引き抜き、刀身をまじまじと眺める。傷一つない。

「ああーっ!」

 霊華がスカイズソードを見て悲鳴を上げた。

「はっ、はっ、刃毀れが……ひびも入ってるー!」

「なんだって?」

 スタールは耳を疑った。スカイズソードは、黄昏神器より性能こそ劣るものの、それでもコープスに比べれば切れ味においても耐久性においても遥かに上回る、はずだ。

 おそらく、コープスと打ち合った箇所だろう。大きな刃毀れがあり、そこから亀裂まで生じている。

「こんな……」

「もし受けていたら、砕けていたかもしれません」

 涼しい顔で言ってのける。

 そこまでわかっていたにも関わらずのあの斬撃。霊華の剣技を信頼してのことだろうが、やはりこの男も傑物に違いなかった。

「なんとなーくね、いやーな感じがしたんだ、そのコープス。んで、咄嗟に払っちゃったんだけど」

 ECHOの「流石」とは、このことだったのだろう。ほんの一瞬の演武のような攻防。その中に、どれだけの高等技術があったか。まして、二人とも魔法職である。スタールの拳にも、知らず力が入る。

「砕けなかっただけ、マシかあ。はは、ははは……はあ……」

 笑って見せているが、目がどこか虚ろだ。お気に入りが傷物になったことがショックなのだろう。にやにやしながらコレクションを磨く霊華の姿を想像して、剣技の凄まじさとのギャップにスタールは妙な気分になる。

「それにしても、これ程とは。確か、二日か三日も効果が続くと言っていたんですよね?」

 訊きながら、ECHOは二度三度と剣を振る。鋭い風切音は、その技の高さを物語っていた。剣技だけでも、スタールと同等かそれ以上。まして、深緑の重装魔の得意とする物理武器は槍で、他は不得意だとスタールは聞いている。どれ程の修練を積めばあの境地に達するのか。武芸の道の遠大さに、スタールは軽い興奮と眩暈を覚えた。

「スタール君? どうかしましたか? まだ具合が?」

 気が付けば、尊敬する深緑の重装魔に心配な顔をさせてしまっている。見惚れていたとは流石に言えない。

「あ、ああ、そうだな。二、三日で効果が切れると言っていた」

「通常、ブレイドカースは熟練した剣士でも30分が限度とされています。もしこれがそんなにも長い時間持続するなら……とんでもない話です」

 ECHOは、顔を更に刀身に近付けた。だが、どんなに見つめても、普通のコープスブレードにしか見えない。

「夜光……一体、何者なんでしょうか」

 柔和な顔に、影が落ちる。その深緑の瞳には、畏れさえ見え隠れした。

「ねーねー。それって、御伽噺に出てくる悪霊の名前だよねー?」

 黙って成り行きを見守っていたエミーが、空気を読んでいるとは思えない声音を飛ばす。

「御伽噺?」

 霊華とスタールの声がハモった。

 その横で、ECHOはしきりに頷いている。

「なるほど。どこかで聞いたような気はしていたんですが……確かに」

「ね?」

 鬼の首を取ったようにエミーが視線をスタールに流す。

「そんな御伽噺、あったか?」

「兄貴はヒロイックサーガしか読まないからなあ」

「悪いか」

「誰も悪いなんて言ってないよ」

「まあまあ……ECHOさんは知ってるんですか?」

 霊華が仲裁に入りながら、話の流れを変えた。

「御伽噺としては、最古の部類に入ります。なので、マイナーなのも仕方がないとは思いますよ」

 ECHOは剣を地面に突き立て、話し始めた。

 旧世界が滅び、五族が新世界へ移住して数十年が経った頃。始まりの洞窟により怨霊は跋扈し始めていたが、その勢力は弱いものだった。五族は互いに協力し合い、開拓を進めていた。現在の祖龍の城など五族の重要拠点の元になる集落が作られ、人口も少しずつだが増えていった。

 ある日のことである。現在の祖龍、当時「中陽」と呼ばれた村で、若い娘が行方不明になった。怨霊の勢力も弱く、神隠しなどなかった時代である。家出かとも思われたが、誰にも心当たりがない。どころか、恋人との結婚を間近に控えていた身である。誰もが羨む二人だっただけに、彼女の失踪は誰も理解できなかった。

 村人総出での捜索になったが、行方は杳として知れず。しかし、失踪から十日目、現在の祖龍北門付近の山の中で発見された。髪は白髪になり、健康的な象牙色の肌も痛ましいほど青白くなっていた。身体中の血液を失い、失血死寸前だったという。薬調合師と精霊師の治療により一命はとりとめたものの、目を覚ました彼女の瞳は、まるで血のように紅く変わっていた。

