第二話 救う者、セイバー

 古の時代、まだ、神々が人に近しい存在だった頃。世界には神々と人、邪神と怨霊がひしめきあっていた。

 邪神と怨霊は、世界に厄災と破滅をもたらすため、神々と人は自らの生存を賭けて、熾烈な争いを続けていた。

 怨霊の力は極めて強大であり、また、日増しにその力を強めていくようだった。

 窮地に陥った神々は最後の力を振り絞り、新たな世界を創造する。生き残った人々を新たな大地へと送り出し、旧世界は聖なる大洪水に飲み込まれた。邪神群と怨霊達を旧世界に封じ込め、力を使い果たした神々は姿を消した。

 残された人々は、新世界を理想郷とすべく、互いに手を取り合った。

「めでたしめでたし、というわけじゃ」

 本を閉じ、妖族の老人は目を細めた。ソファには、幼い少年と少女が行儀よく腰掛けている。

「かみさまは、どこへいっちゃったの~?」

 桃色の髪の少女が、眉を八の字にして老人を覗き込んだ。

「そうじゃなあ」

 本を書棚に戻し、老人はネクタイに軽く触れる。胡粉色のスーツには、皺一つない。

「力を取り戻すために眠りについていると、言われておりまする」

「つかれちゃって、おねむなんだね~」

 いなくなったわけではないことに安心したのか、少女の顔がほころぶ。

「おじいさま、質問が」

 少女よりは年かさのようだが、丁寧に過ぎる少年の言葉遣いだった。

「怨霊達が古い世界に閉じ込められたのならば、なぜ今、この世界に怨霊達がいるのですか?」

 老人は、ほんの少し肩を落とす。

「貴様は本当に子供らしからぬ喋り方をするのう」

「父上から厳しく言い付かってございます」

「仕方のないやつめ」

 その言葉は、少年に対するものだったのか、それとも彼に言いつけた者に対する言葉だったのか。

「まあよい。『始まりの洞窟』という伝説があるのじゃ」

「はじまりのどうくつ~?」

 少女が頬に人差し指を押し当て、小首を傾げる。

「善なる神々が最後の力を振り絞ったように、邪神達もまた、封じ込められる寸前に力を結集しましてな」

 老人は二人の向かいに座り、テーブルのティーポットを手に取る。紅の薔薇があしらわれたポットが傾き、少女のカップに湯気が立つ。仄かにハーブの香りが漂った。

「我々の住むこの世界と、奴らの巣食う古い世界を隔てる壁に、小さな穴を開けよったのですじゃ」

「わ~、たいへんだよ~! どうしよう~」

 少女は少年の白いシャツの袖を両手で掴み、激しく揺り動かす。

「お、お嬢様、どうか落ち着いて。ここなら安全でございます」

 されるがままになる少年を見て、老人が微笑んだ。

「そうじゃな。お嬢様をお守りするのも、貴様の役目じゃ」

「もちろんでございます!」

 勢い良く胸を叩いたまでは良かったが。

「げほっ、ごほっ」

「だいじょうぶ~?」

 少女がティーポットに手を伸ばすが、老人が制止する。

「つまらんオチを付けおって。お嬢様に心配をかけるでないわ」

「面目ございません」

 少年はティーポットに手を伸ばし、自分のカップにハーブティーを注いだ。ふう、と息を吐いてから、カップを口へと運ぶ。

「あちっ、あちちちっ」

 慌ててカップを口から放すが、その勢いで熱いハーブティーが今度は膝にかかる。

「うひゃ」

 スカートのポケットから素早くハンカチを取り出し、少女は零れた熱湯を拭き取る。

「も、申し訳ございません!」

「も~。おっちょこちょいなんだから~」

「……阿呆が」

 老人は大きな溜息を吐いた。

「それで~、そのあなはどうなったの~?」

 少年はハンカチを預かり、懐に入れていた。後で洗って返すつもりなのだろう。

「それが、こちらの世界のとある洞窟に繋がってしまったそうなんですじゃ」

「やっぱりたいへんだよ~!」

「ちょ、待っ……」

 またしても少女が少年を揺り動かす。少年はカップを持つ手を伸ばし、必死の形相で縁を揺らめくハーブティーの界面を凝視していた。

「そこから怨霊達が次々と現れ、再び世界は戦乱へと巻き込まれていったのですじゃて」

「それならば、その洞窟を塞いでしまえば良いではないですか」

 どうにか零さずにカップを置くことに成功した少年が、当たり前の質問をした。

「もちろん、先人達も同じ事を考えた。しかし、じゃ」

 老人は仰々しく腕を組み、話を続ける。

 洞窟を封じるべく、人々は討伐隊を組織した。腕に覚えのある者達が集い、三十人程度の小隊規模の編制になった。

 ぽっかりと口を開ける「始まりの洞窟」。意を決して突入する討伐隊だったが、先頭の七人しか洞窟に入ることができなかった。七人が進入した時点で、入り口には見えない壁のようなものが現れ、それ以上の進入を拒む。壁は、いかなる物理攻撃も魔法も、はね返した。そのくせ、一人でも外に出ると、何事もなかったように壁が消える。

 討伐隊は、選り抜きの七人を選び出し、突入させた。

 三日後、変わり果てた姿で一人が戻った。顔半分が焼け爛れ、頭蓋骨が露出していた。腹や背中から、この世のものとは思えない異形の腕が生えていた。肩には醜い顔が人面詛のように張り付いて、呪いの言葉を吐き続けている。「殺してくれ」と彼は呟き、事切れた。新たな怨霊が生まれ、討伐隊に襲い掛かった。

 討伐隊は報告する。「始まりの洞窟」は怨霊の張った強力な結界により、「生きた人間」は一度に七人までしか入れない。

 「始まりの洞窟」は、まさしく始まりに過ぎなかった。日毎に強力な怨霊や魔物が洞窟から這い出し、新世界の大陸中に広がっていった。怨霊達は洞窟や谷、神殿に侵入し、それを拠点へと変えた。怨霊達の拠点は全て、始まりの洞窟と同じ結界が張られていた。

 次に討伐隊が始まりの洞窟を訪れた時、そこには洞窟はなかった。初めから何もなかったかのように。

 それから、世界各地で「始まりの洞窟」は発見された。しかし、いずれの目撃例においても、最後には忽然と姿を消してしまっていた。運良く発見して強襲をかけた豪傑達もいたが、誰一人として帰っては来なかった。

 全ての始まりにして全ての元凶たるこの幻の洞窟は、今もどこかでひっそりと口を開けているという。

 老人はカップをすする。湯気はなかった。

「こわい、よう~」

「お、おじいさま、お嬢様が怯えているではございませんか!」

 非難する少年の声も、充分震えていた。

「ふぇっふぇっふぇっ。ただの伝説じゃて。そんな洞窟が本当にあるのかどうかは、わからん。じゃが……」

 くい、と、老人はネクタイを緩めた。

「もしそんな洞窟があって、それを封じることができれば、世界に平和が訪れるんじゃろうなあ」

 老人の目は、どこか遠くを見ているようだった。

「しかしおじいさま、洞窟に入れるのが七人というのは? 怨霊の結界の話はワタクシも聞いたことがありますが、六人までしか入れないと記憶しています」

「それは多分、貴様の記憶違いか聞き間違いじゃな」

 老人は席を立ち、少女の隣に座ると優しく頭を撫でた。

「六人までしか入れないのではない。六人までしか入ってはいけないと厳格に決められておるんじゃな」

「決められている?」

「祖龍の怨霊拠点対策委員会じゃ。祖龍軍直下の組織で、バカな冒険者が無茶をしないようにダンジョンを見張ってる連中がいるじゃろ? ……って、貴様にはまだ難しいか」

「そ、そんなことはないですよ」

 強がって立ち上がる少年を、老人が手を振って制止する。

「とにかく、じゃ。実際には同時に七人まで進入できるものをわざわざ六人までと決めているのにも理由がある」

 頭を撫でる老人の手に元気付けられ、少女が顔を上げた。

「りゆうって~?」

「ふぇっふぇっふぇっ。お嬢様にはちと難しい話かもしれんがの。セイバーを知っておりますかな?」

 大きな目を更に大きくして、少女が手を叩く。

「しってる~。おとうさまのおへやにかざってあるよ~?」

「……なんじゃそりゃ?」

 目配せすると、少年が答えた。

「多分、騎兵用の儀礼剣のことですよ。旦那様はよくあれを『セイバー』と呼んでおられましたから」

「そうじゃったか。歳はとりたくないもんじゃな」

「ちがうの~?」

 カップを両手に包むように持ち、少女が上目遣いで老人を見上げる。

「ふぇっふぇっふぇっ。残念じゃが、違うのですじゃ。セイバーっちゅーのはですな、洞窟に突入した六人がピンチの時に助けに行く人のことなんですじゃよ。七人で入って、全員が動けなくなるような重傷を負ったら、誰も助けに入れませんからのう」

「すご~い! かっこいい~! わたしもせーばーになりたいな~」

 カップを置き、少女は両手を振り回し始めた。その手には、空想の剣が握られているのだろう。

「ふぇっふぇっふぇっ。しかしお嬢様、ちょっとやそっとじゃセイバーにはなれませんぞ?」

「テストでもあるんですか?」

「え~? わたしてすときら~い!」

 少女の空想の剣が老人に振り下ろされる。

「お嬢様の思ってるようなテストはないんじゃけど、その代わり、ダンジョンを一人でクリアできる実力が求められますですじゃ」

「さんすうがないんなら、だじょうぶだよ~。え~い!」

 少女の剣が次に狙ったのは、少年の胸だった。

「ぐあああ、やられたー」

 つい、いつもの癖で苦しむ振りをしてしまう少年。

「しかも、七人目が突入した時点でそれ以上はもう誰も助けに行けないんじゃから、責任重大ですぞ?」

「よ~し、いまからとっくんだ~! え~い!」

 突然立ち上がり、少女は足を振り上げる。ミニスカートがひらりと揺れた。

「お、お嬢様! そのようなはしたない真似は……おごっ」

 振り回した手が、少年の顔面をとらえる。

「それ~!」

 そのまま少女は駆け出した。老人の執務室の扉を開け放ち、廊下へと出て行く。

「お嬢様、お待ちください! お嬢様ー!」

 顔を押さえながら、少年が後を追って廊下へと躍り出た。

 目を細めて見送ると、老人はティーセットの片付けを始める。

 暖かい午後の日差しが、窓から差し込んでいた。

1

「懐かしくございますな」

 どこか楽しそうに呟くと、妖族の青年はティーカップをテーブルに置いた。胡粉色のスーツには、皺一つない。

「ありがと、パンちゃん。わ~、ローズヒップティーだね~」

 頭に生えた蝙蝠のような羽根をぴるぴると動かし、妖族の女はカップを口元へと運ぶ。窓からは午後の日差しが差し込み、そよ風が桃色の髪と青いチャイナドレスの裾を揺らした。

「へー。じじいにもそんな時期があったんだねえ。パン太郎、あたしはオレンジジュースがいいな」

 真っ赤なチャイナドレスの女が、両足を組んでテーブルの上に乗せた。安普請の木のテーブルが軋む。灰色のレザーブーツが擦れ、革製品独特の音を立てた。

「戦姫さま、お行儀が悪うございます」

 胡粉色のスーツの青年、パンダは窓を不自然に向きながらたしなめた。

 動きやすさを重視してデザインされたであろう戦姫のチャイナドレスはスリットが深い。椅子を傾けてまでテーブルに足を乗せれば、背中側の裾が垂れ下がり、脚線美を晒すことになる。

「へいへい。一流の執事を目指すパンダ様は、お堅くて結構なことだ」

 「お行儀」とは別にあったパンダの発言の意図に気付いた風もなく、戦姫は渋々と足を下ろした。

「で、妖子。結局セイバー資格は取れたのか?」

「う~ん。D級は取れたんだけどね~」

 静かにカップを皿に戻し、妖子は立ち上る湯気を見つめた。

 ほとんど同じデザインのチャイナドレスを着ているが、妖子は両膝を揃えて行儀良く腰掛けている。赤と青というドレスの色もさることながら、「お行儀」においても好対照な二人だった。

「あ、やっぱり? D級は簡単なんだよな、D級は」

 足を組むと、真っ赤なスリットから少し日に焼けた脚が覗く。パンダは首を不自然に曲げたまま、テーブルにグラスを置いた。

「セイバー資格とは、そんなに大変な物なのでございますか?」

「お、サンキュ」

 言うが早いか、戦姫はグラスを引っ掴み、喉を鳴らして飲み始めた。

「大変なんだよ~? 知らないの~?」

 トレイを持ち、直立不動のパンダを妖子が見上げる。

 椅子は空いているのに座ろうとしないのは、執事としての立場を意識してのことなのか。

「ダンジョンに独りで入ることは、ワタクシ、あまり考えたことがないのでございます」

「まあ、好き好んで単独潜入するヤツはいねえよ、多分」

 グラスを置く。空だった。

「でも、D級だったらパン太郎でも簡単に取れると思うぜ」

「D級でございますか」

「灼熱の洞窟、蠍の洞窟……あと、何だっけ?」

 指を折りながら、戦姫は妖子を見やる。

「狂狼の洞窟だよ~、姫お姉ちゃん~」

「そうそう、それ」

「いずれも『一の試練』と呼ばれている洞窟でございますね」

 空のグラスを下げ、お代わりを置く。軽く掌を振り礼を示すと、戦姫はすぐにグラスを掴む。あっという間に飲み干した。

 冒険者として、または怨霊と戦う兵士としての研修の最後に行なわれる一種の卒業試験。それは「一の試練」と呼ばれた。その洞窟は、怨霊拠点対策委員会からは、最も危険度の低い怨霊拠点としてランク指定されている。

「あたしも頑張ればC級くらいは行けるんじゃねえかと思うんだけど、B級以上は自信がねえ」

「私も~」

 二人が同時に俯く。強い風が吹き、窓ががたがたと鳴った。

「で、でも、霊華さまはA級資格を持ってると伺っております。戦姫さまも、霊華さまに劣らずお強いではございませんか」

「あのなあ、パン太郎」

 頬杖を付いて、顔だけパンダに向ける。

「おめーはセイバーのことよく知らねえみたいだから、そう思うのもわかるけどな」

 戦姫が脚を組み替える。パンダが目のやり場を探すと、タイミングよく妖子が口を開いた。

「"強さ"にもね、色々あるんだよ~?」

 腕を組み、パンダが首を傾げる。

 入り口のドアから、どんどんという音が響いたのは、丁度その時だった。

 耳元で、鈴の音がした。正確に言えば、霊華の鈴のイヤリングが鳴っていた。

「おや。どうやらお呼びのようだぞ、霊華」

 サラダを食べる手を止め、長い黒髪の女が言った。テラスには暖かい午後の日差しが降り注ぐ。昼食と言うには少々遅い時刻、祖龍南の食堂は人の姿もまばらだ。

「ううっ。デザートこれからなのにー!」

 軽くイヤリングに触れる。鈴が鳴り止んだ。「伝書」と小さく呟くと、仄かな光と共に巻物が手元に現れる。

 慣れた手つきで巻物を広げると、まさに文字が浮き出てくるところだった。

「幽冥境、六人パーティ全滅……あちゃー、こりゃ急ぎかな」

 素早く巻物を腰の鞄に放り込み、霊華は立ち上がる。

「アパーチだな」

 ぼそりと呟き、黒髪の女はレタスを口に入れる。

「かもね」

 ついさっき、まさにフォークを入れようとしていたショートケーキを名残惜しそうに見下ろしていたが、やがて顔を上げる。真一文字に閉じた口には強い意志、瞳の海には闘志が宿るようだった。

「弓美ネエ、ごめん。これ多分、急ぎだから」

「わかっている。勘定は任せておけ」

 プチトマトを口に放り、弓美は切れ長の目を片方、瞑ってみせる。

「あと、ショートケーキもな」

「ううっ、残さず食べてあげてね。行ってきまーす!」

 慌しく駆けて行く霊華を見送り、弓美はフォークを苺に突き刺した。

 ケーキを食べながら、弓美は考える。確か、西区にもっと美味いケーキを売る店があった。帰りに寄って行こう。

 霊華の笑顔が、思い浮かんだ。

 幽冥境でパーティ全滅。霊華は頭の中で繰り返す。最寄の街は、洛陽だったか。

 西区ほどではないとは言え、南区も賑わう地区だ。雑踏を掻き分けるのが煩わしくなり、翼を広げて空へ舞い上がる。

 が、空に人がいないというわけではない。結局は人の波をかわすことに変わりはなかった。

 焦る気持ちを抑えながら、テレポート結界を目指す。

 幽冥境というのがまずい。霊華は唇を噛む。幽冥境は、Cランクの怨霊拠点だ。通常、有事の際にはランクに応じた招集がかかる。今回の場合は、まずC級セイバーに招集がかかったはずだ。確かにランクが上のセイバーが向かった方が確実ではある。しかし、いざ上のランクで非常事態が発生した場合に上級セイバーが不在ということになりかねない。にも関わらず、A級セイバーである霊華にまで話が及んだということは、すぐに向かえるC級B級セイバーが捉まらなかったということだ。そして、それだけのタイムロスが既に発生しているということでもある。

 交通費には色を付けてもらおう。洛陽にいる担当官の顔を思い浮かべながら、霊華はテレポートに身を委ねた。

2

 洛陽の街。

 怨霊軍の最重要拠点の一つでもある黄昏の神殿に、最も近い街である。対黄昏神殿の前線基地「昇竜の群塔」への、重要な補給拠点という色合いが強い。同時に、Cランクダンジョン幽冥境の監視と入場者の管理もしている。

 大陸でも有数の標高を誇り、高地トレーニングの場としても知られた土地である。

「ウェッズさん! いるー?」

 事務所の扉を開ける。室内には胸の高さのカウンター、その奥には机が局員の数だけ並んでいる。洛陽ダンジョン管理局第二課の事務所は、決して広くはない。何人かの事務員が慌しく動き回っている。

 若い女がデスクから立ち上がり、近付いて来た。グレイの制服が真新しい。そのせいもあってか、霊華は着慣れない印象を受けた。

 丸い眼鏡をくいと持ち上げ、営業用スマイルを作る。赤茶色のショートカットが揺れた。

「討伐の方ですね? 大変申し訳ございませんが、只今、幽冥エリアのダンジョンは全て攻略中でして……」

 どうやら霊華を知らないらしい。「コニー・ジェレイント」というネームプレートの片隅に「研修中」の文字が座っている。

「えーと、私はね」

「コニー!」

 バタン、と扉を閉める音。右手奥の扉を後ろ手に閉めた格好で、中年の男が眉を吊り上げて睨んでいた。

「A級セイバーが来るって、言っておいただろうが!」

 ずかずかと大股で近付いてきた痩身の男は、丸めた紙の束でコニーの頭を引っぱたく。小気味良い音がして、コニーの眼鏡がずれた。

「いったーい」

「すまんな、霊華。こいつ、先週着任してきたばかりの新人なんだ」

 そう言って、今度は小突く真似をする。

「相変わらず厳しいね、ウェッズさんは」

 緊張が少しだけほぐれ、霊華はくすりと笑う。

「ち、チーフ、この人が……?」

 眼鏡をつまみ、コニーはウェッズと霊華を交互に窺った。

 意外、と顔に書いてある。隠そうという気もないらしい。

「めちゃゴツイ人が来るものとばかっかり思ってたけど……めちゃ可愛いお嬢さんじゃないですかー」

 このこの、とウェッズの胸を指で突くが、紙の束を振り上げたのを見て素早く引っ込めた。

「来たばっかりで悪いんだが、霊華」

「わかってる。急ぎなんでしょ?」

「ああ」

 丸めた紙束を広げ、目を落とす。

「突入は十二時間前。シニアクラスの六人パーティで、精霊師は一名。リザレクションが使えるな。伝書の定時連絡が四時間前を最後に途絶えている。感知水晶は、白二つと赤一つ。おそらくアパーチだと思うが、何とも言えん。コニー」

「は、はひっ」

 突然振られて、コニーが背筋を伸ばした。

「念のため、もう一回見て来い」

「え? な、何をですか?」

「幽冥の水晶に決まってるだろうが!」

 今までで一番大きな怒鳴り声だったが、他の事務員達は見向きもしない。日常茶飯事なのだろう。

「えーと、幽冥の感知水晶は……」

「地下の五番! ついでにロールの在庫も見ておけ」

「チーフ……スクロールはさっきB級セイバーさんに渡したので全部ですう」

 ぴしゃりと、ウェッズは自らの額を叩いた。

「そうだった。本部へは?」

「大至急って。でも、期待すんな、みたいな返事でした」

「わかった。とにかく、水晶見て来い」

 コニーは小さく頷いて、パタパタと走って行った。

「……てな状況だ。本当にすまない」

 苦笑し、肩をすくめる。

「うん、まあ、ロールはしょうがないよね……あはは」

 道理で、自分が呼び出されるわけだ。霊華は内心溜息を吐く。

 復活の巻物、通称「ロール」。戦闘不能状態に陥った者を復活させることができるアイテムである。精霊師最大の秘術リザレクションを模して作られいるため、非常に強力だが量産が困難な貴重品でもある。全てのロールは軍の管理下に置かれ、一般に流通することはまずない。

「セイバー人口は少ない。ロールはいつだって不足してる。本当に、お前に頼ってばっかりだな」

 俯き加減で、ウェッズは大きな溜息を吐いた。白髪交じりの頭。実年齢以上に多く見える顔の皺。目の下にはうっすらと隈ができて、無精ひげが伸び放題だ。

 冒険者は、人々を怨霊から守るために戦う。ウェッズは、その冒険者を守るために戦っている。

 ──強さとは、力だ

 最近出会った戦士の言葉を思い出す。

 もしここに彼がいたら、どう思うだろう? こんな「戦い」も、あるんだよ?

 仏頂面で説教される、若い戦士の顔が思い浮かんだ。

「霊華?」

 ウェッズが不思議そうに覗き込む。苦笑が顔に出ていたのかもしれない。霊華はごまかすように笑った。

「だいじょぶだいじょぶ! ロールなんかなくたって、私のリザでスパッと解決だってば!」 

 実際には、そんなに簡単じゃないけど。胸の中だけで、こっそり霊華は舌を出す。リザレクションには、多大な精神力と集中力を要する。同等クラスの本職精霊師に比べ、魔力が遥かに劣る霊華ならば尚更だ。今回のパーティには精霊師が一人いるから、その人と分担すればまだマシだとは言え。

 無論、ウェッズもわかっている。わかっていて、それでも霊華に頼らざるを得ないのだ。

 パタパタという足音が近付く。息せき切って、コニーが事務所の扉を開けた。

「はー、はー」

「どうだ?」

 全力疾走したかのようだ。その割には、足音はのんびりしていたように思えたが。カウンターにしなだれかかる姿も相まって、霊華はつい吹き出してしまう。

「白、白、赤のまま、です。はあ、はあ。ちなみに、エリア内で赤があるのは幽冥だけで、他の洞窟は全部白になってましたあ……はあはあ」

「良し! 良し良し!」

 ウェッズが握り拳を小さく何度も動かす。

 どうやら、同時多発的にセイバーが出動していたらしい。そう言えば、ロールがなくなったばかりだとコニーも言っていた。

 管理局に置いてある感知水晶の色は、各怨霊拠点の瘴気の状態を示している。ダンジョン内には常に送信用の感知水晶が設置され、特に強い瘴気に反応する。いわゆる、ボスモンスターの存在を感知すると、送信水晶は砕け散る。送信水晶からの信号が途絶えると、感知水晶が赤く輝く。

 ダンジョンへ討伐に向かう冒険者は、出発前に必ず送信水晶を持たされ、ボスモンスターの討伐に成功したらその場に設置して戻るのである。

「じゃあ、次は私の番だね。戦闘服、ダンダラ」

 キーワードに反応し、腰の鞄が輝く。光は霊華の全身を包み、古代の叡智が着ている服を瞬時に換えていく。冒険者バッグの高級アタッチメントパーツ、通称ファッションバッグ。装着している防具の防御力や重量はそのままに、外見だけを変える神秘の技術。

 濃紺の、ロングコート。最近の霊華のお気に入りだ。

「いーなー。私もファッションバッグ欲しいなー」

 コニーが身を乗り出して眼鏡をつまむ。

「冒険者じゃないと鞄はもらえんし、鞄がなかったらアタッチメントも意味ないぞ? お前、冒険者なんてできるのか?」

「やだなあ、チーフ。言ってみただけですよー。それに、私達の仕事は」

 くい、と眼鏡を押し上げ、コニーはウェッズを見上げた。

 コニーが言葉を継ぐ前に、霊華はぱちんと指を鳴らして、言った。

「冒険者を助け、守ること。でしょ?」

 ウィンクして見せると、コニーが悔しそうに手をばたつかせた。

「ずるい、霊華ちゃん。私が言おうと思ったのにいいい!」

 じたばたするコニーの頭にウェッズの紙束が振り下ろされた。きゅう、と言っておとなしくなる。

「だって、それは私の仕事でもあるからっ!」

 笑顔のまま背を向ける。コートの裾が、ふわりと舞った。

 行ってきます。

 言葉の変わりに、軽く右手を挙げる。

「頼んだぞ」

 後姿が扉の向こうに消えるまで、二人はじっと見つめていた。

3

 洛陽から南下すること数十分。

 周囲を断崖絶壁に囲まれた幽冥の谷の一番奥に、幽冥境はある。幽冥エリアと呼ばれるこの一帯には、大小合わせて八つの怨霊拠点がある。幽冥境はその中でも最大の規模を誇る洞窟である。

 切り立った崖を見上げれば、首を痛めるのではないかと思える高さ。せり出した岩盤は、まるで太陽光を遮らんとするかのようだ。瘴気に当てられ立ち枯れた木々が幽鬼のように佇み、岩壁を叩き続ける強風は、途切れることのない怨嗟の叫びのごとく唸る。

 ぽっかりと開く幽冥境の口は、まさしく常世への入り口に他ならない。

 霊華は歩を進める。

 リザ結界の維持限界は、発動からきっかり二十四時間。四時間前の定時連絡が最後なら、短くとも二十時間の猶予があることになる。しかしそれは、何事もなければの話だ。六人の命がかかっている。早いに越したことはない。

 右後方から殺気。何か堅いものが土を引っ掻く音。

「オッズグラム」

 腰の鞄から放たれた光は、霊華の右手で剣の形を取る。

 振り向きざま、軽く身を屈めつつ緑に輝く刀身を上段から振り下ろす。

 空中から躍りかかろうとしていた狼が、臓物を撒き散らしながら左右に割れた。

 剣を軽く一振りして、黒い血糊を振り払う。

 ダンジョン外の魔物は、中のそれに比べれば比較にならないほど弱い。低ランクダンジョンの周辺ならば尚更だ。敵の性質だけでなく、その強さによっても武器を使い分ける霊華だったが。

「……また、怒られるかな」

 法器をこんな風に使うのは、お前くらいなものだ。などと零しながら修理する馴染みの鍛冶屋の苦笑が浮かんだ。その度に霊華は、雑魚にいい武器を使って肝心な時に切れ味が落ちていたら困ると言って、反論したものだが。

「ま、いっか」

 深く考えないことにして、洞窟の闇へと足を踏み入れる。

 ぐにゃり、と空間がよじれるような独特の感覚。結界が閉じたことを自覚する。これで、もう誰もここには入ることはできない。全員無事で外に出るか、誰かの命の灯火が消えるまでは。

 洞窟内とは言え、明るい。闇に生まれ、闇に蠢く怨霊達の視界に光は本来必要ない。しかし、なぜか彼らは自らの拠点に火を点すのだ。初めの内は霊華も不思議に思ったが、それで誰が困るわけでもない。もっとも、エルフと海龍族は、暗闇を見通す視力を生まれながらに持っているのだが。