 失踪していた十日間の記憶を失っていたが、その後の経過は順調で、半年後には恋人との結婚を果たした。

 同じ頃、中陽の村では奇怪な事件が続発していた。村の子供達が、何者かによって血を吸われ殺されるというものだった。自警団が調査に乗り出し、一人の妖怪の存在が明らかになる。白い髪と紅の瞳の若い女の姿をした妖怪が、子供たちを殺しているという目撃情報が相次いだ。

 自警団が彼女の家に踏み込んだ時、夫と生まれたばかりの自らの子供を手にかける彼女の姿があった。その紅の瞳には既に人としての理性はなく、生き血を啜る妖怪に他ならなかった。

 妖怪は山中へ逃げ、自警団がそれを追う。再び自警団が彼女を発見した時、彼女は闇にくるまれていた。全身に黒衣を纏った青年が、彼女の首筋に噛み付いていたのである。夜の闇の中でも玲瓏と輝くような白い肌に、彼女の鮮血が妖艶なる化粧を施していた。

 黒衣の青年は彼女の血を吸い尽くすと、亡骸を捨てて掻き消えた。

 その美貌と、夜闇に玲瓏と光る白い肌から、黒衣の男は「夜光」と呼ばれた。

「そんな昔話があったんだ……」

 ふう、と霊華が息を漏らす。

「細かいところは色々違うけど、私が知ってるのも似たようなもんだよ」

 エミーがミニスカートの裾をいじり始める。

「子供に聞かせる昔話じゃないな。救いがなさ過ぎる」

「ええ。だから、知ってる人も少ないんじゃないでしょうか」

 スタールに同意しながら、腕を組むECHO。

「ん? それじゃあ、なんでエミーは知ってるんだ?」

 エミーは、しまった、とでも言うように口に手を当てる。

「え、えーと。最近、その話をモチーフにして作られた漫画を読んだから……あは、あはは」

「おや。エミーさんは、そっち方面が好きなんですね」

 ECHOの目が、きらりと光る。

「え。え? なんで? 知ってるの?」

「読んだことはありませんけどね。私の趣味ではありませんし」

 目を白黒させるエミーを尻目に、ECHOの柔和な表情は崩れない。

「何それ? 漫画? 面白いの?」

 興味を持ったのか疎外感を感じたのか、霊華が食い付いた。スタールは嫌な予感しかしなかったので、とりあえず静観することにした……が。

「あ、霊華さん、読んでみる? 貸してあげよっか?」

「え? いいの?」

「ストップ」

 見かねて割って入る。

「やめておけ、霊華。どうせロクなもんじゃない」

「え?」

「ちょっとー、失礼じゃなーい?」

 またもや押し問答が始まり、困り果てた霊華はECHOに救いを求める。

「多分に女性向の、恋愛漫画……ですよね、エミーさん?」

「そーそー! 男は読むなって感じ?」

「やっぱりか。霊華、聞く耳持つな」

「え、と」

「読むかどうかは霊華さんが決めることでしょー!」

「黙れ。お前の病気が霊華に伝染ったらどうする」

「え、えーと」

 霊華の顔には疑問符ばかりが増えていく。そんな様子を微笑みながら見つけていたECHOだったが。

「それにしても……夜光……気になります」

 エミーのせいとは言え、本来考えなければならないことを完全に忘れていたことが、スタールは恥ずかしくなった。

「そ、そうだな。まさか、御伽噺の張本人とも思えんが」

 霊華にしつこく迫るエミーを抱きすくめるように引き寄せ、強引に霊華から引き離した。何事か喚いて逃れようとするエミーだが、魔導師のエミーが戦士たるスタールの腕力から逃れられる道理はない。