 何らかの呪術なのではないかとの説もあったが、大昔の調査で否定されている。今もって、その理由は謎に包まれている。

 あるいは。

 霊華は、かつて読んだ本を思い出す。怨霊達は、光を欲し光ある世界を追い求めているのではないか。古くから、太陽の光は全ての悪しきものや穢れを浄化すると考えられてきた。怨霊達もまた、浄化を望んでいるのではないか。そう唱えた怨霊研究家がいたそうだ。彼は怨霊に近付き、怪しげな実験を繰り返した。実験は危険視され、ついには学会を追放された。その後の消息は、誰も知らない。

 ぴちょん、と雫の音がする。じめじめした空気と腐敗臭。先行したパーティが倒した敵の亡骸。どこの洞窟も、大して変わらない。ダンジョンには死が満ちている。何度足を運んでも、霊華には好きになれそうもなかった。

 奥へ進むにつれて、魔物の死体の数が増えていく。死体の状態、戦いの跡を見るに、順調にパーティは討伐を進めて行ったであろうことが窺えた。

 この調子で最後まで行ければ、一番いいんだけどね。

 序盤に好調でも、それが最後まで続くとは限らないことも、霊華は経験的に良く知っている。

 死体に残る太刀筋、魔法攻撃の跡にも迷いがない。自信を持って戦っている。過剰な自信も問題だが、弱気で戦える場所ではない。何事にも、自信は必要だ。しかし。

 その自信を根元から折られたら。

 気が重くなりかけた時、通路の奥に幾つもの黒い影がわだかまるのが見えた。

「見つけた」

 小さく呟き、霊華は走り出す。

 近付くにつれ、影の正体と数がはっきりわかってくる。

 ゾンビが三匹にデスゾンビが二匹、ハデスライトが二匹だ。全部で七匹の魔物が、何かを囲むように集まっていた。近付く霊華にはまだ気が付いていない。

「ワイバーン」

 金色に輝く短杖を呼び出し、霊華は呪文の詠唱を始めた。全ての敵を射程圏内ギリギリに捉え、両手で短杖を突き出す。

 短杖ごと、ぴんと伸ばした両腕が輝き、無数の光弾が放たれた。光が尾を引き、うねり、まるでそれぞれが意思を持った蛇のように全ての敵に襲い掛かる。白い蛇は敵の身体を容赦なくえぐり、穴を開けた。精霊師の得意とする攻撃魔法の一つ、フェザーアローである。

 急所を射抜かれたハデスライトが、醜い叫び声と共に破裂する。だが、ゾンビたちに急所らしい急所はない。ずるりと鈍重な動きでこちらを振り返り、新たな獲物の到来に雄たけびを上げた。それは、歓喜の叫びなのか、怨嗟の呼び声なのか。

 もちろん、これで終わるとは思ってないよっ!

 着弾を確認する前から走り出していた霊華は、次の呪文の詠唱に入っていた。

 今度はさっきよりも近く。次の魔法は近くなければ当たらない。

 五匹の亡者がにじり寄る。フェザーアローによって欠損した腕。開いた穴からは、地面を踏みしだく度に嫌な音を立てながら体液が流れ出す。

 霊華は止まらない。剣を繰り出せば届くのではないかという距離に至る。亡者達が手を伸ばす。生あるものの命に。それは、救いを求めているかのようにも見えた。

 両腕を天高く振り上げ、すぐさま胸元に戻して交差させる。瞬間、交差させた腕に光が凝縮し、空気が震えた。

「ウィンドブラスト!」

 両腕を左右に目一杯伸ばし、魔法を解き放った。魔力の衝撃波が八方に広がる。衝撃波は、まさに霊華を取り囲まんとしていた五匹の亡者を半壊させながら吹き飛ばした。原型を留めているものはおらず、何も知らずに死体だけ見れば何匹だったのかもわかるまい。

 死骸の向こうに、淡い光が横たわっている。それは、今にも消え入りそうな、酷く頼りない光だった。亡者達が取り囲んでいたに違いないもの、だ。

 小走りに近付き、片膝を付く。光に包まれ倒れ伏しているのは、法衣姿の人族の女。魔導師のようだ。そっと手をかけ、仰向けにする。顔を撫でるように長い黒髪を払いのけると、まだあどけなさを残す青白い顔が覗く。まだ少女と言っても差し支えない。おそらく、ただ一人生き残り、助けを求めに出口に走っている所を襲われたのだろう。

 額から出血。頬にも擦過傷がいくつか。四肢にも同様の擦過傷と打撲の痣。そして、腹部に大きな裂傷。出血が止まっていることを確認して、霊華は鞄から薬瓶を呼び出した。半透明の赤い液体が満たされている。

 目を閉じ、周囲の気配を探る。少なくともこの近くに、敵はいないようだ。

 薬瓶を開けると、赤い霧が噴き出した。霧は少女の身体を隠すほどに覆っていく。

 通称「赤ポーション」とも呼ばれるこの傷薬は、飲用でもなく直接傷口に塗布するものでもない。蓋を開けた瞬間から激しく気化し、その霧が傷口に直接作用して回復するのだ。

 赤い霧は少女の身体を覆ったが、しかし傷口には触れていない。少女を包む淡い光が、それを拒んでいる。

 リザレクションフィールド。

 リザ結界とも呼ばれるこの光は、傷病の進行を止め、身体全体を仮死状態にする効果がある。その代わり、いかなる回復魔法も治療薬も受け付けず、また、怨霊をもこれに触れることはできない。

 致命傷を治療し、意識不明を回復するリザレクションの真の効果はここにある。

 リザ結界に再度リザレクションを施すことで、結界は解除され致命に至る傷を最小限度回復する。さらに余剰魔力は体内に蓄積され、次に命を脅かすような傷を負った時にリザレクションフィールドとして発動するのだ。

 この強力な効果故に、リザレクションは精霊師最大にして最高の秘術とされている。また、それを模して作られた復活の巻物を、大量生産が不可能な貴重品たらしめている理由でもあった。

 ただし、リザ結界の維持限界は発動後二十四時間。治療がされないまま維持限界を過ぎれば、仮死状態は解かれ、やがて死に至る。もっとも、それがダンジョン内であれば、怨霊の餌になる方が早いだろう。

 そして、一度失われた命は、どんな魔法でも取り戻すことはできない。

 霊華は、結界を解く前に必ずポーションを散布することにしていた。剣の腕は一流戦士にも劣らない霊華だが、精霊師としては本職に遠く及ばない。リザレクションによる傷の治療と、その他回復魔法による治療を少しでも確実なものにするためだった。

 胸の前で、祈るように短杖を握り締める。身体中を巡る霊力を、少しずつ少しずつ丹念に、短杖へと束ねていくイメージ。折り重なり、束ねられた霊力は、魔法を行使するための魔力へと変換される。短杖が輝きだし、両手はちりちりと熱を帯びる。

 まだだ。まだ。焦らない。もう少し。

 もはや数え切れないほど使ってきた魔法だが、それでも緊張する。多大な魔力と集中力を動員し、それだけでなく、複雑極まりない術式を幾重にも重ねなくてはいけない。一つでもミスをすれば、術が成立しない上に魔力も集中力も無駄になる。それは、怨霊の巣窟であるダンジョンの中にあって、致命的とも言えた。

 立ち上がり、目を閉じ右手を伸ばして印を描く。

「木生火、火生土、土生金、金生水、水生木……相生五芒、バン・ウン・タリク・キリク・アク」

 中空に描かれた光の五角形が、横たわる少女にまっすぐ降りていく。

「ひふみよいむなやこともちろら子しきるゐつつわぬそをたはくめかうおえにさりへてのますあせえほれけい……」

 呪文が続くほどに、複雑な幾何学模様が次々と現れる。輝く呪紋が辺りを埋め尽くし、真昼のように照らし出した。

「天御柱、地御柱、青龍木、朱雀火、黄龍土、白虎金、玄武水……出陰陽理、来臨回生急如神約!」

 見開かれた霊華の双眸が光を放つ。瞳の滄海が激しく逆巻くようだ。

 一際強い輝きが満ちる。それらは全て少女に集まり、巨大な光の柱を形成する。天空から、大いなる力が降り注ぐかのごとく。

 空気が震え、暖かくも強いエネルギーが渦巻いていた。霊華のプラチナブロンドが逆立つように跳ね、ロングコートの裾が激しくたなびき舞い上がる。

 少女の身体がゆっくりと浮かび上がっていく。光をその身に吸収する程に高度を上げ、やがて光が小さくなるごとに地へと戻る。

 全ての光を吸い込むと、呻き声と共に少女の両目が開いた。

「まだ、動いちゃダメ」

 すかさず霊華は右手を腹部の傷口に当て、詠唱を始める。

 細かな傷は、結界解除と共にポーションの霧が作用して、ほとんど治している。問題は、腹部の致命傷だ。リザレクションの僅かな回復とポーションの効能で死に直結することは免れたものの、予断を許す状況ではない。

「リカバー」

 右手を中心に小さな光の柱。回復力は低いものの、即効性のある回復魔法である。反面、怪我人自身の治癒力を活性化して回復する魔法であるため、濫用は逆に寿命を縮めてしまう。

「うっ……ごほごほっ」

 少女の口から吐血。喀血ではない。

 霊華は更に詠唱を続ける。

「もう少しかな……」

 柔らかな癒しの光が降りる。霊華は立て続けにヒールを唱えた。

「すぐ楽になるから、頑張って」

 眉間に深い皺を寄せる少女に、微笑みかける。霊華の額にも、玉のような汗が浮かんでいた。

 出血が止まる。傷口が塞がり始めるのを確認して、霊華は更に効果の高い魔法の詠唱に切り替えた。

「ラウンドヒール」

 自己治癒力を活性化するリカバーと、術者の魔力を直接治療に当てるヒールの、両方の特性を持った回復魔法である。その効果は、リカバー、ヒールの比ではない。

 傷口は完全に塞がった。もう心配は要らないだろう。霊華は大きく息を吐く。

「あ、あの……」

 少女が身を起こし、伏目がちに霊華を覗き込んだ。

「もう大丈夫。よく頑張ったね」

 額の汗を拭いながら、霊華は白い歯を見せる。瞳の水面が、そよ風に揺らめくようだった。

 少女の目に、みるみる涙が溜まっていく。

「私、私……うう、ひっく、みんな、みんなのこと……」

 そっと、少女を抱き寄せる。

「わかってる。わかってるよ。もう大丈夫だから。一緒に、助けに行こ? ね?」

 優しく、黒髪を撫でる。

 少女の泣きじゃくる声が、薄暗い幽冥境にこだました。

4

 侠心の村の程近く。

 決して大きくはない、ごく普通の農家で、スタール・B・ジュウイクトは生まれた。

 農業は祖父母と母が従事しており、父は剣仙と侠心を行き来する行商の傍ら、農業の手伝いもしていた。

 近隣の他の農家には同年代の子供がおらず、スタールはいつも妹のエミーと二人で遊んでいた。父と一緒に侠心へ行くこともあり、同年代の友人はそこにしかいなかった。スタールは人付き合いが得意ではなく、友人達はみな人懐っこいエミーの周りに集まった。

 スタールはしばしば、友人達の輪からこっそり抜け出し、一人で村の外へ出た。

 剣仙地方は樹下周辺と並んで、大陸でも有数の景勝地として知られている。西を流れる聖なる大河。剣仙湖畔に広がる草原。剣仙湖から晴れの海へと流れる最上なる河。湖は深く静かで、川のせせらぎは朝日を煌かせる。草原には色とりどりの草花が咲き乱れ、丘を吹き抜ける風はいつだって優しい。小さな動植物だけでなく、大型のモンスターも数多く住み着いていたが、優しい花の香りがそうさせるのか、彼らは人を襲うことはなかった。

 スタールは、そんな剣仙の自然が好きだった。青臭い野草の匂いと、甘い花の香り。その中に寝そべり蒼い空を見上げていると、そよ風と共にどこまでも飛んでいくような、緑の中に溶け込んでいくような心地良さがあった。そして、気が付くといつも、エミーが顔を覗き込んでいた。エミーは勘の鋭い所があり、どこにいても必ずスタールを見つけてしまう。かくれんぼをすれば、友人達を驚かせずにはおかなかった。

 キュリオスモノポと戯れるエミーを横目に、スタールは思ったものだった。こんな日々がずっと続けばいい。ずっと続くものだと思って疑わなかった。

 スタール10歳、エミーが7歳の時である。

 暮れなずむ空を見つめていると、モノポと戯れていたエミーが悲鳴をあげた。妹が指差す方向に、火の手が上がっていた。それは、侠心の村の方向、両親と祖父母がいる自宅の方向でもあった。

 この辺りでは見たこともないようなモンスターが、村を破壊していた。

 自宅は既に血の海だった。祖父母は無残な骸となって転がっていた。父は母をかばいながら鍬で懸命に応戦していたが、二人ともスタールの目の前で惨殺された。

 スタールはエミーの手を強く握り締め、走った。剣仙城に行けば助かる。剣仙城の人なら、村を助けてくれる。

 剣仙城へは街道一本で行けたが、幼いスタールとエミーには遠い道のりだった。夜の帳が下り、辺りは暗い。見知った道のはずが、全く違う光景に見えた。本当にこの道でいいのか。不安になった時、一人の戦士に出会った。

 戦士は幼い少女を連れていた。星明りの下で少女の髪は白金に輝き、蒼い瞳は春風に凪ぐ海のようだった。

 差し込む朝日。小鳥の囀りで目を覚ます。

 身を起こし、スタールは隣のベッドを見た。

 無造作に二つ折りされた布団と、皺の残るシーツ。

 ぼさぼさの前髪をかき上げ、ベッドから這い出す。首筋を左右に伸ばしながら軽く肩を回していると、寝室のドアが開いた。

「兄貴、起きたなら早く食堂に行こうよ」

 栗色のセミロングヘアに、鳶色の瞳。少しふっくらと丸みを帯びた頬には、まだあどけなさが残る。薄く小さい薔薇色の口唇が、瑞々しく輝くようだ。

「……エミー、具合はもういいのか?」

 スタールの細い目が更に細くなり、眉間に皺がよる。

「もう大丈夫だよ。血色も良くなったでしょ?」

 ほら、と言いながら人差し指を頬に付ける。象牙色の頬に指先がやわらかく沈み込み、弾けるように押し戻した。

「病み上がりに変わりはないだろう。もう少し休んでろ」

「大丈夫だってば。大体、兄貴は私がいないとロクにパーティも組めないじゃない?」

「バカ言うな。昨日だって俺はちゃんと……」

 首狩りコマンダー退治の仕事。手伝いにと誘った精霊師の女。

 精霊師?

 頭の中で疑問符を付けてしまう。スタールより遥かに強く重い剣を軽々と振り回していた霊華。弓だけで首狩りコマンダーを翻弄した、王子と呼ばれた商人。首狩りコマンダーを木っ端微塵にする、先生と呼ばれた女商人。

 ──強さって、もっと色々ある

 そう言った、霊華の蒼い瞳。

「どうしたの? ぼーっとしちゃって?」

 白いTシャツから伸びたしなやかな手を、スタールの目の前でぱたぱたと振って見せる。

「エミー、あの時のこと、憶えてるよな?」

 エミーの表情が、一瞬強張る。

 スタールが「あの時」という言葉を使う時、それが指している「時」はいつも決まっていた。できれば思い出したくない、辛い過去。

「忘れるわけないよ……忘れたくても」

 故郷を破壊された記憶。家族を惨殺された記憶。あれから10年近くたっているとは言え、16歳の少女には重い記憶。  だがそれは、怨霊の跋扈するこの世界では決して珍しい境遇ではない。

「雨月アキラ……あの人、俺達と同じくらいの女の子を連れていたよな?」

「なに、またその話?」

 エミーは肩をすくめる。

「ホントに兄貴は『雨月アキラ』ファンだよね」

「だから、アキラさんじゃなくて、一緒にいた女の子だ」

「あー、いたね。アキラさんはすぐに村に向かってくれて、その子が私達を剣仙まで案内してくれたんだよね、確か」

 エミーは自分のベッドに腰をかける。赤いミニスカートの裾を、ちょいとつまんだ。

「でもあの子、ずーっと何も喋らなかったよね。凄く可愛かったけど、ちょっと感じ悪かったなあ」

 蒼い瞳の少女に連れられて、スタールとエミーは無事剣仙に辿り着いた。そして知らせを受けた剣仙の軍が動き、村は救われたのである。

 その時、村で獅子奮迅の活躍をし、多くの命を救ったのが雨月アキラと呼ばれる戦士だった。

「でも、それがどうかしたの?」

「いや、別に」

「なになに? もしかして一目惚れ? 兄貴の初恋だった? きゃー!」

 青い花柄のブーツをばたばたさせて、エミーがニヤついた。

 蒼い瞳、白金の髪……いや、そんなヤツいくらでもいる。まさか、な。

 どこかすっきりしない気持ちのまま、スタールは寝巻きを脱ぎ始めた。

「ちょっと! 年頃の乙女の前でもろ肌脱ぐって、どういうつもり!」

 白い枕が、スタールの顔面に襲い掛かった。

5

 結局、病み上がりのエミーを寝かし付けるのに苦戦していたら、昼食にも少し遅い時間になった。

 幼い頃、エミーは病み上がりのまま外に遊びに出かけ、倒れたことがある。エミーの「大丈夫」は信用できない。今でもスタールはそう思っていた。

 祖龍城下、南区。

 合法から非合法まで、手に入らないものはないとまで言われる西区が祖龍一の歓楽街ならば、南はショッピング街といった所か。元々は住宅地だったが、その客層を狙った商店が集まるのも道理と言える。

 そんな南区の外れ、活気のある商店街からも離れた場所に、一棟の集合住宅があった。最近リフォームされたばかりなのか、外壁の塗装が違和感を感じるほど真新しい。どこからどう見ても普通のアパートで、家賃は高そうではない。

 俺でも借りられそうだな。

 クリーム色の外壁を見上げ、スタールは思う。

 安宿を転々とする根無し草のような生活に終止符を打ち、この祖龍の街に腰を据えてみるのもいいかもしれない。広くなくていい。エミーと二人で暮らせれば、それでいい。他に家族なんて、いないのだから。

 さっき見たばかりの、エミーのふくれっ面が浮かぶ。

 帰りに苺のショートケーキを買って帰らなければならない。だが、それであの跳ねっ返り娘が宿屋でおとなしくしてくれるのなら安いものだ。

 午後の日差しは柔らかく、暖かい。どこからか、スタールは花の香を感じた気がした。

 ギルド「劇団ロンリースター」。

 そこのメンバーだと霊華は言った。

 スタールが立っている部屋の入り口の前。安普請の木のドアに、やはりくたびれた木の表札。

 「劇団ロンリースター」

 「祖龍ファッション・染色研究所」

 「祖龍野草研究室」

 「ペンギン普及委員会」

 「A級セイバー、始めました」

 何かの冗談としか思えない表札が、何枚も並んでいた。

 ギルド。

 元来は同業者組合の意で、主に商業的な集まりのことを指していた。祖龍にも、行商人ギルドや鍛冶屋ギルドなどがある。冒険者ギルドと言えば、軍の下部組織で、怨霊を討伐する冒険者の登録や試験、冒険者用の鞄を提供するといった支援活動をする組織である。全ての冒険者はこの「冒険者ギルド」に所属している。

 しかし、一般に冒険者達が使う「ギルド」という言葉には、少し違う意味がある。最初は、怨霊の討伐や拠点の攻略を効率的に行うために、自然発生的に生まれた一種のチームが始まりだった。現在では大小様々なギルドがあり、ギルド単位で討伐依頼を請け負う傭兵団のようなギルドから、商業ギルドのように商売に精を出すギルドまで、多様である。ギルド結成に関して軍や冒険者ギルドからの規制はなく、体制化されたものではない。企業的な色合いの濃いギルドもあれば、同好の士の集まり、犯罪組織までもがギルドを名乗っている場合もある。その全容は、軍も冒険者ギルドも把握し切れていない。

 また、ギルドは事務所やアジト、大手なら基地のような施設を持っているのが普通だ。ギルドに用がある場合は、まずその施設を訪れればいい。

 スタールはドアを叩いた。

 叩いてから呼び鈴の存在に気付いたが、見なかったことにした。

「頼もう」

 ばたばた、と足音が向こう側から近づく。

「どちらさまでございましょう?」

 妙に丁寧な言葉遣いでドアを開けたのは、妙な色のスーツを着た妖族の男だった。赤とも紫ともつかない色。しかしスーツには糸屑一つなく、着用者の几帳面さを象徴するかのようだ。

「劇団ロンリースターとは、ここでいいのか?」

「はい。左様でございますが」

「霊華という女はいるか?」

 不意に、頭の中で声が響いた。

 ──名前も名乗らないで、ただ『来い』なんて言ったって、誰も来てくれないよ?

「俺はスタール・B・ジュウイクト。戦士だ」

 急にバツの悪い気分になり、スタールは気味の悪いスーツの男から視線を逸らす。部屋の奥には、テーブルを囲んで二人の女が椅子に腰掛けている。赤いチャイナドレスと青いチャイナドレス。どちらも目の覚めるような鮮やかさだ。ショートボブの、髪まで赤い女と目が合う。何かを思い出しそうで上手く行かない。奇妙な感覚にスタールは襲われた。

「霊華は只今外出中でございます。恐れ入りますが、アポイントは……ぐは」

 パンダがのけぞる。さっきまで奥にいた赤い女が、パンダの背後で拳を握り締めていた。速い。

「どこの会社の受付嬢だよ、おめーは」

「戦姫さま……痛い……」

「ウチはお堅い企業ギルドじゃねえんだ。客が逃げるぜ」

 紅蓮の髪と、同じ色のチャイナドレス。やや垂れ気味の目には愛嬌があるが、夜空を思わせるダークブルーの瞳に星明りはない。間近で見れば、はっとするような美人だ。しかし、見惚れる前に、スタールは瞳の奥に小さな血の花を見た気がした。

「……侠心の狂血姫、ミーナ・ヴァイオレット。まさか、こんな所でお目にかかれるとは」

 狂血姫の眉がひそめられる。

「なんだ、おめー? 霊華に用があるんじゃなかったのか?」

「あ、いや、すまない。そうだったな」

 鋭い眼光から逃れるように目を逸らす。パンダが目を丸くして、狂血姫とスタールを交互に見ていた。

 侠心の村の外れにある集落。そこにはよくならず者達が集まっていた。スタールも幼い頃から、近付かないよう両親に言われていたものだ。そこに巣食うならず者さえ震え上がらせた少女がいた。紅蓮の髪とダークブルーの瞳で、楯突く者は容赦なく叩きのめす札付きの悪童。一度戦えば敵も自分も血まみれになるまでやめない姿から、付いた渾名は血に狂った姫君、「狂血姫」。スラムを支配するギャング団からも目を付けられ、賞金首のビラが似顔絵つきでばら撒かれた程だった。

 故郷の食堂で暴れる狂血姫を見かけたのは、二年前だったか三年前だったか。瞬く間に五人ものゴロツキを叩きのめした狂血姫への、畏怖と憧憬がスタールの胸に甦った。

「……今日はまだ来てねえけど、その内来ると思うぜ? 何なら待ってるか?」

 狂血姫が、親指で部屋の奥を指し示す。青い女と目が合う。桃色の髪と幼さの残る柔和な顔。女は微笑みながら軽く会釈をした。その仕草には気品さえ漂っている。着ているチャイナドレスのデザインはほとんど同じなのに、狂血姫とは正反対の物腰だ。スタールは妙な所で感心してしまう。

「いや、遠慮しておこう」

「言伝があるなら預かるぞ?」

 スタールは腕を組んで首を傾げた。

 スタールよりも遥かに重くて強いはずの剣を軽々と振り回し、まるで舞い踊る天使のような霊華の剣舞。スタールが一匹でも手こずる敵を複数同時に相手にし、しかも易々と屠る強さ。

 俺は、もっともっと、強くなるのだ。

 その思い一つで、今日まで戦ってきた。そんなスタールの胸に、霊華の言葉がいつまでも離れずに居座り続けている。

 守る力。守る戦い。色々な"強さ"。

 力こそ強さ。その考えは変わらない。だが、それだけではないと言う"強さ"とは何か。答を見つけられたわけではない。

 だから、スタールはここを訪れた。もう一度、霊華に会うために。

 だが。

 ……会って、それから?

 何も考えていなかったことに気付き、スタールは愕然とする。会って、一体何をしようというのか。これでは、まるで。

「言伝は……特にない」

 俯くと、狂血姫のブーツとパンダの革靴が視界に入る。この男は、靴の色まで趣味が悪い。

「そっか。……ああ、それからな」

 スタールの目前に、狂血姫が拳をぐいと突き出す。

「二度と、あの名前を口にするんじゃねえ」

 ダークブルーの瞳の奥で、血色の花弁が燠火に焼かれるようだった。

 「狂血姫」という渾名のことなのか、それとも。

 スタールの背筋に冷たいものが走った。

「あの名前、と仰いますと?」

 全く空気を読めないパンダが口を挟む。

「うるせえ、殺すぞクソパンダ」

「せ、戦姫さま、お言葉が汚うございますよ」

「え~、姫お姉ちゃん、ミーナっていうお名前なんでしょう? 可愛いのに~」

 青い女が行儀良く腰掛けたまま、間延びした声を飛ばした。

「だっ、だから知られたくなかったんだ!」

「今度から~、ミーナお姉ちゃんって呼んでもいい~?」

「頼むからやめてくれ」

 あの狂血姫が、照れている。頬に朱が差すほど。侠心の村でスタールが聞いていた評判からは、信じられない姿だった。

 青い女がころころと笑う。便乗して笑うパンダを、狂血姫が殴った。

 ギルド、か。それも悪くないかもしれない。

 スタールの胸の中で、ほんの少しだけ冷たい風が吹いた。

「邪魔したな」

 長居をしてはいけないような気がして、スタールは踵を返す。

「おや。客人か?」

 振り向いた先に、長身の女が立っていた。大事そうに小さな紙の箱を抱えている。黒く長いストレートヘア、細いが切れ長の目には鋭さがある。細身のレザーパンツが脚の長さを引き立てているようだ。狂血姫以上の美女だが、その美貌はスタールの背筋を凍えさせるようだった。

「お帰りなさいませ、弓美さま」

「おっ、若年寄。今日は霊華は一緒じゃねえのか?」

 背後の二人が口々に迎える。

「ああ。幽冥境で六人パーティが全滅したそうだ」

 幽冥境、パーティ全滅。それはすぐに、スタールの頭の中で「セイバー」という言葉に繋がった。

「幽冥か。まあ、霊華なら楽勝だな。すぐに片付くだろ」

「パンダ君、これを」

 弓美がパンダに歩み寄る。

「ほお。プランタンのケーキでございますね。すぐにお茶のご用意を」

 パンダは渡された箱を抱えて部屋の奥へ消えていく。

「食べるのは、霊華が戻ってからだ。……お茶は欲しいがな」

 弓美はスタールに軽く会釈だけして、パンダに続いて部屋に上がっていった。

「スタールって言ったっけ? ホントに待たなくていいのか? 茶くらい出すぜ……ウチのパンダが」

 もう一度、狂血姫は親指で部屋を指し示す。

 スタールは首を振って答えた。

「これから、行く所があるんだ。厚意には感謝する」

 背を向け、歩き出す。

 洋菓子「プランタン」。西区でも有名な店である。

 エミーへの土産はそこでいいだろう。

 スタールは、テレポート師を目指して歩いた。

6

 ダンジョンにはいつも、死が満ち溢れている。

 入る度に霊華はそう思う。

 煌々と燃える篝火。湿った空気。黴とも苔ともつかない匂い。腐臭。死臭。

 死骸の腐敗臭だけが死の香りではない。そういうものとは全く別の何か。嗅いだ者を死へと誘わずにおかないような何かが、ダンジョンにはある。

 先行パーティの歩んだ道は、累々たる屍の連なり。怨霊の死骸。飛び散った体液と臓物の匂い。

 ダンジョンにはいつも、死が満ち溢れている。

 それは怨霊達の死骸の放つ何かなのか、それとも、怨霊達そのものが放つ何かなのか。

 そもそも、怨霊達に生があるのか。

 死の匂いが怨霊の死骸の匂いでないのなら、怨霊こそが死であり、死こそが怨霊そのものなのかもしれない。

 二つの影が、死の充満する洞窟内を駆ける。屍の道を飛び越え、あるいは踏みつけながら。はためくロングコートの裾は、化け狐の尾か化鳥の翼か。靴音と、一定のリズムを刻む息遣いがこだまする。