「夜光も、始まりの洞窟から出てきた怨霊なのか?」

「御伽噺の夜光なら、その可能性も考えられます。しかし、君が遭遇したという夜光に関してはどうでしょうか」

 ECHOはコープスブレードを握り、地面から引き抜いた。

「規格外とは言え、このブレイドカースは確かに剣士の技。怨霊に真似できるものではありません」

 霊華も、傷ついたスカイズソードを眺める。

「剣を打ち合わせた時、なんだか凄く気持ち悪かった。何て言うのかな……禍々しいって言うか」

 ECHOが大きく頷く。そして、意を決したようにスタールに向き直った。

「スタール君。この剣は、私が預かります。今のこの剣は……危険です。いいですか?」

 禍々しさは、夜光本人に会ったスタール自身が一番感じていることだ。愛刀を手放すのは心許ないが、それも深緑の重装魔の言うことなら、一も二もない。

 腕の中のエミーがおとなしくなった。

「えー、それじゃあ兄貴、今日のセイバー試験はどうするの?」

「ああ、それなら私が昔使ってたコープスを貸してあげるよ」

 と、言い終わった頃には既に霊華の手には別のコープスブレードが握られていた。

「はい、どうぞ。遠慮なく使ってよ」

「あ、ああ。すまんな……」

 刃毀れでもさせようものなら、後でどんな目に遭うか……。ということも気にはなったが、それ以上に、その場にいた三人には気になることがあった。

 ……なんで、持ってるの?

「と、とりあえず」

 おほんと一つ咳払いをして、スタールは仕切り直しを試みる。

「エミー、帰れ」

 兄の拘束が緩んだ隙に、するりと抜け出し、舌を出す。

「やだ」

「まーまー、いいんじゃない? 妹さんを心配する気持ちはわかるけど、今日はECHOさんだっているし、危険はないよ」

 ころころと笑いながら、霊華。「妹さん」という言葉に、今更ながらスタールはハッとなる。

「すまない。紹介が遅くなった。このアホは俺の妹、エミリール・D・ジュウイクトだ。来るなって言ったのに、勝手についてきやがって。本当にすまない」

「みんなはエミーって呼ぶよ。よろしくお願いしますー」

 ぺこりとお辞儀をすると、栗色のセミロングヘアがふわりと揺れた。

「って、自己紹介なら、兄貴が霊華さんの膝枕でウハウハしてる時に済ませちゃったもんね」

 親指を立て、にんまりと笑う。

 スタールの顔に火が点いた。

「なっ、べ、別にウハウハなんか──」

 不安一杯で霊華の顔を盗み見る。苦笑いとしか言いようがなかった。

「あんな幸せそうな兄貴の寝顔、久しぶりに見たよ。なんか、お母さんの胸の中みたいだった」

「母」という語が出てきたことで、スタールから反論の気持ちが薄らいだ。本当に、どこまで鋭いのか、この妹は。

 だが、顔面の火照りが冷めたわけではなく。密かにスタールは、薄闇という今の状況に感謝した。

「お母さん……か」

 亡き母を思い出したのか、エミーの表情が僅かに翳る。

 霊華からもECHOからも一瞬笑顔が消える。怨霊の跋扈するこの世界で、家族を失うことは珍しいことではない。エミー達の母が既に鬼籍に入っていることを、二人が察するには充分だった。

「セイバーの仕事は、救うことです」

 気まずくなりかけた空気をECHOが破る。

「誰かが死ねば、必ず悲しむ人がいます。それは、親兄弟かもしれない。苦楽を共にした仲間かもしれません。あるいは、恋人や伴侶かもしれない」

 ECHOが、その場の全員の目を一人一人覗いていく。

「誰かを救うこと、誰かの命を護ること。それは、もっと多くの人を悲しみから護ることでもあります」

 霊華が無言で頷いている。エミーは、じっとECHOを見つめていた。エミーのその目にスタールは少し嫌な予感を感じたが、今は考えないことにした。

「スタール君、良いセイバーになってください。夜光のことは確かに気になりますが、今は、できることをやりましょう。では、手続きに行きますよ?」

 ECHOが踵を返し、霊華が続いた。スタールも続いて寺院の中に入ろうとしたが、エミーが急に腕を掴んできた。

「なんだよ」

「兄貴兄貴」

 エミーが小声で囁く。

「ECHOさんって、素敵だよねー。ね、ね、カノジョとかいるのかなあ?」

 案の定、嫌な予感が的中して、スタールはうなだれた。

「深緑の重装魔は、愛妻家としても有名だな」

「えー、奥さんいるんだー」

 エミーがうなだれる番だった。だが、すぐに顔を上げる。

「奥さんって、どんな人? 美人? 私より?」

 ミーハーな上に、いつも一言多い。もはや呆れるしかない。

「詳しくは知らないが、美人でスタイル抜群の戦士だそうだ。お前じゃ100年経っても張れないよ」

「何言ってんの? 100年も経ったらお婆ちゃんになっちゃうよ」

 スタールは無視して歩き始めた。

「ちょっと兄貴ー、聞いてるのー?」

 背中を追うぱたぱたという足音。いつものことだが、不思議とスタールはその足音に安らぎを覚えていた。

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