 背後から聞こえる息遣いが乱れてきた頃、霊華は足を止めた。

「少し、休憩しようか?」

「だ、大丈夫です」

 言葉とは裏腹に、黒髪の少女は肩を激しく上下に動かしていた。

「急ぐ気持ちはわかるけど、いざって時にへばってたら、そっちの方が危ないよ」

「でも、早くみんなの所に行かないと……」

 法器を握り締める少女の手が、小刻みに震えている。やむを得なかったとは言え、仲間に背を向け場を離れたことが悔しくてならないのだろう。

 しかし幽冥境は幽冥エリア最大というだけでなく、他の全ての怨霊拠点と比しても最大規模である。ここまでかなり距離を稼いだとは言え、目的地はまだ決して近くはない。

「アパーチ、だよね?」

 霊華は念のため、もう一度確認する。

「はい」

 俯くと、長い黒髪が少女の横顔を隠した。その仕草だけで、霊華には歯軋りの音さえ聞こえてくるようだった。

「それなら後は一本道だね。結界の維持限界にもまだ余裕がありそうだし、ここからは歩いて行こう?」

 小首を傾げて微笑みかける。こんなことで、彼女の心に刻み込まれた恐怖や悔恨、焦りは和らぎはしないのだろう。それは、霊華もわかってはいた。

 しかし、それでも前に進まなければならない。

 少女が頷いたのを確認して、霊華は歩き出す。

 無論、先に少女だけ脱出させることもできた。彼女は拒否するだろうが、救出任務中のセイバーには強力な権限が認められている。従わない場合、軍の規定により厳罰が下される。それは、セイバーの任務が人命救助であり、討伐を優先する先行パーティとは目的が根本的に異なるからである。「まず自らと友の命を尊ぶべし」とは、軍規にも明記されている。

 実際、救出できた順に脱出させるケースも多々ある。入れ替わりに増援を呼んで任務をより確実に遂行するのである。

 しかし霊華は、よほど手に負えないのでない限り、それをやらないことにしていた。

 このまま少女を脱出させてしまったら、彼女の心に傷だけが残る。仲間を置いて逃げ出し、あまつさえ、助けを呼びに行くこともできずに途中で倒れてしまった、などと。

「私が……私がもっとしっかりしていれば……」

 血を吐くような言葉が霊華の背中に突き刺さる。

 セイバーが介入するまでもなく、全滅した時点で、討伐パーティとしては最大級の不名誉であるとの認識が一般的である。

 これまでにも、霊華は数え切れないくらいこの仕事をしてきた。だが、何度聞いても、慣れることのできるものではなかった。

「……前を見て。貴女は生きてる。前に進むことは、できるよ」

 痛むばかりの心に、言葉は届かないだろう。それも霊華は良く知っている。それでも、言わずにはいられないのだった。

 洞窟最深部、幽冥境の中でも最大の広さがある天然の大広間に、アパーチはいる。広間の中央部は岩盤が盛り上がり、小高い丘を形成している。この丘の向こう側にアパーチと、少女の仲間達がいるはずだった。

 開けた空間だけに、見通しが利く反面、敵にも発見されやすい。少女の話によると、広間内の敵は殲滅したとのことだ。だが、そもそもパーティ全滅の一因は、討ち漏らした敵がアパーチとの戦闘中に精霊師を襲ったことにある。油断はできない。霊華は敵の気配を探りながら慎重に丘を回り込む。

 丘の影から、何かが動いた。霊華は足を止め、長剣を構える。影が大きく跳躍し、躍り出た。

 三頭身ほどの醜悪な小鬼、ヘルジェネラー。

 霊華の背後で何事か呟く声がした。呪文の詠唱だ。聞き覚えのある詠唱。良く知る銀髪赤眼の女魔導師の顔が脳裏をよぎった。

 スローフラッシュ? そんな詠唱の長い魔法じゃ、間に合わない!

 既にヘルジェネラーは目前だ。大きな鉈を、今にも振り上げようとしている。

 長剣で難なく鉈を受け、刃を押し返しながら腹部に蹴りを見舞う。軽く蹴ったようにしか見えないのに、小鬼は大きく吹っ飛んだ。既に精霊師の膂力ではない。華奢とさえ言える身体のどこに、こんな力があるのか。

 吐瀉物を撒き散らしながら、小鬼は背中から地面に叩きつけられる。

 受けずにかわして、一刀の元に斬り捨てることも霊華にはできたが。

「こいつが、こいつさえいなければ……」

 炎の魔札を構える少女の目には、隠そうともしない憎悪の色。

 魔力の直接放射で魔札が飛ぶ。だらしなく倒れる小鬼の腹に命中し、緋色に炸裂した。蛙を潰したような、醜い声。  当然、これだけで倒れるほどヤワではない。もっとも、霊華の良く知るあの銀髪の魔導師ならば、この一撃で木っ端微塵にしていてもおかしくはない。が、少女はまだ魔導師としては発展途上だ。あの火力の権化と比べるのも酷と言うものだろう。苦笑を噛み殺しながら、霊華は素早く法器に持ち替える。

「こいつが、こいつのせいで!」

 スプラッシュ、スローファイア、フォールストーン。次々と魔法を撃ち込んでいく。

 やがて小鬼は動かなくなったが、少女はやめようとしない。霊華がこっそりかけておいたバインドも、既に効果が切れている。

「もう、死んでるよ」

 尚も詠唱を続けようとする少女の手首を、軽く掴んだ。

「あっ」

 詠唱を中断して、はっと霊華に振り向く。今にも涙が零れそうだった。

「気、済んだ?」

 少女は少し慌てて、背を向けた。法衣の袖を顔に当て、ごしごし擦っているようだ。

 微笑んだつもりだが、苦笑になっていたかもしれない。霊華は少しだけ反省する。

「ご、ごめんなさい、取り乱しちゃって」

 振り返らないのは、目と鼻が赤くなってしまっているからだろう。そんな顔を霊華は何度も見てきたし、霊華自身にも隠したい気持ちは理解できた。

 ──お兄ちゃんの、バカっ!

 懐かしい記憶が蘇りかけたが、すぐに振り払う。郷愁に浸っていられる状況ではない。

 丘を回りこむと、アパーチがいた。

 ヘルジェネラーと似たような容姿だが、身体の大きさは一回りも二回りも大きい。まだこちらには気付いていない。  そのすぐ傍に、二つの淡い光。少し離れた場所には三つ。リザレクションフィールドの光だ。

 幽冥の怨霊達を束ねる三体の将、冥土の火、蛮霊の闘士、そしてアパーチ。アパーチは三体の中で、最も厄介な敵として知られている。魔法は弱体化の魔法以外はほとんど使わないものの、強力な物理攻撃を繰り返してくる。何より危険なのは、広範囲を一度に攻撃する衝撃波。魔法攻撃に強い耐性を持つ法衣だが、この衝撃波のダメージを軽減することはできない。

 霊華はまず、精霊師を探した。アパーチから少し離れたところに倒れる三つの光。弓使いと妖精、もう一人は精霊師のようだ。とすると、向こうの二人は戦士か妖獣か。

 霊華は内心臍を噛む。敵が近すぎる。まず精霊師を助けなければならないが、近付けば必ず気付かれる距離だ。そして、リザレクションは近付かなければ使えない。敵の攻撃を浴びながら、あの複雑な術式を施すことは、どんな精霊師にも不可能である。

 せめて、ロールが一本でもあれば……。

 思わず少女を振り返る。憎憎しげにアパーチを睨み付けていた。

 ロールが一本あれば、霊華が囮になって、その間に精霊師を復活させることができる。

 しかし、それができない以上、方法は一つしかない。

 それは霊華にとって、できるだけ取りたくない方法。この場で、アパーチを霊華の手で始末することだった。

 もう一度、少女を見る。この手であいつを葬ってやりたい。その瞳に宿る炎が、雄弁に語っていた。

 霊華は大きく溜息を吐く。

「しゃーない。行くか」

「えっ?」

「私が斬りつけるまで、絶対に手を出しちゃダメだよ?」

「あ、は、はい」

 黙っていても、この少女は手を出すだろう。だが、先に手を出されるのだけはまずい。怨霊達は、自らを攻撃する者の中で、最も大きいダメージを与える者をまず攻撃する習性がある。いかに魔導師の魔法と言えど、少女の魔法は霊華の剣を超えはしない。だが、霊華より先に攻撃してしまえば、当然敵は少女を狙う。少女の防具では、アパーチの攻撃には耐えられない。

「……ラフレシア」

 キーワードに呼応して、霊華の両手に双剣が現れる。白銀の刀身、両刃の剣。

 木属性の魔力を宿す双剣、ラフレシア。

 各五行の魔力を秘めた武器を、霊華は全部で五本持っている。霊華が「魔法戦士」と呼ばれる所以の一つである。

「じゃ、行くよ? 頼りにしてるから!」

 笑顔でウィンクして見せる。瞳の海が、春風にそよぐようだった。

 霊華はコートの裾を翻して駆け出す。

 こくんと一つ頷き、両拳をぎゅっと握って、少女も後を追った。

 魔導師の少女の目から見て、霊華は戦士にしか見えなかった。アパーチと対峙して双剣を振るう姿を目の当たりにしている今も、そうだ。この「アパーチの間」に至るまでに、少女のパーティが討ち漏らした敵が現れることもあったが、それらもことごとく一刀の元に斬り伏せている。

 だが、彼女が戦士ならば、時折降り注ぐあの光は何だと言うのか。優しく霊華に降り注ぐ柔らかい光は、精霊師の魔法、ヒールのそれだ。見間違える冒険者はいない。

 思わず仲間の精霊師を見やる。彼はまだ、リザ結界の光に包まれて横たわっている。そんなはずはないのだ。

 不意に、少女の視界が反転した。洞窟の天井が見える。腹部に激痛。咳き込むと、鮮血が白い法衣を染めた。

 アパーチの衝撃波。

 気付く前に、少女の身体を柔らかな光が包む。

 やはり仲間の精霊師は横たわったままだ。そんなはずは、ないのだ。

 よろめきながら立ち上がる。痛みは和らいだが、足元が覚束ない。法衣は、アパーチの攻撃に対してあまりにも無力だ。

 もっと離れなければならない。しかし、これ以上距離を取れば、少女の魔法は届かない。法剣を握る手が、わなわなと震えた。

 若い魔導師の目は、アパーチの鉈もセイバーの双剣も、追うことができない。しかし、白金のポニーテールが激しく揺れているのはわかった。その両脇に、小さな白い羽が生えていることも。それは、エルフ族であることの証だ。

 少女にも、わかりかけてきた。なぜ今までその白い羽に気付かなかったのか。彼女は、「戦士」ではない。彼女にヒールをかけているのも、衝撃波を食らった少女にヒールをかけたのも、彼女自身なのだ。

 法器でなければ、魔法を行使することはできない。つまり彼女は、あの激しい斬撃の中で、常に武器を交換しながら戦っていることになる。一流の戦士は、状況に合わせて武器を交換しながら戦うというが、剣と法器を交換しながら戦う話は少女の記憶にはない。

 まして、後衛の回復をしながら戦う前衛など。

 少女は、少しずつ後ずさる。衝撃波の射程に入ってはいけない。足手まといになってはいけない。それは敵を射程圏内から外し、完全に戦線を離脱することを意味する。

 法剣を地面に叩きつける。乾いた音がした。

 だが、目は逸らさなかった。まるで、背を向けることを頑なに拒否するかのように。

 霊華の戦いは、妖獣のそれに似ている。

 敵の攻撃を回避したり封じたりするのではなく、全てを受けて耐えるのである。妖獣の場合は、五種族随一と言われる頑強な肉体がそれを可能にしている。だが霊華はエルフ族であり、エルフ族は五種族中で最も身体が脆弱だと言われる。生まれつき翼を持ち、空を自由に飛行できるのはエルフ族だけの特性だが、その代償は決して小さなものではない。

 霊華の力と敏捷性は一流の戦士にも劣らないが、エルフの肉体は霊華の力と敏捷性に耐えられない。軽い法衣ならともかく、重鎧を着た状態で戦士と同様の回避行動をすれば寿命を縮めることになるだろう。と言って、法衣や軽鎧ではかわしきれなかったときのリスクが大きく、そして霊華の回避能力は弓使いや暗殺師に及ぶものではなかった。

 そのため、霊華は敵の攻撃をかわすことができない。戦士や魔導師、その他の職業が使うような、敵の詠唱を中断させる魔法や能力を持たないので、全ての攻撃を受けなければならない。受けた上で、常に武器を交換しながら回復して耐えるのである。

 既に熟練の域に達したこの戦い方は、不可視の精霊師を連れた戦士のように見えると言う。

 見えざる癒し手(インヴィジブル・ワン)

 それが、「魔法戦士」に並ぶ、もう一つの霊華の異名だった。

 振り下ろされるアパーチの鉈を左の剣で受け流し、右の剣を横薙ぎにする。腹部が真一文字に裂け、濃緑色の体液が噴出した。

 しかし、何事もなかったかのようにアパーチの鉈は襲い掛かる。左肩に直撃し、金属音が響く。ファッションバッグの機能ゆえにロングコートを着ているようにしか見えないが、重厚な鎧の防御力は生きていた。

 ……軽い。けど、ちょっと痛かったね。鎖骨やられたかな。

 バックステップで軽く間合いを取る。手足の短いアパーチが追いすがるが、ヒール一回分の時間稼ぎができれば充分だ。

 法器に持ち替え、素早く詠唱。魔法が完成して光が降り注ぐ頃には剣への持ち替えが完了している。

 鉈が霊華の腰を打ちつけたが、構わず左右の剣を交互に振り下ろした。アパーチの肩口から胸にバツの字が描かれる。先に付けた腹部の傷が再生を始めているが、治りは明らかに遅くなっていた。

 のけぞった体勢から、アパーチの鉈が逆しまに閃いた。腹部から右胸を切り裂く。

「浅いね。私の胸がもっとおっきかったら、もっと痛かったのかもしれないけど」

 軽口を叩きながら一閃。アパーチの左肘から先が斬り飛ばされた。

 醜悪な悲鳴を上げて、たまらず後方へ飛びのく。

 双剣の射程外と見るや、霊華は法器に交換してヒールをかけた。

「ぼええええ!」

 奇怪な雄叫びは、衝撃波の前触れ。間合いは詰めず、霊華はそのままウィンドアローの射出姿勢に移る。

 衝撃波とアローはほぼ同時。撃ち終わりに剣に持ち替え、アローを追うように霊華は地を蹴った。濃紺のコートの裾が、魔鳥のごとく翻る。

 アローはアパーチの顔面で炸裂、衝撃波は霊華の全身を襲った。しかし霊華は止まらない。

「コレが一番、ヌルいんだよッ!」

 アパーチの必殺技も、このセイバーの前ではそよ風同然なのか。

 アローでひしゃげたアパーチの頭部が、宙を舞った。

7

 じめじめした空気は、どんなに篝火を灯そうと決して消えることがない。橙色の炎の中で、薪が爆ぜて独特の音を立てる。怨霊達がくべた薪の中に、乾いた木片とは明らかに異質な物が混ざっているのも、怨霊の巣食う洞窟内では珍しい話ではなかった。

 霊華は篝火の中に手を伸ばす。炎が白い手を容赦なく焼き焦がしているはずだが、淀みなく薪を一つつまみ出し、放る。それは熱のない幻の炎なのか。そうとしか見えない仕草でまた一つ、燃え盛る薪を取り出す。いくつかの薪が地面に転がった頃、霊華は両手をそっと篝火の中に差し入れた。まるで、振れただけで傷つくガラス細工を扱うように、霊華はその「異質な薪」を掬い上げた。

 饐えた臭い。両手に少し余る球状。水分はほとんど残っていない。こうして持っているだけで、炭化した細胞が僅かな空気の流れで剥がれ落ちていく。頭髪は申し訳程度に燃え残り、唇や眼球は原形をとどめていなかった。もはや、男なのか女なのかもわからない。子供のサイズではない、という程度にしか。

 哀れな魂の抜け殻を胸に抱き、霊華は静かに目を閉じる。

 やはりダンジョンには、死が満ちていた。

 「七人の呪い」と呼ばれる怨霊の結界は、そこに巣食う怨霊を全て倒しても消えることがない。そして、新たな怨霊が現れる。それを放置すれば、洞窟内の強力な怨霊が外に這い出すことになり、やがてその地は汚染されるだろう。あの、呪われた沼地のように。近隣の村で神隠しが起こるのも、怨霊復活の影響である。故に、冒険者や軍による定期的な駆除が必要になる。呪いを解き、繰り返される怨霊の復活を阻止するためには、伝説にある「始まりの洞窟」を封じるしかないと言われる。それまで、何度でも繰り返されるのだ。この戦いと、悲劇は。

 霊華は振り返る。濃紺のコートが翻り、白金のポニーテールが揺れた。

 六人のパーティ。みな、一様に若い。少年少女と言っても過言ではない者達までもが、怨霊との戦いに身を投じなければならないのか。怨霊との戦いの熾烈さに、自分のことは棚に上げながらも、知らず霊華の口から溜息が漏れる。

 誰もが、頭を垂れていた。耳を澄ませば、六人分の歯軋りが聞こえてくるようだ。霊華の顔を見ることのできる者はいない。

 この仕事をするようになって、どれくらい経つだろうか。重くなる気を紛らわせようと、霊華は思い返す。

 セイバーとは、誇り高い仕事だ。霊華はそう信じて疑わない。人の命を救う仕事だ。とても立派なことだ。そう言ってくれる人も多い。

 だが、救われた側のこんな顔を見なければならない。きっと永遠に慣れることはできないだろう。  それでも、霊華はセイバーとして言わなければならない。今日の命を救うことだけが、セイバーの仕事ではないのだから。

「私はセイバー、雨月霊華です。みなさんは、任務に失敗しました」

 戦士の少年が、地面を殴りつけた。年長と思しき獅子面の妖獣が、彼の肩にそっと手を置く。弓使いの少女が、瞳に涙を一杯に溜めた黒髪の魔導師の肩を抱く。

「……感知水晶を」

 獅子面が鞄から水晶の原石を呼び出し、霊華に手渡す。カットや研磨はされていない。片手に収まる程のそれは、特殊な術式が施されており、鈍い光を放っていた。

「待ってくれ。せめて、それくらいは俺達が──」

「……ダメです」

 戦士の少年の哀願を、霊華は努めて冷たく一蹴した。

 気付かれないように、小さく息を吐く。

「くどいようですけど……あなた達は既に、任務に失敗しているんです。その時点で、アパーチ討伐と感知水晶の設置は私に引き継がれました」

 同じような文言を、何度繰り返してきたことだろう。胸の痛みが顔に出ないよう、必死で霊華は堪える。同情は、彼らの傷を広げるだけだ。

 全滅した時点でダンジョンに関する任務の全てをセイバーが引き継ぐのは形の上で確かなことだが、救出任務中のセイバーには強い権限が認められており、最優先事項は人命救助である。無論、状況が許せばパーティの立て直しだけして、残りの討伐を任せるなどの措置もセイバーの裁量で決定することが許されている。霊華は極力討伐には手を出さないことにしていたが、全てのセイバーがそうであるわけではなかった。

 霊華はパーティに背を向け、壁面の窪みに手を入れる。粉々になった古い水晶の欠片を掻き出して、代わりに新しい水晶を置いた。

「布留部由良由良止布留部……」

 呪文に反応して、仄青い光が水晶を包む。設置は完了した。今頃、管理局の感知水晶が白く輝いていることだろう。

「畜生、畜生、畜生……」

 戦士の少年が洞窟の壁を何度も殴りつけていた。岩壁の欠片が弾け、少年の拳には血が滲んでいた。

 霊華の息苦しさが増していく。この悔しさが、彼らの明日の命を救うことに繋がる。霊華はそう信じていたし、理解もしていた。だがそれで、腹の中にわだかまっていく重たい何かを消すことができるわけではなかった。何度やっても慣れることなどできはしない。何度やっても、事務的な無表情を維持できているのか不安になる。

「皆さんの戦いは、心記石に記録されています。管理局に提出し、報酬を受け取ってください。セイバー料は、パーティリーダーの方に管理局から別途請求されます」

 ちらりと獅子面の妖獣を見やる。小さくこくりと頷いた。やはり彼がパーティリーダーのようである。とても澄んだ瞳をしている。少しだけ霊華はホッとした。

 人助けで金を取るのか、とゴネる冒険者もいる。形の上では討伐報酬とは別に請求されるセイバー料だが、実質的にはセイバーが討伐報酬を横取りしているようなものである。まして今回の場合、アパーチ討伐報酬は霊華に支払われる。  かつて霊華は、討伐報酬だけでなくセイバー料の受領も辞退したことがある。ギルドマスターの真都理や、王子、ルミらと一緒に食事をしていた時に何気なしにその話をした所、三人から小一時間の説教をされた。

 「仕事は仕事」

 「かえって失礼」

 「貴女、バカァ?」

 などと、散々言われたものである。

 それからきちんと報酬もセイバー料も受け取るようになったが、心苦しさは変わらない。

「あ、でも、場合によっては保険が利くから、調べて申請してみてね?」

 おどけたつもりだが、場の空気を変えることには失敗したようだ。が、リーダーだけは微笑んだように霊華には見えた。

 寄せ集めではなく、いくつもの戦いを一緒に乗り越えてきたチームなのかもしれない。責任のなすりあいに発展しないというだけでも、霊華にはとても嬉しいことだった。

「確かに、今日は大失敗しちゃったかもしれない。でもね、」

 事務口調はもう必要ない。霊華は自分の言葉に戻す。

「みんな、生きてる。誰一人命を落としてない。これ、凄く大事なこと」

 妖精の少女の猫耳が垂れている。精霊師の少年は、天井を見上げたまま動かない。すすり泣く声が聞こえた。

 胸に抱いた遺骸に目を落とす。遺骸は何も語らない。

「だから、これからも前に進める。前を見ることは、できるよ」

 霊華の瞳の蒼い海に、慈雨が降り注いでいた。

 ある程度の高度まで下がると、飛仙剣ムラマサがバッグに戻っていった。重鎧に身を包んだ男が、風を巻いて降り立つ。栗色の短髪と、鳶色の瞳。しかし、鼻から下は黒い覆面が覆っている。目元には幾多の戦いを乗り越えてきたであろう精悍さと、ほんの少しの幼さがあった。

 見上げれば切り立った断崖絶壁。風が唸り声を上げている。幽鬼のごとく立ち枯れる木には、妖気さえ漂うようだ。だが、この男から立ち上るのは妖気ではない。空気を切り裂くような、殺気である。

 目前に口を開ける常世への扉。そのすぐ傍に、三匹の狼が何かに群がっていた。

 今この扉が閉ざされていることを男は知っている。

 一歩踏み出すと、狼達が一斉に男を向いた。血に飢えた瞳が爛々と輝き、新たな獲物の到来を喜んでいる。その向こう側には、食い散らかされた別の狼の死体。怨霊と化した獣に、同族食らいの禁忌などない。

 三匹が散開し、飛び掛る。正面から、左右から。

「コープスブレード」

 男が呟くと、右手に輝く刀剣が現れる。気力を丹田に集中すると、空気が震えた。

 今にも狼の爪が、牙が届かんとするその刹那、上空から無数の刃が降り注ぐ。白光を放つ小さな刃は迫る狼達を一瞬にして蜂の巣に変えた。鮮血の雨が降り注ぎ、男の顔を染める。力なく倒れ伏す狼達には、一瞥もくれなかった。

 その視線の先には、今まさに開かれんとする常世の扉があった。

 先頭に立つ獅子面のパーティリーダーが洞窟の外へ出た時、陽は既に傾きかけていた。

 だがそこに、見慣れぬ影を見つけて獅子面は立ち止まる。緑色に輝く抜き身の一刀を下げた戦士。顔は覆面で隠していてよくわからない。反射的に、大斧を構える。

「みんな、気を付け──」

 言い終わる前に、覆面の男は獅子面に肉薄していた。鋼と鋼を打ち鳴らす音が、洞窟内部にまでこだまする。

 横薙ぎの一刀をすんでのところで受け止めたが、バランスを崩して片膝を突いた。

「何者だ!」

 戦士の少年が槍を構え、リーダーを庇うように前に出る。

 男は答えず、少年の懐に飛び込んだ。

「んなっ、早──」

 金属音が響き、槍が回転しながら宙に弧を描いた。そのまま鳩尾に男の膝が食い込むと、あっけなく少年は昏倒した。

 立ち上がり、逆襲に転じようとした獅子面を足払いで倒す。

 既に弓を番えていた女弓師に向けて剣を振ると、剣圧で生まれた衝撃波が弓を弾き飛ばした。

 弓師の背後から、妖精の召喚したゴーレムが強襲する。鈍重ながら、ウェイトの乗った突きは人間の身体を破壊するには充分だ。しかし男はこれを片手で難なく受け止め、逆に押し返した。ゴーレムの巨体が傾く。その隙を逃さず、男は跳躍し顔面に飛び蹴りを入れた。巨体が仰向けに倒れる寸前、その背後から何かが飛び出す。召喚主は、倒れるゴーレムの腕に頭をぶつけて気を失い、精霊師の少年がすぐさま治療に走った。

 男の上空から、炎に包まれた魔札が投擲される。魔導師の少女を抱えて中空でロングコートの裾と白金のポニーテールをはためかせる、その姿は。

 男は魔札に向けて素早く両腕を交差させ、防御姿勢を取る。魔札が炸裂する直前、男の身体が光に包まれた。

 マジックボディ。

 短時間の間、物理防御力を代償に魔法防御力を上昇させる戦士の技である。

 霊華は男の背後に着地ざま、魔導師の少女に退がるように指示。空中で詠唱を始めていたキュアフィールドを開放した。パーティメンバー全員に癒しの光が降り注ぐ。

 弓師と魔導師は既に入り口付近の前衛二人の元へ移動済み。男は洞窟内に残された精霊師と妖精に襲い掛かる。

 霊華は一瞬だけ逡巡する。男は剣の間合いの外。だが、魔法の詠唱は間に合わない。

「メタリカ!」

 両腕を振りかざしながら武器を呼ぶ。金色に輝く長大な槍が現れた。魔法戦士の五行武器の一つ、金属性の魔力を秘めた槍、「メタリカ」である。

 剣を振り上げていた男が迫る槍に気付き、洞窟の奥へと瞬時に移動した。

 ドラゴンギア、か。戦士の瞬動系スキルって、やっぱ厄介だわ。でも、今はそれで充分!

 霊華は二人に駆け寄り、覆面の戦士との間に立ち塞がる。

 念のため、昏倒している妖精にヒールの手助けをしてから、霊華は叫んだ。

「早く外へ!」

 時間を稼ぐ必要がある。この戦士は強い。霊華はともかく、このパーティには荷が重い相手だ。なぜ突然襲い掛かってきたのか、何が目的なのか。A級セイバーという資格から救出任務以外にも狩り出されることの多い霊華だが、彼女の知る限り単独で行動する野盗はいない。

 霊華はバインドの詠唱を始めた。が、終わる前に覆面が迫る。

 タイガーギア? やばっ!

「レーヴァテイン!」

 ぎりぎりで武器召喚が間に合い、覆面の一刀を受け止めた。押し返しながら蹴りを繰り出す。覆面が大きく吹っ飛ぶが、手応えはない。

 自分で後ろに飛んだ? そこそこできるね。ちょっとだけ本気で、やらせてもらうよ!

 武器を持ち替え、ヒールを連続してかける。敵の次の行動はおそらく……。

 覆面が間合いの外であるにもかかわらず、剣を横薙ぎに一閃する。剣圧で生じた衝撃波が霊華に向けて牙を剥く。

 やっぱりね!

 霊華は構わず突っ込む。

 多くの場合、この状況でのピアッシングは牽制。食らって体勢を崩した相手を狙うか、回避行動に出た所を狙うのが常套手段である。通常、そのまま相手が突っ込んでくることは想定しない。

 覆面男の場合もそうだったらしく、大きく目を見開いている。

 駆けながら、歯を食いしばって衝撃波に備えた。戦士の気力で練られた破壊エネルギーが炸裂する。

 軽いよっ!

 衝撃波を難なく突き破った。霊華の勢いは少しも衰えない。

「隙あり!」

 レーヴァテインが一閃し、反応の遅れた覆面戦士の剣を弾き飛ばした。

8

「納得のいく説明を、してもらえるんでしょうね?」

 剣ではなく、剥ぎ取った覆面を持って、霊華は腰に手を当てた。

「……スタール・B・ジュウイクトくん?」

 七人に囲まれ、スタールは正座をさせられていた。

 断崖絶壁を通り抜ける風が、怨嗟の唸り声を上げている。冥府の入り口は、変わらずそこに佇んでいた。

 死地を潜り抜けたばかりの十四の瞳が、穏やかならぬ視線でスタールを見下ろす。

「本当に、すまないと思っている」

 俯いたまま、スタールが呟く。風の唸りに掻き消されていてもおかしくなさそうなのに、誰も聞き漏らすことはなかった。

「ざけんな!」

 戦士の少年が唾を飛ばした。血気盛んという言葉がしっくりくる声音だ。

「ごめんで済んだら、セイバーいらないのよ」

 剣呑とした霊華の声。眉間に皺が寄る。

「怪我人が出なかったから良かったようなものの……」

「手加減はしたつもりだ……霊華以外には」

「なんだと、こら──」

 掴みかかろうとする少年を、獅子面が抑える。

 霊華も少年とスタールの間に素早く滑り込み、俯くスタールを睨み付けた。

「そういう問題じゃ、ないでしょ!」

 覆面を地面に叩き付けた。

「キミのしたことは、強盗や追い剥ぎと、大して変わんないワケ!」

 スタールは答えない。俯いたまま、微動だにしない。

 単独で行動する者は極めて稀だが、冒険者を狙う強盗の類がいるのは事実である。中でも、ダンジョン任務に成功して、心身ともに疲弊しきったパーティを襲う強盗は悪質だ。セイバーに率いられているパーティを襲う強盗は稀だが、霊華も何度か遭遇したことがある。なまじ腕に覚えがあるだけに、怨霊よりも質が悪い。まして、セイバーが一緒にいる時点で、そのパーティは任務に失敗している。精神的な疲労は、成功パーティの比ではない。

「キミ、ダンジョンの討伐任務に失敗したことある? それがどういうことか、わかる? この子達がどんな気持ちでダンジョンを出てきたか、わかるのっ?」

 羽交い絞めにされ、もがく少年が動きを止める。六人が同時に俯いた。傷口に塩を塗りこむようなことを言っているのは、霊華も承知していた。それでも、この大馬鹿野郎への罵倒をやめることができない。

「申し訳ないと思っている……本当に」

 呟いているようにしか聞こえないのに、よく通る声だった。

「バカ、バカ、バカ! ほんっとバカ! 何考えてるのか、全っ然わかんないよ!」

「あの……」

 黒髪の少女が、おずおずと一歩前に出る。

「私達なら、大丈夫ですから。任務に失敗したのも、私達が未熟だったからだし、この人に襲われたのも、いい経験って言うか……ね?」

 少女が仲間を振り返り、小首を傾げる。獅子面と弓師と精霊師が小さく頷いて応えたが、妖精は頬を膨らませ、戦士はそっぽを向いて舌打ちした。

「あ、あはは。と、とにかく、物取りが目的ではないみたいだし、怪我人も出なかったことだし……」

「それに」

 獅子面が言葉を継いだ。

「お知り合いなんですよね? 何か事情があるのではないですか?」

 霊華が両腕を組む。そのまま、正座するスタールの周りを一周して、言った。

「……言い訳を、聞こうか」

「本当に、すまなかった」

「わかったよ。みんなも許してくれるみたいだし、今度はちゃんと理由を聞かせてよね」

 風が唸り声を上げている。霊華はおもむろに左手だけを後方に伸ばす。敵味方を選別できるフェザーアローの光弾が放たれた。ぎょっとして六人が振り返ると、飢えた狼が数匹、倒れ伏すところだった。

「怨霊は、空気が読めなくて困るよ」

 右手に握るワイバーンワンドが、金色に輝いていた。

「俺は、もっともっと強くなりたい」

 スタールが姿勢を崩さず話し始める。

「力こそ強さだ。俺は今でもそう思っている。だが霊華、あんたと……あんた達と出会って、わからなくなった。力は強さだと思う。それは間違ってないはずだ。でも、それだけではダメなんじゃないか。俺は、強くなった、はずだ。強いはずだ。もっと強くなりたい。だから。だから、霊華、もう一度会いたかった」

 スタールは一度言葉を切り、深呼吸をした。

 戦士の少年が不機嫌そうに横を向いたまま、ここではないどこか遠くを見つめている。妖精の少女は、なぜかにやにやしていた。何か勘違いをしているらしい。

「キミが強くなりたいのはわかった。でも、なんでそれがこういう行動に繋がるワケ?」

 霊華が当然の疑問を口にする。

「会ってどうするかなんて、考えてなかった。わからなかった。気が付いたら、こんなことをしていた。こうするしかないと思った」

「そんなことで、納得できると思ってるの?」

「だから、本当にすまないと思っている」

 大きな溜息が、霊華の口から漏れた。

「全然、わからないよ……」

「ホントむかつくけどよ……俺は、わかんねえでもねえぜ」

 ぼそりと、戦士の少年が呟いた。顔は向けず、槍をとんとんと肩に当てている。

「セイバーさん、あんた、戦士っぽいけど戦士じゃないんだろ?」

「ああ……うん、一応精霊師だよ」

 精霊師の少年が目を見開く。

見えざる癒し手(インヴィジブル・ワン)……あなたが。そうか、それで」

 独り言のように言うと、顎に手を当てて小さく何度も頷いた。

 そんな仲間を横目に、しかし戦士の少年は霊華もスタールも見ようとはしない。

「悔しいけどさ、戦士ってのはこういうもんなんだよな。俺も、もっと強くなったらあんたに挑んでみたいって、ちょっと思ったぜ」

「でも、だったら、私だけを狙えばいいことでしょ? なんでみんなまで巻き添えにする必要があるの?」

「それは、本人じゃねえとわからねえだろうな」

 正座して俯くスタールをちらりと見やり、それきり少年は口を開かなかった。

「スタールくん?」

 霊華はしゃがみ、スタールの顔を覗き込んだ。ロングコートの裾がふわりと地面に付いた。

「精霊師の力は守る力って、あんたは言った」

「うん」

「それがあんたの強さなら、それを見たいと思った」

 霊華の大きな瞳が更に大きくなる。蒼い瞳の海が逆巻くようだった。

「そんな、そんなことでッ!」

 湿り気のある音が、何より大きく響いた。風の起こす怨嗟の声すら黙らせるような音だった。

 スタールが左頬を押さえる。

「そんなことで、みんなを危険に晒したのッ?」

 ぴしゃりと二度目の音が響き、獅子面が慌てて割って入った。

「ま、まあまあ、落ち着いてください!」

「放してッ! こんなワガママでバカなガキんちょには、全然足りないよ!」

 獅子面は戦士の少年に目配せする。このままスタールを撲殺せんばかりの霊華を、彼一人では抑え切れないのだ。

「お、落ち着けって。確かに俺もむかついたけど、今の往復ビンタで気は済んだからさ、な?」

「そうですよ、落ち着いてください!」

「私達なら、気にしてませんから!」

「てゆうか、むしろこの人が可哀想に思えてきたよー」

 六人+ゴーレムが総出で霊華を止めにかかる。息の合ったコンビネーションである。

 スタールは身じろぎ一つせず、じっと正座をしていた。

 六人の激しい息遣い。各々、額に玉のような汗を浮かべている。

「……ごめん。もう落ち着いたから。私もまだまだだね」

 申し訳なさそうに、霊華が頭をかいた。

「冗談じゃねえ……はあ、はあ……アパーチが可愛らしく、思えてきたぜ」

 戦士の少年が肩で息をしている。獅子面は片膝を付き、他のメンバーは座り込んでしまっていた。

「もう勘弁してあげましょうよ。彼も、充分反省しているようだ」

 すっくと獅子面が立ち上がる。回復力はさすがの妖獣である。

「……わかった。私も大人気なかったね。ごめん」

 霊華は小さく頭を下げる。

「スタールくんも、いきなり殴ったりしてごめんね」

「俺の方こそ──」

「私はいいの。でも、みんなにはきちんと謝って。ごめんなさいって」

 スタールが初めて顔を上げる。六人の顔を一人ずつ順番に見つめた。真摯な眼差しだった。

「ごめんなさい」

 そして、深々と頭を垂れた。

 六人は互いに顔を見合わせ、誰からともなく微笑み合った。

「ふむ。それにしても今日は、勉強になる一日だった。なあ、みんな?」

 獅子面の言葉に、仲間達が一様に頷いてみせる。

「霊華さん、今日は本当にありがとうございました。チームを代表して、お礼を申し上げます」

 獅子面が深々と頭を下げた。

「いいっていいって。私の方こそ、最後の最後で変なことになっちゃって申し訳ないって言うか」

 苦笑交じりに、霊華は掌をパタパタ振る。

「いえいえ。これもいい経験だと思います」

「俺だって、このクソ野郎より強くなってやるぜ!」

「僕も……剣は無理だけど、もっと立派な精霊師になります!」

「私も、もう簡単に弓を落としたりしないわ」

「私はもっと冷静に判断できるようになりたい!」

「あたしのアフダムダフだって頑張るよー」

「お前はまず、そのネーミングセンスを何とかしろ」

「て言うか、あんたは頑張らないんかい」

 どっと笑いが巻き起こる。

「うん。強くなるね、このチームは。ね、スタールくん?」

「ああ。……そうだな」

 おもむろに霊華はしゃがみ、スタールに顔を近づけた。

 突然美貌が目と鼻の先まで迫り、スタールは思わずのけぞる。

「スタールくん」

「な、なんだ?」

 瞳の滄海が静かに凪いでいる。スタールの目が泳ぐ。

「私の力が見たいなら、私といればいいよ。私の戦いを傍で見ていればいいよ。守る力が見たいなら、私がキミを、守ってあげるよ。だから……」

 スタールの頬が赤いのは、夕日のせいなのか平手打ちの跡なのか。

「二度とこんなことしないって、約束して」

 瞳の海に、星明りが舞い降りるようだった。

 スタールは目を逸らさず、答える。

「……わかった。約束する」

「よろしい」

 太陽が沈み往く中、霊華の笑顔が一際輝く。

 スタールは眩しそうに、目を細めた。

9

 太陽が完全に没すると、蒼白い月光が世界を包み込んだ。どこかで獣が吠え、幽冥渓谷の風の唸りさえもがダンジョン管理局にまで届いてくるようだった。

 洛陽の街にも夜の帳が舞い降り、それに抗うかのように篝火が灯される。祖龍のような主要都市ならば魔力灯が整備され、夜の世界に昼のような光を灯すこともできる。だが地方ではまだまだ原始的な炎こそが、唯一にして最大の闇への対抗手段だった。

 祖龍怨霊対策委員会ダンジョン管理局洛陽支部は、そんな洛陽の中にあって唯一魔力灯を備えた施設である。ウェッズは一人、魔力灯の下で残務処理に追われていた。

 同時多発的なセイバーの出動というケース自体は、決して稀ではない。しかし、頻発するようなものでもない。とは言え、怨霊達がここ最近活性化していることと無関係ではないだろう。いずれにしても、ウェッズが定時で帰宅できる状況でもないことは明らかである。

 報告書に一区切りつけて、ウェッズは両腕を大きく伸ばす。ぽきぽきと関節が鳴った。

「ただいま戻りましたー……あれ?」

 事務所の扉を開けたコニーが事務所内を見回す。

「みんな、帰っちゃったんですか?」

 ぱたぱた、と足音が響く。肩にかけた鞄を下ろし、コニーは自分のデスクに腰をかけた。

「俺が帰した。今日は忙しかったからな」

 ウェッズは立ち上がり、腰を捻る。小気味良く関節が音を出す。

「報告だけしてくれ。そしたらお前も帰っていい」

「ああ、そうそう。それなんですけどね、ウェッズさん。ちょっと変なんですよー」

 鞄の中をごそごそとかき回し、コニーは一綴りの書類を引っ張り出した。どういうしまい方をしていたのか、皺くちゃである。ウェッズが顔をしかめた。

「お前な、一応公文書なんだから、丁寧に扱え」

「書類なんてものは、読めればいいんで……痛っ」

 棒状に丸まった紙束が、空中からコニーの頭を強襲していた。

「ウェッズさんこそ、公文書をこんな風に使ったら……」

 こぼしながら紙束の棒を拾い上げる。紙束は丸められているだけでなく、紐できっちり括られて棒の形を保っていた。よく見ると、「コニー棒」と書いてある。

「ちょっと、何ですか、これー!」

「お前を指導するために作った専用の叩き棒だ。ついでに言うと、それは公文書"だった"ものだから問題ない」

 ウェッズは腰を下ろし、背もたれに背中を預けた。ぎしりと、椅子が軋む。

「こ、こんなもの、こうしてやるううぅぅ!」

 コニー棒を思い切り二つ折りにし、ゴミ箱に突っ込む。どんなもんだとウェッズを見たが、既にウェッズは「コニー棒二号」を完成させていた。

「あー、うー……」

 げんなりしたコニーを無視して、ウェッズは手を伸ばした。

「そんなことより、早くそれをよこせ」

「そうだった。これなんですけどね」

 眼鏡のずれをくいと直し、コニーはよれよれの書類を差し出す。洛陽魔道院呪術鑑定書とある。

「霊華ちゃんが連れて帰ってきたあのご遺体さんの身元はわかったんですけど……」

 聞いているのかいないのか、ウェッズは書類に目を落としたまま動かない。

「てっきり周辺住民の神隠し絡みかと思ってたら、ちょっと意外ってゆーか。いや、ある意味、全然意外でも何でもないのかもしれないんですけど」

 書類をめくる手が止まる。ウェッズが眉をひそめた。

「ちょっと待て。こいつは──」

「私がこっちに着任する前だけど、確認ついでにちょっと調べたんです。この人、先月幽冥境で失踪してるんですよね……ダンジョン攻略中に」

 ウェッズは首筋に手を当てる。考え事をする時の彼の癖だった。

「六人で入って全滅して、セイバーが入った時には五人しかいなかった……っていうアレだな」

「その消えた人が、ダンジョン内で死体で発見……どういうことでしょう? リザがかかってない状態で突入しちゃったってことかな? それなら、全滅した時に一人だけ怨霊に食べられちゃうこともあり得るかも」

「いや、それはない」

 ウェッズはきっぱりと否定した。

「お前も知ってると思うが、ダンジョン突入前に必ずウチでリザの検査はしている。一人だけリザがかかってない状態で突入するなんてあり得ない」

 書類をデスクに置き、コニーを見やる。

「そもそも、ダンジョン攻略中に失踪っていうのがおかしいですよね、やっぱ」

 コニーは鑑定書を取り、まじまじと眺めた。ルチウス・マーロー、二十二歳、弓使い、シニアクラス……。死体の呪術鑑定と冒険者登録情報との照合の結果だが、身元についてそれ以上の情報はない。

「稀だが、前例がないわけでもない。むしろ、失踪だけの方がまだ話はわかりやすかった」

「どういうことですか?」

 眼鏡の縁を、くいと持ち上げる。ウェッズは小さく息を吐いた。

「あまり気分のいい話じゃないんだが……他の仲間がみんなやられた時に、びびって一人だけ逃げちまってそのままいなくなるとか。もっと性質が悪い奴だと、ただ逃げるんじゃなくて仲間の金品を奪って逃げたりする例もある」

「ひどい……どうしてそんな」

 口元を隠すように手を当てる。ウェッズはもう一度大きく息を吐き出す。

「いずれも仲間意識の薄い寄せ集めパーティでの話だ。ダンジョンの中で一人生き残るプレッシャーと恐怖、任務失敗という最大の不名誉……その精神状態、俺には想像もつかない」

 コニーが俯く。ウェッズは立ち上がり、給湯室へ向かった。

「あ、ウェッズさん、何か飲むなら私がやりますよ。何がいいですか?」

 慌ててウェッズを制し、コニーはぱたぱたと給湯室へ走った。

「じゃあ、コーヒー。とびきり苦いやつを頼む」

「雑巾の絞り汁って、苦いらしいですよ?」

「冗談に聞こえないぞ、コニー」

 無邪気な笑い声が応えた。

 やがてコニーが湯気の立つカップを持ってくる。ウェッズは軽く礼を言って、口を付けた。

「どこかへ失踪していたはずの人が、実はどこにも行ってなくて死んでたなんて、ミステリーですね」

「ああ。だが、今回はたまたま霊華が死体を見つけたってだけかもしれん。もしかしたら、ただの失踪として扱われてきたこれまでの例の中にも、ダンジョン内で死亡している場合が含まれている可能性もあるな」

 ウェッズはカップをデスクに置き、首筋に手を当てた。

 コニーはウェッズを黙って見つめている。

「ウェッズさんって、結婚してるんでしたっけ?」

「はあ? 突然何を言い出すんだ?」

「いやあ、こんなに時間が遅くなっちゃったら、奥さんが心配するんじゃないかと」

 どこかあさっての方に視線を飛ばしながら、コニーが頬を掻いた。

「どうせ一人やもめだよ。悪かったな。お前ももう、帰っていいぞ」

 コーヒーをすすり、また首筋に手を置く。

「この際だから、最後までお付き合いしますよ。何を手伝いましょうか?」

 コニーが、花開くような笑顔を向けた。

「いや、自分の仕事は自分で片付ける。それより、他に頼みがある」

「何なりと」

 ウェッズは鑑定書をコニーに放る。

「明日から、お前はこいつのことをもっと調べてみてくれ。あと、他の失踪者についても、だ。どうも嫌な予感がする」

 鑑定書を鞄に押し込んで、コニーは頷いた。

「頼んだぞ。じゃあ、今日はもう帰れ」

「えー」

「帰れと言った」

 コニー棒二号に手が伸びるのを見るや否や、コニーは鞄を肩にかけて立ち上がった。

「じゃあ私は帰りますけど、無理しちゃダメですよ?」

「お前なんかに心配されるようじゃ、俺も終わりだな」

 からからと、笑い声が響いた。コニーは口を尖らせる。

「可愛くないなあ、もう」

「何か言ったか?」

「べ、別に」

 ウェッズに背を向け、出入り口へと向かう。

「ああ、コニー」

 書き途中の報告書に目を落としながら、ウェッズがコニーを呼び止めた。

「コーヒー、美味かったぞ」

 コニーの笑顔が、輝いた。

 いつの間に、こんな表札が増えたのか。

 「A級セイバー、始めました」

 まるで冷やし中華でも始めたかのごとき軽さだ。こんなことをするのは、ギルドマスターに違いない。銀髪赤眼の艶美な顔が霊華の脳裏をよぎる。

 太陽は既に没し、ドアの隙間から明かりが漏れている。ドアノブに手をかけようとしたら、奥からドタバタと慌しい音がした。嫌な予感がして、さっとドアから離れると、案の定、気味の悪い色のスーツを羽織ったパンダが血相を変えて飛び出してきた。

「ひいいいっ! 真都理さま、どうかお許し──ぴぎゃ!」

 パンダの後頭部で、緋色の炎が小さく爆ぜる。スローファイアか。爆発の規模から、かなり加減しているのがわかる。ギルマス様のお怒りは、まださほどでもないらしい。小さく息を吐くと、霊華はヒールを唱えた。彼女が本気になったならば、霊華のヒール一回では到底回復しきれるものではないだろう。

「霊華さま……面目ない。ありがとうございます」

 恥ずかしそうに、パンダが頭を垂れる。

 非常に純朴で正直なのだが、致命的に失言が多いのだ、この執事は。霊華はいつものように苦笑で応える。短気でワガママなギルドマスターのご機嫌を損ねて燃やされるのも、もはや日常風景と化していた。

「それは災難だったわねん」

 オカマ精霊師のマデリーンが、薄く笑みながらティーカップを口に運ぶ。白い肌に、ルージュを引いた口唇が妖しく映える。

「へー。あいつ、なかなか思い切ったことするじゃねえか。ははっ」

 戦姫が、化粧っ気のない精悍な美貌で豪快に笑う。化粧っ気がないと言うよりは、化粧自体に興味がないようだ。

「もう! 他人事みたいに。大変だったんだからね!」

「わりぃわりぃ。でも、大目に見てやんな。戦士ってのは、不器用な奴が多いんだ」

「それは、そうかもしれないけど……」

 霊華の語尾がすぼまる。戦士が不器用。目の前にいる紅蓮の戦士がまさにそれを体現しているわけだが、口には出さないことにした。

「そうねん。姫ちゃんを筆頭にねん」

「う、うるせーな!」

 気を回しただけ無駄だったようだ。

「若いって、いいわねん」

 薄笑いのまま、仰々しく溜息を吐いて見せる。この薄笑いが消える所は、誰も見たことがない。

「ふ。貴方に比べれば、樹下の長老も赤ん坊みたいなものだ」

 無表情に弓美が呟いた。

「ちょ、弓美ネエ、それホント?」

「女に年齢なんて聞くもんじゃないわよん? ねえ、まつりん?」

「うっさい」

 手にした本で、真都理は顔を半分隠す。紅の瞳が、薄ら笑いを射抜いた。

「いやん、こわい」

「はっはっは。ところでパンダ君。霊華にケーキを出してやれ。あと、お茶もな」

「はっ。只今」

 パンダが奥へと消えていく。

「マジ? ケーキ?」

「昼間は食べ損ねてしまっただろう? 霊華のケーキは私が食べてしまったからな」

「ありがとうー、弓美ネエー! 今度奢るよー!」

 両手を組んで、霊華は瞳を潤ませる。

「私のは?」

「私も食べたい~」

「もきゅっ」

 真都理と妖子が身を乗り出した。ちゃっかり、妖子のモノポまで主張を始めている。

「心配するな。ちゃんと全員分ある……ああ、ロデム君は……パンダ君と二人で分けたまえ」

「もきゅきゅっ!」

「良かったね~、ろでむ~?」

「良くないですよ」

 大きなトレイにケーキとお茶を乗せて、パンダが戻る。

「どうしてワタクシがペンギンごときとシェアなどしなければならないのでございますか」

「ではジャンケンでもしたまえ。ええと、このショートケーキが霊華の分だな」

 弓美が霊華にショートケーキの皿を差し出す。

「うう……イチゴ様……お会いしたかったーっ!」

「え、それで、ワタクシはどうすれば?」

「ロデム君とジャンケンで勝負だ。勝った方がケーキを食べる。異存はないな?」

「もきゅ!」

 ロデムが両手を激しくばたつかせている。

「ほー。ロデム、やる気満々じゃねーの」

 戦姫が自分の分を取り、真都理とマデリーンにもケーキを回した。

「……え? え? ジャンケンでございますか? ペンギンと?」

 パンダが目を白黒させる。

「ジャンケンはジャンケンだ。何も問題はないだろう?」

 弓美は妖子にケーキを回した。残るケーキはあと一つ。

「いや、めちゃくちゃ問題あると思うのでございますが」

「二人とも、頑張って~」

「もきゅっ!」

「いいからやれよパン太郎。ほーら、じゃーんけーん」

 戦姫がニヤニヤしながら急かす。釣られるようにパンダも動いた。

「ぽん!」

「もきゅ!」

 パンダはチョキ。ロデムは……。

「わ、ワタクシの勝ちでございますね」

「見事だ、ロデム君。ケーキはロデム君のものだな」

「……はあ?」

 最後のケーキがロデムの元へと運ばれていく。

「ちょ、ちょちょ、ちょっと待って下さい。ワタクシがチョキで、ペンギンはパーでございましたよね?」

「何を言っているんだ君は? ロデム君はグーに決まっているじゃないか」

「よ、妖子さま、何とか言ってください」

「う~ん。残念ながら、弓美おねーちゃんの言うとおりなんだよね~。……ろでむ~?」

 妖子はロデムを呼び寄せる。

「パンちゃん、よく見ててね~。ろでむ、ぱーは?」

「もきゅ」

「それじゃあ、ぐーは?」

「もきゅ」

「ね~?」

 妖子は笑顔で小首を傾げる。

「いやいやいやいや。全然わからないでございますよ」

「パン太郎、往生際が悪いぜ」

「いや、往生際とか、そういう問題なのでございますか?」

「もう。しょうがないわねえ。パンダ、ちょっといらっしゃい」

 真都理が本を置いて、手招きした。前髪をかき上げると、青味がかった銀髪がはらりと舞った。

「何でございましょう?」

「口開けて」

「はあ」

 イチゴをフォークで突き刺し、真都理はパンダの口へ放る。

「美味しいでしょ?」

「ま、真都理さま……」

 パンダの瞳が潤んだ。

「このパンダ、感激のあまり涙がちょちょ切れるであります!」

 鼻水もちょちょ切れていた。

「パン太郎、あたしのもわけてやんよ」

「戦姫さまああああ」

「パンちゃん、こっちおいで~」

「妖子さまも……」

「パンディ、アタシのもあげるわん」

「マデリーンさま、ありがたき幸せでございます」

「もきゅ」

「いや、お前のはいい」

「もきゅーッ!」

「失礼な奴だな。では、私は君にこれを進ぜよう。ほら、口を開けたまえ」

「弓美さま、ありがたき……もがっ」

 その場にいた全員が目撃した。

 弓美がパンダの口に放り込んだものは、ケーキではなく茶褐色の何かだった。

「ちゃんと飲み込んだか? 水もあるぞ?」

「……弓美さま、今のは一体?」

「昨日できあがったばかりの新薬だ」

 部屋中の空気が凍った。

「戦姫君、トイレを封鎖しろ」

「あいよー」

 ウィンドウォークで素早く戦姫が移動する。

 パンダの顔から嫌な汗が噴出す。

「あのー、どうしてトイレを?」

「多分、一回トイレに入ったら、出られんだろう。ここにはトイレが一つしかないからな。それでは我々が困るのだよ」

 だらだらとパンダの顔から液体がこぼれる。それは薬の効果なのか、純粋な恐怖心の作用なのか。汗なのか涙なのかもわからない。

「うっ!」

 パンダが腹を押さえ、走り出す。乱暴に入口のドアを開けたが、出て行く際にきちんと閉めるのはさすがと言うべきか。

「弓美ネエ、相変わらずパンさんには容赦ないよね」

 成り行きを静観していた霊華が、久し振りに口を開いた。ケーキに夢中だったとも言う。

「ふ。パンダの癖に、ちやほやされてへらへらしてたからな。ちょっとイラっとした」

「あ、あはは」

 ギリギリまで残しておいたイチゴにフォークを突き刺す。

 そういや、スタールくんもプランタンに寄るって言ってたっけ。

 頬張ると、やはり口元が緩むのは抑えられなかった。

「おかえりっ! 兄貴っ! イチゴは? ケーキは?」

「……あ」

 白い枕が、スタールの顔面を直撃した。

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